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 三日ぶりに意識を取り戻した親父は、しばらく思考の混濁が続き、今の状況を把握出来ていないような顔をしていた。俺を見て「イツキ」と名を呟く声は、老人のように掠れており、俺は再会したばかりの頃の親父を思い出して胸が痛んだ。


 心拍数などを測る機械に繋がれ、点滴を受けながらベッドに横たわる親父は、露わになった喉仏の筋すら張りつくほどに肉厚が削れ、俺の目にはとても小さく見えた。不意に涙が込み上げそうになったのは、親父が病気で蝕まれている現実を、嫌でも実感し気付かされたからだ。


 俺はこれまで、弱々しくなっていく親父から目をそらそうともしていた。だから今になって、受け入れざるを得ない現実に遅れて打ちのめされた。


 けれど俺は、まだ泣き崩れてはいけなかった。親父に不安や心配を覚えさせないよう、必死で笑顔を作って見せた。俺が「大丈夫だよ」と言うと、親父は「そうか」とどこか安心したように呟いて、また深い眠りへと落ちていった。


 重症の患者が隔離されている部屋の外に出ると、そこには担当医が一人立って俺を待っていた。担当医は「厳しい事を言いますが」と同情するような眼差しを向けつつ、はっきりと現実を突きつけた。


「もう退院は難しいと思って下さい」

「……そう、ですか」

「もしもの延命治療については、今からでも変更出来ますが……」

「…………いえ、そのまま、で、お願いしま、す……」


 今にも涙腺が崩壊しそうになって、それをどうにか抑えて言葉がうまく出ない俺に、担当医は「そうですか」と声を潜めて言葉を切った。俺自身覚悟していたとはいえ、もう親父が帰宅も叶わないという宣告は、想像していた以上に俺の胸を抉った。


 数日、親父は無菌状態が保たれた病室から出る事は叶わなかった。親族以外の面会が制限された部屋で、次第に親父の意識はハッキリとしたものになっていったが、辛い吐き気と、腹の違和感に彼の心は沈んでいるようだった。


 少し話すだけでも、親父の呼吸は運動後のような息切れを見せた。言葉の途中途中で淡が絡んだような咳を起こし、そのたびに看護師が駆け付けて、彼の背を撫で、胃からの吐瀉(としゃ)物をビニール袋で受けとめる。


 俺は何もできず、それを見守っているしか術がなかった。


 親父は起きているのが辛いようだったから、俺は重い瞼を持ち上げようとする彼に「少し眠ったらいいよ」と声を掛けて、半ば逃げるように部屋を出た。背中の向こうから、親父が「腹水が重い」「内臓が圧迫されるようだ」「頼むからもう少し背もたれを上げてくれ」と看護師に向けて呟く悲痛な声が聞こえていた。



 それからの三日間、俺は早朝と仕事終わりに病院へ足を運んだものの、タイミングが悪く親父は眠っていた。



 寝ている顔は痩せ細っていて、力なく開いた口から小さく聞こえる寝息は痛々しかった。俺は看護師から「症状は安定に向かっていますよ」の報告を聞き終えると、帰り際に病院のトイレに駆け込んで泣いた。


 どうかこれ以上、頼むから親父を苦しめないで下さい、と神に祈った。


 親父が一般病棟に移されたのは、それから二日後の事だった。吐血と下血の他、本人の意識も動悸も落ち着いたと、会社の昼休みに連絡を受けた。


 親父は俺に伝言を残していて、「煙草が吸いに行けないからハッカの飴玉を買ってきて欲しい」と頼まれた。喉に詰まらせないよう、彼が食べるのを見届けることを事前に忠告され、俺はそれを心に決めて残りの仕事に励んだ。


 しっかりと意思疎通が可能になった親父は、俺が来院した時は一般病棟の一人部屋でテレビを見ていた。俺が来るなり「よ、遅かったな」と陽気に笑う。まだ声は少し掠れていたが、その笑顔は、俺がよく知っている元気な親父のものだった。


 親父は、俺が入ってすぐに「これを見ろよ」とベッドの脇に置いてあるサイドテーブルを指差した。そこには、一枚のプレートが下がっていた。


「『ご飯を与えないで下さい』ってひどくないか? これ、人間向けの文言じゃないだろ」

「明日、朝一でもう一度胃の検査があるらしいから、まぁ仕方ないだろうな」


 しかし、いつ見ても面白いプレートだ、と俺は内心思った。


 親父もすっかり慣れたもので、俺達は毎度その馴染みのやりとりを交わした後に、改めて向き合った。


「腹の調子はどうだ? んで、これがご所望の飴玉だぜ」

「お、ありがとな。調子は、うーん、まだ腹が重くてなぁ。昨日俺が直談判して、ようやく点滴の量が減ってくれて少しは楽になった」


 点滴も水分だ。摂れば摂るだけ腹水になる。口から薬が取れない場合は点滴から入れるのだが、親父の場合は症状が重いだけに、担当医も苦渋の決断をしなければならなかったのだろう。


 俺は家にいる時と同じように、親父から振られるとりとめもない話に付き合った。会話が落ち着いたタイミングを見計らって、それとなく入院の件について口にする。


「そういえば、血液の数値がいろいろと低いから、しばらくは入院して様子を見るらしい。三日間は昏睡状態だったし、体力もめちゃくちゃ低下しているから、日常生活が送れる程度に戻すためのリハビリも必要らしいぜ」


 すると、親父は「仕方ねぇだろうさ」と言った。


「確かに体調は思わしくないからな、こればかりは諦めて、大人しく入院しておくさ。来週の検査結果が良好だったら、リハビリを始めるって言われたな」

「そういえば、『それまではトイレの用件の他は、ベッドから降りられませんからね』って、ナースステーションにいた看護師に釘を刺されたんだけど。あんた、もしかして以前の入院の時に何かやらかしたのか?」

「この前入院した時な、深夜に抜け出してコンビニにいる猫を餌付けていたのが、とうとうバレたんだ」


 親父は、悔しそうに白状した。


「煙草が吸いたくてな。動けるのにじっとしているのも暇過ぎるから、深夜の見回りの時間をかいくぐって外に出たんだよ。二年ぐらい前から、コンビニに居ついている黒猫が可愛くてなぁ」

「何やってんだよ。語る看護師の目がやけに据わってるなと思ったら、それが原因かよッ」

「さては、目尻に黒子がある太ったおばさんだろ。あいつ、何かと煩いだけから気にするな。そうだ、お前がいれば車椅子でちょっくら外に出られないか、聞いてみてくれ」

「あんた、俺の話し聞いてたか? トイレ以外は移動不可なんだ。我慢しろ」


 ここは一般の五階病棟で、身動きが取れない親父に変わって、少しの我が儘であれば協力してくれる優しい看護師が多かった。サイドテーブルには、親父がどこかの看護師に持って来させたのか、一階の診察室脇に置かれていた覚えのある少年漫画が数冊積み上げられている。


 長い入院の場合、動けない患者を風呂に入れてくれるサービスもあった。俺は他の病院を知らないなら何とも言えないが、シャワーの使用は、午前と午後の二回の時間に分けられていた。


 シャワーに使用されるタオルは持参したものとなっているので、親父が入院する際には、バスタオルとスポーツタオル、それから通常の薄地タオルを、最低でも三枚ずつ用意して持ってくるようにしている。


 五階病棟には、美容師経験を持つ介護担当の女性もいて、病院側に時間をもらって髭も丁寧に剃ってくれる時間を設けていた。だから長期入院であっても、病棟内で髭剃りや散髪を受けられる親父は、いつでも小奇麗にされて清潔感があった。


 申し訳ない事に、俺はどの看護師が親父に親切にしてくれているのか、名前も顔もあまり把握出来てはいなかった。親父は「見掛けたら教えてやる」と言っていたが、病院は二十四時間の交代制勤務だ。恐らくだが、面会などの少ない落ち着いた時間帯に、患者の身の周りの世話をしているのではないかと思うほど顔を合わせる機会はなかった。


 いつか顔を合わせる事が出来たら、自分の口から礼を言おう。


 そう決めているものの、会える確率は低そうなので、俺は親父に「会ったら『ありがとう』と伝えておいてくれ」といつも小さな菓子を置いていった。それくらいしか出来ないのが、本当に申し訳なかった。


 寝たきりが数日間続いたとしても、親父は床擦れもしていなければ、小汚くなることもなかった。特別料金も発生しない一般の病室なのに、看護師達は、患者を一人の人間として丁寧にきれいにしてくれている事は、入院生活を苦に覚えていない親父の様子から感じられた。


「粥飯が終わったら、天麩羅が食いたいな」


 そろそろ帰宅するべく俺が立ち上がった時、親父がどこか恨めしげに、例のプレートを一瞥してそう言った。


 絶食の後は粥食から始まり、数日かけて固形食に戻る。明日の検査で問題が見つからなければ、早くて三日後の夜から、栄養士が管理している通常の病院食に戻れるだろう。


 俺はそれを考えながら、頷いてこう言った。


「了解。天麩羅というと、いつものエビ天でいいのか?」

「おう。一本でいいぞ。二本食うと、塩分量がオーバーするからな」

「知ってるよ。それなら、また半分ずつ食べよう。そうしたら、別の天麩羅も半分食えるだろ」

「そうだな。もう一つの方は任せた。食えるようになったら即効でメール入れる」


 親父は、機械類にかなり強く習得も早かった。去年、料金の関係で彼の名義だった携帯電話を解約し、俺の名義でスマートフォンを買い与えたのだが、既に他のアプリも使いこなすほどの腕前だった。



 俺の状況を知っている会社の親しい同僚達は、最近になって、俺の生活リズムが滅茶苦茶だと言うようになっていた。まだ若いから大丈夫だと、俺は一言で押し切り生活を続行していた。


 救急車のサイレンの音や、いつ病院から緊急の連絡が入るか分からない不安に押し潰されそうになっていたから、夜も眠れない事があった。それでも重たい身体をひきずってしまうのは、親父譲りの、元来からの頑固さのせいなのかもしれない。



 親父中心の生活は、学生時代の頃よりも体力的にきついものがあった。それでも俺は、誰かに指摘されれば苛立ちを覚えるほどに、この生活を気に入ってもいたのだ。


 親父といつでも会える距離にいて、仕事の帰り道に親父の事を考えながらスーパーに立ち寄り、友達のように言い会える時間が楽しくて仕方がなかった。俺は、親父が生きているための苦労ならば、幸せであるとさえ感じていた。


 まだ、大丈夫だ。


 余命宣告なんて、何度もあった。だから大丈夫。


 まだ時間が残されていると自分に言い聞かせた。親父を見舞うたび、彼の陽気な表情に笑って応え「また明日来るから」と俺が言い、親父は「おう」と答える。彼がここにいるという実感を目に焼きつけ、廊下に出て大きく深呼吸すれば、この生活の終わりなんて想像も霞んでくれた。


 俺は夜も遅くに病院を出ると、鞄に常用するようになったドリング剤を口に放り込み、アパートまでの運転に向けて気持ちを切り替えた。

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