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 闘病生活五年目、俺が二十七歳を迎えた年の春も、親父は食道静脈瘤の破裂で緊急入院を強いられた。


 普段よりも若干大きかった食道静脈瘤の破裂は、処置後の二日間も親父を苦しめた。傷口一つない胃からも血液が滲み出ている事が確認され、親父は一日に数回ほど病室で少量の血を口から吐き、そのたび担当の看護師が甲斐甲斐しく世話をした。


 すっかり親父が親しみを覚えるまでになった、どこか童顔の担当医は、病室に顔を出した際にこう言った。


「食道静脈瘤の破裂口はしばってありますが、胃にはまだ血液が残っています。数日かけてきれいになると思いますよ」

「つまり、それまでこの気持ち悪い吐き気は続くということか。うっぷ――イツキ、悪いがここにビニール袋、置いてもらってもいいか」

「恒例の、黒くなった血が混じった便も出ると思いますので」

「分かってる、いつものあれだろ。もうびっくりしたりするもんか。最初の吐血で慣れたよ」

「お薬は、いつも通りご自身で管理する、でよろしかったですか?」

「ああ。癖が強いから、自分の身体にあった時間分をきっちりずらさないと、副作用が強いんだ」

「分かりました。それでは、今の段階で点滴から補給されている分の薬に関しては、口から飲用する必要がないので、ナースステーションの方で預からせて頂きますね」


 担当医は、いつも自然な微笑みで親父を安心させてくれた。俺の口車に乗る意思を、弱りきった内臓から血が滲み出している事を説明しない様子から見て取れて、その気遣いには感謝した。


 血液の検査結果の数値が思わしくないのは、吐血のせいばかりではなく、親父自身の身体が本格的に弱っているせいだ。けれど初めて倒れた時のような急激な数字の変化がないせいか、親父は癌が悪化しているわけでもないという認識から、精神的にも落ち着いていた。


 俺は、悪い方向に考えそうな言葉は口にしなかった。去年倒れた時もこんな感じだったよな、季節の変わり目に弱いって、あの医者も笑ってたもんな……といってからかい口調で親父を励ました。親父は眉根を寄せて、「笑いごとじゃないのに、お前らときたら」と愚痴った。


「時期によって体調も崩しやすい。そもそも、俺は病気持ちなんだからしょうがないだろうが」

「そうだ。病気持ちの人は、体温調整が少し難しいからこの時期は多いって、あの医者も言っていたもんな」


 俺が促すと、親父は少し考えて「確かにな」とどこか納得した顔で頷いた。


 今の親父が俺の言葉を疑わないのは、担当医がいつそんな事を言っていたのか、正確に覚えていないからでもあった。緊急手術中や処置直後の記憶は曖昧であったし、誰よりも俺がそばにいて医者の話を聞いている、という信頼感がそうさせてもいるらしい。


「他の病室もほとんど埋まってたぜ。一階のロビーなんて人が多くて、会計待ちがすごかったな」

「ふうん。今日が退院の日じゃなくて良かったな、イツキ?」

「ニヤニヤすんな、張った押すぞクソ親父」


 俺はわざと話題を変えて、それからさりげなく次の本題へと移した。


「ああ、それはそうと、あんたは最低でも一週間は入院だからな? 体調が悪いと、ろくに食事もとれないだろうし、食事や世話してくれる看護師がいる病室で様子を見た方がいいって事で、あの医者とは話しがまとまったから」

「まぁ仕方がないな。煙草が吸えないくらい腹が気持ち悪いし、この状態のまま自分で昼飯を用意するのも面倒だ」

「ここなら専門の人間が多いから、気分が悪いのも、自宅療養より早く終わると思う」

「おう。それが一番だな」


 ここ最近、父の体重は平均男性のそれを下回ったまま増える事はなかった。俺は担当医から、今後増え続けるのは腹水だけと、個人的に説明を受けていた。


 親父は「腹水がちょっと重い」「邪魔」とは口にしたが、まだ苦しさには直接影響していないようだった。とはいえ、腹水で苦しみ始めるのも時間の問題だろう、と医者はこっそり俺に教えてくれた。


 本人が苦しく思うのなら、溜まった水を針で抜くことも可能だ。けれど数日で元に戻ってしまう事もあり、一度やると癖になって定期的に抜くことにもなるから……とは担当医に事前説明と忠告は受けた。


 だから、もし親父が「腹が苦しい。楽にしてほしい」と訴える事があれば、提案してくれるよう担当医には頼んでいた。本で調べた限り、死期前の、内臓をひどく圧迫する腹水の苦しみは残酷で、俺は親父に、苦しいままの最期を迎えて欲しくなかった。



 初めて二週間を超える入院生活を送った後、親父の体調は、以前にも増して変動しやすくなった。



 風邪をこじらせる率が上がったのは、身体の免疫力が回復しないまま落ち続けているせいだ。体調が悪い日は、決まって腹水が増加するようになり、「腹が重いから食欲も減退しているなぁ」と親父は不満をこぼした。


 下血や吐血も、一ヶ月半に一回という頻度で起こり始めた。


 その頃になると、親父は自分の体力がゆっくりと落ちているのを実感しているらしく、動く合間にとる休息時間を増やしていった。仕事に没頭する時間を減らし、体調がすぐれない場合は、自主的に胃腸に一番優しいと思われる療養食に切り替え、病室生活から得たリズムを見習ってたっぷり二日間は休んだりした。


 親父は下血や吐血にも慣れたもので、「あ、そろそろ来そうだな」と察知すると、保険証や一日分の薬を小さな鞄に詰め込んで、すぐ手に取れる範囲内に携帯電話を用意した。僅かな流血を確認すると、俺が動けない時間以外は通い先の病院に電話をして、救急車で迎えに来てもらうようになっていたのだ。


 嫌な方向に慣れてしまった慎重にも思えるその生活態度が良かったのか、どの緊急搬送も、大事には至らなかった。親父が待ち構えていた発作が救急車内で起こり、二日ほどアンモニア数値の上昇で意識が朦朧とする事はあっても、内臓の数値はそれ以上の低下も見せず、癌マーカーも停滞状態が続いた。



 秋を迎えそうな肌寒い日、また入院した親父の様子を見に足を運んだ俺は、担当医に呼ばれて診察室で話を聞かされた。



「彼がここへ通い出して、もう六年が過ぎましたね」


 担当医は、親父のカルテを確認しながら、そう切り出した。


「彼と一緒に知識を身につけ、毎回の血液検査の結果を見ているあなたになら分かると思いますが……全体的に数字が上がりもせず、下がりもしていない事は気付いていますね?」

「はい」

「注目して欲しいのは、ヘモグロビンの数値なのです。彼が倒れるたび急激に減少しているので、最近は投与させて頂いていますでしょう?」

「はい、以前にも説明をされました」


 血液検査で確認できるヘモグロビンの数字は、どうやら親父の元気指数のようだという事は分かっていた。それが一向に回復しないので、ひどい場合は点滴から補うようになっていたのだ。


 金額は張るが、ヘモグロビン数値が一時的に向上して安定すると、親父は元気に歩き回れる事が出来た。食欲も出て顔色も良い。その日に少しの制限を超えてしまう食事をしても、後日に副作用が現れないという特徴もあった。


「この数字が、春先からゆっくりと一定に落ち続けているのが気になります。春以前に関しては、体調に応じて上がり下がりを繰り返していましたが」


 恐らくは、と担当医は不意に声を落とした。


「あなたのお父様は、次の春を迎えるのは厳しいと思います」

「次の、春……」

「あなたも気付いているでしょう? 彼の身体は、内側の機能がすっかり弱くなってしまっています。今では少しの外出にも息が上がり、腹水だけが増え続けている。栄養も食べ物からの吸収が難しいため、夜間にはヘパを飲むようにも指導していますが、こちらでもほとんど効果が難しくなっている現状があります」


 内臓が食べた物からうまく栄養を摂取できないようになっていたから、親父はヘパという専用の食替えドリンクのようなものが、新たに薬の一つとして加わっていた。味を変える粉がセットになっており、食事の替わりにも飲める代物だ。


 正常な人間であれば、寝ている間に、摂取された栄養が身体の稼働エネルギーへ変換されるようになっている。しかし、肝臓機能が低下している患者は、それが出来ないために、朝になると軽い栄養失調状態に陥るのだ。だから寝る直前に、必要な栄養を余分に摂取しておかなければならない。


 食事制限がある病人には、ヘパは栄養価も水分量も高い代物である。親父は「所詮飲み物だから腹水が減らないんだ」と愚痴り、薬剤師に確認して飲める分だけ飲むようにしていた。その栄養さえ、身体がほとんど摂取出来なくなっている現状なのだ。


 親父は、きちんと考えて食事を摂るようにしている。栄養不足にならないよう、専用の栄養剤に加えて、少しでも腹が減ったらパンも口に運ぶように心掛けていた。


 以前との違いは、食べた物が腹水に回らないよう、一度に腹に入れる量を少し減らしているという点だ。それでもここ一年で、親父は随分痩せた。手首も足も細くなり、喉や鎖骨が浮き出ているせいで、余計に膨らんだ腹部が目立った。


「二年ほど前から警戒している食道静脈瘤が、かなり大きくなっています。もし最悪、これが破裂して場合は、覚悟しておいてください」

「助からない、ということでしょうか……?」

「今までの比にならない激痛と流血を伴いますから、今のお父様の体力を考えれば助からないでしょう。――出来れば、それが破裂しないよう静かな生活を送らせる方がいい。内臓を圧迫するような、重い物を持ち上げて運ぶ動作なども、出来るだけ控えさせて下さい」


 茫然とする俺に、担当医はレントゲンと胃カメラで撮影した画像を見せながら語った。一通り説明を終えると、少し申し訳なさそうな顔をして、労わるような優しい声でこう言う。


「私としては、食道静脈瘤の破裂という最期を迎えて欲しくないと思っています。とても苦しくて辛いものだからです。けれど、彼の身体では手術する事も出来ないという事を、どうかお許しください」


 手術くらい出来ないのかという怒りと、打つ手がないという絶望を彼に当たる訳にもいかず、――俺は少しの間を置いた後、首を左右に振って応えた。


 この担当医は、よくやってくれていると思う。病院にしてもそうだ。受け付けの女性や、会計の際によく会う男性事務員、それから各病棟の看護師やリハビリの青年も暖かく接してくれているから、親父は入院中も楽しそうにやれているのだ。


 毎回の吐血の処置をしてくれる外科医も、親父のお喋りに根気良く付き合ってくれていた。俺は、それ以上の待遇を求めるだけの不満を、持ち合せてはいなかった。


 担当医は、続けて俺に「意思確認をしたいのです」と言った。


 それは、親父の心臓が止まってしまった場合、延命処置を施すかどうかというものだった。俺は担当医から説明を受けながら、書類に目を通した。延命処置について記載された文面には、「はい」と「いいえ」で答えるだけの問いが数項目並んでいた。


 親父の身体は、もうぼろぼろで、心臓マッサージの際にあばら骨が折れてしまうだろうと医者は正直に話してくれた。それは痛く苦しい延命処置であり、とても残酷なもののように俺には思えた。


 それでも生きていて欲しいから、延命処置を望む家族もいるだろう。


 けれど俺は、それらの処置は望まない方向で答えた。発作もなく静かな永眠を迎える事が、一番いい結末だと担当医は言う。俺も、それを見届けられたらいいなと、静かに本心を吐露して、その話し合いはしまいになった。



 それからというもの、俺は余計に救急車のサイレン音に怯えるようになった。親父が入院していても、していなくとも、いつかやってくるであろう別れの日が、確かな恐れの形となって俺の足元に影を忍ばせ始めた。



 約三週間の入院と、一ヶ月ほどの自宅療養が繰り返された。親父は少し歩けば息を切らせるようになり、あまり仕事も出来ず、外出もしなくなった。買い物は、ほとんど俺一人になった。


 けれど親父は、月に一度ほどは「気晴らしに行こう」と自分の体調と相談しながら俺を誘った。俺は病院から借りて車に常備している車椅子に彼を乗せ、時間をかけゆっくり買い物に付き合う。そんな時間を、親父が何よりも楽しそうにしているのが、俺には嬉しかった。


 身構えたまま月日は流れ、その年の年末まで、親父は大きな発作も起こさなかった。年末の日中から夕方にかけて、親父の友人が挨拶にやってきて、俺達は賑やかな時間を過ごした。


 親父は陽気に煙草を吹かせて、集った友人達も酒は出さずしきりに煙草を吸った。彼らからの手土産は、親父が飲み食い出来るものだったが、その頃には食欲も少なくなっていて、親父はほんの少ししか口にしなかった。


 こうして、俺と親父は賑やかな年越しを迎える事が出来た。


 けれど恐れていた日は、一刻一刻と俺達の生活に迫り始めていたのだ。



 それは、俺が二十八歳の誕生日を迎えるまで、あと二ヶ月を切った二月の初旬の事だった。会社で書類作業に追われていた俺は、親父が前触れもなく激しい吐血を起こして倒れたと、緊急連絡を受けた。



 苦しみもがく親父を、たまたま機械修理を頼みにきた友人達が発見して、119番通報してくれたらしい。病院まで駆け付けた俺に、親父の友人達は「ベッドからトイレまで血だらけだった」のだと青い顔で状況を手早く説明してくれた。


 病院に緊急搬送された親父は、それから三日間は意識が戻らなかった。

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