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 この世界に生きていた男の話をしよう。


 何故なら、俺ばかりが知っているというだけで、誰も彼を知らないからだ。彼は多くの人に悲しまれる事もなく、ひっそりとこの世を去った。


 ああ、違うな。きっと、俺が語りたいだけなのだ。


 この胸にぽっかりと穴が空いたような悲しみが、四ヶ月経った今も消えてくれないでいる。あの日々ばかりが鮮明に蘇っては、そのたびに俺の心は、耐えがたい痛みを覚えるのだ。


 どうしてだろう。決して楽しいばかりの思い出ではなかったはずなのに、暖かい時間ばかりが五感を伝って俺の中に込み上げるのだ。


 忘れられそうにもない。どこへ行くにも思い出が溢れているようで、懐かしくて恋しくて、寂しくて堪らない。


 どうして君に打ち明けるのかって?


 彼を知る友人や知人を前にすると、彼等が、彼と過ごした日々が思い起こされて俺は言葉が詰まってしまう。柄にもなく涙が溢れてきそうで、だから俺は慌てて言葉を胸のうちにしまい込むのだ。だから酒を飲んだついでに、見知らぬ君に話してみようと思ったんだよ。


 ああ、実を言うと、この店に来たのは久しぶりなんだ。


 オーナーが変わっていたなんて事も今日知った。そうか、営業時間が変わったから、もう他の客もいないんだな……

 

             ※※※


 そのBARの新しいオーナーは、僕の友人の従兄弟で、紹介されたのは昨年の事だった。僕は酒があまり飲める性質ではなかったから、普段は一人では来ないのだが、オーナーである彰吾(しょうご)さんに仕事を頼まれて今日は一人でやって来た。


 その仕事はボランティアみたいなものだったから、金を取るような事はしていない。けれど仕事が終わった後、省吾さんに「腹ぐらい満たしていって下さい」と気を遣われ、少しのつまみとアルコール数の低いカクテルを一つもらい、ちびりちびりと飲んでいたところで一人の男の存在に気付いた。


 少ない客達は閉店間際になって、ほとんどが席を立っていった。そんな中、その男は他の人間とは違う空気を漂わせて、カウンターの隅でぼんやりと酒をやっていた。


 スーツ越しにも分かる引き締まった身体は長く、年頃は三十前くらいだろうか。普段は活気溢れていると思わせるような、はっきりとした切れ長の瞳が印象的だった。


 男の顔立ちは精悍の一言に尽き、楽にした姿勢で酒を呑む姿も、どこか品が漂って様になっていた。姪っ子や甥っ子にも下に見られる僕からすると、兄貴風のその貫禄がすごく羨ましい。


 思わず見つめていると、ふっと目が合った。


 省吾さんからラストオーダーの旨を告げられたその男が、頼んだロックの酒のグラスを受け取った後、ついでとばかりに僕のいる方まで移動してきた。そして彼は、一口酒を呑んだかと思うと、前触れもなくぽつりぽつりと思案するように言葉をこぼし始めたのだ。



 切り出した言葉は、実にあっさりとしたものだった。


 彼は、「この世界にいた男の話をしよう」、とそう言った。



 話を聞く中で僕がいくつか控えめに質問すると、男はこちらに顔を向けて、目尻に小さな皺を刻むような苦笑を浮かべた。後悔に揺れ、膨れる悲しみに困り果て、それでも自分でどうにか消化しなければと強がるような表情のように思えた。


 副業で続けていた仕事柄、僕は彼の事が放っておけなくなってしまった。


「構いませんよ。続きを話してください。閉店まで、まだ時間がありますから」


 省吾さんに目配せすると、彼は理解したと言わんばかりに傍観者を決め込んでグラスを磨き始めた。きっと彼は、営業終了時刻には外看板の電気を消灯するだろうが、閉店時間を少しくらい過ぎてしまっても、多めに見てくれるだろう。



 僕が話の先を促すと、男は少し思案するようにグラスを持ち上げ、それから、思い出すように語り始めた。

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