7話
リルは勢いよく体を起こした。掛けられていた毛布が滑り落ちる。
「…っはあ…っ…」
息が荒い。リルは肩を大きく上下させた。
どうやら一度に大量の記憶が流れ込んできたことにより倒れ、しばらく眠ってしまっていたようだ。
しかし、眠っていた間に細かい記憶まで整理する事が出来た。
さっきまで見ていた夢は、その記憶。
リルがリオンと出会い、そして別れるまでの短い時間の記憶だ。
最後に見た夢のあの後、リルが倒れた日の次の日。目覚めたリルのそばにはリオンが立っていた。その時のリオンの表情は髪の毛で隠れていて、リルには彼が何を思っているのかほとんど分からなかった。
彼はじっと押し黙り、なかなか話しだそうとしない。やがて、リオンは静かな口調で『ごめん』と言って不意にリルの額をなでた。
す、と何かが抜き取られたような感じがした。
リルは、その一瞬でリオンに関する全ての記憶を失ったのだった。
去ろうとしているリオンを、リルは引き止める事が出来なかった。それどころか、記憶まで奪われてしまった。リルはリオンが城を発ったであろう頃には何もかも忘れて、リオンと暮らした家で彼と暮らした事など忘れて、一人のうのうと過ごしていたのだ。別れを告げる事さえできなかった。
自己嫌悪しかない。
リルは目を伏せた。涙は出なかった。いくら胸が痛くたって、目は少しも潤まなかった。何だか、自分がものすごく薄情な人間に思えた。
リルがじっとうつむいていると、何かを引っ掻くような音が聞こえた。のろのろと顔を向ける。
そこには、ドアが開いて先ほどの老人が立っていた。
「悪いなあ。ここのドア立て付けが悪くて…」
老人は、はにかんでそう言った。その柔らかい表情に、罵声を浴びせたくなる。
笑うな。今、親しげに声をかけるな。優しい声色で、傷をえぐるなーー。
らしくない感情が口をついて出そうになる。しかし、実際はそんな事言えない。リルは唇を噛んだ。
老人は、今のリルの事など何も知らない。自分の勝手な感情で、振り回していい人じゃない。分かっている。こんなの、ただの八つ当たりだーー。
リルは自分の感情を、心の奥底に無理矢理押し込んだ。冷静に見えるように、無表情の下にしまう。
が、案外に勘のいい老人は何かに気がついたようだった。
「お嬢ちゃん、どうした。失恋でもしたか?」
「…?しつ、れ…?」
しかし随分見当違いな物言いに、何を言い出すのだと言ってしまいそうになる。勘がいいなんて気のせいだった。どうせ老人には何もーー。
「今にも泣き出してしまいそうじゃ。……そうか、思い出したんじゃな?」
「…!?何を…」
老人の目つきが、急に鋭いものへと変わった。
予想外の言葉に、リルははっとして老人を見た。先ほどまでとは、まるで別人のようだ。
「…知っているの…何があったか」
老人はキュ、と目を細めた。
「…知っているとも。お前の過去はほとんどな」
「あなたは、いったいーー」
リルの問いに、老人は軽く微笑むだけだった。いっそう分からなくなる。
老人は、ふいにリルに問いかけた。
「…さて、記憶が戻ったお前に尋ねたい。今までの夢、本当にただの夢だと思うか?」
「…え?」
リルは、何を言っているのかと老人を見つめた。彼は、真剣な目でリルを見つめ返している。
「…どういう事…」
言っている事が本気で分からない。リルは瞳を揺らした。
「もし、今さっきまで見ていた夢がただの夢じゃなくて、実際にお前の行動が干渉できる世界だったら?あの夢が実際の過去で、お前が過去の世界に行っていたのだとしたら?…お前は、夢を見ていたんじゃない。過去の世界に行っていたんだ。…時を超えて」
老人は、一言一言はっきりと告げた。
「そんな…どう、い…う……?」
尋ねようとした時、いきなり視界がグニャリと歪んだ。リルは仰向けにたおれた。全身が重くて言葉を発する事も出来ない。
「大丈夫だ。さっき、最後にいた時と同じ位置に戻るだけだ。今度は上手くやれよ。どうか…を…てやっ……えが…の…だ」
どんどん老人の声が遠のいて行く。視界は既に真っ暗だ。
リルはまた、ゆっくりと落ちて行った。過去の世界へ、未来を変えるべく。