3話「誘惑」(お題 : 弁当、氷、金色)
太った男が弁当屋に入った。口の周りには過剰なほど髭をこしらえ、黒縁眼鏡に遮られた眼には射るような鋭さがあった。あまりの顔の濃さに店員は動揺し、やや口籠り気味で男に注文を問うた。
「極上の弁当を出せ」男はぶっきらぼうに言い放った。
虚をつかれた店員は取り乱し、逃げるように厨房に向かった。男は自分の体に不相応な小型の椅子に座り、“VOGUE”を喫い始めた。それから数分が経ち、店員はプラスチック製の弁当箱を持ってきた。
「こちらが当店の一番人気、唐揚げ弁当です」
彼は早速弁当に食らいつき、ものの数分もしないうちに平らげてしまった。食べた終えた頃にはすでに、彼の体は怒りに震えていた。
「なんて陳腐な味だ。俺を馬鹿にするのも大概にしろ!」
彼は不満げな顔で店外へ飛び出した。
―ある日、太った男は、弁当屋の名前と住所が書いてあるメモを大学の友人に渡された。そこに行けば、世界でも有数の食材が詰まった弁当が手に入るとのこと。男は食に関してはとことんエネルギーを傾ける性質で、友人の煽りを聞いた途端、メモの住所に向かって一目散に駆けていったのだ―
唐揚げ弁当は彼に嫌悪感を抱かせるほど安っぽい味だった。彼はメモに書かれた住所が間違っているのだろうと判断し、近所の弁当屋を数軒訪ねたがすべて空振りに終わった。
後日、友人からまた新たなメモが渡された。友人はこっちが本当の住所だと言う。彼は友人が嘘をつくわけないと思い込んでおり、従順にその指令に従った。が、昨日と同様に今回も空振り。次の日にもメモを渡されが、また空振り。このような流れが絶え間なく続いていった。このとき彼はまだ気づいていなかったが、メモの住所が、彼の自宅から徐々に遠のいていたのだ。彼は段々と意地になり、友人やサークル仲間に多額の借金をしたり、道端で小銭拾いをしたりして、例の弁当を発見する為にしばしば遠征するようになった。彼の食欲はブレーキが効かなくなっていた。古今東西の様々な地へ赴き、様々な弁当を食した。だが、どの弁当も彼を唸らせることはできなかった。そして無常にも数年の月日が流れた・・・
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太った男は北方の辺鄙な町に来ていた。腕利きの情報屋が潜伏しているという噂を聞きつけやってきたのだ。
まずは一服しようと酒場に入ると、黒マントを羽織った、いかにも怪しい雰囲気を漂わせている男に目が向いた。早速本命に出会えたと思い込み、彼は興奮気味になった。深呼吸をして心を落ち着かせ、セミを捕まえようと忍び足になる少年のように、そっとマントの男に近づいた。
「あなたが情報屋かな」
狙いは見事に当たり、マントの男は自分が情報屋であることを自白した。彼は藁にもすがる思いで情報屋と交渉を始めた。結果、彼が情報屋に有り金をすべて払うという条件に帰結し、ついに極上の味の在り処を突き止めたのだ。
太った男の体重と雪の深さが相まって、鈍い靴音がゆっくりと響きわたる。今にもはち切れそうな防寒具を身にまとい、喘息のような呼吸を繰り返しながら、真っ白な雪原を無我夢中で歩いていた。情報屋から与えられた情報によれば、この雪原のどこかに、例の弁当を保管している施設があるらしい。情報屋はニット帽やゴーゴル、カイロなどの防寒グッズをサービスしてくれた。そして最後に不気味な笑みを浮かべ、男のもとから去っていった。
日が沈み、冷気はますます鋭さを増したが、彼は無心で歩き続けた。彼の原動力はもはや食欲のみ。普通の人間なら音を上げる寒さだが、この男の体は食欲が燃料となり、燃えるように熱かった。旅を始めた頃は、大食漢としてのプライドで動いていたが、この段になるともはやそんな薄っぺらなプライドなど消え去り、ただ本能の赴くままに動いていた。
夜が明けてもまだ見つからない。彼の足取りは当初とちっとも変わらなかった。いや、むしろ昨日より歩調が速まっているかもしれない。彼の進撃は昼過ぎまで続いた。
そんなある時、彼はふと立ち止まり、ゆっくりと空を見上げた。分厚くて黒みがかった雪雲が、地上を覆い尽くそうと言わんばかりに低く垂れ込めていた。重苦しい雲を見て、彼の脳裏に不吉な予感が居座った。すると、今までの会心の歩みが嘘のように彼はその場で崩折れてしまった。彼の自慢の食欲は、不安という壁に阻まれた。彼はこの旅が失敗に向かっていることを予見してしまったのだ。そして彼は、もう一歩も動けなかった。
不気味な時間だった。それが数分間なのか数時間なのか分からない。流れを失った時間が男の周りで停滞していた。意識が朦朧とする中で、彼はふと前方に目を向けた。すると、はるか彼方ではあるが、建物らしいシルエットがゆらゆらと揺れていた。男のなかで希望の灯がともり、冷め切った体は温かみを帯びだした。彼は渾身の力で立ち上がり、脇目も振らずに駆けだした。
近づいてみると、それは巨大な倉庫のような建物で、壁一面が煉瓦で構成されていた。幸い、人の気配はなく、あっさりと入口まで近づくことができた。その入口には重厚な鉄の扉が備わっており、彼は扉を目一杯押してみた。だが、彼の弱りきった体ではビクともせず、仕方なく建物の周りで侵入できそうな箇所を探ることにした。周りには、外からでは開けられない雨戸が壁のいたるところに点在している。一周し終えても、建物への侵入経路は見つからなかった。彼は困り顔で腕を組み、煉瓦の壁にもたれかかり、一服し始めた。すると、彼の上半身が徐々に後ろの方に引っ張られていった。車の座席を倒す時のような感覚に包まれ、積み木が崩れるような派手な音を立てながら、彼は仰向けに倒れ込んでしまった。漂う砂煙の中で、体の下にはゴツゴツとした冷たい感触があった。そして、その感触の正体が煉瓦であることを、彼はすぐに把握した。何かに引っ張られたのではなく、腐食した煉瓦にもたれかかった影響、さらには彼の体重が極めて重いことが影響し、壁の一部が崩れてしまったのだ。壁には人が通れるほどの大きな穴があき、幸運にも彼は建物内への侵入に成功したのだ。
建物の内部には闇が充満していた。彼は懐中電灯の類いを持ち合わせておらず、目が暗さに慣れるまで、しばらく手探りで進行するしかなかった。重々しい靴音と荒々しい呼吸音が不規則なリズムで響き渡った。暗闇は永遠と思えるほど果てしなく続いていた。
彼は一旦足を止め、神経を研ぎ澄ますことに集中した。無音が一定時間続いた後、微かではあるが、どんよりとした重い風が彼の背後から流れてきた。彼は何かに導かれるように、追い風の指示通りに進行を再開した。
ようやく目が暗闇に慣れた時に、丁度風が止み、彼の眼前には正面入口のような分厚い鉄の扉が再び立ちはだかった。彼は軽く扉に触れてみて、先程とは違って自力で開けられることを確信した。ゆっくりと扉を開くと、中から強烈な冷気が流れ出てきた。彼は思わず身震いし、マフラーに顔をうずめた。
部屋の壁や床は一面氷漬けである。そして、部屋の中央には幅1mほどの太い鉄の円柱が立っていた。彼は氷で滑りやすい床を慎重に進み、円柱のところまで移動した。円柱は彼の背丈ぐらいの長さである。この殺風景な部屋の中で、この円柱だけが奇妙な異質さを漂わせており、彼は少々困惑気味であった。だが、彼を最も驚かせたのは、円柱の頂点で氷漬けになっている重箱の存在だった。氷のせいではっきりとは見えないものの、その重箱はかなり高級そうな体裁である。彼はその重箱が例の弁当であると断定し、興奮が抑えきれないような面持ちとなった。だが彼は重箱の取り出し方が分からなかった。何も考えずに飛び出してきた為、アイスピックのような氷を割る道具も、ライターなどの火を灯す道具さえもない。部屋を見渡すと円柱の他には何もない。出入り口は彼が入ってきた扉と、雨戸で厳重に閉められた窓だけだった。今更引き返すこともできず、彼はぼんやりと天井を仰いだ。
彼は気分を変えようと、窓から外の景色を眺めることにした。窓には厚みのある雨戸が何重にも備わっている。彼はしぶしぶ、その複数の雨戸をゆっくりと時間をかけて開いていった。そして最後と思われる戸を勢いよく開くと、その途端、強烈な光が彼の顔面に直射したのだ。彼は思わず両手で目を覆い、床の上で転げ回った。彼の目が元に戻るまで、数分を要した。彼は何が何だか分からず、とにかく窓の戸を閉めようと思い立った。すると、後方から何かが蒸発するような音が聞こえた。目をやると、重箱を封印していた氷が、外からの暖かな光を浴びて徐々に溶け出していた。さらに円柱の氷だけでなく、部屋中の氷がやわらかな光に包まれてじわじわと溶けていった。窓から外を見ると、先ほどまで空を覆っていた分厚い雲の隙間で太陽の光が元気に輝いていた。体温も急激に上昇し、彼は堪らず身につけているすべての防寒具と衣類を脱ぎ捨てた。彼はこの時初めて、防寒具と衣類が滝に打たれた後のように、汗でびっしょり濡れていることに気が付いた。彼は裸で仁王立ちになり、重箱の出現を今か今かと待ち望んだ。
ようやくすべての氷が溶け、ついに彼は重箱を手にした。光に照らされた重箱は、金色に輝いていた。唇の両端からは間断なくヨダレが流出し、彼は発狂する寸前だった。激しい勢いで蓋を開け、何ふり構わず、金色に光る食料を貪るように食べ始めた。飢餓状態の彼の口の中では、あらゆる味が神経を刺激した。ある物は歯ごたえがあり、ある物は粘っこく、ある物は滑らかで、ある物は刺々しい。とにかくあらゆる刺激が、爆竹のように口の中で弾けた。彼は喜びのあまり涙を流し、悲鳴のような叫び声を上げた。食べても食べても食料は減らず、腹も満たされず、何時間も無心で食べ続けた。やがて日は沈み、部屋には元通りの冷気が漂い始めた。だが彼は、この上ない満足感に浸ったまま、食料を一心不乱に掻き込み続けた・・・
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二人の若い登山家が、晴れ渡った雪原の中で、老朽化したちっぽけな山小屋を見つけた。
「見た目は粗末だが、贅沢は言ってられない。しばらくここで暖を取ろう」
彼らの一方が腐りきった扉を用心深く開いた。するとそこには、裸で倒れている太った男の姿があった。彼らの顔は見る見るうちに蒼白になり、急いで男のもとへ駆けつけた。
「だめだ、凍死してる。けど、なんでこんな寒い中で裸なんだ」周りに散らばる防寒具や衣類を見て、二人は困惑した。
「こんな何もない山小屋で、この男はいったい何をしてたんだ・・・」
「けどよ、すげぇ幸せそうな死に顔だぜ、こいつ」
「バク」という人の夢を喰う生物が存在する。また、この男のように妄想を喰う生物も存在する。仮にこの生物を「デブ」と名付けようか。