闇夜姫
とある昔の王国に、双子の王子が住んでいました。誰も手が付けられないほどに元気でいたずら好きで、城や城下の者は毎日振り回されてばかりです。王子達を止められるのは母様である王妃様だけでしたが、今はお腹に新しい命を授かっていてそれどころではありません。叱る者が居ないのをいい事に、王子達のいたずらは激しさを増していきました。
今回、王子達は本で読んだ物語のような冒険というものをしてみたくなり、自分達で木を拾い集め、城下の者に手伝わせて船を作りました。城の目の前には海が広がっているのですから、出発しないわけにはいきません。見た目の悪い小さなボートのようでしたが、真っ白なテーブルクロスを帆として張ると、どこまでも行くことの出来る自慢の船となりました。
「とうとう僕達の冒険がはじまるんだね」
「海賊をやっつけて、怪物をやっつけて、有名になってやろうじゃないか」
王子達は輝いた顔を見合わせ、自慢の船に乗り込みました。風に押され、波に引かれ、船はどんどん進んで行きます。小さくなっていく城を眺めながら、二人は辿り着くはずの宝島に思いを馳せました。
一時間ほど進むと、王子達はおかしいと思うようになりました。いつも城の近くの森で遊んでいる時には、三十分も進めば街や村が見えてきます。それが、どんなに進んでも水平線が広がるばかりで島など見えてはこないのでした。
「ねえ、変じゃない?帰ろうよ」
「帰るって、どうやってさ」
風のまま進んで来た船は、広い海の上にぽつんと浮かんでいます。船と一緒に作った小さなオールを使って漕いだとしても、すぐに城へ着くとは思えませんでした。
不安が広がりはじめた兄弟の鼻頭に、冷たい雫が当たります。見上げると、先ほどまで青かった空は一面暗い灰色に変わっていました。雨が降ってきたのだと理解すると同時に、強い風が吹き付けました。雨どころではありません。海の上で、嵐に遭ってしまったのです。兄弟は、手書きの地図と、おもちゃの剣と、針の回る古い方位磁石くらいしか持っておらず、雨を防ぐことすら出来ずに船にしがみつきました。
「僕ら、死ぬのかな」
「嫌だよ、もう一度母様に会いたいよ」
王子達は目に涙を浮かべ、自分達が進んできた、城があるはずの方向を見つめました。すると、他の波とは違う一際大きな波が、他の波に抗い、押し退けるように向かってきました。王子達の船は今にも木の板に戻ってしまいそうです。
「おやおや、君達は迷子かな」
波は船の前で止まると、優しい声で問いました。王子達が目を丸くしていると、波はざぶんと大きな音をたて、大きなクジラの姿を現しました。
「怖がらずとも、わしは君達を喰らおうなどとは思っていないよ」
クジラは明るく笑います。王子達はそのクジラの優しい声音に安心して近付きました。
「僕ら、冒険に行きたいんだけど、宝島には着かないし嵐はくるしで困っているんだ」
「あとどのくらいで宝島に着くの?」
王子達の話を聞くと、クジラはまた愉快そうに笑い声を上げました。
「君達はこの先の王国の子だね?次の島へも三日航海を続けないと着かないのだよ。どれ、わしが家まで送ってやろう」
クジラは船尾へ回ると、頭で船体を押して泳ぎはじめました。風に押されて進むよりもずっと早く進んで行きます。雨粒が体に当たりますが、風が雫を吹き飛ばします。勢いよく水面を滑る体験に目を輝かせているうちに、王子達の城が見えてきました。
「すごく冒険みたいだ!」
「でも、帰らなきゃならないんだよ。僕らはまだ、何もしていないじゃないか」
どれだけ冒険らしく海上を進んだところで、家に戻らされているのに過ぎません。王子達はまだ、海賊とも怪物とも戦ってはいないのです。二人はつまらなさそうに城を見ると、同時にあることを思いつきました。
「ねえ、このクジラ…捕まえようよ」
「僕も今、同じことを思ってた」
クジラには聞こえないよう、二人はこそこそと耳打ちしました。優しくて大きな、言葉を喋るクジラ。こんな生物を捕まえたとあれば、有名になれることは間違いありません。城の下まで着いてしまえば、迷子になることも送ってもらう必要もないのです。王子達は頷き合うと、そっとおもちゃの剣を手に取りました。
城の近くの砂浜に船を押し上げ、クジラは一息つきました。
「そら、早く家にお帰り。遊びで海に出ようなどとは考えちゃいけない」
王子達は荷物を拾い上げる振りをして、一斉にクジラに襲い掛かりました。いくらおもちゃの剣とはいえ、金属で作られているので攻撃として成り立っています。突然のことにクジラは驚きました。
「な、何をするんだ君達は」
「冒険が出来ないなんてつまらない!怪物が倒せないんじゃ、僕らの計画が台無しだ!」
「お前みたいな大きくて喋る生き物を捕まえたら、僕らはきっと英雄だ!父様もすぐに僕らを王様にしてくれるはずさ!」
王子達は次々と攻撃を繰り出します。刃が丸く作られているため斬り付けたり貫いたりは出来ないものの、殴られて痛みを感じないはずはありません。しかしクジラは反撃することなく王子達に語り掛けました。
「君達は王子だったか。…ならば城で学ばなかったのか、命の大切さを。名を馳せることだけに執着した者が、過去にどんな過ちを犯してきたのかを」
王子達はクジラの言葉を聞いても手を止めることはしません。クジラの声が低く厳しいものになっているのも気に留めず、鼻で笑いました。
「知らないね!そんなつまらないこと!」
「僕らは間違ってもいないよ!有名になるだけじゃない、強くて格好いい王様になるんだから!」
王子達の言葉を聞くと、クジラは大きく息をつきました。その瞬間、砂浜に大きな波が打ち付けます。驚いて目を閉じた王子達は、気付くと船に乗っていて、広い海に漂っていました。見回しても、クジラの姿はありません。
「命を救われたというのに、感謝もせず己の願望にばかり囚われるとは、愚か者にも程がある。子供といえど、神に手をあげたとなれば罰することも避けられん。助けた手前命は取らずにおいてやるが、これより生まれる妹姫に、君達の罪を背負わせることとしよう。よくよく後悔するがいい」
海の真ん中で、クジラの声が響きます。喋るクジラの正体は、海を司る神であったのでした。王子達がいくら呼んでも、それきりクジラは姿を見せませんでした。
船は薄暗い海の上で頼りなく漂うばかりでした。
城では、いつも通りの穏やかな時間が流れていました。王子達は毎日二人でどこかへいたずらをしに出掛けていたので、この日も森や街へ行っているのだと誰もが思っていました。
突然、城の門が勝手に開いたかと思うと、城内に突風が吹き込みました。収まると同時に、コツンコツンと何者かの足音が響きはじめました。驚く人々の緊張感の中、玉座の間の扉が重々しい音をたてて開かれました。
「いきなりだが、失礼するよ」
「あ…貴方様は…!」
扉の先に現れた人物を見て、王様は目を見開きました。白髪に、白く長い髭、紺色の衣に明るい青色の外套を靡かせた老人。彼はゆっくりとした足取りで玉座の前へと歩み寄りました。
「用はすぐ済む。そこでいいよ」
「しかし、う…海神様」
王様と王妃様は玉座から降りようとしますが、海神、先ほどまでのクジラは手を挙げてそれを止めます。
「王として聞いてくれればいい。良い知らせではないけれどね」
王様は不安な表情で座り直しました。周りにいた人々も、息を飲んで見守ります。
「海でな、小さな船に会った。船と呼んでいいものか、木片が浮かんだようなものだったがね。それに、とても良く似た二人の子供が乗っていて、嵐に難儀していたものだから送ってきたのだ」
王様は海神の言う二人の子供というのが王子達であるとすぐにわかったので、深く頭を下げました。
「それは、確かに我が双子の王子達でしょう。ついに海にまで乗り出していたとは知りませんでした。わざわざ送って頂きありがとうございます。王子達にもよく言い聞かせ、またお礼に伺わせて…」
「それだけではないのだ」
王様の言葉を、神の低い声が遮ります。その場の誰もが、嫌な予感しか浮かびませんでした。海神は先ほどより厳しい顔で、王様の不安な表情を見据えました。
「送り届けたと思ったら、子供らがわしに剣を向けてきたのだ。刃こそ丸かったがな、この具合だ」
海神が袖を捲って掲げた腕は、いくつもの痣で痛々しく染められていました。目にした者は皆、途端に青褪めていきます。
「なっ、何ということを…」
「命の大切さなどというつまらないことは知らぬのだそうだ。この国とは随分と交流をもってきたと思いはしたが、罰は罰。子供らは海に置いて来た。そう遠くはないから探せば回収出来るだろう」
そして、と神は声を張りました。王子達への罰が思っていたよりも軽いものであったと安心しかけた王様は、びくりと肩を震わせました。
「ここからが、罰なのだ。…良いか、后には新たな命が宿っているな。あと十日もすればそれは麗しい姫君が産まれよう。その姫から、光を奪うこととする。陽の下ではまず生きられまい。月明りでも、目が眩むだろうな。暗闇でしか生きられぬ哀れな娘に、兄達の罪を背負わせるのだ。妹姫を見る度に、美しい姿になっていく度に、子供らも後悔し続けていくことだろう」
神が言い終わると、玉座の間は深い静寂に包まれました。誰もがただ海神を見つめるばかりで声も出せません。
初めに起こったのは、王様の崩れ落ちる音でした。
「まだ、顔も見ていないのですよ…」
「呪いとは、そういうものなのだ。相手がわしであっただけ、これでも軽く済んでいるのだよ」
海神は王様に背を向けると、来た時と同じようにゆっくりとした足取りで玉座の間から去って行きました。声も出せずに見送った人々は、呆然と王様と王妃様を見守ることしか出来ません。蹲って肩を震わせていた王様は、何とか立ち上がると王子達の捜索を命じました。王妃様は焦点の合わない瞳で宙を見つめながら膨らんだお腹を撫でていました。
十日後、海神の言った通りに王妃様の出産がはじまりました。それは陽の沈んだ夜、月も星も見えない闇夜のことでした。
城の神官様は、産まれる子の呪いを恐れ、必要最低限の明かりのみ灯すことを提案し、城内は真っ暗になりました。闇の中で王妃様が産んだのは、それは可愛い女の子でした。
姫はすぐ、暗い部屋へと移されました。呪いなど出まかせで、光を浴びることが出来るのではないかと王様は思いましたが、姫の髪は月光のように白く、瞳はまるで、生きられる世界をそのまま閉じ込めたような、真っ暗な闇の色をしていたのです。
王様は太陽の光のようなオレンジ色の髪に、初夏の木々のように鮮やかな緑色の瞳を持っていて、王妃様は輝く金色の髪に、バルコニーから見える果てしない海や空と同じ澄んだ青色の瞳です。王子達は濃い金色の髪を持ち、兄は青色、弟は緑色の瞳でした。
呪いを持って生まれた姫は、暗闇の中で大切に、恐れられながら育てられました。しかし普通の人では暗闇に留まることが出来ず、姫はたくさんの時間を静寂と共に過ごしました。
*
目を開くと、辺りは真っ暗でした。きっと別の物語であれば姫は窓を開いて朝陽を浴び、小鳥と一緒に歌うのかも知れませんが、そうはいきません。姫が目を覚ますのは、夕方になってからなのです。昼の間は少しでも光に触れる危険のないよう、眠って過ごします。陽が落ちて皆が寝静まってから、姫の生活が始まるのでした。
けれど、あまり上手くいっていません。何しろ昼の間はとても賑やかです。いくら陽の光を遮っているとはいえ、音までは防ぐことが出来ません。
姫は起きたばかりだというのに、疲れたような表情で白くふわりとした髪に櫛をとおします。窓を開けると、たくさんの星達が空に輝いていました。姫には少し眩しく感じます。
「お星様、私には貴方達がとても眩しいわ。もう十六歳になったのに、まだ一度も昼の世界を見たこともないの。お陰でもう三月も人に会っていないわ。私は一体どうしたらいいの、お星様」
星に語りかけながら、姫は今朝のことを思い出します。外が明るくなる時間には、たくさんの音や声が聞こえ出します。眠ろうと努める姫の耳に、歌が聴こえてきたのでした。
“海の呪いの闇夜姫 貴女は今日もお陽様に 嫌われ陰で震えるの 哀れな末の呪い姫 貴女は今夜も星達と 語らうことしか出来ないの”
聴こえた声と同じように、姫は夜空へ向けて歌ってみました。歌声は誰に届くこともなく、暗い空へと消えていきます。
「海の呪いの闇夜姫…私は生まれる前から呪われているんですって。でも、陰で震えてなんていないわ。兄様達の、代わりですもの。守ることが出来たのだと思えば、私はとても幸せだわ。ねえ、お星様」
ずっと前に聞いた物語の中では、唯一の家族である叔父に王位を狙われ、毎日のように体から赤い雫を滴らせた姫が居ました。最後には叔父に命を奪われ、国を呪いで覆ったと聞きました。作り話かと思えば、とても穏やかで平和な隣国の、百年ほど前の実話なのだそうです。今でも赤雫姫の命を奪った叔父君は、死ぬことも出来ずに地下牢で苦しんでいるのだと…姫はそこまで思い出して大きく息をつきました。家族の間で、なぜそのような悲しいことが起こるのでしょう。姫は暗い空を見上げて、自分は幸せなのだと思いました。
悲しい思いを断ち切るように立ち上がると、姫は部屋の扉を開きました。部屋の外側の扉横には小さな篭が取り付けられていて、中には手紙が一通入っていました。姫は嬉しそうにそれを手に取ると、部屋へ戻り窓際の小さな机に向かいます。封筒を開いて便箋を広げると、いつも通り母様の綺麗な字が並んでいました。
王妃様は体が弱く、夜でしか生きられない姫に会うことが出来ません。なので毎日、王妃様が昼に書いた手紙を姫が夜に読み、返事を書いていました。
“あなたの方が辛いでしょうに、私の体が弱くて情けなさを感じます。すぐにでも会いに行きたいのだけど―”というのが、いつもの母様の書き出しです。会えなくて寂しいのは確かですが、こうして毎日手紙をくれるだけで姫は辛さなど気になりません。
手紙を読み終えた姫は窓の外に目を向けました。
「星はとても明るいけれど、月は隠れているわ。これなら外に出られそう」
母様の手紙には、庭師に頼んで中庭に植えた星夜草という夜に咲く綺麗な花が見頃を迎えているはずだと書かれていました。星夜草は姫のとっても好きな花です。姫は見に行って母様に返事としてお礼を書こうと考えたのでした。
部屋を出ると、姫は真っ暗な廊下を歩き出しました。灯りは持っていませんが、周りははっきりと見えるのです。階段を一階まで降りると、大きな扉を開きます。大広間の奥側から、右側へ向かうと壁がアーチ状に抜かれていて、その先に中庭が広がっていました。中央には噴水、その周りを囲うように花壇やベンチがあります。噴水が輝いて見えるのに驚いた姫でしたが、噴水に沿ってたくさんの星夜草が揺れているのでした。
「すごい。こんなに綺麗に咲いているのは初めて見るわ」
姫は輝いた表情で噴水に歩み寄りました。青白い小さな光を灯して揺れるたくさんの花と、その光を映す噴水の水面で、とても幻想的な景色が広がっています。ベンチに座り、姫は中庭の夜の世界に見惚れました。
「そこに、誰か居るのか?」
不意に、背後から声がしました。振り返ると、背の高い、若い男性が立っています。姫は久々に人に会えたのが嬉しくて、そちらへ行ってみることにしました。
「あら、兄様?」
近付いて見えた顔は、何年か前に見たことのある、兄のようでした。深い金の髪に青色の瞳、双子の兄の王子です。
「誰かと思えばお前か、何年振りだろう。こんな所で何してるんだ」
確か家族と最後に会ったのは、姫の十歳の誕生日のはずです。六年前、王子が十四歳の時でした。
「母様に、星夜草が見頃だと教わりましたの。兄様こそ、こんな時間に何をされているのです?」
兄様は中庭に近付くこともなく、廊下の柱に手をついたまま、姫の声のする方向を見つめます。
「遊べるものがないか探して、ずっと物置に居たんだ。こんなに暗くなっているとは思わなかった、灯りが無くて足元もお前も見えないよ」
兄様の言葉に姫は驚きました。星の光で今夜はとても明るいと思っていたのに、彼には何も見えていないのです。中庭に入って来ないのも、柱に触れたままなのも、進む方向を見失わないためなのでした。
「それなら」
姫は兄様に駆け寄り、柱に触れている手を取りました。
「私が兄様のお部屋までお連れしますわ。私には今夜はとても明るいのですもの」
「灯りが何も無いのに、そんなに良く見えるのか?やっぱり変だな、お前は」
二人は兄様の部屋へ向かって歩き出しました。姫は久しぶりに兄様に会えたのが嬉しくて、色々な話をしました。普段どんなことをしているのか、両親の様子、国の様子。兄様から聞く昼の世界はやはり明るく賑やかで、とても輝いていました。
先日城を訪れたという他国の商船の話を聞いているうちに、兄様の部屋に着きました。
「王子!どちらへ行かれていたのです、こんなに遅くまで!鍵が掛かっているのでまさかと思えば、本当に出歩かれているとは…女性まで連れて!」
兄様の部屋の前に立っていた男性が突然大声をあげるので、姫はとても驚きました。こんなに大きな声を出す人には会ったことがありません。兄様は慣れた様子で明るく笑いました。
「待っていたのかぁ、灯りも持たずに。これは妹だ、女を連れ込んでる訳じゃない。暗くて困っていたところを助けてもらったんだ」
男性は驚いた表情で姫を見ました。視線はこちらでも目が合わないのは、彼も闇のせいで全てが見えているわけではないからなのでしょう。
「姫君でありましたか、大変失礼致しました。私は王子の側近を務めている者なのですが…」
「はいはい、年甲斐もなく奔放だとか、手が付けられなくて困ってるって言うんだろう?聞き飽きた」
側近が頭を下げる横で兄様は姫から手を放し、退屈そうに呟きます。
「助かった。また礼でも送っておくよ」
「いえ、私は兄様に会えただけでとても嬉しいです。貴方様も、兄様をよろしくお願いしますね。私はこれで」
姫は二人に向かってお辞儀をすると、自分の部屋へ向かうことにしました。
その時、隠れていたはずの月が顔を出し、窓から光が入り込みました。
「きゃあっ」
「…わぁ」
姫はすぐに手をかざし、眩しさに目を細めますが、兄様と側近は揃って声を漏らしました。光が照らし出した姫君は、白銀に輝くふわりとした髪に吸い込まれそうな漆黒の瞳、薔薇色の唇に透けるような白い肌の、それは美しい少女でした。
「姫…美しくなられて」
「ああ、全くだ。なあ、お前の都合で構わないが、明日の晩、舞踏会に来る気はないか?」
「舞踏会、ですか?」
突然の誘いに、姫の胸は弾みます。しかし舞踏会とは、明るく眩しい輝く世界でダンスを踊るもので、姫はダンスを踊ったこともなければ、明るい広間にも行けません。残念な気持ちで、姫は首を振りました。
「私は、踊れもしなければシャンデリアの光を浴びることも出来ません。お誘いは嬉しいのですけれど…」
「踊れなくたって、美味いものを食べて話しをするだけでも面白いものさ。光もきっと、お前は暗闇に閉じ込められているから慣れていないだけなんだろう。心配なら小さな光から慣らしていけばいい。どうだ」
兄様の明るい調子で言われると、本当に大丈夫な気がしてきました。少し不安を残しながらも、姫は小さく頷きました。
「ええ、それなら…」
「そうか!」
兄様は満足そうに笑うと、部屋へ入り布のような物を持って戻ってきました。
「それでは明晩、弟と迎えに行こう。それと、眩しいならこれを羽織って行け」
投げ渡されたのは兄様の外套でした。姫はそれを羽織って光を遮ると、深く頭を下げました。
「ありがとうございます。明日、楽しみにしていますわね」
兄様は手をひらひらと振り、側近は深く頭を下げて見送ってくれました。
部屋へ戻った姫は早速机に向かい、母様への返事の手紙を書きはじめました。星夜草が幻想的でとても綺麗だったこと、植えてくれたことへのお礼、兄様に会ったこと、たくさん話しをしたこと。けれど舞踏会に誘われたことは、なぜだか書いてはいけない気がして、書かずに封を閉じました。母様は姫の呪いを一番心配しているので、きっと不安になるだろうと思ったのです。もしも光の中で過ごすことが出来れば、その時に知らせようと考えました。
書いた手紙は扉の横の篭に入れておけば、使用人が母様へ届けてくれます。扉を閉めた姫は、また窓の外へ目を向けました。月の光を返しながら海がきらきらと輝いています。その海の中に、岩のような影が見えました。大昔に海に沈んだという王国の高い高い塔なのだと聞いたことがありました。地上にあれば空まで届くほどの高さであった塔も、先端が薄く見える程度です。海の底にどんな世界が広がっているのか姫はよく考えてみるのでした。
潮が変わって塔が見えなくなると、姫は勉強をはじめました。昼の世界や人々の生活のこと、詩や歴史、神話など、色々なことを勉強すれば夜でしか生きられない自分でも国の役に立つことが出来るのではないかと姫は思うのでした。
夢中で机に向かっているうちに、窓の外が明るくなりはじめていることに気が付きました。
「夜が終わるのは早すぎるわ…」
やり残したことがたくさんある気がしますが、仕方なく眠る準備をはじめます。着替えをして髪をまとめると、ベッドに入って天井を眺めました。次に目が覚めた時には兄様達が迎えに来てくれるのだと思うと胸が高鳴ります。どんなドレスを着て行こう、どんな話をしようと考えていると、この日も外から歌声が聴こえてきました。
“海の呪いの闇夜姫 貴女は今日もお陽様に 嫌われ陰で震えるの 哀れな末の呪い姫 貴女は今夜も星達と 語らうことしか出来ないの”
少女であろう歌声が消えると、姫はふと思い付いて起き上がりました。兄様に借りた外套を羽織り、少しだけ窓を開きます。入り込む朝陽を避け、外套で顔を隠すと朝の空気を深く吸い込み、姫は歌いはじめました。
“私は海の呪い姫 ずっと私はお陽様や 皆を愛しておりますわ 夜の世界の片隅で 私は今夜も星達と 平和を願って過ごします”
歌い終えた姫はそっと窓を閉め、外套を掛けると眠りにつきました。
気付くと姫は明るい陽射しの注ぐ花畑に立っていました。見回すと、遠くで母様が手を振っています。姫は嬉しくなって何度も手を振り返しました。
「だから言っただろう?大丈夫だって」
背後から声がして振り返ると、兄様が笑顔でやって来ました。姫は大きく頷いて兄様に手を差し伸べました。兄様が姫の手を取り、二人は手を繋いで花畑を眺めます。
いつの間にか母様の横には父様が立っていて、そこに双子の弟の兄様が駆け寄っていました。
「俺達も行こう」
兄様は姫の手を放すと両親と弟の許へ駆けて行きます。その後を追って走り出しながら、姫はこれが夢であるのだと気付きました。
ゆっくり目を開くと、そこは昼の世界でも花畑でもなく、いつもの暗い部屋の中でした。もう一度目を閉じてみますが、闇が広がるばかりで明るい世界は現れません。
「とっても素敵な夢だったわ」
目が覚めてしまったことを少し残念に思いながら姫は起き上がりました。
窓を開くと、雲のない晴れの夜空にも関わらず、月も星も見えない不思議な光景が広がっていました。
「真っ暗だわ、雲もないのに。光がなくなってしまったみたい」
首を傾げて空を見つめていた姫は、兄様との約束を思い出して飛び上がりました。
「いけない!こんなことをしている場合じゃないわ!」
大慌てで髪に櫛をとおし、お気に入りのドレスを引っ張り出します。白い髪に映える淡い紫色に胸を躍らせながら袖を通すと、姫はくるくると回りながら扉へ向かい、母様からの手紙を手に取りました。
「後にしてお返事が書けなくなるのは嫌だわ。今のうちに書いてしまいましょう」
便箋を開くと、いつも通りの綺麗な字で星夜草を一緒に見たいということや、兄様から姫の話を聞いたことが書かれていました。一瞬ひやりとしましたが、どうやら兄様も舞踏会のことは話していないようでした。
父様に、王子が困っているからと質問するのを止められてしまったと書かれていて、姫は思わず吹き出しました。あの大人びた兄様が困ってしまうとは、母様はどれだけたくさんの質問をしたのでしょう。
姫は困った兄様を見たかったこと、兄様がどんな風に自分のことを話したか知りたいこと、素敵な夢をみたことを便箋に綴り、にっこりと微笑みました。前から家族の様子を尋ねることはしていましたが、実際に会った人のことを報告し合うのはとても楽しく感じられました。早く母様からの返事を読みたい思いを抑えつつ封をしていると、扉を叩く音が聞こえてきました。姫は輝いた表情で扉へ駆け寄ります。
「こんばんは兄様!本当にいらしてくれたのね!」
姫が飛び出してきたので、兄様達はとても驚きました。妹姫の輝いた表情を見て、いつものいたずらっぽい笑みを浮かべます。
「嘘なんて吐くはずないだろう」
「それにしても、本当に大きくなったな。妹じゃないみたいだ」
緑色の瞳を優しく細めて言ったのは、双子の弟の王子です。姫は嬉しくなって微笑みました。
「兄様達もとっても素敵になられましたわ」
「素敵なのは元からだぞ」
三人は笑い合い、夜の城内を歩き出しました。兄様達はそれぞれ星夜草の入ったランプを持っていて、その小さな光が微かに足元を照らしていました。星夜草の光なら、姫の目にも眩しくはありません。人と並んで歩くことが出来るだけで姫は幸せな気持ちになりました。
兄様達の部屋の手前にある広間の前で、姫は息を飲みました。
「この向こうで、舞踏会が開かれているのね」
「ああ、皆居るはずだ。だが明かりは点けないように言ってある。怖がることはないさ」
兄様達は得意気に扉の取っ手に手を掛けました。少し不安のある姫の右足が一歩下がります。同時に頷き合った兄様達は姫に視線を投げかけました。
「さあ、用意はいいか?」
扉を見つめ、ゆっくりと息を吸い込んでから姫は大きく頷きました。
「楽しい夜の始まりだ!」
明るく叫んで兄様達が扉を開け放ちます。暗い広間から人々の歓声があがりました。兄様達の差し出す手を取り、姫は大きく踏み出しました。
たくさんの人々、料理やグラスの置かれたテーブル、楽団、シャンデリア。こんなに素晴らしいところへ来たことはありません。もっと良く見ようと、姫は兄様達の手を放し奥へと駆け出します。
「今だ!」
突然、姫の背後から大声があがりました。振り返ってみようと視線を動かしますが、鋭い痛みが目に突き刺さりました。驚いて目を背け、別の場所へ顔を向けても目に痛みが走ります。広間の色々な場所で兄様の侍従達が明かりを点け始めたのです。
広間に居た人々はやっと現れた姫の美しさに息を飲み、歓声をあげますが、姫は目を閉じても襲い来る光の痛みに顔を覆って蹲りました。
「兄様!眩しくて目が開けられません!もう少し明かりを小さくして頂けませんか」
苦しそうな姫とは反対に、兄様達は明るい笑い声をあげながら足音を響かせて姫に歩み寄ります。
「それじゃあ面白くないだろう。皆お前が来るのを楽しみにしていたんだぞ」
「少し目を開いて明かりを見てみたらどうだ?慣れてしまえば平気かもしれない」
言われた通りに押さえた手を退けてみようとしますが、途端に目の奥がずきずきと痛みます。しっかりと光を遮ると、首を横に振りました。
「駄目だわ、本当に目が痛いの。兄様、せめて私を外へ出して下さいませんか」
姫は必死に訴えますが、兄様達は助けてくれません。可笑しそうに笑うばかりです。
「どこを向いて喋っているんだ。そっちには誰もいないぞ」
「そんなに苦しいことはないだろう。朝に外へ向けて歌っていたじゃないか。本当は平気なんじゃないのか?」
確かに姫は朝に歌をうたっていましたが、眠る前の少しの時間、陽を浴びないよう気を付けながらのことであり、光は全く姫の味方ではありません。
「平気じゃないわ!お願い兄様、明かりを消して!」
姫は片手で目を押さえ、もう片方の手で壁か柱がないか探します。その姿を見た兄様達は指を差して吹き出しました。
「何だ、その動き!人間とは思えないな!」
「俺は囚人かと思ったぞ!」
姫の頭の中は真っ白になりました。辿り着いた壁を支えに何とか立ち上がると、兄様達の声のする方向へ駆け出し、更に向こうにあるはずの出口へ前も見えないまま進みます。何度か壁にぶつかってしまい、その度に笑いが起こりましたが、何とか出口を見付け、広間を飛び出すことが出来ました。
広間の外に光はなく目は痛みませんでしたが、次から次へと溢れる涙で前が見えず、姫は方向もわからないまま城を駆けました。
不意に何かに足を取られて倒れ込みました。立ち上がろうと手をつくと、地面はさらさらとした砂で、顔を上げて見れば城のすぐ下の砂浜でした。目の前では穏やかな波が押し寄せては引いていきます。
「酷いわ…楽しみにしていたのに、大好きな家族なのに!」
悲しい叫び声は波の音に飲み込まれていきます。そのまま姫は、月も星もない暗闇の砂浜で蹲って泣いていました。
「…こんな闇夜にどうされましたか、お嬢さん?」
突然人の声がしたので、姫は驚いて顔を上げました。浜に着けた小舟から青年が降りて来ています。
黒い髪に色白な肌、気遣うような優しい表情、一歩進む度に瞳は青色に見えたり紫色に見えたり、様々な色に変わって見えました。
こんな夜に海へ出る人が居るのかと、姫は声に出さないまま不思議に思いました。
「あれ、泣いているのですか?」
青年は姫に歩み寄り、心配そうな表情でハンカチを差し出しました。とても暗い中、どうやら彼には周りが見えているようです。
「とても悲しいことがありましたの。この空のように、私の心は真っ暗だわ」
差し出されたハンカチを受け取り、姫は涙を拭います。青年は瞳の色をきらきらと変えながら空をぐるりと見渡すと、寂しそうに笑いました。
「僕はずっと、この空を待っていたのですが…、暗い空は、やはり嫌なものなのでしょうか」
思いもよらない言葉に申し訳なくなった姫は両手を振って慌てました。
「いえ、嫌ではないのです…!私には光が無い方がありがたいのですもの。ただ、いつも星が輝いている空と比べてしまえば、少し寂しい気持ちになりますけれど」
涙が溢れるほどに悲しいことがありながら相手のことを気遣って言葉を紡ぐ姫に、青年は優しく微笑みました。
「貴女は優しい方ですね。まさか星達が空から降りて貴女に姿を変えているのではないかと思えるほど」
「まあ、私から見れば星は貴方の方ですわ」
姫は生まれてから、城内の限られた者としか接したことがありません。先ほど初めて大勢の人々の前へ出たものの、それはとても辛く恥ずかしいものでした。
この青年は、まるで毎晩静かに見守ってくれる星達のようだと姫は思ったのでした。
「なぜ、光が無い方が良いのか…お尋ねしても良いですか」
青年が遠慮がちに訊きました。姫は頷いて、寂しい笑顔を浮かべます。
「そう、呪いが掛かっているのです。私は生まれてから一度も、昼の世界に出たことはありませんわ」
「…この明るい地上で、一度も、ですか」
青年はとても悲しそうに目を伏せました。明るい笑顔を作った姫は、月も星も見えない闇の砂浜で、両腕を広げてくるりと回って見せます。
「けれど、いつもは星達が見守ってくれていますし、母様からの手紙も届くので寂しくはありませんわ」
姫が無理に明るく振る舞っていることは、青年にはすぐにわかりました。にこにこと笑う姫の漆黒の瞳を優しく見つめます。
「今まで、泣いていたのに?」
目を見開いて青年を見返した姫は、言葉が見付からずに口ごもります。そんな姫の手を、彼は優しく取りました。
「やはり地上は素敵な所です。木が茂り、花が咲き、風が吹き、鳥の声がする。けれど僕には合わない世界だ。きっと貴女にも」
彼の言葉の意味がわからず、姫は首を傾げます。青年は小舟を指差しました。
「僕の住む国へ行ってはみませんか?夜の間、案内しましょう」
「外の国へ?」
船を使って他国へ行くには三日の航海が必要だと姫は知っています。冗談だと思い、青年と小舟を見比べました。こんな小舟で夜の内に海を渡り、他国へ行って帰ることが出来るとは到底思えません。
「私には無理ですわ。きっと海の真ん中で陽に灼かれて死んでしまうもの」
姫の応えに、青年はきょとんとした表情を返しました。彼は本気で海へ出ようとしているようです。
「陽を見ることはありませんよ。僕の国はすぐそこにあるのですから」
次は姫がきょとんとする番です。そんな近くに別の国があるはずはありません。不安に思い、尋ねることにしました。
「すぐそこ…ですか?近くに国があるとは、聞いたことがありませんけれど」
青年は驚きの声をあげながら海の方を指差しました。その先に岩が見えています。国とは岩のことであったかと拍子抜けした姫でしたが、あんな場所に岩があった覚えがありません。驚いて岩をよく見つめました。
「あれは海底遺跡の…」
「遺跡?今でも僕達の聖域ですよ。こうして海の上へ繋げてくれているのですから」
海の底の王国にある塔であることはわかりましたが、それでも姫は青年の言うことが理解出来ません。
人は水中で息をすることが出来ない、などということは子供だって知っています。なのに青年は、まるで海の中で生きているようなのです。
「貴方は、人魚なのですか?」
困り果てて姫が尋ねると、青年は吹き出しました。
「僕が人魚?それは可笑しいな。あまり想像もしたくないですね」
「それでは、海の中でどうやって生活をしているというのです?水中の国だなんて聞いたことがないわ」
涙を拭いながらも青年は意外そうな顔をしました。姫が本当に困っているとわかると、海と姫を何度も見比べます。
「海の上の人々は、僕達のことを知らないのですか?僕達は幼い頃から海の上のことをたくさん聞かされているのに」
たくさんの本を読み、色々な物語を聞いた姫でしたが、海の国の話など人魚の伝説しか知りません。目の前に現れた物語のような現実に、姫は身を乗り出して目を輝かせました。
「本当に海の中で暮らしているのね?どうやって呼吸をしているのです?国とは、どれほどの広さでどのような政治をしていて?建物や食べるもの、生活や伝統など、陸とはどのように違っているのかしら?」
突然の姫からの質問の波に、今度は青年が困りました。興奮する姫を、両手を上げて宥めます。
「お、落ち着いて。見たらわかると思いますが、海の中にも空気があります。大きな空気の球体の中に国があるのです。なので僕達も本当に水中で生きられるわけではないのですよ」
青年の簡単な説明を聞き、姫は是非とも海底の国を見てみたいと思いました。自分の国の誰も知らないような不思議な体験が出来ると思うと胸が躍ります。
「私を、貴方の国へ連れて行って下さいますか?」
「もちろんです!」
青年は頷き、とても嬉しそうに笑いました。瞳が明るい色に変わります。姫は彼の差し出す手を取って笑みを返し、小舟に向かって歩きはじめました。
「こんな所にいたのか!」
背後から声があがり、並んで歩く二人は驚いて振り向きました。そこには星夜草のランプを手に息を切らせた、双子の弟の王子が立っていました。
「兄様!」
姫は後退ります。また、あの明るく悲しい広間へと連れ戻されるのではないかと思ったのです。
兄様は大きく一歩踏み出すと、深く息を吸い込みました。
「悪かった。本当はすぐに明かりを落とすはずだったんだ。兄さんが楽しそうで、俺も見境が付かなくなって…もう一度、広間に戻らないか、やり直そう」
頭を下げて謝る兄様を見て、姫は言葉を詰まらせました。広間から飛び出したことを揶揄われたら精一杯言い返してやるつもりでいたのです。
固まっている姫を、兄様は申し訳なさそうな、困っているような表情で見つめます。
「…目、大丈夫か?部屋へ謝りに行ったらお前が居なくて、兄さんも反省して必死に探しているよ。さあ、行こう」
兄様の差し出す手に、姫の心は揺れました。
双子の王子達が本当は悪い人間ではないことを姫は知っています。ただ、二人が一緒に居ると周りが見えなくなり、人々を困らせてしまうのでした。幼い頃から、それだけは直らないのです。
姫は兄様の手を見つめ、次に青年の目を見つめました。青年は姫が何を選択しても良いというように、微笑んで頷きました。紺色から深い緑色に変わっていく彼の瞳に頷きを返し、姫はまた、兄様に向き直ります。
「ごめんなさい兄様、私は彼と行きます」
「それは、誰だ?見たことのない顔だぞ」
姫の隣に立つ青年に気が付いた兄様は眉をひそめました。青年は一歩進み出ると、兄様に深々と頭を下げました。
「僕は海底王国の者です。今夜、国を代表して陸を訪れることを許されて参りました」
一瞬、理解が追い付かずに目を丸くした兄様でしたが、すぐに威嚇するような、攻撃的な表情を浮かべました。
「そんな薄い嘘で俺の妹を、この国の姫を連れ出せると思ったのか」
敵意を向けられると思っていなかったようで、青年は目を見開いて固まりました。更にある言葉が引っ掛かり、視線を姫へ移します。
「…貴女は、姫君だったのですか」
「ええ。けれど貴方には、あまり重要なことではないと思いましたの」
彼ならきっと、自分がどんな身分であっても変わらずに声を掛けてくれたのだろう、どんな身分と明かしても変わらずに接してくれるのだろうという思いが姫にはありました。肩をすくめながらも笑みを浮かべる青年を庇うように、姫は踏み出しました。
「信じて、兄様。彼は悪い人ではありません。きっと、きっとすぐに戻りますわ」
兄様は姫の答えに、悲しみと共に強い否定の色を宿す目を見開きました。
「馬鹿な作り話に乗せられるな。俺達が悪かったから、だから、頼む。こちらへ来てくれ。お前を奪われたくなんてないんだ」
本当に大切に思ってくれているのだとわかり、姫は嬉しくなって兄様に歩み寄りました。兄様の手を取り、心からの微笑みを浮かべます。
「ありがとうございます、兄様。そう言って頂けるだけで私は幸せだわ。でも、今回だけはわがままを言わせてください。…悪い妹ですわね」
姫は兄様の手を放すと、代わりに兄様が持っているランプをそっと取りました。青年の許へ向かいながらランプを開け、中で光を灯している星夜草を取りだします。手を広げると、闇夜の砂浜へ光の花がひらひらと舞い散っていきました。
また明かりの全く無い暗闇になりましたが、姫と青年には変わらず辺りが見えています。視界を奪われてしまった兄様は二、三歩進み、辺りを見回しました。しかし目に映るのは夜の闇ばかりで、追うことも出来ず一人闇の砂浜に立ち尽くしたのでした。
小舟の上で、姫は小さくなっていく兄様の姿を見つめていました。
「良かったのですか、僕と共に来て」
塔へ向かって舟を走らせながら青年が姫の横顔に尋ねました。姫は視線をそのままに、少しだけ寂しそうな笑顔を浮かべました。
「すぐに帰るつもりでいますし、こんなに素敵なお誘いを断れるほど、私は大人じゃありませんわ。それに、貴方と出会うきっかけを作って下さったのも兄様達ですもの。二人の意地悪が許されるなら私のわがままも許して頂きたいわ」
姫の言葉に青年は優しく笑いました。舟の小さな揺れや潮の香りの風、波のさざめく音が心地良く、姫も空を見上げ、今度は明るい笑顔を浮かべました。
砂浜から塔までは本当にあっという間でした。青年が舟から塔へ飛び移り、縄で舟が流されないように結ぶと姫に手を差し出します。姫はその手を取り、舟から塔へと飛びました。
「ここから階段を降りて海底へ行くのです。少し長いですが、眺めは良いですよ」
地面に蓋のような扉があり、その下は螺旋状の階段になっていました。青年が数段降り、姫を先に促して扉を閉めました。
階段は暗いかと思われましたが、青く仄かな光に包まれていました。壁はなく、柱の間から海の中の様子が見えます。
「どうして、壁もないのに水が入って来ないのです?」
不思議そうに海を眺めながら姫が尋ねます。青年は手を伸ばし、水面に触れました。噴水の池や水溜まりに触れた時と同じように波紋が広がっていきます。更に手を伸ばせば、何に阻まれることもなく水中に入っていきました。
「海神様のお力ですよ。僕達の祖先は、遠い昔に神々の間で起きた戦争に巻き込まれた人々だったのだそうです。戦争に否定的だった海神様は祖先をこの海底に隠し、国を作られました。荒神に惑わされぬよう、海神様ご自身が導いて下さったのだと国では一番はじめに教えられます。皆それを誇りに思っていて、国内で争いや犯罪が起こったことは一度もありません」
海神様の名は姫も聞いたことがあります。姫に呪いを掛けた、姫から光を奪った神です。その姿を見たことはありませんが、きっと恐ろしいのだろうと姫は思っていました。
「貴方は海神様にお会いになったことがありますの?」
姫が尋ねると、青年は表情を輝かせて頷きました。
「よく国の様子を見に来て下さいますよ。僕達王国の人間の、父のような存在です」
優しい笑顔につられて顔の綻ぶ姫でしたが、もしも海神様に追い返されてしまったらどうしようかと不安になりました。会ったことがあるのは生まれる前の出来事なので、姫には海神様のことがわかりませんが、呪った海神様はきっと姫のことがわかるはずです。青年の言うように優しい神であれば是非とも会ってみたいと思いますが、やはり恐ろしい気持ちも強く感じるのでした。
「私は歓迎して頂けるかしら…」
小さく溜め息をついた姫の耳に、不思議な音が聞こえました。甲高い、笛のような音です。
青年は嬉しそうに水際へ駆け寄りました。
「彼らが来てくれたようです」
「彼ら?」
首を傾げる姫に、青年は海の中を指差しました。その先を目で辿っていくと、いくつかの影がこちらへ向かって来ているのが見えます。影の正体がわからず、姫は数歩後退りました。
「い、一体何ですか!」
「イルカを見るのは初めてですか?とても利口で穏やかな動物ですよ」
青年の前へ集まったイルカ達は嬉しそうに泳ぎ回り、まるで帰りを喜んでいるように見えます。姫の聞いた不思議な音とは、彼らの声でありました。
青年が水中に手を浸してイルカを撫でているので、姫も恐る恐る水面に近付き、そっと手を伸ばします。差し出された手に、一頭のイルカが嬉しそうに擦り寄りました。
「いつもなら住処に帰っている時間なのに、いつも以上に元気で楽しそうです。きっと姫を歓迎しているのですね」
まるで肯定するように、イルカは短く鳴きました。あまりの嬉しさに、姫の目には涙が浮かびました。
階段を進みはじめると、イルカ達は並んで泳ぎ出しました。くるりと回ったり鳴き声をあげたりと楽しそうで、こちらも足取りが軽くなります。スピードを上げたイルカ達を追って駆け降りて行くと、前方に大きな扉が現れました。
「これが国への入り口です!」
そう言って青年は駆けて行き、五段ほど飛び降りて扉の前に立ちました。まるで先ほど、広間の前に兄様達と立った時のようです。しかしその時と違い、不安はほとんど無く、今にも自分で扉を押し開けたい気持ちになりました。
「それでは、よろしいですか?」
「もちろんだわ!」
姫が大きく頷くと、青年は大きく重い扉をゆっくりと開いていきました。
きらきらと輝く海面の下の下の更に下にある海底王国は、澄んだ青い光に包まれていました。それは姫でも辛さを感じない程度のもので、まるで星夜草が咲き乱れているかのようです。よく見れば、岩の中の鉱石であったりクラゲの放つものであったり、海面の方から漂ってくるものであったりと色々でしたが、それらが混ざり合い、波に揺られて放たれることで幻想的な世界が作り出されていました。
建物はといえばどれも石で造られていましたが、華やかな彫刻や飾りが施されており、色味が少なくとも美しく見えました。むしろ色もデザインも統一され、国が一つの芸術作品のようにも思われました。
言葉を失って何度も周りを見回している姫に、青年は嬉しそうな笑顔を浮かべます。そこへ、足音が近付いてきました。
「王子、お早いお帰りですね。もう宜しいのですか?」
「神官様」
青年が駆け寄った先には、紺色のローブを身に纏った、白髪混じりの黒髪に丸い眼鏡をかけた、痩せ型の男性がいました。姫は神官様の言葉が気になり、二人を見つめます。
「…王子?」
目を丸くしている姫に二人は振り返りました。神官様は姫を見て首を傾げます。
「王子、このお嬢様は?」
「僕が上がった砂浜に居合わせた、陸の国の姫君です」
青年の紹介に合わせてお辞儀をすると、神官様は目を輝かせて姫に歩み寄りました。
「貴女が彼の姫君ですか、お会い出来て光栄です。海神様や王様より話は聞かされておりましたが、まさか星影王子が連れて帰られるとは」
神官様が嬉しそうに、青年、海底王国の王子に目を向けたので、姫も王子へ拗ねたような笑顔を向けました。
「貴方は王子殿下だったのですね」
「はい。昼のように明るい夜に生まれた、星影王子と呼ばれています。ですが、そんなことは貴女は気になさらないだろうと思って」
「…お互い様というわけね」
王子と笑い合った姫は、神官様に向き直りました。青年が王子であったことにも驚きましたが、他にも気になることがあります。
「ところで神官様、私の話とはどのようなものでしょう?私は今夜、初めてこの国のことを知りましたの。皆様はずっと前から私のことを知っていたのですか?」
神官様は、海神様や王様から姫の話を聞いたと言っていました。海神様は姫に呪いを掛けているので知っていておかしくはありませんが、海底の王様がなぜ姫のことを知っているのかがとても不思議に思われたのでした。
「それならば、王様の許へ参りましょう。きっと貴女に会えることを喜ばれるはずです」
塔の正面に見えている大きな建物を差し、神官様は言いました。すると王子が慌てて神官様の前に回り込みます。
「僕が案内をするという約束で姫をお連れしたのですよ!」
「おや、これは失礼しました」
降参するように両手を挙げた神官様は姫の後ろへ逃げ込みます。そんなやり取りが面白く、姫は小さく吹き出しました。
三人は高い高い塔を出ると、青色の世界へ歩き出しました。
海底王国は、王子が言っていた通り大きな球状の空間の中にありました。まるで透明な壁や天井があるかのように水は国への侵入を阻まれています。頭上の海中ではイルカ達が楽しそうに泳ぎ回り、その中をヒレの光る大きな魚が横切っていきました。
夜であるため国の中はとても静かですが、家であろう建物は多く、仕事着らしい服装ですれ違っていく人々は王子や神官様に明るく声を掛けていきます。思っていた以上に豊かな国であることがわかったと同時に、海底の人々に陸の人々とは違った温かさを感じました。
「こんな風に街の中を歩くのは初めてだわ」
昼には賑やかさを見せるであろう、たくさんの店が並ぶ通りを見回しながら姫が呟くと、前を歩いていた王子は笑顔で振り返ります。
「昼の方が賑やかなのですが、この国ではあまり明るさは変わらないのですよ。潮の関係で僕は夜の陸に上がりましたが、きっと昼には眩しくて海底から出られないでしょう」
「それではまるで…」
「ええ、貴女と同じです」
王子は姫へ体を向け、後ろ向きに歩きながら腕を広げました。
「この国の中であれば、貴女は呪われていないも同然。むしろ陸の人々であれば、明かりの無い海底では暮らしていけないでしょう」
目を丸くして王子を見つめていた姫は、次第に顔を綻ばせ、何度も何度も頷きました。
「ええ、ええそうだわ。ここなら呪いなんて気にならない。呪いのお陰で来られたのですもの」
姫の後ろを歩いていた神官様も、嬉しそうに王子の横へ並び、後ろ向きに歩きながら腕を広げます。
「呪いに導かれたこの国は、貴女のお気に召すでしょうか。我らは貴女様を、心から歓迎致しますよ」
「歓迎して頂けるのは初めてだわ。今夜は本当に初めてのことが多過ぎて、まるで夢のようで…少し信じられないけれど、私はこの国がとても好きですわ!」
「それを聞いたら父も喜びます。さあ姫、ここが我が海底王国城ですよ」
王子と神官様は広げた腕を目の前の建物に向けました。先ほど塔の下で見た場所です。城というより、神殿と呼ぶ方がふさわしいと姫は思いました。磨き上げられた広い石段の両端には数段ごとに槍を持った兵士が立っています。慣れた様子で進んで行く二人の後を追って、姫は緊張しながら登りはじめました。
海底の城に扉は無く、石段の先には大きな広間がありました。玉座まで長い青色の絨毯が続いていて、玉座の後ろに嵌め込まれた青や緑や紫色のステンドグラスから入った光が辺りを幻想的な色に照らしています。
玉座にゆったりと腰を掛けて古い本に視線を落としていた人物が、三人に気付いて立ち上がりました。
「やあ、随分と早かったね。陸は気に入らなかったのかい?私は夜明け近くまで粘ったものだったが」
「いえ父上、海の上もとても素敵な所でした」
優しく笑みを浮かべる海底の王様に明るく答えた王子は、そっと姫の手を取り玉座へ進みます。王子が誰かを連れて戻るとは思ってもいなかった王様は、驚いて姫をまじまじと見つめました。
「砂浜で出会った、陸の王国の姫君です」
姫がドレスの裾を摘まんでお辞儀をすると、王様は表情を輝かせて二人に歩み寄りました。
「貴女が、あの」
「月も星もない夜に生まれた、海の呪いの闇夜姫、と呼ばれておりますわ」
自己紹介をしながら、明るい夜に生まれたという王子とは正反対なのだと気付き、なんだか可笑しくなりました。王子を見れば、同じことを思っていたようで肩をすくめて笑っていました。
「こんなに大きく、美しく育っているとは。私は貴女が産まれた時に、陸の城に居たのだよ」
王様の言葉に姫は目を見開きました。確かに姫の産まれた日は月も星もない闇夜で、この日と同じです。しかし、まさか海底の王様が自分の誕生に居合わせていたとは思いもよりませんでした。
姫の驚く顔を見て、王様は更に不敵に笑います。
「驚いているね?けれど私はね、十年ほど前にも陸へ上がり、貴女と話しをしたことがあるんだ」
硬いもので頭を殴られたような衝撃が姫を襲います。
幼い頃、一度だけ外の世界のことをたくさん知っている男性が話し相手になってくれたことがありました。優しく話し上手で、何度も会いたいと他の者に頼んでみたのですが、どれだけ探してもその人物は城内に見当たらず、姫の中で不思議な体験として記憶に残っていました。
「けれど私は、この国のことは教わりませんでしたわ!あんなに外の世界のことを教えて下さったのに!」
どれだけ記憶を辿ってみても、やはり海底王国について聞いてはいないはずです。王様は目を丸くしたかと思うと、明るく笑い出しました。
「すまない、私の癖だよ。陸へ上がるとね、つい陸の人間になりきってしまうんだ」
「ならば父上、僕にその話をして下さらなかったのはなぜですか?神官様は姫のことをご存知でしたが、僕は聞いたことがありません」
王子の質問に姫も頷きました。神官様は海神様や王様から姫の話を聞いています。王子は陸の世界のことをたくさん学んでいましたが、それでも姫について聞かされていないのには深い理由があるのかと王様の答えを待ちました。
「いや、いつか会わせたいと思っていたんだ。会う前から色々と聞かせ過ぎても楽しみが減ってしまうだろうし、私は話し始めたら止まらない性分でね。更には、姫が我が王子の后になってくれたらと思っていたから、口を滑らせないように気を付けていたのだよ」
王子と姫は同時に飛び上がりました。まさかそんなことを王様が考えているとは思っていなかったのです。二人は目を合わせ、気恥ずかしくなってすぐに反らしました。
「どうだね、闇夜の姫。この国で暮らしてみる気はないか?」
「わっ、私は…」
真っ赤になった姫が言葉を紡ごうとした時、広間に兵士が駆け込んで来ました。
「王様!敵襲です!」
突然の出来事に皆息を飲みました。犯罪も争いも無いこの国では兵士も少ない上に戦争の経験も無く、戦いの心得など持ち合わせていません。海の生物が迷い込むほどのことしか起こらないのです。
初めての「敵」という言葉に、大きな緊張と恐怖を感じていました。
「どこの者だ」
「それがっ」
兵士が答えようとしたところへ、別の軍隊が大勢突入してきました。海底の兵士達とは明らかに気迫が違っています。
「失礼する」
軍隊が広間に雪崩れ込むと、その後ろから低い声が響き渡りました。威嚇するように囲んでいる軍隊を王様が睨み付けます。
「一体何だと言うんだね。侵略か?」
王国を照らす鉱石などは、陸へ持ち込めば大変な金額になることを王様は知っていました。陸の人間に海底王国の存在を知らせていないのは、侵略を防ぐためであったのです。
しかし軍隊の指揮官の狙いは鉱石などでは無いらしく、鼻で笑うと右手を挙げて合図を送りました。軍隊が一斉に剣の柄に手を掛けます。
「侵略?人聞きの悪い。先に誘拐を働いたのは貴国の方であるはずだが」
低い声で唸るように威圧の言葉を並べる人物が広間に入って来たのを見て、姫はみるみる青褪めていきました。
「兄様…!」
双子の兄の王子が、戦姿とはいかないまでも肩甲や籠手、足甲などを身に付け、弓を背負っていました。その後ろには、鎧は身に付けていないものの、長身の剣を腰に差した弟王子と陸の王様が続いています。
「姫、無事だったかい?拐われたと聞いて心臓が止まるかと思った」
兄王子の隣に並んだ父様が心配そうに言いました。姫が無理矢理に拐われたのだと信じているようです。
「私は平気ですわ。拐われていないのですもの!この国の方々は悪いことなど何一つしておりません!」
軍隊の前に進み出て姫は訴えます。剣の柄に手を掛けた軍人達も父様も困惑した表情を浮かべました。
兄様は表情を変えることなく肩から弓を降ろし、矢を構えます。隣にいた弟王子が歩み出て剣を抜き、兄王子を守るように構えました。
「安心してさがれ妹。脅されているのだろうが、もうそんな虚言は言わずとも良い」
兄様は弓を構えたまま、鋭い目で冷たく言い放ちました。
「そんな、虚言では…っ」
姫は海底王国の人々を守るように腕を広げます。兄様との睨み合いが続きました。
「もう良い、弓を降ろして話を…ッ」
姫の言葉が嘘ではないと感じた父様は、弓を構える兄様の肩を掴みます。その衝撃で、兄様の手から矢が離れてしまいました。
「しまった!」
兄様が叫びますが、矢は誰にも止められず一直線に飛んで行きます。本当は射つつもりなどなく、元々すぐに降ろすつもりでいたのでした。
「えっ」
何が起こっているのか理解が追い付かずにいた姫は、自分の腹部を見て納得しました。誰もが言葉を失い、姫を見て固まります。
姫の腹部には、矢が深々と突き刺さっています。じわりじわりと矢の周りが赤く染まっていくのを見た姫は、兄様に悲しい笑みを向けると、その場に崩れ落ちました。
海底の者、陸の王族が一斉に駆け寄ります。
「姫…っ、姫!」
星影王子が姫を抱き起こしました。苦しそうに呼吸を荒げながらも、姫は笑顔を返します。
「私の他に…怪我をした人は、居ませんか?」
こんな時でさえ周りを気遣う姫に、星影王子は首を横に振りながら涙が溢れました。
呆然と姫を見下ろす兄様達を見ると、姫は歪む顔を精一杯笑顔に保ちました。
「兄様達は、私の幸せを…全部、奪うのね」
兄様達は唇を噛み締めて姫から目を反らしました。
姫が自分達のせいで闇に閉じ込められていることは幼い頃から理解していて、いつか謝らなければいけないと思っていました。 しかし姫に会う度に軽口ばかりが口を出て、本当に言いたいことはどうしても言い出せないのでした。どんなに揶揄っても優しく笑ってくれる姫に甘えていたのです。挙げ句、喜ばせようと誘った舞踏会で泣かせ、自分達より優先された見知らぬ青年に嫉妬し、連れ戻しに向かった先で矢を射ってしまうとは、もうどれほど反省して謝ろうとも取り返しがつくはずもないのだと気付きました。
「それでも、私は…兄様達が、好きですわ」
途切れながら言った姫は苦しそうに咳き込み、口を押さえた手に赤い色が広がりました。それでもずっと愛し続けてきた家族を嫌うことなど出来ません。
「済まない…本当に、何もかも」
双子の兄王子は涙が溢れるのを堪えながら絞り出すように言いました。姫は赤い雫の流れる口元を優しく緩めます。
"私は海の呪い姫 ずっと私はお陽様や 皆を愛しておりますわ──"
小さくも美しい歌声が途切れるのと同時に、姫の体から力が抜けていきました。星影王子が何度も揺らします。
「姫…?姫、目を開けて下さい…姫…」
誰もが俯き、涙を零しました。
「何やら素敵な歌声が聴こえると思ったら、今夜は大勢いるようだね」
広間の入口から、低く優しい声が響きます。全ての視線がそちらへ集まり、声の主を見て星影王子が涙を拭いました。
「海神様…」
明るい青色の外套を纏った老人、人の姿の海神様は、足音を響かせながら玉座の前、姫を抱く星影王子の許へ進みます。姫の顔を覗き込むと、ふむ、と声をあげました。
「歌っていたのはこの子だね。この子は知っているよ、我が愛すべき呪いの子だ。それと」
海神様はくるりと振り返り、兄様達へ視線を移しました。兄様達はクジラの姿の海神様しか見たことはなく、人の姿で会うのは初めてのことでした。
「久しいね、陸の双子の王子達よ。てっきり君達は心を入れ替えているものと思っていたんだが、どうやら私は呪いを掛ける先を間違ってしまったようだ」
海神様が言い終わらない内に、兄様達は武器を捨て、床に膝と手を付き、額すら床に擦り付ける勢いで頭を下げました。
「自覚するのが遅すぎました…海神様、俺が、俺達が悪かったのです。全て」
「お願いです。俺達の罪を全て背負った妹を、何一つ罪の無い妹を助けて頂けませんか」
双子の王子に視線を落とし、海神様は、ふむ、と呟きます。
「都合が良い、とは思わないか。好き勝手して、妹が身代わりになり、その妹を大事にせずに失い掛けて改心?君達はこの子の苦しみを知っているのか。助けたとして、大事にしてやることが出来るのか」
「出来ます…大事に、して見せます」
「妹を守る為なら、どんな事でも」
双子の王子達は額を強く床に押し付けて言いました。海神様は二人を厳しい表情で見つめたまま黙っています。
「…海神様」
背後から、星影王子が呼び掛けました。姫を抱いて俯いており、その胸に王子の涙が滴り落ちていきます。
「僕からも、お願いします。もう二度と海の上を見ることが出来なくなっても構いません。姫を…助けて下さい」
星影王子は海神様を強く見上げました。充血した目からぼろぼろと涙が零れ、その度に瞳の色が変わります。その瞳の中に、強い意志が燃えているのがわかりました。
「幼い頃からあれほど憧れていたのに…良いのかい?」
幼い頃の星影王子を、海神様はよく知っています。会う度に、海の上へはいつ行くことが出来るのか、海の上とはどんな所なのかと尋ねてくる子供でした。
その憧れは変わっておらず、やっと海の上へ行くことが出来るこの日を、とても楽しみにしていたのでした。
「この女性には、変えられません」
王子の答えを聞いた海神様は深く頷き、姫の前で膝を付くと矢の刺さった腹部に手をかざしました。矢尻から光の粒に変わって空中へと消えていきます。皆が息を飲んで見守る中、矢を消し去った海神様は姫の頬に優しく手を添えました。
「これで大丈夫」
不安そうに見上げる星影王子に安心するよう頷いて見せると、恐る恐る呼び掛けました。少しの間を置いて、姫はゆっくりと目を開きます。
「姫、大丈夫ですか?痛いところは?」
何度か瞬きをして、姫はぼんやりと腹部を押さえ、首を傾げました。
「どこも痛くありませんわ。私のお腹に矢が刺さっていたのは、夢だったのかしら」
姫の声を聞くと、放心していた陸の王様、姫の父様がゆっくりと歩み寄りました。
「私がわかるかい?」
「もちろんですわ父様」
父様は涙を流しながら姫にすがり付きました。星影王子がその背中を擦ります。
姫は父様の後ろに、見たことのない老人が立っているのに気付きました。
「はじめまして、だね。我が愛しい呪いの子」
「貴方様が…」
目の前に居るのが海神様だとわかり、姫は星影王子の手を借りて立ち上がりました。一歩進み出るとドレスの裾を持ち、深くお辞儀をします。
「海神様が、私を助けて下さったのですね。ありがとうございます」
「呪いのことは、何も言わないのかい?」
突然の問いに、姫は首を傾げます。思考を巡らせて視線を宙にさ迷わせると、思い出したようにハッとしました。
「呪われている身分の私を追い出さずに置いて下さり、ありがとうございます」
呪いを受けた身で神前に現れるとは、などと怒られることを想像して不安に思っていたことを思い出したのでした。呪いを掛けた海神様を責める気持ちは全くありません。
責めるどころか更に深くお辞儀をする姫に、海神様は堪えきれず笑い出しました。なぜ笑われるのかわからず星影王子を見ますが、王子も海底の王様も神官様も笑っているので姫は首を傾げるばかりです。
「いや、済まない。君は本当に良い子に育ったのだと思ってね」
肩を震わせながら海神様が言った言葉が、姫の胸に刺さりました。先ほど、もう駄目だと思った時に兄様達に酷い言葉をぶつけてしまったのです。そんな自分が良い子であるはずがないと言い掛けましたが、海神様の人差し指が姫の唇を塞ぎました。
「良い子じゃない、などと言わせはしないよ。君には少し背負わせ過ぎてしまった。少しくらい…いや、少しと言わずわがままも言うべきだ」
そう言って優しく笑うと、海神様は姫の唇から指を離しました。目を丸くした姫は二、三度瞬きをすると、言葉の意味を理解したようで驚いたように海神様を見つめます。
「つまり…」
「ああ、君の呪いを解こう」
聞いた言葉が信じられず、姫は両手で頬を引っ張ってみました。痛みが広がり、夢でないことがわかります。一瞬喜びが溢れそうになりましたが、星影王子の優しい笑顔を見て冷静さを取り戻しました。
「昼の世界は是非とも見てみたいのですが…呪いを解けば、この国では暮らし難くなるのかしら」
姫の言葉を聞き、父様がランプを振り回して慌てます。
「この国に留まるのはやめた方が良いよ。今はどのように見えているかわからないけれど、私にはとても暗くて不安だよ。暮らすなんてとても出来ない」
父様の言葉を聞き、姫は寂しそうに広間を見渡すと、海底の王様、そして星影王子を見つめました。
「ここで暮らすことが出来ないのなら、会うには次の闇夜まで待たなくてはいけませんわね」
「いいえ、姫。僕はもう陸へは上がれません」
王子が明るい笑顔でいられることが、姫には信じられませんでした。助けを求める思いで海神様を見ますが、弁明は何も無く、笑えない冗談でもないようでした。
「…私の、せいですか…?」
泣き出しそうな姫の表情を見て、星影王子は狼狽えます。悲しい気持ちを見せぬよう、姫が気に病まぬように努めるつもりでしたが、王子が構えるより姫の気遣いの方が上手でした。
「姫の、姫のせいなどではありません!」
王子は冷静を保っているつもりでしたが、声は震え、顔は今にも泣き出しそうで、思っている以上の力で姫の手を握っていました。
「僕が貴女を助けたいと思っただけのことで…貴女の居ない陸の国など、僕が辛くて行けないだけで…貴女のせいでは」
星影王子は、海神様に陸へ行く権利を渡したことを後悔していませんでした。神々の間にも、世界を守るため、均衡を保つための様々な決まりがあり、自由に力を使えないのだということは知っていました。願いを叶えてもらうには、それだけのものを差し出さねばならないというわけです。双子の王子達の罪を背負った願いには、大切な姫の命には、足りただけで奇跡と思えるくらいでした。
「ですから、姫」
潤む視界で姫を捉えると、それは暖かい陽だまりのような笑顔でした。力強く握る王子の手を、優しく包み込みます。
「海神様」
姫は星影王子に寄り添いながら、海神様に向き直りました。別れの準備が出来たと見えて、海神様も切ない気持ちで外套を翻します。
「それでは、呪いを解こう」
「いいえ」
思わぬ返事に海神様はそのままの姿勢で固まり、ぽかんと姫を見つめます。はにかむ姫は、遠慮ぎみに王子の腕を取りました。
「私はこの国に残ります。なので、呪いはこのままでいさせて下さいますでしょうか」
星影王子は驚いて固まり、海底王は喜んで手を打ちましたが、陸の王族達は慌てて姫に詰め寄りました。
「この国に残るってお前…」
「呪いを解かないだなんて本気か?」
「姫を海底に残しただなんて…どう説明を」
三人共、姫を大切に思ってくれていること、父様が母様の心配をしていることは姫には良くわかりました。こうして家族で話すことが出来るだけで、姫はとても幸せです。
「呪いはそのままでも、闇夜になれば陸へ行くことが出来ますわ。彼を残して昼の世界を選ぶことなんて、私には無理です」
それと、と呟いて、姫は海神様を伺いました。海神様は髭を撫でながら姫の言葉を待ちます。
「呪いを解かない代わりにわがままを許されるなら、母様の体を治して頂きたいのです。これからもずっと、お手紙を渡せるように」
何度か頷いた海神様は、優しい老人の笑みを浮かべました。温かくも神々しい、明るい青色を纏った老人は、姫の頭を孫を可愛がるように愛しさを込めて撫でました。
「治してやろう。彼女にも、私は悪いことをした。優しい君の祈り、確かに聞き入れたよ」
姫から離れた海神様は、足音を響かせて広間の出口へと歩き出します。見守る人々を振り返り、呆れたように肩をすくめました。
「陸の者達も帰る時間だ。潮が満ちて出られなくなってしまうよ。皆ここで暮らすと言うなら別だがね」
陸の人々は、急いで海神様を追って出口へ向かいます。姫、星影王子、海底王も、見送りのために後から出口へ向かいました。
城の外は、来た時よりも澄んでいるように見えました。見上げてみると、海面の方から漂ってくる光が強くなっているようでした。朝が近いのです。
出口で待っていた双子の王子達が、それぞれ姫を抱き締めました。
「俺達は本当に、お前から色々なものを奪ってしまった」
「許されることはないかも知れないが、これからは全力でお前を、この海を守るよ」
姫が心からの愛を込めて兄様達を抱き締め笑顔を返すと、二人はいつものいたずらな笑みではない、頼もしい兄の笑顔で姫の髪を撫でて陸へ続く塔へと向かって行きました。その背中も頼もしく、海底へ来る前よりずっと大人びて見えました。
兄様達を見送る姫の許へ、父様が歩み寄ります。
「こんな風に別れる時が来るなんて思ってもいなかったよ…元気で」
今にも泣き出しそうな笑顔で、父様は姫を抱き締めました。力一杯抱き締め返した姫ですが、悲しい気持ちは全くありません。
「絶対、絶対会いに行きますわ!母様にもよろしくお伝え下さいね」
頷きながらもう一度強く姫を抱き締め、父様は塔へと歩き出しました。
広場で見守っていた海神様が、父様の背中を見て満足そうに腕を組みました。
「さて、皆陸へ向かったようだ。わしは一足先に行っているとしよう」
呟いた海神様は頭上を見上げ、軽く地面を蹴りました。途端に体がふわりと浮き上がります。泳ぐように宙を掻けば、どんどん昇っていきました。空気の天井に辿り着くと、構わず外へ泳ぎ出して行きました。次の瞬間、老人であったはずの姿は大きなクジラに変わり、ゆったりと進みだしたのでした。
皆の姿が見えなくなるまで見送っていた姫と王子は、静かになった広場の空気を肺一杯に吸い込みました。
「こんなに賑やかな夜は初めてでしたわ」
「…良かったのですか、僕と共に残って」
塔を見つめる姫の横顔に、王子は尋ねます。姫は王子へ視線を向け、とても幸せな笑顔を浮かべました。
「もちろん!私はこの国が、貴方のことが大好きですもの!」
海底に降り注ぐ朝の光が、二人を優しく照らしました。
五日後、海神様はクジラの姿で大きな箱と共に海底王国に戻りました。
箱の中身は姫の母様である王妃様で、再会出来た嬉しさで姫と抱き合って涙を流し、何年分もの話をしました。その話の中で、海底から戻った双子の兄様達はそれぞれ国を出たことを知りました。
双子の兄は、遠い親類が治める東の国へ政治を学びに向かい、弟は様々な文明、世界の広さを学ぶために西の方角へ旅に出たそうです。二人揃うと働いてしまう悪知恵や抑えられない好奇心を克服するため、立派な王となるためにということでした。
きっと立派な王として帰ってくるのだろうと姫は思いました。
素敵な未來が来ると信じて微笑む姫の視線の先では、この日も海底王国が穏やかな朝を迎えようとしています。澄んだ空気を吸い込んで、青い世界へ向けて旋律を紡ぎ出しました。
"私は海の呪い姫 今日も愛しいこの国に 平和の祈りを捧げます 青い世界に幸せな 笑顔を願って過ごします"
姫の歌声と共に、海底に澄んだ光が降り注ぎました。
(終)