百華国の花嫁番外編 幻の龍榜眼様
一度も参朝せず三跪九叩頭したことも無い「幻の榜眼様」に、史明がなるお話です。
百華国の科挙試会場である王華府貢院には、あの世への入り口がある。
そんな噂の絶えない殺風景な貢院は今日、この世の栄華を求めて集まった三万もの挙人達で埋め尽くされていた。
明朝から不定期の科挙試・恩科が始まる為だ。
挙人達は夜明け前に登場し、入念な所持品検査を済ませると、夜までに己の個房へと辿り着く。
個房は狭くて殺風景で、板三枚以外は寝床どころか扉すら無い。ここに食料や布団等、必要最低限の宿泊用具を運び込み、入り口に目隠しの布を垂らすと、漸く夕餉をとって一休み出来る。
そしてその後彼等は、己と一族の命運を賭けたこの恩科を前に今、期待と不安に苛まれた眠れぬ夜を、隙間風に底冷えする土間で過ごしている・・・筈なのだが・・・。
彼等の中にただ一人だけ、不安も寒さも無縁のまま、極上の寝具に体を埋めて熟睡している傾国の「美女」の姿があった。
やる気ゼロの状元候補様・龍史明である。
皇太子・鳳翔に脅されて、無理矢理恩科を受けさせられる破目に陥った彼だが、官吏になって鳳翔の下でこき使われる気など、はなからこれっぽっちも無い。
全身に宝飾を散りばめた派手な装いで貢院に登場し、持ち込めぬと言われた酒は袖の下で押し通し、重い荷物は全て他の挙人達に運び込ませ、賄賂が通じない役人には、事前に握っておいた弱みを囁き脅すやりたい放題の彼に、逆らえる者はない。
明け方、まるで後宮の一室のような彼の個房に四書題と詩題を配布しに来た試験官も、何も見なかった振りをして急いで去って行った。
会試の期間は九日間。第一場は、二晩三日の日程だ。一日目の昼間は何をする訳でも無くずっとゴロゴロ眠っていた史明だったが、夜になるとさすがに空腹が怠惰に勝って来る。
ようやく起き上がって、龍家から持参していた豪華な食事を堪能していると、ふいに入り口の帳から覗き込んでいる、弁髪の若い宦官とばっちり目が合った。
慌てて目を逸らし、立ち去ろうとする彼に、史明が手招きをする。
「そこの者、遠慮せずに中へ入るが良い」
声を掛けられた宦官が、何故か「ひっ」と飛び上がって驚くと、音も無く宙を滑って近付き叩頭し始めた。
「も、申し訳ございません!先程奴才(わたくしめ)は貴方様の御姿を、奴才の生前の主人でありました西々(せいせい)太后様と見間違えてしまい、つい目が離せなくなってしまったのです。何卒ご容赦下さいませ!」
史明はその全身を覆う宝飾の眩さから、ときおり故西々太后と見間違われる。貢院にあるまじき贅を尽くしたこの個房に悠然と佇んでいたのだから、尚更凝視してしまったに違いない。
「また西々太后であるか・・・」
ボソリとそう呟いた後、史明が言った。
「・・・少なくとも我は、彼女のように宦官を折檻させる趣味は無い故、そう怯えなくとも良い。それよりそなた、幽霊であったか。何故このようなところに留まっておる」
宦官はそうっと顔を上げると、途惑いがちに口をつぐむ。
幽霊の彼は童顔な上、高い声のせいで一見少年のようにすら思えるが、それなりの年齢には達しているのかも知れない。よく見れば思慮深げで端麗な面に、みるみる赤みが差した。
「恥ずかしながら生前の奴才は、一度で良いから、科挙試の本番とも言える会試を受けてみたいと常々思っておりました。ですが最期まで西々太后様の御許しを頂けないまま、死を迎えてしまったのです。以来、未練のあまりにこの貢院から離れることも出来ずに、会試の度にこうして挙人達の間を彷徨っておる次第でございます」
「なるほどのう。ではそなたは、もしも会試さえ受けられるならば、成仏出来るのではないか」
「少なくとも、この世に未練はなくなると思います」
「ふむ・・・」
史明は試験官が机上に残して行った詩題と四書題を、チラリと見ると考えた。
(我がこのまま白紙で答案を提出すれば、鳳翔と春蘭が黙ってはおるまい。だが、もしも答案を埋めた上で会試に落ちるのならば、二人とも文句は言えぬ筈)
机に放置された問題を、宦官の彼が興味深げにみつめている。
史明が訊ねた。
「そなた、此度の会試を受けたいか」
「勿論でございます。ですが奴才には、この筆を手に取ることすら出来ません」
筆を透過してしまう己の手を、彼が悲しそうに眺める。
「ならば会試が終わるまで、我の体を使って試験を受けるが良い」
宦官が、驚きも露わに史明を見上げた。
「・・・本当でございますか?!」
「無論だ。だがくれぐれも、我の体を会試以外のことに悪用するではないぞ」
「あ、有難うございます!奴才、貴方様に代わり会試に登第するべく、力の及ぶ限りの努力をお約束いたします!」
「いや、努力は全力の半分以下で構わぬ」
感極まって拱手しようとする彼の手が、ピタリと静止した。史明が彼の反応に構わずに続ける。
「我は科挙になど登第したくないのだが、天賦の才ゆえに、自ら試験を受ければ必ずや状元になってしまうであろう。さりとて白紙で提出し、春蘭達に龍家の不名誉云々(うんぬん)と謗られるのも面倒でのう。そなたも、万が一にも我が及第などせぬように、くれぐれも凡庸さを心掛けて解答するのだぞ」
「は・・・?」
宦官の彼が、両手を宙で握りしめたまま、頬を引き攣らせて史明を凝視する。
「さて、我はこれから眠りに戻る故、会試が終わったら起こすように」
「・・・・・・・・・」
こうして九日間にも渡る恩科の最大の山場・会試を、史明は一行たりとも自ら問題を読まぬまま、無事(?)乗り切ったのだった。
最終日の日没前。
役人達の「快交巻!」という答案提出の掛け声で史明が目を覚ました時、机の上には綺麗に清書した墨巻が残されていた。
あの大人しそうな若い宦官の姿は、もうこの個房にはない。
(既に成仏したか)
墨巻の横には何故か、礼部の押印入りの書簡が置かれていた。史明はそれを一瞥するや否や、「小姑・・・」と呟き、丸めて床に捨てた。
書簡には紙幅一杯に、「起きろ!そして真面目にやれ!」と、鳳翔殿下の筆跡で書かれていた。
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それから約一月の後。
最終試験・殿試の会場である保和殿の内陣で、黄金の玉座に腰を据えた鳳翔は、華麗な奏楽を合図に三跪九叩頭する貢士(注・会試及第者)達の姿を睥睨すると、心の奥で舌打ちをした。
皇帝陛下の代理である皇太子の彼に三度ひれ伏し、九回頭を地にこすりつける彼等の中に、史明の姿が見つからないのだ。
(逃げたな、龍史明!)
鳳翔を始め、大官や貢士達までもが、あの(・・)史明が三跪九叩頭する姿を一目見てみたいと、この日を密かに楽しみにして来た。しかし当の史明は、体調不良を理由に殿試を辞退したのだという。
殿試は合否を決める試験ではなく、あくまでも登第者の序列を決めるものだ。つまり、史明はあとこの殿試さえ受ければ、自動的に進士(注・科挙合格者)の称号を賜ることになっていたのである。
皇太子にしてみれば、首に縄を付けてでも殿試に引きずり出してやりたいところだが、あれでも一応十華の名門・龍家の長男だ。麗宝の失態を盾に脅迫するのにすら、限界がある。
(くそっ、あいつが登場して来たら、問い詰めたいことは山程あったのに)
史明の答案は完璧だった。
語調は端正にして優美、内容も深い教養と洞察に溢れた堂々たる八股文であり、詩腑に至っては、黒耀帝の御世を褒め称えた風雅な傑作である。成程、龍家の天才の名に相応しい出来栄えだ。
だが、「硃巻」と呼ばれる無記名の写本答案の採点に携わった考官達は皆、それが史明の答案と知るや否や、心の中で真っ先に同じ事を叫んだ
(これ、どう見ても換巻だろ!)
換巻とは答案交換の不正のことである。
自ら挙人達の採点に携わっていた鳳翔も、
史明の答案を見るなり絶句した。
(宦官でもあるまいし、あの、皇帝陛下よりも偉そうにふんぞり返った龍史明が、奴才などという遜った一人称など死んでも使うものか!黒耀帝の御世への、これでもかと謙尊した賛辞も、絶対に有り得ん!第一あいつの筆跡は、麗宝以外には読めない筈だろうが!)
だが今回、会試を受けた者の中に宦官は一人もいない。答案と受験者の数も合致している。
結果、誰もが狐につままれた顔をしながら。
この答案には最上級の評価が下され、それがそのまま史明の評価となったのだった。
(換巻の疑いを理由に史明を不合格にするのは可能だろう。だが、それではあいつの思う壺だ)
それに、史明が超天才の状元候補様だということは、世間の誰もが知っている。換巻で合格しようとしたなどという罪状に、説得力などある筈も無い。
緊張に顔を強張らせた居並ぶ貢士達を見回しながら、殿試の為に用意した鳳翔は歯噛みをした。
(このままでは、龍史明の目論見通りになってしまう。何とかしてあいつをこの場に引き摺り出す方法はないものか・・・)
ふと、鳳翔の視線が、どこか緊張感の薄い小柄な貢士に止まった。
あくびを噛み殺そうとしているのか。頬と鼻が僅かに膨らんだかと思うと、今度は目に涙が浮かんでいる。
(・・・龍麗宝、お前もか!)
どこまでもやる気の無い龍家の姉弟に心底腹を立て、嫌がらせにこの後、お忍びで龍家に押し掛けてやろうかとすら考えた鳳翔だったが・・・。
(待てよ。そういえば、龍麗宝は以前、殿試の簡略化を説いていたな・・・そうか、その手があった!)
麗宝を見ながら、ふいに不敵な笑いを浮かべると、皇太子は控えていた礼部の大官を招き、何やら囁いた。
***************
保和殿の殿試が終わった後。龍家に数人の客人が、人目を避けて史明の見舞いに訪れた。
先日晴れて百華国の皇太子となった鳳翔と、礼部の官吏達である。
「史明様は病で床に伏せっておられますから、何卒謁見はご容赦下さいませ」と懇願する家人達を強引に説き伏せて、無理矢理寝室へと案内させた鳳翔達であったが・・・。
一歩部屋へ入るなり、眼前のあまりの光景に、全員が絶句して足を止めた。
これ程までに贅の限りを尽くした部屋は、古今東西見たことがない。恐らくこの一室の装飾に使われている金銀や貴石だけで、宮殿一つ位は買えるだろう。
無礼に押し掛けて来た彼等が、ごくりと唾を飲んだ。
(龍家の財力とは、これ程の物なのか)
金糸の刺繍や貴石をふんだんに散りばめた豪奢な寝台の、幾重にも垂らされた薄絹の向こうに、まるで天女の如き容姿の史明が、妖艶な微笑みを浮かべながら主人然として横たわっている。
質実剛健を旨とする・・・要するに、贅沢には慣れていない清貧皇太子・鳳翔は、あまりの煌びやかさに目眩を感じながらも、気丈に言った。
「龍史明。死にそうだというから見舞いに来てやったが、どうやらその必要も無かったようだな」
「我は病気だ。皇太子の顔を間近に見てしまい、今にも死にそう故、さっさと帰るがよい」
血管はブチ切れそうだが、拳は理性で押さえた鳳翔が訊ねる。
「貴様、貢院からの手紙の返事に『奴才』が『皇太子様の箴言を賜ること、驚懼の極み』とあるのは、やはり嘘だな?!会試の答案も宦官との換巻だろう!」
「何の話か分からぬ。全答案の巻数は合っていたのであろう?」
「そうだ。だから、残念ながら不正の証拠が無い為、今回は見逃してやる。それより今日は貴様に聞きたいことがあって来た」
「それでは我も一つ、そなたに頼みたい事があるのだが」
史明が皇太子に頼みごとをするなど、珍しい。
「何だ、話してみろ」
「西々太后に生前、小劉という宦官が仕えていた筈なのだが、彼の墓にこれを届けて貰えぬか。『合格だ』と必ず一言添えてな」
差し出された筒を、許可も無しに鳳翔が開けると、中には硃巻(注・科挙答案の採点用の写し)が入っていた。
例の、史明の答案だ。
『経義精緻』『論策博通』等と、いずれも最上級の評価を得ているそれを鳳翔が筒に戻すと、史明が迷惑そうに呟いた。
「そなた、我の号舍に余計な手紙を差し向けたであろう。そのせいで、こんな余計な評価を取るはめになってしまったのだ」
「俺のお蔭でこんな高評価を貰ったというのなら、少しは感謝しろ!」
「では書簡は頼んだぞ」
「待て、まだ寝るな!そして人の話も聞け!これは貴様の姉にも訊ねたことだが、弟の意見も聞こうと思ってな。現在俺は朋党を弱める為に、あちこちから知恵を借りて回っている。何かいい案があれば教えろ」
だが史明は既に、寝具にゆったりと体を横たえたまま目を瞑って寝息を立てている。
「おい、寝るな!この書簡が小劉の墓に届かなくてもいいんだな?!」
史明が煩そうに薄眼を開けながら言った。
「麗宝から、此度の殿試は皇太子による簡単な口頭試問だと聞いた」
鳳翔達の顔が、不自然に強張った。
「試問の内容は、朋党対策についてだという。ここでそなたが我に同じ質問をするとは、奇遇だのう」
「・・・・貴様にいい案はあるのか、無いのか」
史明がゆっくりと、鳳翔に向って傾国の微笑みを返す。
「教えてもよいが、病気の見舞いと称して礼部の試験官と伴に龍家に押し掛け、寝室で殿試の口頭試問をされてはかなわぬからのう」
(・・・・・バレているのか!)
内心歯ぎしりした鳳翔にしかし、史明が素知らぬ顔であっさり話し出す。
「朋党を思いのままにするなど簡単だ。朋党の親分達の弱みを握ればよい」
(しめた!これでこいつは略式の殿試の口頭試問に答えたことになる!試験官達が証人だ。後は何とでも言い訳して無理矢理にでも官位を与えてやるぞ!)
史明の殿試合格作戦が成功した、と内心ほくそ笑んでいる祥風をよそに、彼が続ける。
「・・・例えばかれこれ二十年ほども科挙の不正合格者を生み続けて来た礼部のとある大官は、さる朋党の親分であるが、実は彼は黄皇后の縁戚でのう。黄華族出身者を次々と不正に百華国朝廷の上級官吏として送り込んでいるそうだが・・・」
一瞬にして室内の空気が凍りついた。
「勿論、誰とは言わぬがのう」と言う史明の視線が何故か、鳳翔の左隣に控えている大官に物言いたげに注がれている。
見詰められている大官が、話を逸らすかのように質問を返す。
「コ・・・コホン。礼部には左様な朋党は誓ってございません。しかし、他の朋党の情報もご存知でしたら、ぜひお聞かせ願いたいですな」
その後は史明の独壇場だった。あられも無い裏話が湯水のように溢れ出て来る。その間も史明は常に淡々と話し、無表情のままだ。
(龍史明に殿試を受けさせに来ただけだったが、こいつは思わぬ収穫だ)
それにしても、一体どうやって彼はこれだけの情報を手に入れたのか。
(やはりこの男、何としてでも欲しい)
ここは一つ状元にでも取り立てて、龍家に恩を売っておくか、などと考えていると、史明が欠伸をしながら言った。
「さて、我は病気の身ゆえ、そろそろ眠りたいのだが、最期に朋党の大親分の秘密を教えよう」
「朋党の・・・大親分?」
「勿論、朋党の親分達の親分のことだ。つまり皇帝や皇太子を指す」
嫌な予感が鳳翔の喉元まで上がって来る。。
「先ずは皇太子であるが、五歳になっても夜尿症がひどく頻繁に寝所を濡らしていたそうだが、七歳のある日とうとう外出先で・・・」
鳳翔の全身の血の気が、一気に引いた。
「分かった!貴様は病気だ、さっさと寝ろ!出来れば永遠に起き上がらなくていい!」
「我はまだ、大親分の秘密の一パーセントも話してはおらぬのだが・・・」
無表情な史明だが、明らかに楽しんでいる様子だけは伝わってくる。
(たったの一パーセントだと?!じゃあ、残りの九十九パーセントは一体何なんだ?!)
自然と冷や汗が背筋を伝う。史明を陥れるつもりだったのに、いつの間にか立場が逆転しているではないか。
「それから、鳳翔殿下の初恋だが・・・」
「もう十分聞いた!今日のところは帰ってやるから、金輪際この話は口に出すな!」
「殿試を受けられず、かたじけないのう」
寝台に横たわりながら、しれっとそう言ってのける史明に、背を向けて歩き出した鳳翔が、心の中で歯ぎしりしながら大声で叫んだ。
(何がかたじけない、だ!こうなったら、何が何でも貴様を官吏にしてやるからな!)
****************
その翌日に、皇太子が史明をどうやって官途に就かせようかと思案している間。密かに彼の命を受けた礼部の役人が、小劉という宦官の記録を調査していた。
かつては後宮の宦官達を取り締まる太監達の一人であったという紅老人が、この探索を手助けしてくれたのだが、小劉について訊ねられた老人は、こう答えたという。
「小劉は元々、春華府の、郷試の経魁(注・郷試で上位五位までに与えられる称号)であったらしい。その後生家が没落し、やむなく宦官となったのじゃが、あれはある日、西々太后様の勘気をこうむってしまってのう。それでも廷杖の刑で息を引き取るまで、ずっと科挙登第を諦めきれないと呟いておったそうじゃ」
春華府はかつて白華帝の御世に栄えた学問の都で、古くから多くの大吏高官を輩出して来たことで知られている地だ。もしもその経魁であった彼が会試を受けていたならば、かなりの確率で進士に登第していたことであろう。
報告をした役人を退出させるなり、鳳翔は唸った。
(まさか、龍史明の答案を書いたのは、この小劉なのか・・・?!)
小劉であれば、あの言葉遣いも完璧な答案も納得がいく。
但し、彼が生きていればの話だが。
貢院には、あの世との繋がりがあるという。
そして会試の採点終了後、史明はどこからか彼の硃巻を入手し、それを小劉の墓前に届け、合格の報告までして欲しいと言っていた・・・。
(まさか、な・・・・)
あの表情筋すら殆ど無い守銭奴に、そんな人間らしい温情が宿っている筈がない。
彼の頭脳と得体の知れない行動だけでも、史明は十分に脅威なのだ。これに死者をこき使える能力まで加わっては堪らない。
(だが、意地でも貴様には、百華国の官吏として仕えて貰うからな!)
文官達の英知を集結した「○秘龍史明対策要綱」と書かれた文書と、科挙登第者に関する勅書を持った彼の手に、自ずと力が籠る。
「待っていろよ、龍史明!」
勅書の文面では、恩科という性質を鑑みて、史明の病状を考慮した略式の殿試を承認する旨が認められていた。
史明に弱みを握られており、彼の失脚に胸をなで下ろしていた官吏達が皆、パニックに陥って反対したのは想像に難くない。
百華国の高官達を恐怖のどん底に突き落とた、参朝しない幻の官吏・龍榜眼(科挙第二位の合格者)様は、こうして生み出されたのだった。
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その数日後。龍家の使いが史明に報告した。
「鳳翔皇太子の命を受けた官吏が、無事小劉の墓へと届け物を済ませたそうです」
「そうか。御苦労であった」
(これであの小劉も満足であろう)
華奢で可憐な容姿が、どこか麗宝を思い出させる宦官だった。
((あ、有難うございます!奴才、貴方様に代わり会試に登第するべく、力の及ぶ限りの努力をお約束いたします!))
あの時、歓喜に満ちた彼の表情が、何故か眩しくて仕方がなかった。
(人とは、不思議なものだのう)
この官吏とやらの身分をそれほどまでに欲しがる気持ちが、白龍である史明には理解出来ない。
(生きている内に良い暮らしがしたいのならば分かる。だが、ああして死後にまで科挙に合格したがるとは。その上・・・)
黒耀帝に仕えたい、というならばまだ理解可能だが、今回の恩科は皇太子直属の官吏を登用する為のものだ。
(さすがにあの陰険皇太子に仕えたがる気持ちは、我には到底理解できぬ)
それでも麗宝は、ただ恵秀の為に官吏の道を選び、怒鳴られながらも健気に鳳翔に仕えている。そして恵秀も麗宝の為に、また・・・。
(我にはやはり人が分からぬ・・・ただ、それでも時々、何故か羨ましくすら思える時があるがの)
史明は相変わらず朝廷への出仕を拒んでいる。仮病もここまで来ると天晴れだ、などと巷では喝采も上がり始め、鳳翔の血圧を上げているようだ。
この働かない榜眼様が、献上・下賜される金品を返還したことは、これまで一度も無いという噂があるが、真偽のほどは謎である。
そして百華国にはまだ、この榜眼様が三躓九叩頭する姿を拝めた者は、誰一人としていない。




