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「二年のときの夏休み、野球やってるときに、気になってたんだ。化学準備室のカーテンが、さ」
放課後のある一定の時間にだけ、化学準備室のカーテンが閉められる。真夏の暑い時期には窓が開き、揺れるカーテンが外までひらめいていた。誰が何のためにそうしているのか。何のためにそこに行き、わずか一時間ほどのあいだ、一体何をしているのか。どうして、カーテンを閉める必要があるのか。
野球の練習の合間に、そうしてぼんやりと化学準備室を眺めていた川崎くんは、夏休みが過ぎたある日に誰かが抱き合っている影を見つけてしまう。白い足が、誰かに跨っている姿を。それも一度だけじゃなく、二度。
そこまで話して、川崎くんは小さく息を吐いた。
「俺、バカだから、そいつらが誰なのか見てみたくなったんだ。で、カーテンが閉まった日に、仲間にはテキトーにごまかして練習抜けだして、行ったんだよ、化学準備室に。そこで、蛭田に会った」
「準備室に、入ったの?」
「まさか。けど、その……ドアに近づこうとしたときに、中から突然蛭田が出てきたんだよ。そうしたら、あいつ、俺が何か言うより先に、絶対誰にも言うなってさ。俺もバカだけど、蛭田もバカだよ。そんなこと言ったら、自分たちがしてること認めたようなもんじゃん。俺がもしこのことを誰かに話せば、彼女の人生がめちゃくちゃになるって、そうなったら彼女は自殺するかもしれないって脅してさ、まるで俺が悪いことしたみたいに言いやがって」
川崎くんは私の身体から手を離して、その手を強く握り締める。
「正直、そのときは蛭田とヤってる女もバカだと思った。俺にとってどうでもいいし、いっそバラしてやろうとも思った。けど、そんなことしても俺にはなんの得にもなんねぇからやめた。三年になって、その女が葛城かもしれないって気づいたころには……俺、もう葛城のこと、好きだったんだよ」
「じゃあ……幻滅、したでしょ」
バカな教師と化学準備室でセックスするバカな女。他人はそんなふうに思うのだ。私の大切な時間を、大切なひとを、必死で生きてきた日々を、そんな簡単な言葉で片付けられてしまう。自分でも、してはいけないことだとわかっていた。うしろ指を差される行為だと自覚していた。けれど、どうしてこんなに胸の奥が痛むのだろう。
川崎くんは、いや、と首を横に振った。
「葛城、教室でよく泣いてただろ」
そんなことも、川崎くんは知っていたのか。
「俺、泣いてる葛城見て、わけわかんなくなったんだ。好きなやつとそういうことするなら、フツーは嬉しいだろ。なのに、教室に戻ってきた葛城は、よく泣いてた。全然、しあわせそうじゃなかった。だから何か理由があったとしても、絶対蛭田から葛城を引き離したいって思ったんだ」
「そんな……そんなんじゃ、ないよ。泣いてたのは、そんなんじゃなくて。私は、川崎くんが言ったとおり、バカな女なんだよ。お母さんがいなくなって、生活できなくなって、それでお金が必要だから蛭田先生にセックスする代わりにお金を貰ってただけなんだよ。だから、川崎くんが考えてるような、そういうことじゃないの」
「金の話は、蛭田から聞いた。けど、そんな援交みたいな話じゃないだろ」
「援交、だよ。だって私、蛭田先生なんかもともと好きじゃなかったし、お金貰えたら、それで良かったんだよ。だから、川崎くんが引き離そうとか思わなくても、最初からそんな関係じゃなかったのに。だから、こんなふうに会いたくなんか」
「違うだろ。蛭田も、葛城も、お互い愛し合ってたんだろ」
「違わない! 愛し合ってるとか、なにそれ。笑わせないでよ。援交だよ、セックスの代わりにお金を貰うんだよ? そんなの、愛なんていわない。川崎くんのほうこそ、バカじゃないの」
「じゃあ、なんで蛭田がいなくなってからも、必死であいつのこと探してたんだよ。森山先生にまで殴りかかって、それくらい、蛭田のこと、好きだったんだろ!」
「好きじゃない! 大っ嫌いよ!」
「葛城」
「嫌い……きら、い。川崎くんの、ことも。嫌い」
嗚咽で言葉が途切れ途切れになる。
どうせバカな女だから、私は泣きながら川崎くんを睨んだ。
「そんなふうに言ったら、葛城が、かわいそうだ」
「なに言ってんの。意味わかんない」
すべてを否定しなければ、立っていられない気がした。認めてしまったら、許してしまったら。ここから消えることも、進むこともできずに身動きが取れなくなってしまう。
耳を塞いで逃げ去ってしまえばいいのに、私はそれもできずに震えている川崎くんの拳を見つめた。
「蛭田、教師辞める前に、俺に葛城と付き合ってるのか聞いてきたんだ。俺が何も答えなかったら、あいつ、どうして葛城と化学準備室で会ってるのか……そこでなにを、してたのか、金のことや葛城の母親のことも、全部俺に打ち明けてきた。全部話して、それでも俺に葛城と付き合っていけるのか、葛城のことを支えてやれるのかって聞くから、俺はもちろん頷いたよ。言われなくても、そのつもりだったし」
川崎くんはズボンのポケットを探り、折りたたまれた小さな紙切れを私に差し出す。
「そのとき、蛭田からもらった」
受け取れと言わんばかりに手を突き出すから、戸惑いながらその紙切れを取り、中を開く。そこには蛭田先生の字で、この町の名前から始まる住所が書かれていた。
「もし、葛城がどうしても蛭田のことを探してるようだったら、渡してくれって頼まれてた。ホントは俺、葛城に渡すつもりなんかなかったんだ。蛭田がいなくなって、早く葛城があいつのことなんか忘れたらいいって思ってた。けど、あいつがいなくなってからの葛城見てたら……やっぱり渡さなきゃだめだって、あの日化学準備室の前で待ってる葛城に、会いに行ったんだ」
けれど、私は川崎くんの制止を振り切って、職員室の森山先生に手を上げた。
あのときすでに川崎くんは何もかも知っていたのだ。だからあんな瞳で私を見つめていた。
「金の話なんて、嘘かと思ってた。でも、実物見て、やっぱちょっとショックだったよ。それに、葛城が森山先生にあんなことするのを見たら、葛城にとって蛭田がどれだけの存在だったのか、思い知らされた。そしたら、蛭田に会わせるのが怖くなったんだ。だからずっと、今日まで……ごめん」
「いいよ……もう、いい」
私は手のひらの住所が書かれた紙を握りつぶして、そのままゆっくりと手を開く。くしゃくしゃに丸まった紙切れは、静かにアスファルトの上に転がり、風に吹かれた。
「いいのかよ」
「蛭田先生、前の奥さんと再婚したんだって。その奥さん、年明けに死んじゃったみたいだけど。だから、優菜ちゃんは先生がみないといけなくて。他に誰も、優菜ちゃんをみてくれるひとがいないから、先生がそばにいてあげないといけなくて」
「うん」
「もしかして、それも、知ってたの」
川崎くんは、静かに頷いた。
「あ、そっか、そうなんだ。何にも知らなかったの、本当に私だけなんだね。なんで私知らなかったのかな、鈍感だから気づけなかったのかな。ホント、バカだよね」
嗚咽をどれだけ堪えても、零れる涙をおさえることはできない。
「川崎くんは、なんで、知ってて、私のそばにいてくれたの。私が、蛭田先生のこと好きだって、わかってたんでしょ。それなのに、どうして」
冷たくなった両手を握って、川崎くんはいっと白い歯をいっぱいに見せて笑った。
「俺も、バカだから。わかってても、どうしても葛城のこと諦められなかった。笑ってる葛城も、泣いてる葛城も、今でもすげー好きだし。これからも、ずっと好きだ」
私を抱きしめた川崎くんが、頭上で鼻をすすっているのが聞こえた。もしかしたら、川崎くんも泣いているのかもしれない。
自分の気持ちばかり押し付けているのは、森山先生でも川崎くんでもなく、私のほうだ。誰にもわかってもらえないと思って、ひとりでもがいて、差し伸べられる手を振り払らうくせに、自分を受け入れてほしいと、ひとりは淋しいと泣き喚いた。こんな私を傷つけないように誰かは嘘を吐き、誰かは秘密を作り、守ろうとしてくれたのに。私は牙をむき出しにして咬みついていた。
「川崎くん、帰ろう。お母さん、待ってるよね」
「あー……うん、そうだな」
繋いだ手を離さずに、私と川崎くんは電車に乗って住み慣れた町に帰った。行きの電車も時間を忘れるほどだったのに、帰りはもっと早かった気がする。何か話そうとして、どれも川崎くんに対する言い訳になっていまいそうで飲み込んだ。川崎くんも同じように黙ったまま、ふたりの会話は続かなかった。けれど、まるでずっとそうだったみたいに、私たちは自然に手を繋いだまま寄り添って、私は川崎くんの肩に頭を預けて目を瞑る。疲れていたのだと思う。卒業式を終えて、蛭田先生に会い、川崎くんとぶつかった。そうしてたくさん、泣いたから。
蛭田先生は、奥さんと境遇の似ている私を放っておけなかったのかもしれない。ひとりになって泣きすがった私に、あの写真の女性が重なったのかもしれない。そういえば、どんな感じの女性だっただろう。もっとよく写真を見ておけばよかった。私の好きだったひとが、愛した女性を。
蛭田先生が私にしてくれたことが、川崎くんの言う愛だったとしても、先生のことを思い出せば、どうしてもいやな感情が汚い言葉をぶつけようとする。わかっているけど、すぐに受け入れることなんかできない。子供の存在さえ憎いと思ってしまう私は、やっぱり二度と先生に会ってはいけない。
いつか、すべてを許せる日がくるのだろうか。
私は、濡れたまつ毛を眠い目をこするようにして拭いた。
電車が町に着いて駅を出たころには、すっかり日が暮れていた。川崎くんは家まで送ってくれると言ってくれたけれど、電車の中で何度も川崎くんのお母さんから電話があったから、ひとりで平気だと言って断った。駅から少し離れた、川崎くんとお母さんが宿泊しているホテルまで一緒に歩いて、私たちは向かい合う。
「本当に、大丈夫か」
「大丈夫、飛んでいったりしないから」
校門を出たあとの言葉を思い出してそう言うと、川崎くんはばつの悪そうな顔をして頬を赤くした。
飛んでいこうとした私を川崎くんが引き戻してくれた。だから、もう大丈夫。
「川崎くんに、お願いがあるんだ」
「なんだよ」
「いつか、まだ当分は無理だろうけど、私、お母さんのこと、探そうと思う。だからそのときは、川崎くんに手伝ってもらいたいんだけど」
電車に揺られ、川崎くんの肩にもたれながら考えていた。きっと、母がいなくなったことには理由がある。どうして私を捨てたのか、私に話すことができなかったわけが、必ずあるのだ。それがとても許せるものでなかったとしても、私を見捨てたことへの一縷の後悔もなかったとしても、私はそれを知るべきだと思った。知ってはじめて、私は期待することも感情を揺さぶられることもなく、母から離れ、きっと母を捨てられる。
ただ、そのとき私は、またひとりでは立っていられないと思う。だから、誰かにそばにいてほしい。そしてその誰かは、川崎くんでいてほしかった。
川崎くんは、驚いたように目を丸くして、何度も頷いた。
「もちろんだよ。俺ができることなら、なんでも言えよ。なんでも手伝うから!」
「うん、ありがとう。それから……」
もうひとつ、考えていたことを言おうかどうしようか、迷っていた。けれど、川崎くんの嬉しそうな笑顔を見ていたら、黙っているのが惜しい気がした。
「夏休み取れたら、必ず会いに行くから」
「マジ、で?」
「うん。だから、いっぱい魚捕ってきてね」
「わかった!」
どんな魚が捕れるとか、何が食べたいかとか、漁がどれだけ大変かとか、川崎くんは私の両手を握って饒舌になる。ひとしきり話して、川崎くんは何か思い出したように鞄の中を探る。
「葛城、一緒に写真撮ろう!」
「あっ……」
ケータイの操作をする川崎くんの右手を、私は両手でつかんだ。
「な、なに」
「写真、夏に撮ろうよ」
「どうして」
「私も、川崎くんと撮りたいって思ってたんだけど。変かもしれないけど、夏に川崎くんに会って写真を撮るって思ったら、私、それまで頑張れる気がするんだ」
「……そっか」
「ごめん、やっぱり、変かな」
「いや。それなら、俺も夏に葛城と写真撮るために、頑張るよ」
「ありがとう」
それから私たちは、別れを惜しみながらも握っていた手を離した。バス停に向かう交差点の角を曲がるまで、時々振り返っては大きく手を振る。ふたりとも、笑っていたと思う。たぶん、卒業式を終えたときの、解放感と別れの一抹の淋しさがないまぜになったような彼らと同じ表情で、私は川崎くんに背を向けた。