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蛭田先生は私と川崎くんを見つけても、特別驚いた様子もない。
「来たのか」
まるで、私たちがここに来ることを知っていたような口ぶりに、私は眉根を寄せて川崎くんを見た。けれど川崎くんは何も言わずに俯いたままだ。
「こんにちは!」
蛭田先生の足元から現れた幼い女の子が、私たちの不穏な空気を破る。彼女は天真爛漫な笑顔で、蛭田先生のジーンズにつかまって私たちを見つめていた。肩より少し長いツインテールがふわりと揺れる。
すかさず川崎くんは、女の子と目線を合わせるようにしゃがみこんだ。
「名前、なんていうの」
「ひるたゆうなです。ろくさいです!」
「ゆうなちゃん、こんにちは。俺は川崎陵です。よろしくね」
「りょうくん、よろしくね!」
「ゆうなちゃん、上手に挨拶できるんだね。えらいな」
「だってね、ゆうな、こんどいちねんせいになるから、パパとれんしゅうしてるの」
ねぇ、パパ。
そう言って蛭田先生を見上げる女の子の頭を、先生の大きな手が撫でる。それを嬉しそうに、恥ずかしそうにしながら微笑む女の子から、私は目が離せなかった。
唇を噛む。そうしなければ、身体ががたがたと音を立てて震えてしまいそうだから。本当は走って逃げ出したいのに、泥沼に沈んでしまったみたいに身動きがとれない。
「俺、ゆうなちゃんと一緒に遊びたいんだけど、近くに好きな公園とかあるかな」
「あるよ! りんごこうえんね、ママもいっしょにいったことあるの」
はっと顔を上げると同時に、蛭田先生に腕をつかまれた。まるで、逃げそびれて囚われたあの夜みたいに。
「もう、いないから」
その言葉がどういうことを意味しているのか理解するのは、川崎くんとゆうなちゃんの背中を見送り、家の中に入ってすぐだった。
生活感のある雑然とした室内の一角、カラーボックスの上に飾られた若い女性の写真。その前には小さな線香たてと、小ぶりの白い花束が供えられている。
「優菜の母親は、年明けに死んだんだ」
立ちつくす私に低い声で言ってから、蛭田先生は私の横を通り過ぎる。床に置いてあったリモコンで子供番組が映し出されていたテレビを消した。ゆっくりとした動作でキッチンに向かうと、ケトルに水を入れて火にかける。慣れた手つきでコーヒーを淹れる準備をして肩越しに私を振り返り、小さなダイニングテーブルの椅子に座るよう促した。
言われたまま、私は椅子に座る。すぐそばに、あれだけ会いたかった蛭田先生の背中があるのに、とても手を伸ばす気にはなれなかった。きっと、この家の中では自然なはずの先生の動作は、私にとって不自然でしかない。誰かの視線を感じて振り返れば、あの写真の女性がこっちをじっと見ているようで、私は慌てて前を向き直って身体を固くした。
落ち着かずにメールも着信もないケータイのディスプレイを見た。私は川崎くんにどうしてこんなことをしたのか聞きたくて、メールを開く。けれど何も文字を入力できないでいるうちに、私の前に黄色のマグカップが置かれた。
「彼女……優菜の母親とは、優菜が一歳のころに離婚したんだ」
蛭田先生は自分のマグカップを持って、私の前の椅子に座る。そのとき先生の左の薬指に、銀色の指輪が光ったのが見えた。
「でも去年の春に、もう長くは生きられないって、急に連絡が来て。優菜のために復縁してほしいと頼まれた」
伏せていた先生の視線がふと私のほうに向けられると、私はつい俯いてしまった。どうしてだろう、先生をまともに見ることができない。たまらなく居心地の悪いこの場所から、早く離れたかった。
「優菜の母親の両親も離婚していて、父親の行方はわからないし、母親もほとんど絶縁状態で、他にきょうだいもいない。彼女が死ねば、身寄りのない優菜は施設に送られる。彼女自身、親の離婚が原因で子供のころに施設で過ごした経験があるから、自分と同じ人生を娘の優菜に望んでなかったんだ。俺も……優菜に淋しい思いはさせたくなかった」
だから。今、蛭田先生はここにいる。
離婚して離れていたとはいえ、自分の子供のために、家族に戻ってきた。
子供の名前は、ひるたゆうな。左手薬指の指輪。女性の写真。先生はもう、先生ではない。この家の、亡くなった女性の夫であり、優菜ちゃんのお父さんなのだ。
「よ……よかった、ですね。優菜ちゃん」
声が、震える。
「私みたいに、ひとりにならなくて」
「……葛城、俺は」
「私だって、お父さんは最初からいないし、お母さんはいなくなっちゃったし、親戚だって誰も知らないし。それがどれだけ淋しいことが知ってるから、だから、よかったです、先生がいてくれて。先生がいなかったら、優菜ちゃんみたいな小さい子供が、私みたいにひとりで辛い思いするなんて想像したら、なんか、悲しくなっちゃいますよね」
私の口から薄っぺらい笑い声が漏れた。自分で何をしゃべっているのか、よくわからなくなる。目を細めたら、涙があふれた。けれど、私が悲しいわけじゃない。優菜ちゃんがそんなことになったら悲しいだけ。それを想像したから悲しくなっただけ。
私はせっかく淹れてもらったコーヒーを一口飲む。その苦味を無理やり飲み込んで、席を立つ。先生は、私がコーヒーを好きじゃないことも、知らないのだ。
「待ってくれ」
腕をつかむ先生の手。いつも私を抱きしめてくれたその手は、今は優菜ちゃんのもの。子供に嫉妬するなんて、馬鹿げている。けれど相手が子供だから、私は絶対に先生を取り戻すことができない。
「俺がしたことは間違っていたのかもしれない。でも、俺はずっと葛城のそばにいたいと思っていた。葛城のことを、愛してた」
欲しいものは、すぐそばにあるのに。手を伸ばせば、ここにあるのに。母の苦労を知っているから、本当に欲しいものが隣にあっても、私は母が困惑せずに買えるものを選んで手を伸ばした。母がしあわせなら、私もしあわせだと思うから。母が困惑するなら、私は悲しくなるから。嫌われたくなかったから。愛してほしかったから。
いつだって、誰かのために、私は。けれど、こんな気持ちを抱えるのは、私ひとりで十分だ。
私は振り返って先生を見つめる。
「愛なんて、バカみたい。あんな援交が愛だなんていえるの? お金と引き換えに私を抱いてたくせに」
「違う」
「だって、森山先生にそう言ったんでしょ? だから自分は最低な教師だって言ったんでしょ!」
「あれは……自分でも、どうしたらいいかわからなくなったんだ。葛城との関係も、自分の立場も、真由美と優菜のことも。だからいっそ葛城とのことが知られてしまえば、それを理由に教師を辞めてこっちに戻る口実になると思った。バカなことをした」
先生の両手が、私の肩に触れる。
「葛城、すまなかった」
蛭田先生はうなだれたまま、両手で私を引き寄せる。けれど私はその手を払って、先生を押しのけた。
「私は先生を許せません。だからお金も返さないし、もう二度と会いません。今までありがとうございました。さようなら」
下手くそで棒読みな台詞みたいだと思った。言いたいことだけ並べて吐き出して、私は暖かい家族の匂いがする家から飛び出した。玄関先まで追いかけてきた蛭田先生は、そこから先にはついてこない。理由はわかってる。優菜ちゃんが帰ってきたとき、先生がそこにいないと彼女が不安になるから。わかっていても、ねじれた感情が私の喉元をきりきりと締め付けて、息をするのが苦しくなる。
知らない住宅街を走った。先生から私が見えないだろうと思える場所まで来ると、私の足は自然と緩やかになり、やがて歩くのを止める。知らない家、知らない人々、知らない景色、知らない空。ここは、どこ。
「……お母さん」
あなたは、どんな愛のために、私を捨てたのだろうか。
あなたの子供が、迷子になっているよ。早く会いに来て。
誰か、たすけて。お母さんがいなくなっちゃった。私はどこにいけばいいの? お母さんはどこ? ひとりはこわい。ひとりは淋しい。誰か、誰か、誰か。
「いやぁぁぁぁ!」
子供みたいに泣き叫んで、私は道端にうずくまる。こんなことをしたって、お母さんが迎えに来てくれないことくらい、わかってる。蛭田先生が私を選んでくれないことも、知っている。自分ひとりで立ち上がって、自ら道を切り開いて前に進まなくちゃいけないことは、十分理解している。
わかっているけど、ひとりで立っているのは、もう疲れた。
泣いても仕方がないのだと気づくと、涙は止まる。胸の奥が冷たく凍っていくのがわかる。どれだけ我慢して、どれだけ頑張っても、私の欲しいものは手に入らない。すくい上げても指の隙間からすべり落ちる砂のように、私の手のひらには何も残らない。
私がここからいなくなっても、きっと母には違う誰かがいて。蛭田先生には優菜ちゃんがいて、川崎くんにはたくさんの家族と夢がある。もしかしたら、そっと泣いてくれるかもしれないけれど、誰も『私だけ』を必要とはしていない。学校は口外を恐れる必要がなくなり、就職先は新しい人材を採用するだけだ。
「葛城! よかった、見つけた」
川崎くんの声に振り返らず、私は走り出した。顔を見てしまったら、捕えられてしまったら、きっとまた川崎くんに期待してしまう。
「待てよ! 葛城、行くな!」
勝手に期待をして、想像とは違う結果に裏切られた気分になって、私は深く傷ついて。川崎くんにそんなつもりがなくても、傷ついた私は川崎くんを嫌いになってしまう。
「いやっ、もうほっといて!」
「だめだ!」
追いつかれて、つかまれた腕を何度も振り払って、それでも両腕を押さえられた私は、川崎くんを睨みつけた。
「私のことなんか、もうどうだっていいでしょ。川崎くんはお母さんのところに帰ってよ」
「どうだってよくねぇよ。葛城も一緒に帰るぞ」
「いや、帰らない」
「……また蛭田のところに、行くのか」
不安げな川崎くんの言葉に、私は一瞬唖然とした。
「そんなこと、できると思うの?」
黙ったままの川崎くんに、私は怒りをとおり越して、おかしくなった。声を上げて笑って、笑っているうちに涙があふれてくる。同時に身体が震え、胸の奥に押しとどめていたものが一気にこみ上げてきた。
「そんなこと、できるわけないじゃない! なによ……私のこと、なにも知らないくせに、そうやって自分の気持ちばっかり押し付けてきて! 私が蛭田先生に会ったら、喜ぶとでも思ったの? だいたい」
どうして、川崎くんは蛭田先生の居場所を知っていたのだろう。
蛭田先生が学校を辞めたことも、私が化学準備室で先生を待っていたことも、どうして知っていたんだろう。
私は、蛭田先生とのことを、川崎くんに話したことなどなかったのに。
「そうだよ。俺はただ……葛城のことが好きで。蛭田から葛城を奪いたかった。俺のことを見てほしかった。だから、」
怖い顔をして、川崎くんは私をじっと見つめ、次の言葉を言わずに私を抱き寄せた。
「全部……全部、知ってた。だから、蛭田に会わせるのが怖かったんだ。また蛭田に会って、黙ってひとりで泣くようになっても、もう俺はそばにいられない。葛城を笑わせられない。けど、蛭田に会えないまま、葛城がずっと蛭田を待って、あいつを探し続けるのもいやだったんだ。だから、こうするしかなかった」
ごめん。
耳元でそう言って、川崎くんはぎゅっと、苦しいほど強く私を抱きしめる。けれどただ苦しいだけで、川崎くんのぬくもりは私に安らぎを与えない。
「全部って、なに。どういう、こと」
川崎くんの胸を押し、顔を覗き込む。
「何を、知ってるの」
「………」
「黙ってないで、ちゃんと話して。お願いだから、もう私に隠しごとなんてしないで」
自分だけ何も知らないなんて、愚かすぎる。惨めで、悔しい。
川崎くんは一度視線を合わせて瞼を伏せると、躊躇ってからゆっくりと口を開いた。