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 大人の気持ちはわからない。ずるいことをしても、それが褒められることもあるし、そうしなければ世間から咎められることもある。わからない。その大人同士で作られた矛盾だらけの社会も、そんな中で自分を押し殺してでも生きていかなきゃならない人生も。


 私の森山先生への暴力事件は、校内で上手にもみ消されたようだった。私は停学になるわけでもなく、いつもどおり学校へ通うよう、暴行の事実を口外しないよう、そして就職を辞退することなど決してしないよう学年主任の先生から厳しく言われた。自分のしたことを罪だと思うなら、学校につけた傷を隠し続けろという意味なのだろう。


 嫌な気分だった。黙っていることが、嘘を吐き続けることが正しいとはとても思えない。けれど、そうしなければ、せっかく手に入れた未来を自分で殺してしまう。だから私は言われるままにすることにした。この矛盾を上手に飲み込めるようになったら、私は大人になったといえるのだろうか。


 川崎くんは言葉どおり、冬休みが来るまで私のそばに居てくれた。夜ひとりになるのが嫌だと言ったら、私を下宿に呼びよせて、オーナーさんに許可を貰ったうえで泊めてくれることもあった。もちろん、部屋はすでに独立しているオーナーさんの長女が使っていた別室だったけれど、それでも私は近くに誰か知った人がいるというだけで、安心して眠ることができた。


 やがて冬が来て、川崎くんは実家へ戻った。私はコンビニバイトのほかに、メール便仕分けのバイトを掛け持つことにした。仕事をしている間は、仕事のことだけ考えればいい。なるべくたくさん働いて、なるべくたくさんお金を稼いで。就職先には制服がないから、安くてもある程度の枚数の洋服もそろえなくちゃいけない。靴も、鞄も、私に扶養してくれる家族がいなかったことがバレないように、それなりの物を揃えたかった。

 それから蛭田先生にも、借りているお金を返さなきゃいけない。


 蛭田先生の実家を正しく把握している人は、誰もいなかった。冬休みに入る前に、森山先生に事情を話し、森山先生から蛭田先生に連絡を取ってもらうことにした。けれど蛭田先生が電話に出ることはなく、メールも返信がないという。


 年が明けて、おもいきって自分から電話を掛けてみた。森山先生が電話をしたときと同じように呼び出しはするものの、先生の声は聞こえない。連絡が欲しいとメールもしてみたけれど、やっぱり返事が来ることはなかった。


 私にとって、呼び出し音が鳴り続けることは重要だった。先生は、まだ繋がろうとしてくれている気がする。電話料金もちゃんと払い続けられているから呼び出し音が鳴る。声は聞けない、でも先生はどこかで生きている。ただそんなことを確認するだけで、私はひどく安堵した。


 曖昧な生存証明しかなかったとしても、私は信じていた。最後に私を抱いた先生が、つぶやいた言葉を。だからきっと、また会える日が来るのだと。


「卒業、おめでとう」


 体育館で行われた卒業式が終了し、教室に戻ってからクラスメイト全員に卒業証書が手渡された。ひとりずつ名前を呼ばれ、教壇で感慨深げな森山先生から証書を受け取る。そのひとりずつに森山先生はなにかしら声を掛け、私には頑張ったねと微笑んだ。私はありがとうございましたと答えて一礼し、席に戻る。


 頑張ってなんかない。そうしなければ生きていけなかったから、当たり前のことをしていただけだ。森山先生の嫉妬で、蛭田先生との関係が崩れてしまっても、そのあと蛭田先生が消えてしまっても。森山先生に暴力を振るった事実をまるで何もなかったみたいにかき消されて、そうすることで森山先生が私をぶったことも消えてしまっても。


 蛭田先生がいなくなって、どうしても会いたくて、でも会えなくて。蛭田先生に対する私の気持ちが、簡単にわりきれるものじゃなかったのだと気づいても。それを気づいているはずの川崎くんの気持ちを、ちゃんと受け入れてあげられないことが辛くても。


 今日のこの日も、母がどこにいるか、生きているかさえわからなくても。


 たったひとりでも、この日を迎えることができた。叫びたくて、走り出したくなる衝動も、必死に堪えた。ただ、ここはゴールではなく、通過点にすぎない。社会人になれば、もっと辛いことも、我慢しなきゃならないことも、きっとある。


 教室の後ろにはクラスメイトの家族が授業参観のように並んでいて、その中には川崎くんのお母さんも来ているのだと聞いた。自分の子供の卒業を見届けようとする彼ら大人を含め、いつもは大口を開けて笑っているクラスメイトも、男子でさえどこか感傷的になっていて、私は教室から飛び出したくなる。


 自分の座席に戻り、卒業証書を貰った筒の中に仕舞う。きっとクラスで浮いているはずの硬い表情を崩せずに、私は俯いて髪の毛で自分を隠す。誰かは、私が泣いていると勘違いしてくれるかもしれない。みんなと同じような気持ちになれない自分が、少しだけ悲しかった。


 やがて最後のホームルームが終わり、にぎやかに全員が教室から出て行った。在校生が後片付けをするために、卒業生は強制的に校舎から追い出される。

 私は初めて会う川崎くんのお母さんと、挨拶を交わした。想像していたとおり、ふくよかで優しい雰囲気の女性だった。きれいな半月を描いたような目元には、たくさんのしわがあったけれど、それはきっとずっと微笑んでいるしるしだ。


 いつでも遊びに来てねと私の手を両手で包み、笑ってくれる。その手は女性のわりにはゴツゴツと骨ばって見えるけれど、てのひらは柔らかくて暖かい。このひとが私のお母さんだったなら、私も川崎くんのような高校生活を送れただろうか。そんな他愛もないことを、ふと思った。


 後ろで照れくさそうにしていた川崎くんは、お母さんだけ先に宿泊先のホテルに帰るよう言うと、強引に背中を押して、振り返るお母さんに手を振った。


「いいの?」

「いいんだよ。どうせ毎日一緒にいるんだし。てか、葛城、今日はバイト入れてないよな?」

「うん。言われたとおり、休みにしてもらったよ。それで、どこに行くの?」

「それは、まだ言えない」


 一週間前、卒業式が終わったら一緒に行きたいところがあると、川崎くんから電話があった。今日を過ぎたら、私たちはもう会えなくなってしまうような気がして、急だったけれどバイト先にお願いしてシフトを変えてもらった。


 川崎くんは私の手を取って、こそこそと卒業生の中から抜け出そうとする。みんな別れを惜しんでいるというより、学校から解放されたことを喜んでいるように見えた。笑顔で写真を撮ったり、おしゃべりをしたり、お別れに余念がない。川崎くんも例外ではなく、野球部の仲間に見つかって胴上げをされ、私とのことを散々冷やかされていた。


「ったく、あいつらガキだな。ごめんな」

「ううん。みんな、川崎くんと離れるのがさみしいんじゃない?」

「あー、ないない、男って、そういう女子みたいな感情ないから」

「そうかな」

「それに、一生の別れじゃないし、あいつらみんな進学したから、夏休みには遊びに来いって言ってあるんだ。葛城も、休み取れたら来いよ。俺が捕った魚食わせてやるから」

「うん」


 私は、誰とも写真を撮らなかったし、これからの約束もしていない。去年のクラスメイトは私の変化に気づいていて、まるで知らないひとみたいに、見てはいけないものを見てしまったかのように視線を逸らして通り過ぎる。私に何かがあったことは、噂になってしまっていた。でもそれは、森山先生を殴った話で、その原因については憶測だけ。三年のクラスメイトで特別仲が良かったのは川崎くんだけで、ほかに友達といえるような子はいなかったし、私がそうなることを望んでいたのに。


 今更さみしいと思うのは、どうしてだろう。川崎くんや、笑顔で写真を撮るみんながうらやましい。ここに蛭田先生がいてくれたら。私は、どんなふうに先生に別れを告げたのだろう。また明日、いや来週会ってください、その時は少しお金を返します、そんな会話を化学準備室でしたのだろうか。


「葛城、また痩せた?」

「そうかな」


 校門を出て少し歩いたところで、川崎くんはふと足を止める。そうして私をじっと見つめた。


「飛んでくなよ」

「……なに、それ。変なの」


 思わず笑ってしまうけれど、川崎くんは真剣な表情のまま、私の手をぎゅっと握りしめる。川崎くんとこうしてちゃんと会えるのは、十二月の終業式以来だ。伸ばしていた髪は、短いままだったけれど、それなりにちゃんと整えられて、やっぱり上を向いている。実家に戻って太ったと言っていたとおり、少し顔もふっくらしたと思う。ただ、時間があれば船に乗っているというだけあって、よく日に焼けているのは変わらない。


 こうして再会できたことが嬉しかった。そして、まだもう少し一緒にいられることも。

 と、時間を確認した川崎くんは、目を丸くした。


「やっべ、遅れる! 葛城、走るぞ」

「えっ、ちょ……」


 走り出した川崎くんに、必死でついていく。まだ冷たい風が頬をすり抜け、白い息が流れていく。もっと、川崎くんとこうしていたい。あとで、一緒に写真を撮ろう。そうして川崎くんとさよならするとき、私は教室で感傷的になっていたクラスメイトみたいな気持ちになって、涙を流すのかもしれない。


 ふたりで乗り込んだバスは、やがて駅に着いた。川崎くんは、私にお弁当を買うように言ってから、二人分の乗車券を買ってきてくれた。それから、私はお茶を、川崎くんはジュースを買って電車に乗り込んだ。行先をちらりと見れば、沿岸部の町が終点になっている。川崎くんの実家のある町には、そこからまた乗り換えなければならないのだろうけど、なんとなく、彼の地元に連れて行ってくれるような気がしていた。

 ふたりで並んで席について、ふたり同時に息を吐き出すと、どちらからともなく笑ってしまう。


「なんか、駆け落ちするみたいだね」

「バレたか」

「本気で言ってる?」

「だって、俺の嫁になるって言ったじゃん」

「違うよ、嫁になれって言ったのは川崎くんだけど、私はまだ嫁になるとは言ってないよ」

「なんだ、引っかかんねぇのか」

「残念でした」


 私はコートを脱いで、川崎くんのお弁当を渡す。それからふたりでお弁当を食べながら、会えなかった日々の話をした。メールや電話で一度話したことでも、こうして隣で聞けば、どこか新鮮な気がした。夏の初めは、たった一言交わすだけのふたりだったのに。今はこんなにそばにいて、気づけば電車に乗り込んで二時間近く、途切れることなく話をしている。


「川崎くん、ありがとう」

「……なんだよ、急に」

「すごくわがままなことも言ったし、きっと川崎くんが嫌だと思うこともしたのに、一緒にいてくれて本当に嬉しかった。ずっと、お礼を言いたかったの」


 川崎くんのことだから、また顔を赤くして戸惑うに違いない。そう思って横顔を覗くと、硬い表情を強引に崩して笑ったように見えた。


「いや、俺はべつに……一緒にいたかっただけで」


 次に続く言葉があるのだと待っていたら、ふいと視線を逸らされた。私の言葉は、川崎くんの嫌な記憶を呼び起こしてしまったのだろうか。疑問が不安に変わりそうになるころ、川崎くんの向こう、窓の外に海が見えた。


「わぁ」


 思わず声を上げて身を乗り出すと、川崎くんも嬉しそうな表情をしてくれてほっとする。


「海、いいだろ」

「うん」


 揺れる海面に太陽の光が反射して、きらきらと眩しいくらいに輝いている。小さいころ、何度か海に連れて行ってもらったことがある。けれど、私は海に入るより、砂遊びをするほうが好きだった。それでも母は、何にも言わずに笑っていた。


「次の駅で、降りるから」


 私は乗り出した身体を座席に戻して、出しっぱなしだったお茶のペットボトルを鞄に入れる。


「降りたら、また乗り換え?」

「いや」

「だって、川崎くんの実家は」

「あぁ、うん。もっと先。うちに来るときは、これじゃなくて特急に乗ったほうがいいよ」


 予想外のことに、私は頷くしかなかった。実家に行かないとしたら、この町にどこかお気に入りの場所でもあるのだろうか。降りる駅の名前は聞いたことがあるけれど、どんな町なのか、私は知らない。


 何も知らない町に川崎くんと降り立つのは、とても不思議な感覚だった。これから何が起きるのか期待する気持ちと、わずかな不安。少なくとも、この町の人々は誰も私のことを知らないのだから。


 もしかしたら母は、こんなふうに誰か好きなひとと駆け落ちしたのだろうか。そのひとに、私のことを隠していたのかもしれないし、そのひとが子供なんか邪魔だと言ったのかもしれない。それでも母が好きで好きでどうしようもないひとのためなら、私は捨てられても仕方がなかったのだろう。


 きっと、ひとを好きになるというのは、そういうことなのだ。母は、私がもうひとりで生きていけるとわかっていて、手を放した。


 蛭田先生を好きだった森山先生は、生徒である私を嫉妬から殴った。そして蛭田先生を奪われたと思った私は、森山先生を殴った。誰かを好きになれば、そのひとのために、そして自分のために、立場も何も考えずに衝動を抑えきれなくなることがある。だから母は、好きな人のために、私を捨てた。そう考えると、ほんの少しだけ楽になれる気がした。


 駅前からほとんど誰も乗っていないバスに乗り、私たちは住宅街で降りた。川崎くんも目的地が曖昧なのか、携帯画面に映し出される地図を確認しながら歩いていた。こっそり後ろから画面を覗いてみたけれど、一体どこに向かっているのかはわからない。


「大丈夫?」


 そう尋ねると、川崎くんは足を止める。

 携帯を持っていた手をおろして、どこか高い場所を見つめていた。


「俺……たぶん、葛城が思ってるほど、いいやつじゃない」

「えっ」

「ごめんな」

「どうして、謝るの」


 眉を寄せ、ぐっと一文字に口を結び、川崎くんは何も言わないまま私の腕を引っ張った。川崎くんの言葉に戸惑い、訳のわからない不安がこみ上げて、私は彼の手を振り払いたくなる。どうしてそんなことを言うのか、理由を聞かなければ。川崎くんが抱えているものを全部打ち明けてもらわなければ、本当に、もう二度と会えない気がしてしまう。


 川崎くんは視線の先にあった古いアパートの三階まで駆け上がり、一番奥のドアの前で私の腕を離した。息を整えながらドアホンを押すと、中から聞こえたのは幼い子供の声だった。


「はーい、はい、ゆうながでるー! ゆうながでたい!」


 扉の向こうで駄々をこねている声をいなすように、低い声がする。

 まさか。予想するより先に、錆びた鈍い音を立てて扉は開く。そうして現れた人物に、私は唖然とした。

 蛭田先生が、そこに立っていたから。




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