5
ここがどこだかわからなかった。でも、天国でも地獄でもないことだけは、すぐにわかった。生きているのだとわかると、鼻先がつんと痛くなる。瞬きをすれば、涙が零れてこめかみに流れていく。息を吸えば嗚咽が漏れる。シミの付いた白い天井が滲んで、私はこの景色と匂いが保健室なのだと気がついた。
「葛城さん、起きたの?」
カーテンの向こうから現れたのは、顔を赤く腫らし、ジャージに着替えた森山先生だった。
途端に私は先生に背を向け、薄っぺらい布団を頭の上まで被る。
「大丈夫?」
気遣いのような言葉も、その口調に優しさは含まれていない。低く、短く、そう聞いてくる。私は唇を噛んで、こみ上げる嗚咽をぐっとこらえたまま、黙って動けずにいた。
「私だけ、幸せに笑ってるって、どういう意味?」
「……そんなこと、私が言わなくったって、わかってるくせに」
怒りが再熱するよりも、体と心が冷えきっていて、震えて涙があふれる。
起き上がって、もう一度森山先生に殴りかかれば、この悲しみも消えていくんだろうか。
「蛭田先生と、何かあったのね」
森山先生の白々しい台詞と溜息に、私は耐えられずに起き上がる。自分が一体何をしたのか、殴られてもまだわからないと白を切るつもりなのか。
掴みかかろうとした私は、所々腫れあがった顔で見下ろす先生の暗い瞳に、思わず手を引っ込めた。いつもの天真爛漫な森山先生は影をひそめ、重い気迫を漂わせていることに、私は息を飲む。
「もしかして、私があなたと蛭田先生のことを誰かに話して、蛭田先生が学校を辞めさせられたとでも思った?」
その言葉に私が眉根を寄せると、先生はどこか私を憐れむように笑った。
「蛭田先生、そんなこと言って、あなたと別れたの? それとも、葛城さんには何も言わずにいなくなっちゃった?」
何も返すことができない。
当然、森山先生は恋人である蛭田先生の行方を知っているはずだった。それなら蛭田先生が私にしたことだって、なんとなく予想がついているだろうに。先生の話しぶりに、私はどうしようもなく違和感を覚えた。
「蛭田先生、突然辞めてしまったの。私も、辞めるその日まで、何も知らなかった。表向きの理由は、病気の家族をどうしても看病しなきゃいけないってことらしいけど。正直私も、あなたたちのことに気づいた誰かが、ふたりの関係を公にしようとしたんじゃないかって思ってた。でも本当のところは、私もわからない」
「わからないって……先生、彼女なのに何も知らないの?」
まるで他人の話をしているみたいだ。それとも、蛭田先生は森山先生にも、本当に何も言わずに消えてしまったというの?
……私の、母のように。
俯いていた森山先生は、右手の薬指の指輪をはずして私に見せた。
「これ、蛭田先生が私に買ってくれたと思った?」
「……えっ」
「残念ながら、これは私が自分で買ったのよ。夏のボーナスが出たら、自分へのご褒美にしようって決めてたの」
そう言ってにっこり笑うと、先生は指輪を元の場所につけなおす。
「だって、先生あの時……」
クラスメイトからさんざん冷やかされながら、彼から貰ったことを否定せずに微笑んでいた。それに、私が聞いたときだって。
「私、彼から貰ったとも、蛭田先生と付き合ってるとも、自分からは一度も言ったことがないでしょう」
「うそ……じゃあ、」
「だから私は、蛭田先生の恋人なんかじゃないの」
「なに、それ……生徒を騙すなんて、最っ低!」
「自分が勘違いしたのを人のせいにしないで。それとも、まだ私のこと殴らないと気が済まない?」
私はシーツをぎゅっと握りしめて、森山先生を睨みつけた。悔しいけれど、先生の言うとおり、勘違いしたのは私だ。先生は否定しなかっただけで、肯定することもなかったのだ。
けれど、だとしたら。
「どうして先生は、私が蛭田先生からお金を貰ってるって、知ってたの」
彼女という立場にいないなら、化学準備室をどうにかして覗いていたのだろうか。あの密室でお金を受け取ったら、私はそれを家に帰るまで制服のポケットから出すことはしなかった。誰にも見られていないはずなのに、どうして。
ややあって、森山先生は静かに口を開いた。
「私ね、蛭田先生のことが好きだったの。ちょうど引き継ぎをかねて葛城さんの事情を聞いているときに、いろんなことを話すようになって。それまでは生徒のことをあまり考えない先生だって思ってたのに、葛城さんを心配する蛭田先生は、生徒思いのとても良い教師に見えて。本当は単純に蛭田先生にとって葛城さんが特別だっただけなのに、その時はわからなかった。わからなかったから、告白して、大切な人がいるって、あっけなく振られたわ」
森山先生の瞳には、そのころの景色が映っているのだろうか。懐かしむように目を細めて、静かに息を吐いた。
「葛城さんの担任になってから、もしかしたら蛭田先生の大切な人は葛城さんなのかもしれないって、なんとなく思うようになったの。ふたりが化学準備室で頻繁に会ってることには気づいてたけど、でも、まさか蛭田先生に限って、生徒との一線を越えるなんて考えられなかった。だから、化学準備室で、葛城さんとふたりきりでいつも何をしてるのか聞いてみたの。半分冗談で、変なことしてないですよねって。そしたら蛭田先生、『してるよ』って……」
私は、耳を疑った。蛭田先生が、自分から私たちのことを話したなんて。
これまで冷静を装ってきた森山先生は表情を崩し、頭を抱えた。
「そういうことをする代わりに、自分は彼女に金を払ってるって、だから自分は最低の教師だって、にやにや笑いながら言ったの。私、バカにされてるんだと思ったわ。振られても蛭田先生のことは好きだったから、何かにつけて相談に乗ってもらったり、一緒に食事にも行ったりしてたけど、もしかしたら私のそういう態度が嫌で、こんな嘘を吐いてるんじゃないかって。でも、もし蛭田先生が言ったことが事実なら、私は同僚として、葛城さんの担任として、そんなこと許すわけにはいかなかった」
だから、事実を確かめるために私を呼び出して、ためしに鎌を掛けたのだと先生は続けた。
「葛城さんはお金を受け取っていると認めたし……葛城さんの態度でそれ以上の関係があるんだって確信したら、教師としての怒りなんかじゃなく、女として嫉妬してた。あの時は、ぶったりしてごめんなさい」
頭を深々と下げる森山先生に、私は体の力が抜けていく。
どうして蛭田先生は、そんなことを森山先生に喋ったんだろう。私は、ふたりだけの秘密だと思っていたのに。森山先生とはいろんな話をしたり、食事に行ったりしたのに、私とは化学準備室でのセックスだけ。そう思うと、途端に自分がみじめになった。
私は、それでよかったはずなのに。先生が私を受け入れてくれれば、どんな形であれ、私を抱きしめてキスをしてくれたなら、それ以上は求めないと決めていたのに。
顔を上げた森山先生は、私にぼろぼろになった封筒をそっと差し出した。
「でもね、あれから私、怖くなって……もし、本当にふたりのことが他の誰かに知られてしまったら、大変なことになるって思った。蛭田先生に何とかしたほうがいいって言おうとしたけど、そんなことを言って蛭田先生に嫌われたくなくて、結局あれから葛城さんとのことは何も聞けなかったし、言えなかった。当然、葛城さんには嫌われちゃったし、教室では睨まれるし。もし、私と葛城さんの言い合う様子を誰かに聞かれていたらどうしようとか、私も、ずっと不安だったのよ。そのうち、蛭田先生は何も言わないで辞めてしまうし……ごめんなさい、葛城さん、私のせいだわ」
森山先生が何のことについて謝っているのか、私にはよくわからなかった。あの日、私を引きとめて、さも自分が蛭田先生の恋人であるようなふりをしたことなのか。そのあと殴ったことなのか。それとも、自分のせいで蛭田先生が辞めたとでも思っているんだろうか。
ふと、母がいなくなる少し前に、突然ごめんねと言ったことを思い出した。
私は何のことかわからずに、母にどう答えたのかも忘れてしまった。いなくなることを、先に謝っていたのだろうか。今となっては、それくらいしか母が謝る理由を見つけられない。家族の一部が、いわゆるごく普通の家族とは違って欠けていたとか、そのせいで母と一緒にいられる時間が少なかったとか、そんなことを今更母が謝るとは思えないし、謝らなくていいことで。
でも、もしあのとき、しっかりと母の気持ちを確かめていたなら、母はまだ私と一緒にいてくれただろうか。
森山先生は、赤くなった瞳に涙をいっぱいに溜めていた。先生は先生なりの正義を貫こうとしただけだ。
「先生の、せいじゃないです……」
私が、勝手に勘違いして、勝手に傷ついただけ。
「私のほうこそ、すみませんでした」
私は、シーツに顔がつくほど身体を折り曲げた。そうしないと森山先生までも、私のせいで消えてしまいそうな気がした。
頭を上げると、森山先生が顔をくしゃくしゃにして泣きながら私を抱きしめる。
「葛城さん、ごめんね」
謝って、相手がそれを受け入れてくれた時、やっと自分は救われるのだ。謝ることで安らぎを得るのは自分自身で、決して相手ではない。
私は受け入れた時点で、先生から傷つけられたことすべてを許さなければいけない。それが納得のいかないものであっても。そうしなければ、終わりがない。
蛭田先生がいなくなってしまった今、私が就職するまで頼れる大人は、森山先生しかいない。だから、私は彼女を許すことにする。学校を卒業する、その日まで。
私とわかり合えたと思ったのか、ひとしきり泣いた森山先生は、最後は笑顔で保健室を出て行った。しばらくベッドの上で放心状態だった私は、シーツの上に放ったままの封筒を手に取った。破れた封筒からは、折れ曲がった福沢諭吉が変顔で私を見つめていた。
私はどうやってこのお金を蛭田先生に返そうか考える。誰かに聞けば、蛭田先生の実家くらいはわかるかもしれない。家族に病人がいるというのが本当なら、その町の病院を手当たり次第に探せばいい。私から直接他の先生に聞くのは変だから、森山先生に頼んでみよう。でも、今日はもう、森山先生に会いたくない。
ベッドから降りると、身体のあちこちにぴりりと痛みが走る。封筒を握る指は、痛みに伴って軋む音が聞こえそうだ。心配そうな保健室の先生に安心させるための笑顔を見せて廊下に出ると、壁に凭れて川崎くんが立っていた。
いつものように白い歯を見せて笑ってくれると思ったのに、黙ったまま、じっと私を見つめている。
「私、就職取り消しかな」
「だったら、俺の嫁になれ」
「……嘘つき」
「嘘じゃねぇ、俺はいつだってマジだ」
変わらない川崎くんに、思わず笑う。でも、笑った瞬間泣きそうになる。
「帰ろう」
そう言って川崎くんは私に背を向けると、玄関のほうへ歩き出す。彼もいずれ私のそばからいなくなってしまう。そう思うと、足がすくんだ。動けないでいる私を振り返ると、川崎くんは私の隣に来て、封筒を持っていないほうの手を取る。
「俺、何にもできないかもしれないけど、俺がここにいる間は、ずっと葛城のそばにいるから」
どのくらい廊下で待っていたのか、川崎くんの手も私と同じように冷たかった。けれど、重なり合っている部分が、互いに少しずつ熱を取り戻す。
私は頷いて、そのまま顔を上げられなかった。どれだけ唇を噛んでこらえても、川崎くんを見たら泣いてしまいそうだから。泣き顔ばかり見せたら、バカな女だと思われそうだから。バカな女だと思われてしまったら、きっともっと早く川崎くんは私から離れていってしまいそうだから。
こらえきれずに零れた涙を、川崎くんに気づかれないよう、そっと拭った。