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十一月の半ばを過ぎて、私に合格通知が届いた。これで私は、晴れて四月から社会人だ。やっと自分でお金を稼いで、そのお金で生活できる。もちろん、最初は生活していくのが厳しいかもしれないけれど、それでも今よりはずっとマシなはずだ。そして、そこから少しずつでもいいから蛭田先生にお金を返す。
森山先生にぶたれたあの日、川崎くんと一緒に化学準備室を訪ねたきり、私はあの場所に行くのをやめた。蛭田先生とは、廊下ですれ違うことはあるけれど、私は目を見ず会釈して通り過ぎていた。蛭田先生がそんな私を意識しているのかどうか、気にならないわけじゃない。お金を借りている恩も、辛いときに支えてくれたことも忘れたわけじゃないし、感謝している。
ただ、あの化学準備室には、もう行かない。
クラスメイトは、私と川崎くんが付き合っているのだと認識しているようだった。そう思われて当然だと私たちも自覚しているけれど、ふたりには目の前に終点が見えているし、どちらかの為に互いの将来を変えるつもりもない。だから恋人同士ではなく、親友といったほうがしっくりするような関係でしかなかった。
やっぱり放課後の過ごし方は変わらない。あれから何度も川崎くんの下宿先に遊びに行っているけれど、彼は私の部屋に立ち寄ることはなかった。下宿先にはオーナーさん家族の監視の目があるから、理性が働くのだとか。そういう理由で私の家に寄りつかないのは、とても彼らしいと思う。そんな川崎くんが、私は好きだ。
就職が決定してから、コンビニでのバイトも再開した。夜十時、バイトを終えて、私は自転車に跨り家路を急ぐ。ほんの五分の距離。でもその五分で、私はふと母親のことを思い出していた。
今、どこで、何をしているんだろう。
生きて、いるのだろうか。
お金をかければ、もっと積極的に母のことを探せるのだと聞いた。母を探したい気持ちはあるけれど、お金はない。けれど、この先母を探せる十分なお金を手に入れたとして、はたして私は母を探そうとするだろうか。
ふと夜空を見上げても、街灯で星は見えない。ただ漆黒の闇だけが広がっていて、私は胸が詰まって苦しくなった。
やがて外階段がむき出しの、古い二階建てアパートの前に着く。二階の奥の2DKが母と私の家だ。古いけれど、小学校も中学校も徒歩二十分のところにあって、主要な駅に向かうバスの停留所がバイト先のコンビニのすぐ近くにある。
母がいつからここに住んでいたかは知らないけれど、私は生まれてからずっと、ここを離れたことがない。母の生まれは、この街から随分と遠く離れた大都市だ。もしかしたら、私を育てるために、この場所に越してきたのだろうか。誰にも知られないように、ひっそりと私を産み育てるために、自分が生まれ育った土地を離れて、片田舎のこの場所に。
将来捨てることになる子供を産むために、わざわざそんなことをするなんて。
自転車を降りて、鍵をかける。この自転車も、高校の通学のために母が買ってくれた。安くて特別な機能など何もない自転車だけど、私はこれがなければ学校に通えなかった。一緒に買いに行った時のことも鮮明に覚えているし、私より母のほうが嬉しそうだったのも忘れられない。
それなのに。
この頃は、母のことを考えると、憎しみばかりが湧いてくる。淋しいからと膝を抱えて泣いているだけでは生きていけなかった。だから強くなろうと思った。強くなればなるほど、母の弱さが垣間見えるようになった。そうして、今の私は母を恨んでいる。
けれど私は何かを期待して、鍵を開ける前にドアノブを回してしまう。もしかしたら、帰ってきているかもしれない、そんな思いを私はまだ捨てることができなかった。
だから階段を軋ませながら上ってくる音を聞いて、思わずそちらを凝視した。そしてその人物が蛭田先生だとはっきりわかるころには、鍵を持つ手が震えていた。
慌てて鍵穴に鍵を入れ回し、ドアノブに手をかける。どうしてだかわからないけれど、先生が怖かった。早く部屋に入って鍵をかけなければいけないと思った。
蛭田先生は静かに、素早く私に近づくと、開きかけたドアの内に私を押し入れ、自分も入り込んでくると鍵を閉めた。腕は痛いくらい強く掴まれたまま、背中を狭い玄関の壁に押し付けられる。
逃げようとしてしまったことを、先生は気づいただろうか。しばらく会いに行っていないし、話もしていないから、金を返せと言いに来たのかもしれない。
「先生、ごめんなさい。お金は必ず……」
返しますと言いかけたところで唇を塞がれた。柔らかい蛭田先生の唇が腕を掴む力とはうらはらに優しく何度も私に触れる。この行為が、お金を貰う代償だと思っていないのは、私だけなのかもしれない。先生はセックスと引き換えに、私にお金を貸しているのかもしれない。
当然といえば、当然のことだった。自分が受け持っていたクラスの、ごく普通の一生徒に、金を返す当てもない私に、ただの善意で毎月五万円を貸してくれるわけがない。
そんなことに、私は今更気が付いた。
胸元をまさぐる先生の手が、我慢しきれないと言わんばかりに服をたくし上げ、直接肌に触れる。むき出しにされた胸をわしづかみにされて、私は思わず先生の手首を掴んだ。けれど、その手を突き返す勇気はなくて、むしろ震える掌を先生の指の上に重ねる。受け入れなければ。それだけのことを、蛭田先生は私にしてくれたのだから。
しのぶ。
先生が、私のことをそう呼んだ気がした。
闇の中で先生の瞳を探そうとしたけれど、せわしない先生の唇が首筋から胸元へとキスを繰り返して視線を確認することができない。
初めての夜も、そして学校でも、こんなに激しさを露わにぶつけられることはなかった。肌が粟立つのは、触れられる快感のせいじゃない。こみ上げてくるのは、焦りと罪悪感と、代償を求めてくる先生への恐怖だ。
靴を脱ぐのもままならないまま、私たちは部屋に上がる。あの夜と同じように、先生は私の身体をベッドに倒して覆いかぶさってきた。
私のどこにどう触れれば、どれだけ喜ぶのかを先生は知っている。そして、それを私の身体に教え込んだのも蛭田先生だ。焦りも罪悪感も恐怖も、脳裏をかすめる先生の恋人である森山先生のことも、蛭田先生から与えられる快感に覆い尽くされて消えていく。私は抗えずに目を閉じる。閉じると、ふと川崎くんの顔が浮かんだ。
母が失踪したことは川崎くんにも話したけれど、蛭田先生とのことはもちろん言えるわけがなかった。私の家とは違って、川崎くんの実家は大家族だ。ご両親に、お父さん方の祖父母、そして妹がひとりと弟がふたり。すぐ隣には叔父さん家族も住んでいて、毎日が賑やかなのだとか。ウザいとか、面倒だとか言いながらも、とても楽しそうに家族のことを話す川崎くんを見ているうちに、そんな環境がひどくうらやましくなった。こんなに家族に憧れたのは、初めてだった。
私は、両足の間で音を立てて顔を埋める先生の髪を掴んだ。もっと、もっと気持ち良くしてくれなきゃ、川崎くんのことが頭の中から消えていかない。手に入れられない幸せへの憧れなんて、早く蛭田先生の身体で黒く塗りつぶしてほしい。
「せんせぇ……」
私はいつも押し殺していた声を、我慢せずに吐き出した。悲しくもないのに、勝手に涙が零れる。私は身体をよじって、先生を誘う。私だって、先生がどうすれば喜ぶかを知っているつもりだ。だから、もっと、もっと。
私の両足を持ち上げ、先生が私の中に入ってくる一瞬に、窓から差し込む薄明かりで顔を上げた先生の表情が見えた。薄笑いを浮かべているような、歯を食いしばっているような、そんな表情はあっという間に私の瞼の向こうに消える。
奥まで突き上げられる快感に私がのけぞると、先生は背中に手を回し、私の身体を抱き起す。化学準備室で何度もそうしてきたように、声を上げそうになる唇をふさぐキスをして、どこまでも深くぴったりと肌を重ねる。ふたりが一つになって離れないように、もっと奥まで絡み合って解けないように。
先生の背中にしがみついていると、心の奥に沈めておいた感情が沸々と湧き上がってきた。森山先生にぶたれたときのこと、そのあとの認めたくない気持ちと、川崎くんへの後ろめたさと。いけないことをしているのは、私たちなんだってわかってる。誰も私のことを理解してくれなくても、先生だけがこうして私を受け入れてくれたら、それでいい。
どんなに川崎くんと一緒にいて、高校生らしい自分を取り戻そうとしても、もうすでに今の私はここにいて、決して元に戻ることなんかできないのだ。人から後ろ指を指されるようなことを重ねたとしても、そうしなければ生きていけない日々を送ってくしかない。
きっと、違う方法もあったんだと思う。きっと、先生じゃなくても、支援してくれるひとはいたんだと思う。代償なしに助けてくれるひとや手段があったんだと思う。けれど、こんなやり方を選んだのは、私自身だ。
やがて何度も痙攣して、翻弄された体はぐったりと重くなり、自分のいる場所が夢か現わからなくなった。
このまま、神様が天国に連れて行ってくれたらいいのに。
しのぶ、愛してる。
虚ろな意識の中で聞こえた言葉は、私の願望が生んだ幻聴だったのかもしれない。
まだ暗いうちに、一度だけ目が覚めた。隣で眠っているはずだった先生の気配がないことに気づいても、私の身体は重く怠くて、その姿を確認することさえできずに再び眠りに落ちた。
翌朝、私は学校に行かなかった。目覚めたことへの罪の意識と、森山先生や川崎くんを裏切った気持ちがべったりと胸の奥にはり付いたままで、とても行く気になれなかった。
何度か電話が鳴ったけれど、誰からの着信かも確認すらせずに、私はベッドの中で裸のまま蛭田先生の匂いを探していた。先生は香水もつけていないし、煙草も吸わないから、独特の匂いがあるわけじゃない。でも、どこかに先生を感じられるものが残っていないか、私はシーツに包まって目を閉じる。けれど、よくわからないまま、私はまた眠りについた。
昼を過ぎて、四時からのバイトには行こうと身体を起こし、シャワーを浴びた後にリビングのテーブルの上にある見慣れない白い封筒を見つけた。口は開いたまま、少しだけ厚みがある。何気なく中身を覗いた私は、愕然としてそれを封筒から引き出した。
「……お金」
中から出てきたのは、一万円札だ。私は急いで枚数を数える。すべる指をもどかしく思いながらも、何度も数えた。そして、先生からお金を貰わなくなった月から私がお給料をもらえるはずの月までを数え、計算せずともわかりそうな答えを何度も繰り返し計算する。
ここにこんなものを置いていけるのは、蛭田先生しかいない。私は慌てて時計を見てから制服に着替えた。今行けば、四時前に学校に着く。バイト先には遅れると電話を入れればいい。
どうして、こんなことを。
胸の奥がざわついて、嫌な予感がする。
私は白い封筒だけを握り締めて、学校へ急いだ。ちょうどホームルームが終わって、下校する生徒たちと何人もすれ違った。誰かは私を怪訝な目で見るけれど、誰かは肩がぶつかっても気にも留めない。
三階まで階段を駆け上がり、化学準備室のドアノブを回す。けれど、鍵がかかっているドアはびくともしない。それから六時までずっとそこで待っていたけれど、蛭田先生が来ることはなかった。
その日の夜、バイトが終わって家に帰ると、すぐにテレビをつけた。先生の悪いニュースが流れていないか確かめるために。次の日も、その次の日も放課後の化学準備室はかたくなに鍵がかかったままで、職員室にも蛭田先生の姿を見つけられなかった。
ただ、タイミングが悪いだけなのかもしれない。私は毎日鞄の中に封筒を入れたまま登校し、化学準備室の前で先生が来るのを待った。でも鍵が開くことも、先生が来ることもないまま、時間だけが過ぎていく。
一方で、バイト先では新聞記事を確かめる日が続いた。事件になってしまったなら、いつか私も事情を聴かれることになるのだろうと思っていた。だからすれ違う大人やコンビニの客でさえ、私を捕まえるための警察管なんじゃないかとびくびくした。
どれだけ経っても悪いニュースも見ないし、悪い噂も聞かない。私のところに誰も事情を聴きに来ない。だからきっと、事件にはなっていない。けれど、蛭田先生の姿もない。
きっと、森山先生は事情を知っているはずだ。
でも、聞くのが怖かった。
「蛭田先生なら、来ないよ」
化学準備室の鍵のかかったドアノブを恨めしそうに見つめる私の背後から、聞き慣れた声がした。私は、驚きながらもゆっくりと振り返る。
私がここで蛭田先生を待っているということを、どうして彼が知っているのか、疑問に思ったのはほんの一瞬だった。
「教師、辞めたんだよ」
「えっ」
「だから、蛭田先生は、もうこの学校には来ないんだ」
「うそ……」
どうして。
ぱさりと軽い音を立てて、私の手の中から皺くちゃになった封筒が廊下に落ちる。それを追っていた川崎くんの視線が、次には真っ直ぐに私のほうを向く。軽蔑しているように冷やかに、私のしてきたことを責めるように、それは私を射抜いているようだった。
けれど、川崎くんに弁解をしている余裕はなかった。彼の口から語られたことが真実ならば。
「私の、せいだ」
封筒を拾おうとする手が震えている。きっと、私たちのしていることが、バレたのだ。私は封筒を握り締めて、頭に浮かんだ人物の場所へと走り出す。
「葛城!」
川崎くんに掴まれた腕を振り払い、私は彼女を探す。自分のためだけに、私の大切なひとを、大切な時間を奪うなんて。
職員室まで来ると、彼女が笑っているのが見えた。彼女しかいない。だって、彼女しか私たちのことを知らないのだから。正義を振りかざしたふりをして、私たちを引き裂いて、彼女だけが笑顔で過ごしているなんて、許せない。
ホームルームが終わったばかりで、職員室にはほとんどの先生が戻っていたと思う。でも、そんなことは関係なかった。隣の席の先生と話をしている森山先生の前まで来ると、彼女は私に気づいてふと表情を変えた。あれから森山先生とは、必要以上の話をしたことはなかった。先生も私を避けていたし、私もできることなら口もききたくなかった。
座っている森山先生は、私を見上げて何か言おうと口を開く。けれどその声を聞く前に、私は封筒に入っていた一万円札を取り出し、森山先生の顔をに叩き付けるようにしてばら撒いた。
「あんただけ幸せに笑ってるなんて、絶対、許さない!」
私をぶって泣いていたあの日より、森山先生の目が怯えている。弱いふりをする彼女が憎らしくて、私はその頬を思いきり殴った。どよめき、制止に入る先生方の手を振り払って、私はうろたえて床に転がった森山先生の上に馬乗りになる。胸元を掴み、髪を引っ張り、叫び声をあげながら何度も顔を、頭を、身体を殴った。私を捕まえて森山先生から引き離そうとする手を噛み、だれかれ構わず私を止めようとする人間すべてに手を上げ、暴れた。
自分では、止められなかった。何がどうなっているのか、わけがわからなくなった。やがて私の身体は何人もの先生に抱えられ、森山先生から遠ざけられる。床に横たわったままの先生の淡いピンクのブラウスは、胸元が乱れて下着が曝されていた。おまけに私の投げつけた一万円札がくっついて、まるで安っぽいキャバ嬢みたいだ。
頭の中に響き続けるのは、頭上からの怒号なのか、それとも自分の絶叫なのか。身体を締め付ける先生たちの制止の手が苦しくて、くらりと眩暈がした。徐々に視野が狭くなり、苦しかったはずの身体が浮いたように軽くなる。
本当に、死ねるのかもしれない。
でも、そう思ったら、急に悲しくなった。