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 母が失踪したのは、去年の八月に入ってすぐのことだった。


 仕事で帰りが遅いのは度々あることだったし、だから私は先に夕食を済ませて母の帰りをなんとなく待っていた。仕事や付き合いの飲み会だとかで、帰りが深夜零時を過ぎる夜は、必ず連絡が来る。


 でも、その夜は午前零時を過ぎても、連絡が来るどころか朝になっても母が帰ってくることはなかった。


 私には、生まれた時から父親がいない。もちろん、父親となるべく人がいたから私は生まれてきたのだけれど、戸籍には父の名前が載っていない。母は未婚のまま私を産んだ。


 子供の頃から片親の友達は少なくなかったし、だからそのことで辛い思いをしたことはほとんどなかった。最初からいない父親に強い憧れを抱くこともあまりなかったけれど、ただ、どうしてうちには父親がいないのか疑問に思うことはあったし、幼いころは何度も母に尋ねたことがある。けれどそれも少しずつ成長していくにつれて、知る必要はないと思うようになった。


 母がいてくれるだけで、十分だった。決して裕福ではなかったけれど、ごく普通の生活を、幸せな毎日を私に過ごさせてくれた。真面目に嫌な顔一つしないで、いつも遅くまで働いている母を見て、私はいつからか高校を卒業したら就職しようと決めていた。けれどそんな私に大学進学を勧めてくれたのは、誰でもない母だったのに。


 電話は繋がらなかった。メールの返信も来ない。母の職場に電話をしたら、七月末で退職していると言われた。動揺した私は、母がいなくなったことなど話すことができずに電話を切った。


 仕事を辞めたなんて、初めて聞いた。そもそも、母は昨日だって出勤したはずだった。八月に入ってからも、いつも通りに化粧をしてスーツを着て家を出て、疲れたとか忙しかったとか、ため息交じりにつぶやきながら帰ってきていた。その様子に、変わりはなかったはずだった。


 私だけが、知らなかったのだろうか。それなら母は、今、どこにいるのだろう。


 母が、私を置いてどこかに消えてしまうはずなどない。きっと、連絡が取れないだけなのだ。もしかしたら携帯は落としてしまったか、それとも電源が切れたのかもしれない。だから、きっと帰ってくる。そう信じて何度も電話やメールをしながら、二日が過ぎた。


 それでも、母は帰ってこない。どうしたらいいかわからなくなった私は、担任だった蛭田先生に連絡を取った。私にとって、身近で信用できる人物は、彼しかいなかったのだ。


 母の両親はすでに他界している。ひとりだけいる母の姉は、海外在住だと聞いたことはあるけれど、姉妹仲が悪いとかで、私は会ったことも話したことすらもない。バイト先には年の近い先輩と、おしゃべりなおばさんだけ。先輩に話したところで解決できるような気はしなかったし、おばさんに話せば、嫌な噂を立てられると思ってやめた。


 事情を話すと、蛭田先生はすぐに駆けつけてくれた。何か事件に巻き込まれたのかもしれない。どこかに連れ去られたのかもしれない。もしかしたら事故に遭って病院に運ばれているのかもしれない。先生の顔を見た途端、悪い想像ばかりが湧き出して、混乱し泣き続ける私を抱きしめて、先生は私に落ち着くように促した。


 その後、警察に相談した。残されていた通帳を記帳してみると現金がまるごと引き下ろされ、その防犯ビデオに間違いなく母の姿が映し出されていたことや、失踪したその日に携帯電話が本人によって解約されていることから、事件性はないと判断されて、母は「行方不明者」、いわゆる家出人となった。


 母は現金を手にし、私との唯一の連絡ツールであったはずの携帯電話を解約した。行方を知らせるものや連絡はなく、時間だけが止まることなく過ぎていく。


 それはつまり、私が捨てられたことを意味していた。けれど、そんなこと、信じたくなかった。信じられなかった。


 誰かにそばにいてほしくて。手を繋いでほしくて。抱きしめてほしくて。


 だから、先生の手が私の胸に触れて、唇同士が重なって、服を脱がされても、そうすることで蛭田先生が私のそばにいてくれるなら、どうなってもいいと思った。先生がこんなことをするなんて思いもしなかったけれど、そんな驚きやわずかな恐怖は、母を失った悲しみや絶望に勝るものではなく、むしろ肌と肌が重なり合う熱に、私は今まで知り得なかった安堵を覚えた。


 その日から、私と蛭田先生の関係が始まった。


 私は夏休み中から、用もないのに学校に行き、蛭田先生に会った。会えば、キスをしてセックスをした。ひっそりと、静かに、誰にも知られないように。そのうちに私の家計を心配した先生が家賃を貸してくれることになり、毎月五万円を受け取っている。


 そこに愛や恋なんて、甘い感情があるとは思っていなかった。けれど森山先生と蛭田先生が恋人同士なのだと知った今、私の中にはどう吐き出していいかわからないくらい莫大な感情が渦巻いている。


 無意識のうちに化学準備室に向かっていた足を止め、私は階段を駆け下りた。


 先生は、いつから森山先生と付き合っているんだろう。私とセックスしたあと、森山先生の身体を抱くんだろうか。そのとき、どんなふうに思うんだろう。私と森山先生を比べたりするんだろうか。


 私の身体を初めて抱いたとき、一体何を考えていたんだろう。

 どうして蛭田先生は、私とこうして繋がっていてくれるんだろう。


 考えていなかった。考えようとしなかった。考えたくなかった。そんなこと、知りたくない。


「面接練習、終わったのか?」


 教室に向かう途中、前から川崎くんの声がした。いつも通りの明るい表情で、白い歯が見える。

 私は何も答えを返すことができずに、足早に教室内に入り、鞄を抱えた。


「葛城?」

「ごめん、帰る」

「ちょっ、じゃあ、俺も帰る!」

「ひとりで帰りたいから、来ないで」

「俺は葛城と帰りたい」


 川崎くんも、だ。相手の気持ちなんかお構いなしに、自分を押し付けてくる。真面目で正直で、明るくて一生懸命で。汚れてくすんでいる私には眩しすぎて直視できない。


 同じ高校三年生なのに。何が違うというの?

 どうして私だけ、こんなに重たいものを抱えて潰れそうなの?


 教室から出ようとしていた私は、足を止めて川崎くんを振り返る。


「川崎くん、私のこと、好き?」


 目を丸くした川崎くんの口が、大きく開いたまま塞がらない。


「私のこと、好きなんでしょ」


 廊下を走りすぎる生徒に、川崎くんはあからさまに動揺して身体を揺らした。よく日に焼けた肌でも、頬を赤くしているのがなんとなくわかる。立ち尽くしたままの川崎くんに近づいて、私はそっと彼の手を握った。


「さんざん嫁に来いとか言ってたくせに、嘘だったの?」

「いや、それは……マジ、だけど」

「じゃあ、一緒に来て」


 私は鞄を置いて、川崎くんの手を引いた。困った顔の川崎くんなんて、初めて見るかもしれない。


 これからしようとしていることに、ぞくぞくと鳥肌が立った。川崎くんにはっきりとわかるように人目を気にして階段を上る。三階の奥、薄暗い場所にその部屋の入口があった。ドアノブをゆっくりと回すと、思っていた通り、鍵はかかっていない。そして、中に蛭田先生の姿はない。


 化学準備室の中に入ると、私は静かに鍵をかけた。


「な、なんだよ、どうしたんだよ、葛城」


 半笑いの川崎くんは、少し怖がっているようにも見えた。そんな彼をよそに、私は黄ばんだカーテンを閉めて、ほとんど何も置かれていない先生の机に座ると、川崎くんに手招きをした。


 恐る恐る近づいてくる川崎くんが、なんだかかわいい。目の前までやってきた川崎くんの背中にそっと手をまわし、私は胸を押し付けるようにぴったりと抱きついた。


「お、おい」

「川崎くん、キス、しよ」

「なんで、急にそんな……」

「私のこと好きなら、キスして」


 私を見下ろす川崎くんの喉が、ごくりと揺れた。


「葛城は……俺のこと、その……好き、なのか」


 唐突な私の行動に疑問を持つ理性を、早く壊してしまいたい。


「好きじゃなかったら、キスしてなんて言わないよ」


 川崎くんは嬉しそうに笑うと、私にキスしてくれるんだと思っていた。

 けれど微笑んでいたはずの唇を噛んで、私を見つめる。


「俺、冬休みになったら、実家に戻るんだ。卒業までに船と車の免許取れって言われててさ。卒業式まで、ほとんどこっちには戻らないと思う。だから俺が葛城と一緒にいられる時間は、あと少ししかないんだ」


 だから、と、川崎くんは私の肩に手を置き、身体を引き離そうとする。

 真面目すぎて、腹が立つ。

 私は肩に置かれた両手を取って、自分の胸の上に押し当てた。


「それでも、いいの。川崎くんがここにいる間は、私のそばにいて」


 薄暗い化学準備室の中でも、川崎くんの瞳は眩しかった。眩しくて、私は泣きそうになる。それを勘違いして川崎くんは私を抱きしめた。


 私が誘ったのに。私や蛭田先生がいるところへ、深く暗く渦を巻く場所へ引きずり込みたくてこうしたのに。ぎこちなく、それでも精一杯私を抱きしめて、ほんの少し触れるだけのキスをしてくれる川崎くんへの罪悪感で胸がいっぱいになる。


 こんなことをしてしまって、いいのだろうか。嘘を吐いて、憂さ晴らしのために川崎くんを傷つけていいんだろうか。


 本当は蛭田先生と森山先生への当てつけに川崎くんを利用しようとしていると知ったら、彼は私を嫌いになるだろう。いや、もう、こんなことを自分から迫る女の子とのことなんて、嫌いかもしれない。


 ぐるぐると相反する思いが頭の中を駆け巡る。もう後戻りできない。でも、川崎くんなら私を引きとめてくれるかもしれない。それなのに。


「葛城、やっぱ、やめよう」


 川崎くんのゴツゴツした手が、私の頬を撫でる。


「どうして」

「どうしてって……こんなに泣いてんのに」


 叱るような口調は、それでもどこか優しくて。すでに零れていた涙が、止まらなくなる。

 私は両手で顔を覆って項垂れた。


「ごめ……川崎くん、ごめん」


 大好きな人の裏切りが、胸の奥をえぐられるように痛烈でどれだけ傷跡が残るのか、自分がよく知っているはずなのに。

 私は、私を必要としてくれる人に、なんてことをしようとしてしまったんだろう。


「ごめんなさい、ごめんなさい……」


 どんな言葉も、涙も、私の行為をかき消すことはできないのに。それが悔しくて、自分に腹が立って。その原因も自分がしてしまったことだとわかっているのに。

 謝りながら、私は肩を揺らして咽び泣いた。


「そんなに謝んなよ」


 頭を撫でてくれる川崎くんの腕が、慣れない手つきで、そっと身体を包んでくれる。


「俺、葛城のこと、好きだよ。好きだから、大切にしたいんだ」


 押し殺していたはずの声が口を吐いて、私は声を上げて泣いた。


 あの夏以来、こんなふうに泣いたことがなかった。こんなふうに泣けなかった。感情をすべて吐き出してしまったら、自分が倒れてしまいそうだったから。倒れても、ちゃんと受け止めてくれる人が誰もいないと思っていたから。


 でも今は、川崎くんにすがりついて泣いた。



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