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 明確な約束はない。束縛されているわけでもなく、契約だってない。けれど、そこには金銭の授受があって、体の提供がある。これを援交じゃないと、どうすれば証明できるだろう。できないし、たぶん、そうなのだと思う。いや、そう、これは立派な援助交際だ。


 蛭田先生は二年生のときの担任だから、携帯番号もメルアドも互いに知っている。けれど、「先生」と「生徒」としての連絡しかしたことがない。

 私たちは午後四時から六時の間に、化学準備室で会う。その時間帯だけ、鍵が開いているそこにどちらかが待っていて、会うことができたらセックスをする。そうして会ううちの月に一度、私は蛭田先生から五万円を貰う。鍵が閉まっていることもあるし、待っていても先生が来ないこともある。私が行けない日もあるし、行かない日もある。


 お金をタダで貰うつもりはないし、お金を貰うためにセックスしているわけじゃない。お金はいずれ働いて返すと先生に伝えてある。だから私はどうしても就職試験に合格しなければいけない。


 去年の夏に通帳の中にあった百万円は、切り詰めてバイトをして生活していても半分になってしまった。生きていくにはお金がかかる。試験を受けるにもお金がかかる。息を止めて黙ってうずくまっていればお金はかからないかもしれないけれど、死んでしまう。死んでしまったら、知らないひとたちに迷惑をかける。

 蛭田先生にも。

 だから、死ぬこともできない。


「試験、どうだった?」

「うん、大丈夫だと思います。作文も、上手く書けたし」


 一次試験が終わった。合格発表まで二週間ある。

 正直、大丈夫かどうかなんて、わからなかった。問題用紙は回収されてしまうから自己採点なんかできないし、作文だって、今ではどんなことを書いたのか思い出せない。

 もし、落ちてしまったら。なんとかして他の就職先を見つけなきゃ。


「葛城」


 九月も二十日を過ぎたというのに、今年はまだ暑かった。椅子に座る先生の後ろで、夏休みと同じようにカーテンが揺れている。休みの間はポロシャツにチノパンでラフな格好が多かったけれど、今はスーツにネクタイといつものスタイルに戻っていた。


 先生は立ち上がり、ゆっくりと私の前にやってくる。160センチの私でも、見上げなきゃいけないくらいの長身。その胸の中に私の体はすっぽりと収まってしまう。私は少し背伸びをして、広い背中いっぱいに手を伸ばした。

 大きな掌で頭を撫でて、そして頬を包み込んで、先生は私にキスをする。少しクセのある前髪が時々頬に触れてくすぐったい。

 

 その時、開け放たれた窓の向こうから、聞き慣れた声がした。

 夏休みにはまだ気づくことがなかった、川崎くんの声だ。掛け声だけじゃなく、ふざけている話し声も、笑い声も今ならよくわかる。


 川崎くんも先生と同じくらい背が高いけれど、どこかひょろりと痩せていて、こうして抱きついてもゴツゴツしていそうだと思う。伸ばし始めたばかりで、上に向かってとがっているような髪型も、まるで先生とは正反対だ。


 夏休みが終わっても、川崎くんとの放課後の過ごし方は変わらなかった。彼は学校から自転車で十五分程の下宿住まいで、一度部屋まで遊びにも行った。一緒にいるのは楽しいし、彼の隣で笑っている自分が本当の私なのかもしれないと思うから。


 ふと、蛭田先生が唇を離して、切れ長の瞳で私を覗き込んだ。細い目をさらに細くして微笑むと、今度は口の中を味わうような深いキスをする。大らかな包容力と優しい微笑みからは想像もできないような強引で激しい舌先に、私の頭はじりじりと痺れだして、野球部員の声も、準備室の薬品の匂いも掻き消されてしまう。


 蛭田先生は三十代後半で結婚はしていない。離婚歴があるという噂もあるけれど、それについては私もよく知らない。寡黙で、どこか他の先生と違って力が抜けていて、一部の生徒からは脱力系なんて言われている。


 彼らは、そんな蛭田先生がこうして生徒と校内で援交してるなんて、想像もできないだろう。鋭い目つきを隠すために、いつも微笑んでいることも、先生や生徒と話すのが面倒で寡黙なことも、教師なんて仕事がダルくて、本当に脱力していることも、きっと、誰も知らない。


「キスマーク、ついた」

「えっ」


 驚いて閉じていた目を開けると、まるでいたずらした子供みたいに先生が私の胸元を指差した。左胸のふくらみには、赤くいびつな模様がぼんやりと浮かび上がっている。


「大丈夫、ここなら見えないから」


 そういって私の瞳を見つめながら、いやらしくキスマークを舐めるなんてことも、誰が想像するだろうか。

 けれど、先生に恋人がいるのかどうか、私も知らない。もしかしたら、いるのかもしれないし、いないかもしれない。いるとしても、別れてほしいなんて思わないし、私にとってそれは問題ではなかった。


 校内でしているにも関わらず、先生との関係は噂になることも怪しまれることもなく、一年以上続いている。だからこの日の翌日、担任の森山先生との面接練習が終わって呼び止められた時も、先生の表情がどこか強張っている本当の理由を知る由もなかった。


 鎖骨より少し長い私より明るい色の髪を耳にかけ、わずかに俯いていた森山先生は立ち上がる。


「ちょっと、話す時間、あるかな」

「はい」


 大丈夫です、と答えたあと、私はにわかに身構えた。というのも、森山先生には公務員試験がダメだったときのために、別の就職先を探してもらっているところだった。先生の背後の机上にはクリアファイルが置いてあって、中に何枚も用紙が入っているのが見える。

 そのファイルに先生の細い指先が伸びて、私は息を飲んだ。


 先手を打って、次にしなければならないことの準備をしておかなければ気が済まなかった。ぷつりと、未来が途切れてしまう瞬間が、怖い。最悪、四月までバイトをしていたコンビニで、またバイトを続けるしかないとも考えていた。でも、そうなれば別のバイトも掛け持ちしなければ、先生に借りているお金を返せないかもしれない。家賃も払いきらないから、引っ越しもしなくちゃ。でも、引っ越すにもお金がかかる。


 あぁ、こうして考えるのをやめなければ。やめなければ。不安で不安でしかたなくて、また蛭田先生に会いたくなってしまう。ほんのわずかな時間だけでも、何もかも忘れられる先生との時間に、私は依存していた。


「葛城さん」


 名前を呼ばれて、ふと我に返る。

 そうして森山先生を見上げれば、眉根をぴくりと動かして、先生は再び俯いた。求人が見つからなかったのだろうか。ただならぬ雰囲気に、私は黙って先生を見つめた。


 二十八歳になる森山先生は、私たちが初めて卒業生として送り出す生徒になるのだという。特別美人ではないけれど、真面目で一生懸命で、笑顔の素敵な女性だ。そういえば、川崎くんと雰囲気がよく似ている。明るくて、眩しくて、どこか憧れてしまう。


「あの、先生。私、たぶん大丈夫だと思うんです。でも、もしダメだった時のために次を探しておきたくて。別にいいところじゃなくてもいいんです。事務職にこだわってるわけでもないし、とにかく働ければ、どこでも」


 先生だって、クラス全員の進路をしっかりと決定させて送り出したいに決まってる。私のせいで余計な心配をかけさせてしまうのは、とても心苦しくもあった。

 森山先生は私を見つめ返すと、離れて置いてあった椅子を私のほうに寄せて座った。


「葛城さんは、どうしてそんなに働きたいの?」

「……早く、自分で仕事をして生活したいんです」


 私の事情は、三年になる時に蛭田先生が引き継ぎしてあると言っていた。だから、ある程度のことを森山先生も知っているはずだ。


「お金がないなら、先生がなんとかするから」


 先生の膝の上で組まれた両手が、小刻みに揺れている。

 私はすぐさま顔を上げ、精一杯の笑顔を作って首を横に振った。


「大丈夫です。大学まで行って勉強したいこともないし」


 以前、奨学金のことも説明されたことがあるけれど、よく考えてみれば、そこまでして大学に行く本当の理由が見つからなかった。大学に行けたとしても、アルバイトは続けなければいけないし、それならすぐに仕事に就いてしまったほうがいいんじゃないかと思った。大学を卒業したって、なかなか仕事には就けないといわれているし、確かに、大卒との格差は出るのだと聞かされたけれど、出世を望むわけでもないし。自分の稼ぎで生活ができれば、私はそれでいい。


 去年の夏まで考えていた大学生活や、その先にあるはずの漠然とした未来は、何も知らない私が、支えてくれる人にどっぷりと甘えていたのだと痛感している。


「そうじゃ、なくて。その、就職するまでの」

「あっ……」


 聞きにくいことを森山先生に言わせてしまったことを申し訳なく思うけれど、先生なりの善意が私を傷つけていることを、彼女はきっと理解できないだろう。


「一応、自分の貯金があって、それでなんとか生活できてます。就職が決まったら、またバイト始めようと思ってるし、それまでは大丈夫です」


 大丈夫なんかじゃなかった。けれどこれ以上、蛭田先生以外の誰かに、借りなど作りたくない。

 大人を安心させるような笑顔と、はっきりとした声でそう告げても、目の前の森山先生の表情が晴れることはなかった。むしろ、私の作り笑顔と反比例するように曇っていく。


 一生懸命に私のためを思ってくれているのかもしれないけれど、私はそんな先生の態度が少し面倒に感じて、ここから立ち去るための理由を考え始めていた。


「嘘、吐いちゃだめよ」

「嘘だなんて」

「葛城さん、蛭田先生からお金もらってるでしょ」


 つま先の汚れた上履きを見ていた私は、思わず顔を上げた。

 森山先生の瞳には、私に敵対する感情が浮かんでいるように見えた。ただならぬ雰囲気は戦闘準備だったのか、口火を切った途端に、伏し目がちの視線は真っ直ぐに私を捕えている。


 何か悟られたような表情をしてしまっただろうか。けれど、森山先生の視線が怖くなって、口ごもってしまったことは確かだった。


「それは……」


 化学準備室に蛭田先生とふたりきりでいることを追及されたときは、勉強を教えてもらっているとか、進路について相談していると答えようと決めていた。でも、お金のことに関して、私は何も準備をしていなかった。

 森山先生の咎めるような瞳は、私の返事をじっと待っている。


「家賃が……どうしても払えなくて。それで、蛭田先生に貸してもらえるようにお願いしました。でも仕事に就いたら、ちゃんと返すことになってます」


 嘘偽りない事実だった。毎月五万円の家賃を、蛭田先生に借りている。バイトを辞めてしまった今、その他の生活費は貯金をギリギリ切り崩しながら支払っている。

 このことも蛭田先生から森山先生への引き継ぎ事項に入っていたのかもしれない。いや、事前に引き継いでいたとしたら、今頃こんなふうに聞くわけがない。


 だとしたら、どうしてお金を借りている事実を、森山先生は知ってしまったんだろう。蛭田先生本人が話すか、もしくは蛭田先生の身近で家計状況を把握できる立場にいない限り、知りえないはずだ。

 けれど、私が先生からお金を借りていることは罪ではない。返す約束をしているのだから、誰かから咎められる理由もない。そこに肉体関係があると知られることがなければ。

 どこか冷静に考える一方で、心臓が痛いくらいに高速で振動を繰り返している。


「来月から、私が貸すから。だから、もう、蛭田先生と会うのはやめて」


 努めて淡々と声を抑え込んでいるのがわかる。

 まるで、怒りを堪えて叱る母親のように。


「こんなこと、誰かに知られてしまったら、蛭田先生は教師を続けられなくなる。それに葛城さんだって、せっかく決まりそうな就職がどうなるかわからないわよ」


 強い意志を持って私を見つめる瞳は、その意志とは無関係に涙が浮かべていた。


 森山先生は、知っているのだ。

 私たちの、誰にも知られていないはずだった、静かな時間を。

 知ってしまったからこそ、こうして私を脅すのだ。


 けれど、悪徳宗教家みたいに不吉な未来を予想して、先生の都合のいいように私を操ろうなんて手には乗らない。


「生徒の家庭の事情でお金を貸したら、教師を辞めなきゃいけなくなるんですか? それなら、森山先生が私にお金を貸してくれたら、先生が辞めなきゃいけなくなりますよ」


 森山先生の膝の上で強く組まれた指に光る指輪を見つけた私は、わざと、そんなふうに聞いた。

 夏休みに入る直前に輝きだした、右手の薬指にあるシンプルな指輪は、生徒たちからさんざん冷やかされるネタになった。彼からのプレゼントじゃないかという生徒に、先生は否定しなかったし、ちょっと嬉しそうにはにかんでたのを覚えている。


「先生、彼氏のこと疑うの?」


 今度は森山先生が押し黙る番だった。

 お金のことを知っていて、それでいてこんなふうに私たちの仲を引き裂こうとするということは、森山先生が蛭田先生のそばに居る存在だからに違いなかった。

 黙ったまま否定しないのは、認めたということなのか。


「へぇ、森山先生って、蛭田先生と付き合ってるんだ。歳離れてるし、全然タイプ違うのに、ふぅん、意外。あ、でも大丈夫です、先生。私、本当にちゃんとお金返しますから」


 抑えきれず、揶揄するような言葉が私の口を吐く。

 かっと赤くなった森山先生は、まるでサルみたいだ。思わず嘲笑ってしまった私の腕を強くつかみ、森山先生は声を潜めて言った。


「わかってるのよ、化学準備室で、ふたりが何をしてるのか」

「……何を?」

「えっ」

「私と蛭田先生が何をしてるのか、言ってよ、先生」


 どんなふうに、私たちが見つめ合っているのか。どんなふうにキスをして、どんなセックスをしてるのか。私には自信があった。この森山先生より、ずっとずっと静かで激しいセックスをしているということに。私の身体に蛭田先生がのめり込んでいるということに。


 思い出しただけで、身体の中が熱くなる。その熱が口からいやらしい息となって漏れそうになるのを、私はじっと我慢した。


 森山先生の頬に、つと涙がこぼれると、その潤んだ瞳は大きく見開かれ恐ろしい形相に変貌する。身構える間もなく、私は左頬に衝撃を受けて床に転がった。

 うぅと呻いているのは、私ではなく殴った森山先生のほうだ。


「お願い……お願いだから、もう化学準備室には行かないで」


 床にへたり込んで、子供みたいに泣きながら森山先生が必死に訴えている。大人のくせに、自分の気持ちを私に押し付けて、涙なんて卑怯な手段で自分の弱さを見せつけてくる。教師のくせに、生徒である私を殴って、謝りもしないで私から大切なものを奪おうとしている。


 何にも、知らないくせに。


 知ってほしいとも思わないし、どうせ私の気持ちを先生が理解できるとも思わないけれど。

 私は立ち上がって先生を見下ろした。


「化学準備室には、これからも行きます。でも、蛭田先生が来なかったら、そのときは森山先生、お金貸してください」


 顔を上げた森山先生が、一体どんな表情をしていたのかわからない。呼び止める先生の声を無視して、私は教室から飛び出した。




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