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決して、音をたてないように。
決して、誰にも悟られることのないように。
化学準備室の片隅で息をひそめ、私たちは互いの体をぴったりと重ね合わせている。
閉じ込められていた真夏の熱と、それに触発されて湧き出したような古く煤けた教室独特の匂いを吐き出すために、窓は開け放ったまま。お互いに快楽を与える動きは、日に焼けて黄ばんだカーテン一枚が隠してくれる。
ブラウスのはだけた胸元に、先生が顔を埋めて浅く何度も息を吐く。腰を抱える先生の両手が早く強く動き出して、私もそれに合わせるように体をくねらせた。体の下で机がわずかに軋みだして、先生はつながっている私の体を抱いたまま場所を変える。
コンクリートの壁に私の背中を押し付けて、私は先生の首にしっかりと両腕を絡ませて振動でふたりが離れてしまわないように、もっともっと深く繋がれるように肌を合わせる。
このまま先生の体の中に、私のすべてが溶けてなくなってしまえばいいのに。私という存在は消えてしまっても、先生の中に私の痕跡が少しだけ残っていればいい。誰にも忘れられても、先生が死ぬまで私のことを覚えていてくれたらそれでいい。
お願い、神様、この瞬間に私を消してください。
先生の律動が止まると、今度は私の体が勝手に痙攣する。声を押し殺していた口の中はカラカラに乾いていて、その中に先生の舌が伸びてきた。先生の舌も乾いていて、けれどお互いにむさぼっているうちに唾液がじわりと湧き出してくる。
「最低の教師だな……」
唇を離して、先生が自嘲ぎみに言う。
ゴムの付いたものが私の中から引き抜かれると、先生は抱えていた私の両足を床に下した。互いの額を合わせてから、先生は私の鼻先を齧る。それから微笑んで、頬を、髪を大きな手で撫で私を抱きしめた。
私も先生の背中にしがみつくように両手をまわし、汗を吸ったシャツを握る。まだ小刻みに震える両足の間が濡れていた。それがふたりの汗なのか、私の体液なのかわからない。ただ、先生の背中から手を離してしまったら、立っていられなくなると思った。
両足が床を捉えている。私はやっぱり消えることなくここにいる。またこんなことをしてしまったのに、神様は私を消してくれない。どれだけ悪いことをしても天罰が下ることはなく、快感に浸る体は強く抱きしめられたまま。
先生が心配するから、ここでは泣かない。
泣いては、いけない。
誰もいない教室で、私はさっきまで泣いていた。泣いていた、というよりは、涙を流していた、というほうが正しいかもしれない。劇的な感情の起伏が、そこにはないから。我慢していたものを、そっと押し出すだけ。声も出ないし、しゃくり上げることもない。先生が射精する感覚と似ているのかもしれない。溜まっていたものを吐き出す、ただそれだけ。
「葛城、おつかれ!」
威勢のいい声に振り返れば、後ろのドアから野球部のユニフォームに身を包んだ川崎くんが白い歯を見せて私に手を振った。
ふと私が私を取り戻す。
高校三年生の、葛城しのぶを。化粧もせず、背中の真ん中くらいまで伸びた黒髪を耳にかけて真面目に試験勉強をしている、どこにでもいそうな女子高生の私がここにいるのだと。
「終わったの? 今日は早いね」
「あ、あぁ、うん。俺はもう疲れたから帰ることにした」
「ふぅん」
クラスメイトの川崎くんが所属していた野球部は、いつもボールが見えなくなる時間まで練習をしているはずだ。太陽は傾いてきたけれど、まだ白球を追えなくなるほどじゃない。それとも本来引退している部で、おしかけコーチをしていると言っていたから、ある程度練習が終わったら上がることにでもしたのだろうか。
めずらしいと思いながらも、何か他の理由があるのかもしれないから、それ以上は聞かなかった。
私は机の上に開いておいた問題集に目を落とし、先生と会う前まで解いていた問題の続きを始める。けれど、すぐに集中することなんかできずに、芯の出ていないシャープの先で何度も問題文をなぞっていた。
運動部にたいした成績を求めいていないこの学校には、更衣室はあっても部室はない。だから運動部の生徒のほとんどは、それぞれの教室か、共同の更衣室で着替えることになる。私の背後では、川崎くんがタオルを広げ、鞄から何かを取り出し、そしてしまい込む動作が想像できるほど、にぎやかに着替え中だ。
「試験、もうすぐだな」
バックのファスナーを閉める音が響くと、薄汚れたユニフォームから白いシャツに着替えた川崎くんが私の斜め前の席に座った。そして、机の上にある問題集を覗き込む。
「難しいんだろ、公務員試験て」
「うん。受験者が多いから、難関だって言われてるみたい」
この夏休みが明けて九月に入れば、すぐに試験が待っている。四月にはバイトも辞めて、ひたすら試験対策の勉強だけをしてきた。一次合格を見据えて、先生たちが面接の練習も完全バックアップしてくれているし、あとはこれまでのことをしっかりと発揮できれば、きっと大丈夫だ。
「けど葛城って頭良いんだろ? 紺野が不思議がってたよ、葛城はイイ大学行けんのに、なんで就職するのかって」
紺野くんは二年の時のクラスメイトだ。確か彼も野球部だったはずだから、どこかで川崎くんとそんな話になったんだろう。
彼らにとって素朴な疑問なのかもしれないけれど、私はそんな疑問に少し腹が立った。
「バカだけが高卒で就職するってわけじゃないでしょ」
成績なら、紺野くんと比べるまでもなく、これまでずっと学年トップ10内を持続してきた私のほうがずっと上だ。それに、私だってできることなら、大学に行きたかったけれど。
ついキツイ言い方をしてしまったと気が付いて、はっと顔を上げる。
「だよな」
その肯定は、決して私に気を使ったり、調子を合わせるための相槌ではなかった。
「俺も、バカじゃねぇし」
そう言って、また歯を見せて笑う。
日に焼けた肌に白い歯が随分と目立っているのがおかしくて、私も思わず笑ってしまった。いや、本当は川崎くんの笑顔につられているのかもしれない。
「あ、葛城、ホントは俺のことバカだと思って笑ってっだろ」
「うん」
「うんって、否定しろよ!」
私がこうして川崎くんと笑って話すようになったのは、夏休みに入ってからだ。
三年生になり、卒業後の進路に合わせてクラスが編成され、専門へ進学する一部の生徒と十数名ほどの就職希望者が集められたクラスに私と川崎くんがいる。進学には力を入れているこの高校は、有名大学に合格できる生徒はまだ少ないものの、ほとんどがどこかしらの大学や専門、もしくは看護学校に進学を希望していた。
そして私も、去年の今頃までは、その中のひとりだったけれど。
私は朝から日が落ちるまで教室で勉強をしているし、川崎くんは同じ時間帯に野球部に顔を出しているから、必然的に何度か言葉を交わしていた。そうしているうちに、夕方には毎日のようにこうやって話をして、一緒に学校を出るのが当たり前になっていた。
「今日は、先に帰る?」
「えっ」
「だって、疲れてるんでしょ? 私まだ、問題終わってないし」
少し吊り上っている川崎くんの大きな瞳が、私を覗き込む。
その視線が、ただのクラスメイトの女の子を見つめるものではなくなっていることを、いつからか私は気づいていた。
「アイスおごってやるから、帰ろうぜ」
「なにそれ」
「たまにはさ、息抜きしたほうがいいって!」
「それ、試験が一カ月後に迫ってる私に言う言葉?」
「いいからさぁ、アイス食おう!」
私の指先からシャーペンを強制的に奪うと、あっという間にペンケースにしまって問題集を閉じる。そうして得意気に笑顔を見せるから、私は仕方なく机の上に広げていたものを鞄の中にしまうことにした。
「試験に落ちたら、川崎くんのせいだからね」
「大丈夫だろ、葛城なら絶対受かるって」
「働けなかったら、私死んじゃうんだから」
「そのときは、うちの嫁に来い!」
「嫌よ、漁師の嫁なんて」
毎日のどこかで、いつも似たような話をしている気がする。私は露骨に嫌な顔をしてるのに、川崎くんはいつも嬉しそうで。冗談じゃなく、本当にいざとなったら沿岸部の小さな町で漁業を営んでいる彼の実家に行けば、なんとかなるような気すらしてくる。
でも、そんなこと、絶対にできない。
きっと、私と蛭田先生のしていることを知ったら、彼は私を嫌いになるに違いないのだから。
「苦労させるとは思うけど、その分、絶対幸せにしてやるから」
「はいはーい。じゃあ、その時はよろしくね」
「適当な返事すんなよ。俺はいつだって真剣だぞ」
苦労したら幸せなんかになれないと思う。でも、そんな否定をしたら川崎くんが可愛そうだから、私は黙って微笑んだ。