本郷二三雄
乳白色の月が美しい夜です。冬が近いからか耳に当たる風は冷やりとし、胸の温もりが引き立ちました。今宵は一層揚羽が待ち遠しく、足は一歩進む毎に少しずつ速度を上げ、私は秋の夜に姿を隠しながら、その月明かりに照らされた道を行くのです。
私が行く先の店の名は「枯れ頭」と言います。名の通り禿げた爺の頭の如く、枯れ寂れて汚く、一見人など入って居るとも思えない店ですが、扉を開ければ内装は狭いながも煌びやかに飾られているのです。この枯れ頭には踊り子が居り、名は揚羽と言います。少女なのか女性なのか解らないのですが、神秘的な踊りを踊って見せるのです。私は揚羽の踊りを見に三月か四月に一度行くことが何よりの楽しみで、この日ばかりは時計の針が気になって仕方が無く、店の前に立った瞬間、生きている事が素晴らしく感じて仕舞うのです。
早足で枯れ頭に着き懐中時計を出し見やると二十時三分でした。開店している事を確かめる為扉を叩きました。七回扉を叩くと向こうから三回叩き返されました。
「オープン、プリーズ」
言うと扉が開かれます。私は無口な方で普段日本語も上手く使いこなせないのに英語を使うのはとても気恥ずかしいですが、枯れ頭には形式的な事が幾つか有り、其れを済まさなければ中へ入る事も揚羽に逢う事も出来ません。この作業も其れの一つです。開かれた扉を入ると、真正面には細かな細工の施された重量感の有る扉が有り、掌ほどもある錠がぶら下がっていました。右手を向くと白地に赤、金、緑などの色を使った派手な仮面の男が立って居ます。そして一枚の黒い布を頭から被り、其れは床まで垂れ下がって居ました。隠されていないのは手だけで、何せ灯りが殆ど無く暗いので、その存在は異質でぎょっとして仕舞うのです。
「イラッシャイマセ。」
一つ礼をして男は仮面を直しました。頭を下げたので位置がずれたのでしょう。其の男は、言葉を教えられたままに話し、異様に指が長く背丈も有りました。何処の国かは解りませんが、日本人では無い様です。私は背丈が短いので上を向かなければ、仮面をせずとも私には顔も見えません。此処へ来る度に、まるで大人と子供の様だと思いました。男は仮面の中から少し籠った声で話します。
「本日ハキテ頂イテ、アリガトウゴザイマス。」
男は丁寧に感謝の気持ちを表しもう一度頭を下げました。
「オ名前ハ?」
「本郷二三雄と申します。」
「席番号ハ?」
「三十一番です。」
「デハ、オ金ヲ下サイ。」
男は不思議な音で聞いてきます。私は何時もの様に氏名と席番号を告げ、給料二月分の金を袋から出し渡しました。焦りの所為か湿気った手が金を湿らせて仕舞いましたが、男は気にせずに受け取りました。
「此方ヘ。」
男は奥の高いテーブルに私を連れて行き、置いてある帳面を広げ、万年筆の蓋を開けました。
「キチョウヲオ願シマス。今ノ時間ト席番号ヲ。」
懐中時計を出すと二十時十分でした。私が書いて居る間に、其処で金の勘定を素早く終えると、艶の有る黒の仮面を私に渡しました。のっぺりとした仮面は目元口元は葉の形に穴が開いて、鼻の部分にはほんの小さな穴という粗末な物ですが、見慣れないのでやはり不気味だと思いじっと見つめて居ると、男が急かす様に言いました。
「外レナイヨウニ。」
その言葉に反応し、私は仮面を顔に押し付け、後にゴムを持っていきました。少し息苦しく感じますが何故か素顔で外に出ているよりも気が楽で、私を分かる人間など居ないと思うと肩の位置が少し下に下がる感覚を感じました。付け終えるのを見計らうと、男は身体の前に手を揃え言います。
「此方ニキテ戴イタコトハ、話サナイノデ、ソッチモ、此処ノコトハ、話サナイデ下サイ。」
私がその言葉に頷くと、男は先に歩き始め、扉の前まで行き腰から下げた鎖の先に付いてる鍵で錠を外すと、力を入れて押し開き、中へお入り下さいと言うように腕を横へ広げました。促され、男より一歩先に出て立ち止まると後ろから男が言います。
「ドウゾ、ゴユックリ...」
直後扉の閉まる音と錠の締められた音がし、その音を聞き私はその空間へ吸い込まれるように歩き始めました。酒特有の甘い薫りが漂い、床には絨毯が貼られ、天井には洒落た電気が吊るされています。灯りは他には無く其れに頼った薄暗い部屋に丸いテーブルが八つと、各々革の張られた回転式の丸い椅子が四つ有ります。指定の椅子に座ると、またも仮面を付けた人間が直ぐに強い酒が注がれた朱の切子グラス置いて去っていきました。私の他にまだ客は二人居るだけで、殆どの椅子は空席のままです。私は一番後ろのこの席が気に入って居ました。揚羽からは少し遠いですが舞台が正面に見えますし、狭いので特に差し支えは無く、人が見えるからです。案内された客は静かに酒を呑んでいる者、テーブルに突っ伏し寝て居る者だけでしたが、此処に来た客は席が近くても口をきかず、酒を注ぎ合うでも無いのです。目的は唯一つ、揚羽を観に来たのです。そして、その時を静かに待って居ます。
私は酒は呑めないので、グラスを触る事もせずテーブルの上で手を交差させていました。段々音もなく仮面の客が増え始め、席は埋め尽くされて行きます。グラスをテーブルに置く音が響き、音の数が増えると共に少しずつ時が近づくのを感じ、客達は落ち着きなく椅子ごと身体を前に向かせました。私も胸の高鳴りが耳に聞こえ、落ち着かせるため酒を一舐めし仮面の穴から舞台を見続けました。
途端暗闇に包まれ、舞台は淡い蒼の光で一杯になります。客の一人一人が自分だけに聞こえる様な声で揚羽の名を呼びました。まるで何年も逢う事が叶わなかった恋人に逢えたかの様に。ですが、光の中に揚羽が出て仕舞えば喜びも哀しみに変わって仕舞うのです。
私を含め皆がそう感じて居るのではないのかと感じていました。中には出てきてはいけないのだと諭すような呼び方をする者も居たからです。
臙脂の幕は何時も舞台の脇で半円を描き、揚羽は其の左側から出てきます。蝶が宙にぶらり舞う様に中央まで歩いてくると、両手を広げ頭を下げました。耳の下で揃えられた黒く流れる美しい髪、瞳を隠す黒い布を巻き、化粧で口が両方に裂けている様に描かれています。薄く透けた服の中に小さな乳房が見え、その下は脚の細さが良く解る様に軽い羽の様な物が幾つも重ねられている物でした。靴は履いておらず、足首には細い紐が括られていました。揚羽は自分の肩に手をやり抱き締め、後ろを向きます。自分が蝶なのだという事を私達に訴える様に、骨ばった背中一杯の朱い蝶の羽を魅せ、そうして幾分か立ち止まった後に、踊り出すのです。音楽は無く、揚羽の裾や身体を動かす音だけが空間には響いて行きます。何の躍りを踊っているのかは解りませんが、思うに「バレエ」というものではないかと考えました。揚羽の踊りには始まりも終わりも無く、今まで居たのかいつ去って行くのかも解らず、喜びや幸福など知らぬ事が手に取るように感じ、此方は絶望へ手招きされる様に彼女の踊りに祈りを捧げて仕舞うのです。しなやかに柔らかく少女の様に、蛹が蝶に孵ったばかりの覚束無い飛び方で舞う揚羽は、時には転び躓き、鳴くことを堪えて立ち上がります。私も客達も揚羽を食い入る様に見つめる他には手立てがなく、一瞬も逃したくない一心で揚羽に夢中になりました。その内、暗闇に橙の街頭が灯る様に、私の胸の中に一つ一つ蝶が舞う速度で灯りが点き始め、そして愛情が蜂蜜がとろりと指から零れ落ちるように染み込んで行ったのです。