7話 その日
風は不安を連れてくる。悲しみも連れてくる。
風はいつまでたっても、喜びを連れてきてはくれない。
* * * *
昨日の教訓を活かしてか、彼女は目覚ましのベルを止めると同時に掛け布団をはいで、ベッドから離れ、きびきびと髪をとかしだした。
案の定家の一階には誰も居らず、各々の部屋でいまだ深い夢の世界で寝息をたてているのだろう。
時間はまだ早いはずなのに、日の明るさがリビングにさしこんでいた。なんだか珍しい日だ。
そんなことを気にもとめずにキッチンに立った彼女は、素早く食パンをトースターに入れて、冷蔵庫からジャムとマーガリンを取り出した。
苺ジャムとマーガリン。彼女のお気に入りの組み合わせだ。
食パンを形よくさしこまれたトースターは、昨夜彼女の父親が知人にもらってきたものだ。彼女の好きな赤色をしていて、所々に黒が注されている。
トースターの初仕事が彼女の今朝のトーストということになる。
食卓テーブルの端に置かれたトースターの起動を、覗きこんで確かめる彼女。
髪の毛がサラサラすべる。それに気づいた彼女は、左の小さな耳に髪をかけ、毛先辺りに触れて背中へと流した。マフラーを巻いてばかりいる彼女の白い首筋があらわになり、彼女の向こうにある流し上の擦りガラスからの光に照らされる。
輪郭がぼやけて、でも存在がはっきりする。
トースターの起動を確認した彼女は、食卓テーブルに対の椅子に座り、背にもたれた。
昨日、彼女はいつもよりベッドに早くはいり、眠りの時を待っていたのだろう。それでも思うように寝つけず、何度も寝返りをうっていた。かと思えば、左に顔を枕に倒し、目をとじることもしないで、大きな動きをしなくなった。時折、枕にうまる頭を動かして首を傾げていた。
チンッ、トスッ
高い機械音に驚いて、椅子に座る彼女の上半身がビクッと上下した。目をあけると、すぐにとびこんできたトースターの中から、食パン改めトースト二枚が勢いよく跳ねた。
彼女は慌てて立ち上がり、トースターからトーストを取り出した。まんべんなくこんがり焼きあがったパンをお皿にのせると、彼女は目をぎゅっとつぶり、まばたきを数回した。
温かい表面にバターがスッとなじみ、苺ジャムがかぶさると、あっというまにおいしそうな朝ごはんとなった。
きちんと椅子に座りながら、彼女は朝ごはんをおいしそうにいただいた。
トーストを食べるサクサクとした音と、冷蔵庫の作動音だけが、部屋いっぱいに広がっていた。
甘い甘いジャムの匂い。
あまり風が強くなく、やっぱり普段よりも日の暖かさが強い日だ。家を出て、はじめての風が彼女に触れる。
彼女はふふっと笑い、白いマフラーを緩めに首に巻きつけた。
それが赤いコートによくはえる。
坂を上れば、そこには広がる世界。
長く一本の道路が続き、細かく分かれる小道や、隣同士くっつき、つながれた家々。
彼女の通う学校の校舎も校庭も一望できる。
いつもの場所につくと、彼女は携帯で時間を確認した。振動でストラップが揺れる。
彼女は片手でパタンと携帯をとじると、一瞬澄んだ青空を見上げた。青と言うよりも、水色くらいの薄いもの。
「あと、七分くらいかな……」
穏やかそうに柔らかく息と声が、彼女の口からこぼれる。
今日はなんだか、真冬の朝とは思えない。日差しや風も空気も。すべてが暖かさをおびている。そんなこともあるのだろうか。
はじまりは驚きを。いつしか安心を。そして、また変わるもの。
与えてくれることの佳。
「おお、今日も早いなー」
フェンスに背を向けているための後ろからの低い声に、彼女が振り向く。
「大山先生!」
フェンス越しに立つ一人の男のが目を細くして笑う。
「今日は比較的あったかいけど、温かくしてないと体崩すぞ」
大山先生は腕を組むような形で、両腕を両掌でさする動作をしてみせた。“寒い”の動作をする大山先生が着ている紺色のジャージは、上着の前が全開で、中の白いTシャツが大幅に見えている。
「おはようごさいます」
ふふっと顔全体をほころばせながら笑う彼女。
「ああ、おはよう」
そう言う大山先生の向こうがわ、遠く。サッカーボールを出している男子生徒が、彼女の目に入った。
「サッカー……」
彼女はほろっと小さくつぶやいた。
「ん? ああ、あいつらか。朝早くから大変だな。まあ、俺が収集してんだけどな」
大山先生は、サッカー部の顧問。人柄の良さと、スポーツの得意さを合わせ持つ、生徒に好かれている体育教師だ。
「こんな朝早くからやるだけあってな、サッカーは楽しいぞー、佐々木」
彼女の方に真っ直ぐ向いて、大きな顔をフェンスに近づける大山先生。
「そうですか」
サラッと答える彼女に、大山先生は前のめりに倒れるような動きをした。
「まー、なんだ、その…」
大山先生は頭をかきながら、バツが悪そうにやや下を向き話しだした。
「そんな早くくるなら、うちのマネやってくれ」
言い終わると大山先生は、大きな顔の小さな目で彼女の顔を見ると、ふっきれたように変に息を吐き、下唇に舌沿わせた。すぐ後、おもむろにジャージのファスナーをあげて、体を震わせた。
「うちの部にも、お前さんを見てるやつがけっこういてな。ほら、フェンス越しに立つ美少女ってな感じらしいぞ」
頬を指でぽりぽりかきながら、足下の土を耕しだす大山先生。
彼女はぽけーっとして、大山先生を見ていた。顔と土まみれになっていく靴を、ゆっくりと交互に見合わせている。
「サッカー部には丸見えだからな、お前さんの姿」
フェンスの枠組みの所を触りながら、大山先生は小さな声で言った。
「そんだけだったら、まあ、いいんだわ」
大山先生はフェンスに背中から寄りかかり、グラウンドに目を向けた。
「佐々木、フォワードって分かるか?」
「フォワード……。サッカーのポジションですよね。一番前にいる」
ああ、と大山先生は白い息を吐いた。
「一年にな、お前さんと同い年だな。ちょっと見込みあるやついるんだよ。そいつが、そのフォワードでな」
ほらあいつだ、と大山先生は遠くを指さした。ボールをもちながらも、すごい速さで走っている。ドリブルというものだろう。
「プレーに性格がでてんだな。前のめりになるんだよ。だが、無器用なりに頑張る奴だ」
彼女からは大山先生の斜め後ろからの横顔しか見えていなかった。でも、暖かに無器用な優しい声は彼女の耳にも届いているはずだ。
彼女は黙ってマフラーに手をかけ、巻を少し強くした。
「まあ、将来のエース候補ってやつだ」
大山先生は空を見上げた。すずめが雲の間をぬうように飛び、消えていく。
雲さえ流れれば、ただの澄んだ水色になるのに。
「……なんだけどな」
サッカー部と野球部の部員が、だいぶ集まりだしたらしく、グラウンドは活気づいてきた。その中で、大山先生ははっきりと声をだして話し始めた。
「なのに最近朝練に遅れてくるわ、風邪ひいて休むわで困ってるんだ」
大山先生の腕組みをしていた力が弱まり、少しだらんと形が崩れた。
「大変ですね」
「……俺はな、けっこう朝早くから職員室にいるんだよ。んで、数日前、お前さんとうちのを見てな」
いつのまにか大山先生は顔を横に向けていて、彼女からはまったく見えなくなっていた。
「はい? 私と、うちの……?」
彼女の問いは、空気に吸い込まれてしまったようだ。野球部のランニングの掛け声が、グラウンドに強く響いている。
サッカー部員の集まりはまだまばらで、ボールを取り出して練習しているのは四、五人程度だ。
大山先生は、あれきり黙ったままだ。
話しが終わったのか、次の言葉を探し選んでいるのか。
彼女は何も分からず、なんとなくサッカー部の部室小屋を眺めていた。部室小屋の前のセメント床上あちこちに、既に練習している人たちの物であろう鞄や服が放られている。
彼女は毎朝、ほぼ同時間にここに来ているので、ここの風景を何度も見たことがあるはずだ。野球部やサッカー部の存在も知っていた。いつも背中に受ける響いた声が、それを教えてくれた。
さっき大山先生が“エース候補”と指した生徒が、部室小屋に近づいていくのを彼女は見ていた。どうやら水分補給のようだ。
彼女の所からは、その生徒の物と思われる鞄で何かごそごそしている程度しか見えなかった。彼女には、屈んだその生徒の体が横から綺麗に見えていた。
水分補給が終わったらしいその生徒はタオルで顔をなぞり、それを頭にかぶせ、片手で鞄を持ち上げた。
水色の布が鞄から離れ、するんとセメント床に落ちる。
するとその生徒は、頭にのせたタオルが落ちることも気にせず、慌てた様子で床に横たわる布を手にして汚れを払っている。
その光景を見た彼女の口から、声にならない言葉が放たれた。
「あ……あの人……」
ほとんど吐く空気でしかないその発言を耳にしたからなのか、大山先生が不意に言葉を発した。
「お前さんに、惚れてるんだろうよ」
彼女は大山先生の顔を見ようとしたが、やはり彼女の立ち位置からは見ることができない。
お互いに言葉を発することもなく、一人の男を見ていた。水色の布を大切に手に持ち、部室へ入っていく男。
大きな音をたてて通りすぎるバイク。その音は、彼女の背中に受けとってもらえることなく、寂しく澄み消えた。
約束(?)よりまたまた遅くなりました(>_<)
特別な私事情もありまして……。
しかも予定よりも文字数が増えたのです。すべてあの大山先生のせいなんです。お喋り好きはニガテ……。
すみません。言いわけはやめます!
次は23・24・25日に…なんとか間に合うよいにしたいです。
感想や指摘など待ってます。では、読んでいただきありがとうございました(゜∨゜)