第 1 章 適応するもの (1)
※ 1 年を 900 日から、 350 日に変更しました。 1 年 は 12 ヶ月です。
※ 同時に、リティが 5 歳 → 12 歳になります。
1.1. 建国暦 4220.03.01 : センダー都市 - ディー家
雷を伴った夕立にあったと思ったら、突然、着の身着のまま言葉も通じない世界に飛ばされ、犬だの猫だのが混じった人間がいるわ、人々の価値観が違うわ、怪物はいるわ、怪物を殺すわで、これほど激動の時間を送ったのは、人生初まって以来だ。
だったら平和な日本に帰りたいかと言われれば、さにあらず。
俺は基本的に、安定するまでの未完成な状態が好きなのだ。工夫を凝らし、少ない労力で最大の成果が出せる環境を作り出すのが趣味なのである。仕事でも私生活でも。
人生最大の目標である遺伝子治療が成されたとき、俺は達成感を得てしまった。それ自体は喜ばしいことなのだが、惰性のまま開発した第四世代以降のナノマシンは、俺にとっては余興でしかなかった。
熱しやすく冷めやすい性格なのだと思う。
両親は死んでいるし、友人知人はいるが、恋人はいないので、地球に未練はない。残された遺産は、ナノマシン研究に役立てられるよう弁護士に手配済みだ。
もともと海外旅行に行こうと考えていたくらいだから、それが異世界旅行になったところでどうということはない。旅行期間が 1 ヶ月からおそらく一生になったくらいで。
地球を離れてから 2 週間が経った。
ローランドの単位で 1.5 旬経ったと言うべきか。上旬、中旬、下旬の旬だ。まあ、そんな言い方をする人間はいやしないが。素直に半月経ったと言えばいい。
ローランドと地球では、自転周期や公転周期が違う。時間の数え方も異なる。
単位系の異なる社会で暮らすことになったときに、自分の基準となる単位に変換しなければならないのが非常にめんどくさい。
例えるなら、生粋の日本人が、ヤード・ポンド法の国で生活する羽目になったようなものだろうか。
端末に変換表を作ったので何とかなっているが、端末がなかったら今頃は受験勉強の再来になっていただろう。
ローランドで使われる時間の単位は、次のようなものだ。
1 刹 : 地球時間で 0.3 秒ほど
1 間 : 1,000 刹 | 地球時間の 300 秒 = 5 分ほど
1 刻 : 10 間 | 地球時間で 50 分ほど
1 日 : 30 刻 | 地球時間で 25 時間ほど
1 旬 : 10 日
1 月 : 30 日 | 3 旬
1 年 : 12 ヶ月 | 350 日
刹・間・刻というのは、秒・分・時と概念が異なるために、俺が適当な字を当てたものだ。
20 刻 5 間 とか言われてもピンと来ないので、時間用プログラムを作って、地球の 1 秒を単位時間とする 25 時間表示の時刻と、ローランド時間の 2 種類を、ブレスレット型端末に表示させている。
20 刻 5 間 0 刹なら 17:05:00 と分かって便利なのだが、刹の単位が目まぐるしく動くので、ストップウォッチで時間を計測している気分になる。
ちなみに時計は、 29 刻 9 間 999 刹 、地球の時間単位で 24:59:59 の次でゼロカウントされるようにプログラムを組んでいる。
時刻は 1 週間くらい使っていると狂ってくるから、 1 日は 25 時間より少し短いようだ。正確なデータが分かったら、プログラムを修正しようと思っている。まあ日常生活では少しのずれは気にならないから、優先度は低い。
ローランドでは、 10 と 3 という数字に、頻繁にお目にかかる。
単位系も 10 の 3 乗ごとに繰り上がる。千が 1 エル、百万が 1 エルトと、 SI 単位になれた日本人には、直感的に理解しやすい。ちなみに SI 単位というのは、マクドナルドのハンバーガー、メガマックとかギガマックとかのあれだ。
距離に関する単位も色々あるが、良く使われる 1 尺 が 0.6 m 程で、 3 尺が成人男性の大きさとなる。
俺は常に日本語で思考しているので、 10 エルト尺なら 6 km というように、地球の単位に変換して考えることにしている。
この世界にやってきてから半月の間、ローランド語の習得に励んでいた。
ローランド語の教師は、ディーの娘さんだ。
俺の学習は、自分で言うのも何だが、極めて効率的だ。特別頭がいいわけでもない俺が、半月でローランド語の日常会話に不自由しなくなったのは、第七世代ナノマシンの恩恵に与っているためだ。
第七世代の真価は、医療よりむしろ学習効率にこそある。細かいことを言えば、そういう効果を目的とした医療マシンだから、当然と言えば当然なのだが。
例えばこんな感じだ。
ローランド語の『ありがとう』を覚えるとしよう。リティちゃんの合格がもらえれば、それは正しい発音だということだ。
俺はそのときの電気パルスを、ブレスレット型端末に、『ローランド語 - ありがとう』で登録する。あとは電気パルスを第七世代に再現させれば、完璧なローランド語の『ありがとう』が発音されることになる。
これだけでは、単に自分の身体を発声マシン代わりに使っているに過ぎないが、数回繰り返せば、正確すぎる電気パルスの影響で、脳内には新たなる神経回路が形成、もしくは強化されることになる。
そうなれば、自分の意思で、いつでも再現が可能だ。
発音ができれば聞き取りも可能なわけで、同じ要領で語彙を増やしていけばいい。文法に関しては、パターンさえ把握してしまえば、同様の方法で習得可能だ。
現在俺は、ディー家のやっかいになっている。
本来であれば、ローランドに流れてきた難民のように安い賃金でこき使われつつ、言葉や生活習慣を覚えていかなければならないところだったが、蟲を倒した俺の身柄をディーが預かってくれたのだ。
ただ居候というのはプライドが許さない。感謝の気持ちを込めて、奥さんに蟲の報奨金を渡しておいた。
お陰で一文無しだ。
この半月で言葉は覚えたし、そろそろ仕事を探そうかと思っている。戦ったり守ったりは趣味じゃないので、警備隊は遠慮したい。何かの研究チームに入れればベストなのだが、俺のような門外漢を雇い入れるはずがない。
そうそう、この世界には冒険者という職業というか、生き方がある。衛星からの走査が期待できないこの世界では、未開の地が数多くあるので、測量した地図を売ったり、貴重な植物や鉱石を持ち帰って生計を立てるものがいるのだ。
地図を作るには調査チームが必要で、大金がかかる。それは論外にしても、動植物ハンターなら現実味がありそうだ。一発当てれば後の人生を遊んで暮らせるくらいの大金が入るらしい。ほとんど山師みたいなものだ。
これまでの人生の反動か、そういうふらふらした生き方もいいかな、と思っている。冒険者に聞かれたら怒られそうだが。
個人的に魔法を研究するのもいいかもしれない。とりあえず今日は、冒険者ギルドに行って詳しいことを聞いてみる予定だ。
俺の朝は早い。 6:00 には起きて、身だしなみを整えている。夜はやることがなくて、早く寝るからだ。
薬草から抽出したゼリー状の歯磨き粉をブラシに付け、歯を磨く。水道の水で顔を洗い、タオルで顔を拭く。
地球も異世界も同じだ。
上下水道は完備されているし、シャワーもある。残念ながら風呂はなかった。その代わりに、銭湯がある。この 2 週間で 2 回行ったが、よっぽど風呂好きと思われている節がある。
日本人ですから~。
銭湯は主に、自宅にシャワーがない人たちが利用するらしい。
「シドー小父様!」
駆け寄ってきたリティちゃんに抱きつかれた。どういうわけか、えらく懐かれているのだ。
リティちゃんは 12 歳だ。ちなみに、ローランド国の成人は 16 歳だ。
狼族のディーと、人族の奥さんとの混血である彼女は、 3 : 7 くらいの割合で、狼族の特徴が出ている。
銀色の髪の毛の上にぴょこんと出ている狼の耳。ふさふさの尻尾。それらはディーの血を受け継いでいる。
一方、奥さんの美貌を受け継いでいるだけあって、将来が楽しみな美少女だ。腕や顔には毛がなく、つるつるぴちぴちだ。若いねえ。
「おはようございます、リティちゃん。今日は早いですね」
ローランド語に不自由しなくなったのはいいのだが、教科書のような丁寧語になってしまったのが難点だ。
「ちゃんは要らないよ!」
何度か注意されている俺は、苦笑して、了承した。
「分かりました、リティ。これでいいですか?」
「うん!」
「今朝も元気ですね。ところで、どうしてこんな早くに? いつもなら、後 2 刻は寝ているでしょう」
「だって今日は実習の日だもの。隣町まで商品を買い付けに行って、中央区の市民広場で売ったりするの」
リティちゃんは俺のお腹に頭をこすりつけ、ぐりぐりしている。ああ、リティと呼ばないとまた怒られてしまうな。
「それはすごい。どんな商品を扱うんですか?」
何となく俺もリティの耳や頭をぐりぐりしながら会話した。
「無難なところだと、マカの花かな。センダーだと品薄なんだけど、北の町では温室で栽培してるから安くなってるの。でも、私の狙い目はルルルカの実ね」
リティは気持ち良さそうだ。俺のテクニックを体感した近所の野良猫は、喉を鳴らして喜んでいたものだ。
「それはまた、どうしてですか?」
「毎年この時期にセンダーまで売りに来ていた商人が、隣町で足止めされているんだって。今年はあまり数がないみたいなんだけど、センダーなら間違いなく売れるから、仕入れてみようかなって」
「それはまた不思議な情報ですね。商人にとって都合の悪い情報を流されるなんて、嫌われているんでしょうか?」
「うーん、どうだろう?」
「ルルルカの実は、北の国が原産でしたね?」
「うん」
「では、南に下るほど値段も上がりますね」
「そうなの。入荷するときは一気に出回るんだけど、今はあまり入ってないみたいだから、ちょっと高くしても売れると思うの」
「ところで、実習は毎年この時期に、北の町でやると決まっているんですか?」
「毎年 3 月にやるけど、北と南に交互に行くみたい」
「ふむ? 規則性があるんですか。私がその商人ならこんなことを考えるかもしれません。
北で仕入れたルルルカの実を、効率よく捌きたい。
南に行くほど高値で売れるが、人件費も輸送費もかかる。
大量に仕入れて、ある程度高値で売れば、相対的に大きな収益となります。
そういえば、この時期は実習生が大勢来ますね。
彼らにルルルカの実を売ることができれば、楽に捌けるんですが」
「えっ! それって商人がわざと噂を流したってこと!?」
「まあ、あくまで可能性の話です。
この話で心配な点が一つ。
すべての実習生がルルルカの実を仕入れたら、供給が過剰になりませんか?
皆がルルルカの実を売っていたら、商品価値は下がるでしょう」
「う、そうかも…… そういう危険があるなら、別の商品を考えてみる。
ありがとう、シドー小父様!」
「話が事実と決まったわけではありませんよ。利益が出そうなら、あえて乗ってみるのも商売ですよね」
教師が実習用に仕掛けたトラップの可能性もあるしな、と考えつつアドバイスする。
「失敗も授業の一環なのでしょうし、あまり慎重すぎるのもどうかと思いますよ。失敗しても損失は少ないでしょう。
それよりも、失敗したときに何かを得られれば、失ったお金よりもはるかに重要なことが学べます。それは今後の人生にとても役に立つはずです。
さらに情報収集していくことで、どれが流された情報で、どれが流れた噂なのかを判断できるようになるかもしれません。
陥れようとしている人間の雰囲気なんかも、分かるようになるといいですね」
リティはうっとりした目で見上げている。
灰色の脳細胞力に恐れ入ったのか、と思ったら、違った。
つい癖で髪を撫でていたからだ。ずいぶん前に別れた恋人に影響を受けたかな。その手の趣味はないから、子供を撫でていると恥ずかしくなってくるのだ。これが動物だと、癒されるのだから人間の感覚は不思議だ。
「ほらほら、もうすぐ学校に行くんでしょう。早く顔を洗って歯を磨いて下さいね」
俺は手を止め、身支度を促した。
「は~い」
昔は俺も母親にそんなことを言われてたな。俺は懐かしさを覚えつつ、洗面所を後にした。
ディー家は 3 階建ての 4LDK で、 3 階にディー家夫妻の 2 部屋、 2 階がリティともう一部屋、 1 階にリビングやキッチン、バスルームがある。俺は 2 階の部屋を間借りしている。
バスルームを後にしたその足で、キッチンに向かった。パンを焼いているシヴィルさんがいた。リティのお母さん。言い換えればディーの奥さんだ。
「おはようございます。シヴィルさん」
「おはようございます。シドーさん。今日も早いですね」
「シヴィルさんは今日も綺麗ですね」
「ええっ!」
じっと見つめていると、頬が薄く染まってくる。恥らう姿は、一児の母とは思えないほど若々しい。
別に口説いているわけではない。崇拝しているだけで。
映画、テレビ、絵画、写真など全ての媒体を通して、彼女ほど美しい女性にはお目にかかったことがない。
人族特有の滑らかな肌は、透き通るように白く、ゴージャスにカールした髪はプラチナブロンドで、シルバーの瞳によく合っている。
高すぎない鼻に、ふっくらとやわらかそうなピンクの唇は、凛々しさの中にも可愛らしさが同居している。
「神話の世なら、美の女神の嫉妬を受けるくらい美しいですよ」
その言葉に誇張はない。それなのに、この家の人間ときたら、俺の言うことがいちいち大げさだと感じているのだ。
この世界の美に対する価値観が、地球のそれとはやや異なるのを知ったのは、最近のことだ。
この世界では、顔立ちが整っていることはもちろんだが、目の色の濃さが美醜に影響する。つまり、白目の部分がほとんどない、黒目がちな人が美しいと思われている。
シヴィルさんは色が薄い目をしている分、ややマイナスの印象を与えているため、容貌はパーフェクトなのに、そこまで美人じゃないと思われてしまうのだ。
ただ、ローランド基準で見たときに、シヴィルさんが美しいというのも事実で、結局は俺一人が大げさに騒ぎすぎると思われている。
「またからかって! そんなことはありませんよ」
シヴィルさんはワタワタし始めた。薄紅色に染まった頬が赤みを増した薔薇色に変わる。
何この可愛い生き物。お持ち帰りしたい。そんなことはしないが。
シヴィルさんの幸福が第一という大前提がある以上、俺がシヴィルさんを口説くことはない。口説いているように見えても、本心を素直に語っているだけなのだ。
「やっぱり! シドー小父様がまたお母さんを口説いてる!」
身支度を整えたリティが現れた。早いな、おい。
「人聞きの悪いことは言わないでください、リティ。本心を言葉にしているだけで、他意はないんですよ」
「誤解するから! そういうこと言っちゃダメ!」
どういうわけか、俺の考えはあまり支持されない。
「それに、何で私には言わないの!?」
「言葉にしなくても、態度には現しているでしょう?」
俺はリティの頭をぐりぐりした。
「む~」
シヴィルさんは機嫌が良さそうに、テーブルに食器を並べ始めた。
「ほらほら、シヴィルさんを手伝いましょう」
リティは納得しがたいような顔で、それでも素直に言うことを聞く。
テーブルには、焼きたてのナンに、穀物と緑黄色野菜のスープに、薄切りのハムに、サラダが並んだ。
シヴィルさんの旦那が、匂いに釣られて起きてきた。
ディー家の食卓が始まった。