序章 Hello, Another World ! (3)
0.3. A.D. 2022.08.15 : 東京 - 地下研究所
虎次郎の眼差しは、鋭く前方を睨みつけている。
次の瞬間、烈火のごとき気合が発せられた。
「超究武神覇斬!」
一流のアスリートにさえ不可能な動きで、研究室の中央に置かれた巻き藁が、見る間にばらばらになっていく。
「ドゥウェィ!」
止めの一撃を受け、巻き藁は倒れた。
「ゼイ……ハァ……」
しばらくの間息を整えて、虎次郎はニヒルと思っている笑みを浮かべた。
「5 倍速の動きもこなせるようになってきた」
3 ヶ月も地下に篭って何をしていたかと思えば、虎次郎はネタに走っていたようだ。しかも、持っているのが刺身包丁なのがかっこ悪かった。
汗だくで座り込んだ肉体は、 3 ヶ月でさらに筋肉質になり、科学者のものとは思えないほどに引き締まっていた。
いっそ、特撮ヒーローに転職するのもありだった。スタントマンも映像効果も不要とあっては、低予算で作れると監督が泣いて喜ぶだろう。
「かめはめ波はただのスタンガンだったが、超究武神覇斬は形になった。これで勝つる!」
壁に埋め込まれたディスプレイには、嬉々として刺身包丁を振り回す映像が流されている。それは現実の動きのはずなのだが、倍速で再生されているかのように現実味がない。
「思い起こせばあっという間の 10 年だった。ほとんど休んでねーぞ。つーか休んだ記憶が無い。あぁ、 1 ヶ月くらいグァムに行こうかな。俺、白いビーチで黒いビキニのねーちゃんをナンパするんだ」
そんな度胸もないくせに、口先だけの男である。
「誰もいない冬のアラスカで、オーロラを見るのもいいな」
シャワーを浴ながら、暖かい方か寒い方かと悩む。
「発表は齋藤のとこでやらせるか。第四世代の時には散々迷惑かけてくれたし、そのくらいやらせても罰は当たらんだろ。田中さんがフォローしてくれるだろうし」
筑波研究グループに所属する悪友と、専属弁護士団の主任に押し付けようと企む虎次郎。
今度のナノマシンの公表は、第二世代ほどのインパクトはないが、発生する特許料という点ではそれに引けをとらないはずだ。しかも、それが 3 つもある。
利権に群がろうとする輩と、筑波の友人たちの間で、さぞ熾烈な闘争が繰り広げられるだろう。
虎次郎は遠く離れた地で、バドワイザー片手に高みの見物を決め込むつもりだ。
「ごくろうさん」
大きすぎる金には興味がない。どうせ使い切れないからだ。名誉とか権力といったものは、維持するだけの苦労に見合わないのではないか。性格的に向いていないだけかもしれないが、虎次郎はむしろない方がいいとさえ思っていた。だから、研究成果が誰の名前で発表されようとも構わなかった。
健康になり、両親の分まで生きると言う願いはほとんど叶っている。これ以上望むのは強欲というものだ。
つつましく暮らしていくには、問題ないだけの貯蓄があった。そのため、今回は受け渡しデータの整理すらしなかった。受け取ったところでやってもらう。
「気力も尽きたし」
全データを渡して終わりにするつもりだった。しかも、受け渡し時期に合わせて高飛びを目論むあたり、完全な他人事だった。
軽いのりでメールを送り、慌てふためいている研究者と弁護士の友人を他所に、虎次郎は新棟の屋上に向かった。
衛星追尾システムの調子が悪いので、調整をするためだ。
夕方になると、スパムフィルタをすり抜けた問い合わせメールが、スパム同然の勢いで増えていったが、虎次郎はまだ屋上にいた。
金に困っているわけでもないのだから、専門家を呼んだ方が効率は良いのだが、業者に電話するよりは、自分でやった方が面倒じゃないと思う程度に、虎次郎は人付き合いが悪い。
前触れもなく、雷鳴が轟いた。
めったにないほどの大きな音に虎次郎が驚いていると、間をおかずして雷光が閃いた。すぐさま、痺れるほどの大音量が響き渡った。
「近い!」
薄明るいグレーだった曇り空は、急速に暗黒色の雲で覆いつくされて行った。
雨が降らないうちに引き上げようと工具箱に片付け始めた虎次郎は、突如白い光につつまれた。
「え?」
避雷針に落ちたのかという考えが一瞬浮かび、意識が白い光に塗りつぶされた。
降り出したスコールが、開きっ放しの工具箱を瞬く間に水没させた。
その日、 1 人の科学者がこの世を去った。
虎次郎失踪後、第七世代ナノマシンが公表された。
第五世代と第六世代ナノマシンのデータは、落雷のために大部分が破損していたが、第七世代のデータは自宅兼用の地下研究所にあったため、無事だった。
研究室を恐ろしい速さで動き回って剣を振る姿や、両腕を突き出したポーズで掌から高圧電流を発生させている動画もあえなく発見された。
どちらかと言えば悪のつく友人は、変人の汚名を重ね着させることもなかろうと不要データのプライバシーを主張してあげた。幸運なことに、それらの動画は、テンパっていたときにシドーが書いた、筑波の研究グループに対する呪いの言葉と共に、両親の墓に収められた。
ところが、これらのデータは何年か後に流出し、世界中で人気を博することになる。
本人のあずかり知らぬところで、世界で最も有名な人物になると共に、 21 世紀最大のマッドサイエンティストとして、祠堂虎次郎の名は歴史に刻み込まれた。
拡張された新棟の研究所は国の管理に移り、ナノマシン研究の最先端を走り続けることになる。
やがて自宅兼研究所は歴史的建造物として保存され、その傍にある墓には、花が絶えることがなかったという。