第 2 章 魔法 (12)
2.12.1. 建国暦 4220.03.29 : ローランド国 - ザルト山脈
砂漠の船旅を終え、共同統治区からの帰路についた俺たちは、ザルト山脈上空に差し掛かっていた。
山脈は雲海の下に沈んでいる。紫がかった雲から山々の頂が突き出し、白く切り立ったジアムール山が悠然とたたずんでいる。飛び石状に突き出した山頂は隣の山頂とつながり、雲の上に稜線を作り出していた。それは幽玄の道のようにも、エーゲ海に浮かぶ島々のようにも見えた。
幻想的な光景。 88% の人々の同意は得られるだろう。
飛行体は快適だった。その安定感は抜群で、虚空の線路を進むかのようにぶれない。ジャンボジェット機よりも揺れが少ないのではないか。
しかも、 10 t くらいはありそうな重量を 8,520m 付近まで持ち上げるのだから、そのパワーたるや推して知るべし。地球の科学技術にだって引けを取っていない。正確に言えば、ジャンボジェット機はその 50 倍くらいの重量で飛行するのだが、魔力機関が 500 t どころか 1,000 t の重量を飛ばせない保証はない。科学力か魔法力かの違いはあるにせよ、興味深い技術だ。
生活環境を整えたら、魔力機関について本格的に研究してみたいところだ。もしくは魔石を研究するか。資金にゆとりがあるからやりたいことがやれる。生活基盤があってこその自由だと、改めて思い知らされた。
これからのことに思いを巡らせながら、俺は右舷の窓から絶景を堪能していた。
ふと、進行方向に違和感を感じ、目を細めた。これをやると柄が悪くなるらしいのだが、この際それは関係ない。
「エリアルさん、あの鳥、見えますか?」
「どこですか?」
エリアルさんが窓を覗き込む。
「この指の先に、まだ小さいですけど、分かります?」
飛行体の進行方向とは若干ずれているが、徐々に近づくシルエット。巨大な鳥だと思い込んでいたが、ド派手な蛍光色を持つ鳥はいない。それはこの世界の警戒色だ。
俺はエリアルさんと顔を見合わせ、パイロット席のエセルデに叫んだ。
「右舷進行方向に蟲です!」
「何!? どこじゃ! 見えんぞ!」
コ・パイロット席から駆け寄ってきたバルバドスが窓を覗き込んだ。
「どこだ!?」
「あそこです」
俺が指し示した先には、全長 4 m 程の、プレラノドンと蜂をブレンドしたような蟲が滑空していた。翼は蛍光オレンジだが、体色は白っぽい。蛍光色以外の色を持つのは高レベルの印だ。蟲に抱く生理的嫌悪感を除けば、機能的に洗練されていて美しいとさえ思える。
頭部には、生気が感じられない丸い目と、細長い嘴がまっすぐに生えている。嘴の先端が丸く膨らみ、キモかわいいキャラとして売り出し中だ。
胴体は胸部と腹部とに分かれ、繋ぎの部分は蜂のようにくびれている。胸部はほぼ球形。腹部は円錐型だ。
翼は 2 対、 7 ~ 8 m の大きな翼が胸部に生えている。そして尻尾は 2 m ほどの尾翼に状になっていた。それらは薄い皮膜で、翼を広げた姿はドラゴン級の飛行体よりも大きい。
バルバドスが舌打ちをした。
「爺さん、右前方に『吊れ去るもの』だ! まだ気づかれちゃいない!」
「左上方に進路を取って距離を置く!」
エセルデは逃げることを選択したようだ。
「レベル 6 くらいですか?」
「7 だ」
バルバドスが簡潔に答えた。
「最近は高レベルの蟲に遭う機会が多い気がしますね」
「俺が呼んだわけじゃねーぞ!?」
「そんなことは言ってませんが」
あせったように言い訳するということは、やましいことがあるのだ。きっと。
「逃げられそうですか?」
窓を覗き込んでいたエリアルさんが振り返った。
「ん? あー、無理だな」
俺もバルバドスと同意見だった。キモかわいい顔と見詰め合っているような錯覚。こっち見んな。
心の声が聞こえたわけでもあるまいが、『吊れ去るもの』は空中の一点でくるりと回転した。超信地旋回か。
「器用な……いっそのこと体当たりして沈めませんか?」
「あの嘴は鉄をも食いちぎるらしい。落とされることはないとは思うが、飛行体を傷つけるとエリアルが泣くぞ」
「泣きません!」
「では弓で落としましょう」
「準備します」
エリアルさんが左舷の席に駆け寄って、仕舞っておいた弓を組み立てた。
どうやら俺たちを獲物と認識したようで、ホバリングで様子を伺っていた蟲が向かってきた。
「エセルデ、来ます!」
「掴まっとれ!」
飛行体が魔力の流れを作り出した。飛行体はその流れに乗り、左方向へ滑り落ちた。
「ダアアァァ!」
「キャアアアア!」
安全バーのないアトラクションだった。乗員は当然のように振り回される。バルバドスは持ち前の反射神経で席にしがみついたが、移動しかけていたエリアルさんがバランスを崩した。
「魔力励起レベル 5!」
俺は即座に魔力の壁を作って、エリアルさんの衝撃を和らげた。しかし意識の大半を魔力操作に割いていたため、自身のことが疎かになっていた。
「あ、ありがとうございます――あぁ、シドーさはぁぁん!!」
つんのめって頭から落ちた俺は宙を泳いだ後、ほとんど反射的にシートに手をついて身をよじった。体を丸め、足を傾いた壁に向ける。
「10 点!」
自己採点で最高得点の着地だった。深々と膝を曲げて衝撃を殺すが、ちょどそのときに右ロールされたからたまらない。今度は床だった面が壁となり、背中から落ちた。
「カハッ!」
肺の空気が強制的に吐き出され、止めとばかりに後頭部を強打して火花が散る。
「ヌオォォ……」
「だ大丈夫ですか、シドーさんっ!?」
「え、ええなんとか……バルバドス、蟲はどこです!?」
「チッ、見失った!」
「左舷にいます! 左後方やや上 50 尺の位置!」
エリアルさんがいち早く発見した。
「こりゃ、振り切れんぞ!!」
「エセルデ! 左側面を一瞬でいいので蟲に向けられませんか!?」
「横っ腹を!? 自殺行為じゃぞ!」
「エリアルさんの弓と私の魔力で仕留めます! エセルデ、タイミングはこちらで指示します! エリアルさん、お願いします!」
「はい!」
「何てことじゃ!」
バルバドスが左舷の窓を開放している間に、俺は魔力の渦でエリアルさんを包み、床に押さえつける力を発生させた。エリアルさんが矢を番え、その時を待つ。
「エセルデ、今です!」
「ええい、どうなっても知らんぞ!」
俺は右手をエリアルさんに向け、左腕に練った魔力を集めた。左右の手で異なる作業ができるのは第七世代の恩恵だ。青白い輝きが渦を巻き、左腕からあふれ出しそうになる。
飛行体が遊園地にあるコーヒーカップのように回転し、蟲の姿が大写しになった。距離にして 20 m 。
エリアルさんの吐息とともに放たれた矢は、空気の隙間を縫うように『吊れ去るもの』の翼を貫く。正確にはその付け根に命中した。
クゥワアァ!
蟲が鋭く鳴いた。
先行動作として魔力を伸ばしていた俺は、蟲が魔力の先端に触れたとみるや、最大出力で魔力を押した。
「魔貫光殺砲!!」
俺の意思は螺旋状の魔力を伝わり、動きを鈍らせた蟲に致命的な一撃を与えた。
ヴヴヴ……
しかしそうはならなかった。
得意絶頂だったのも『吊れ去るもの』が透明人間のように消失するまで。吊り上げた唇が引きつった。
「消えやがった!?」
「そんな!?」
「外れましたよピッコロさん!」
「ヌワッ!? こっちに現れたぞ!?」
「爺さん逃げろ!」
「言われんでも逃げるわい!」
俺はエセルデに振り回されながら推測した。
「『吊れ去るもの』は魔力の気配に敏感なようです! 先ほどの感覚からすると、おそらく魔力での攻撃は効きません! 私はエリアルさんをサポートしてますから、バルバドスも何か投げて対応してください!」
「分かりました!」「分かった!」
エリアルさんが 2 射目を反対側の翼に射ち込んだ。
「ウオラァ!」
動きが鈍くなった蟲にバルバドスが短剣を投げ、胴体に命中させた。
クギャアアアア!
「見ろ! 当てたぜ!」
回転しながら飛んでいった短剣に見覚えがあった。
「私のじゃないですか!?」
「取りやすいところにあったんでな、悪ぃ悪ぃ」
何つー虎だ。同じことを 2 回続けて言うのは、心が籠もってない証拠なんだよ。
「くっ! 私の短剣が……」
エリアルさんが再度矢を射かけようとしたところ、またもや蟲が消えた。
「え!?」「お?」「あ……」
『吊れ去るもの』が消えたのは俺のせいではない。一瞬、ハヤブサのようなシルエットが見えた。俺たちは左舷に駆け寄った。
「どうなった!?」
エセルデが状況を聞く。
下の方向に、獲物をくわえ、悠然と翼を広げる鳥がいた。『吊れ去るもの』より一回り大きい。すなわち、このドラゴン級飛行体よりも。
「『吊れ去るもの』が食べられました」
俺は呆然と答えた。
「どういうこっちゃい」
「囁き鳥ですね……」
何その可愛い名前。
エリアルさんも呆然としていた。
全体的には、純白のスマートなシルエット。長い飾り羽が一対、虹色になびいている。細長い翼には鋭い風切羽が生えていて、細く鋭い嘴が、『吊れ去るもの』の頭を噛み砕いていた。
蟲は即死のようだ。美しい外見によらず、剣呑だ。囁き鳥は蟲がお気に召さなかったのか、ペッと吐き捨てた。
「ゲッ! 蟲を捨てたぞ! 爺さん下降してくれ! 素材を剥ぎ取りに行く!」
「よっしゃ任せろ!」
「臨時収入だ!」
そんなもんより俺の短剣を回収しろよ。
飛行体が急降下して股間がキュッと縮み上がる。
「エセルデ、免停にしますよ! もっとゆっくり!」
「間に合わんのじゃ! 我慢せい!」
キュル、キュルル、キュルルルルルル……
うおぉ、ハミングゑ……
「囁く鳥の由来です。こんな近くで見られるなんて、滅多にないんですよ」
「いい歌ですね」
「本当に歌ってるみたい」
「ところで、あの鳥は危険じゃないんですか?」
「無害なはずだ。基本的に人前に姿を現さねぇしな」
「バルバドスといると、珍しいものが見られますよね」
「私はシドーさんかなぁと」
エリアルさんがにこやかに笑みを浮かべた。
「そんなまさか……悪運はバルバドスと共にあるはず」
「妙なものとセットにするんじゃねぇ。俺はレベル 6 以上の蟲に遭ったことなんてほとんどねーぞ。シドーとチームを組んでからは立て続けだがな」
愕然とする俺を、バルバドスがニヤニヤと眺めた。
2.12.2. 建国暦 4220.03.29 : カーサシス州 - センダー都市
臨時ボーナスを回収した俺たちは、再び空の人となる。
極上の風景を堪能し、仲間とのおしゃべりに興じていれば、退屈さを感じることはない。エリアルさんとはリラックスして会話できている。往路ではお互いに硬かった雰囲気が、旅の間に緩和されたと思う。
あえて払拭と言わないのは、俺は人前で緊張感を解かないからだ。しかし、ここまでレベルを下げるのは珍しい。
考えてみれば、誰かと一緒に旅行したことはあっても、同室だったことはない。例えば 1 日の半分が研究発表や移動などで誰かと一緒だったとしても、残りは一人の時間だ。それが今回の旅では、一人になれる時間の方が少ない。
他人との距離感が短くなっているのかな? いや、性格はそう簡単に変わらない。これは環境に適応したと見るべきだろう。自分の家に住み、プライベート空間を持てば、一人でいるのが自然になるだろう。
結局のところ、自分の性格を直そうという気がないのだ。我ながら難儀な性格だとは思うが。
アメリカの取引先と対等に付き合うために、常に躁状態でいなければならない知人などは、その弊害で睡眠薬がないと眠れなくなっているらしい。そんな体質は御免だった。
ザルト山脈を越えるとセンダー都市はもうすぐだ。飛行体は徐々に高度を落としていく。俺は高速エレベーターの浮遊感を味わいつつ、地上がクローズアップされていくのを眺めていた。
軽い接地感。
「お見事」
エセルデは、外見に似合わず繊細な操縦をする。戦闘中もそうならいいのに。まあ繊細なドッグファイトをして死ぬよりマシか。
「連絡を入れるから通信用魔具のチェックを忘れんようにな」
「はい」
「またな」
バルバドスが肉球のついた手を広げると、とがった爪が顔を覗かせた。怖いからそれやめてくれ。
「お疲れ様でした」
俺は右手の親指から中指までを揃えて振り、虎熊コンビに別れを告げた。あっさりしたものだ。
ガルウィング式のドアを跳ね上げると、靴の下に踏みしめられる土の感触。石と砂の世界のものとは異なる風が俺を包み、流れて行った。
「センダーよ。私は帰ってきた」
風は西から吹いていた。海からの水分を含む湿った風は、センダー都市を通過してザルト山脈に衝突し、大量の雨や雪を降らせる。水は山脈に蓄えられ、地下に染み込み、膨大な地下水脈となる。大半は海へと戻るが、その一部は気の遠くなるような歳月をかけて砂漠の下を通過し、やがてオアシスへと湧き出すのだ。
「砂漠とは風が違う」
バルト砂漠に吹いたのは乾いた風だった。どこかの虎族ではないが、俺は西側の風土が性に合っている。あのような極地は、たまに行って感動が得られれば良いのであって、住みたいとまでは思わない。
ともあれ、砂の海からザルト山脈を越え、陸・砂・空を制した俺たちの、実に半月ぶりの帰還となった。
「それではシドーさん」
「ええ、エリアルさんもお気をつけて」
扉の向こうに消えるエリアルさんに手を振ると、笑顔で振り返してくれた。
ドラゴン級飛行体はそのクラスに相応しいパワーで上昇し、中心区の方角へ飛び去った。
惚れたぜ。
見る間に遠ざかる機体。しかし個人用のジェット機以上の高価さとあっては、到底手にすることはできない。
夕暮れの肌寒さに吐息を一つ、リュックサックを背負った俺は、手土産を片手にディー家の門を潜るのだった。
玄関に備え付けられたベルは低音の鐘の音だ。扉越しにかすかなスリッパの音がした。パタパタという音が近づいて来る。姿を現したのは驚くリティ。ディーの血を受け継いだ狼の耳がピンと立ち、俺は微笑を浮かべた。
「ただいま戻りました、リティ」
「シドー小父様!」
俺の顔を見るや否や、リティが抱きついてきた。半分面映く、半分まんざらではない気持ちだ。
半月の間顔を合わせないだけで、 10 年ぶりに会った家族のように懐かしい。俺は思っていた以上に、この少女に気を許していたようだ。
「んー?」
リティの様子がおかしい。得意のぐりぐりをしてこない。猫が車の前で身動きできなくなったかのように、固まって動かない。良く動いてつい触りたくなる耳も、ぺたんと伏せられている。
リティの顔を覗き込んだ。いつもなら、喜怒哀楽で最初か最後の感情を浮かべているはずの表情は、 3 番目の感情に彩られているようだ。
「どうしたのですか?」
「……お父さんが……怪我したの」
放心状態になった。フリーズした思考が 3 秒後に再起動するが、考えがまとまらない。
「ディーは病院ですか?」
「うん」
「どんな状況か分かりますか?」
「腕に深い傷を負っていて、一時意識がなかったの」
「重体ですって!?」
「あ、でも、お母さんから意識が戻ったって連絡があったの」
俺は深く息を吐いた。最悪の想像が頭を過ぎるのは、両親の訃報を経験しているせいだろう。冷たい水銀を飲み込んだように胃の辺りが重くなる気分は、何度も体験したいものではない。
「お父さんは強いし、お母さんが看病しているから、大丈夫よね……」
「もちろんです」
俺は心から頷いた。最高の医師を集めてでも、ディーを治さなければならない。
「ディーが怪我を負うなんてよほどのことでしょう。いったい何があったんですか?」
「蟲の襲撃。いつもより大規模な……レベル 6 の蟲が出たんだって」
また高レベルの蟲か。普通はレベル 4 程度までしか出てこないらしいが、最近はやけに高レベルの蟲が出没する。いったいどうなってるんだ?
「警備の人が何人も死んだんだって……」
想像していたよりずっと大事のようだった。
「それはいつのことです?」
「昨日の深夜。ずっとサイレンが鳴ってたわ」
俺は天井を仰いだ。
「1 日違いでしたか。もっと早く帰って来られれば……私のチームが立ち会っていれば、被害はもっと少なくて済んだでしょうに」
詮無き言葉ではあったが、慨嘆せずにはいられなかった。
「ううん、小父様の依頼が大変だったのは知ってるもの」
「砂虫は比較的早くに倒せたのですが、船で補給物資を届けて回ったので、任務完了まで時間がかかってしまいました」
「いいの。小父様が無事で良かった……本当に」
リティはしがみつく腕に力を籠めた。
「お父さんみたいに怪我しちゃダメなんだから」
「私なら大丈夫。身の程を弁えていますから、危険なことには首を突っ込みません」
冗談めかして言うが、リティの顔は晴れなかった。
この場にディーやシヴィルさんがいれば、こんな顔はさせておかないだろう。俺は柄にもない使命感に囚われた。そのためには、自分自身の気分を切り替えることが必要だ。イメージするのは神父。穏やかな心。
俺は心を開放し、社交的な自分をイメージした。酔ったときや、研究発表などで活躍する分身に、言動の一部権限を譲渡する。
俺は微笑を浮かべた。
精神が肉体に影響を及ぼすなら、その逆も可能だ。普通の人は楽しければ笑うし、悲しければ泣く。逆に、笑みを浮かべれば楽しく感じられるはずだ。例え効果が 1% であったとしても、 0 よりはマシだ。
世界は夕暮れから闇に染まり、やがて白光の目覚めを迎える。当たり前のことが新鮮だった。リティをより愛しく思う。日常の俺を俺足らしめているロジックが変調したため、感情面が強調されているのだ。これは自己催眠の一種だ。
単調な日常を繰り返していくと精神が不活性化してしまい、ちょっとしたことでは刺激を感じなくなることがある。日常の中にも、あらゆるシーンで変化はあるはずなのに、それに気がつかない。同じ昨日は二度と来ないし、明日は無限にある。そう、世界は変化に満ちているはずなのだ。
しかし、それに気づかないほどセンサーが鈍ってしまうのは、人間が環境に順応する生物だからだ。情報を捉えてはいても、有用ではない情報として無視してしまう。生存に無関係な情報を無視することで、エネルギーの浪費は抑えられる。生物としては正しい性質なのだが、精神を不活性化させるという嬉しくない側面も持っている。
そんなとき、俺は気まぐれに行動パターンを変える。大げさに言うなら、別の性格を演じることにしている。それにはナノマシンなど必要ない。難しく考える必要はない。積み木で遊んでいた子供が途中で飽きて積み木を崩すように、誰もが本能的に行っていることだ。それを意図的に、かつ極端にやればいい。
そうすることで、世界から受け取る情報の質が変わる。例えば、落ち込んだ時に馬鹿と言われるのと、陽気な時に馬鹿と言われるのとでは受け取り方が違うように。異なるロジックになった俺は、情報を不要なものとして無視しない。
そして陽気で外交的な性格は、リティを元気付けるのに最適なはずだ。
「リティ」
俺は脈絡もなくリティを抱き上げた。いわゆるお姫様抱っことは違い、リティのお尻を左腕に座らせた格好になる。
「わわわ!?」
「リティがしっかりしているからこそ、シヴィルさんは安心して家を空けることができるんです。ディーを看病することもできる。まさか、何もできないと自分を責めてはいませんか?」
「そんなことないよ……」
「もしそうだとしたら、それは違います。リティが日常と変わらぬ生活をすることが、二人を助けることになるんです。凄いじゃないですか!」
「そう、かな?」
「もちろんです!」
リティはおずおずと笑みを浮かべた。スキンシップのお株を俺に取られて、照れている。突然の変化に戸惑っているのかもしれない。
しかしハイになった俺は気にしない。恥ずかしいという気持ちが薄れている。普段ためらってしまう台詞でも、自然と口に出せる。たいてい後で後悔する羽目になるのだが、リティが元気になるなら、いくらでも後悔していろ。
冷静な部分はお手柔らかにと苦笑するが、そんなことで止まるはずがない。俺の本気を見ていろ。
「リティは楽しそうにしている時が魅力的ですよ」
ぴくぴく耳が動いた。俺は親指で耳を撫でつつ、手のひらで頭を包み込むようにした。
リティの滑らかな頬がピンク色に染まる。
「そう、将来は男どもに引く手あまたでしょう」
「お母さんみたいに――お母さんよりも、綺麗になるかな?」
「ふむ……?」
俺は一時、使命を忘れた。
シヴィルさんの姿が細部まで浮かんでくる。きっと俺の記憶回路に焼きついているに違いない。記憶の中のシヴィルさんは、非の打ち所がない美しさだ。至高だ。人間が到達することはほとんど不可能な高みに至っている。
滑らかな白い肌とプラチナブロンドの髪。金属的なシルバーの瞳。薄い彩度で統一された容貌が、シヴィルさんを超越的な美貌に仕立てている。一見すると冷たいアンティーク人形のように見えるが、まったく違う。その表情は豊かな感情に彩られている。
まさに最高だ。サイコーではない。最高だ。ニュアンスが違う。
しかし、色素が濃い目――切れ長で真っ黒な目を美しいと思う文化のせいで、俺は大げさに騒ぐお調子者と思われている。何たる屈辱。何たる侮辱。この思いをどこにぶつければいいのだ。
黒いカラーのコンタクトレンズがあれば、俺の正当性は証明されるのだが。黒い目のシヴィルさん。おそらく皆が皆、シーヴァ氏を見たエセルデたちのようになるはずだ。しかし、この世界にカラコンはない。それを作れるような技術もない。ならば逆の発想だ。
眼球の色がマイナス要素を与えるのであれば、目を隠せばいいんじゃなかろうか。サングラス? 細いタバコをくわえてもらうのも良い。俺はシヴィルさんに大胆なスリットの入った黒いドレスを着せ、妖艶なポーズを取らせて悦に入った。
「んんん?」
頭が腕が巻きついたと感じた次の瞬間。
「カプッ」
「ぎゃーーー!?」
噛みつかれたと分かるまで、数瞬の時を要した。
「何てことするんですかリティ!?」
「不愉快な顔だった」
「生まれつきです! 放っといてください」
頭を噛むか普通!? リティ、何て恐ろしい娘!
「そこはお世辞でも『シヴィルさんより綺麗になるよ』って言うところでしょ!」
「そういうものですか……」
「そうよ」
リティは鼻息も荒く、そっぽを向いた。
「ねえ、リティ」
唇をとがらせているリティの頬をつつく。無視されたので、反応があるまで何度かつついた。
リティは奇妙に平坦な表情で、突き出した人差し指を見つめている。慌てて指を引っ込めたが遅かった。
「かぷ」
「のぉおおー!?」
「悪戯しないでね?」
「すみませんすみません」
甘噛みというにはちょっとばかり痛かった指先にふーふーと息を吹きかけつつ、リティの調子が戻ったからいいかと思うことにした。
馬鹿やった甲斐があるというものだ。
俺はリティを見つめた。
「一つだけ確かなことは――」
可愛さを脱ぎ捨て、美しさの片鱗を見せ始めつつある少女の横顔。
「何?」
「リティは、シヴィルさんとは違うタイプの美人になるでしょうね。それもとびっきりの美女に」
「え!? ホ、ホントに!?」
「美の探求者である私が保障します。シヴィルさんを宝石の美しさに例えるなら、リティは生命力にあふれた花のような女性に成長するでしょう。
世の中には、見るものが微笑みを浮かべたくなるような花もあれば、視線を惹きつけて止まない花もあります。リティはどんな風に咲くんでしょうね」
「ふーん、ふふーん……」
「……おや?」
誰か来たようだ。上の空のリティに抱きつかれたまま、玄関の扉を開け、俺は女神を目にした。
「あら、シドーさん、お帰りだったんですね」
「先ほど戻りました、シヴィルさん……やはりお美しい」
「ええ!?」
脈絡のない言葉に戸惑うシヴィルさんもまた美しい。俺は一人頷き、ボーイよろしくシヴィルさんの荷物を持った。
「ディーが大変な事になっていると聞きましたって、ぎゃーーーーー!?」
「あらあら」
俺は堪らず悲鳴を上げた。三度目の噛み付き攻撃は冗談抜きで痛かった。リティを怪我しない程度に素早く下ろし、苦情を申し立てた。
「何つーことをするんですかリティ!?」
「ふんだ!」
「真面目な話をしてたんですよ?」
「小父様は女心が分かってないと思うの」
「男には永遠に分からないでしょうね」
それにしても 12 歳の少女に女心を説かれることになろうとは。
「リティったら、すっかり仲良しね」
シヴィルさんが嬉しそうに微笑んだ。しかしディーのことを心配しているのか、翳りが見えてしまう。思い過ごしならいいのだが、たぶんそうではないだろう。
「シヴィルさんはお疲れのようですね。手伝えることがあれば仰ってください」
シヴィルさんは逡巡したが、何とか促してみせた。
「それでは主人が退院するまで、リティを見ていていただけます?」
「安んじてお任せあれ」
「うふふ。ではお任せしますね」
「お母さん、私が小父様の面倒見るんだからね!」
「えー……いえ、よろしくお願いします」
どうやら、リティに面倒を見てもらっていればいいようだ。
2.12.3. 建国暦 4220.03.30 : 中心区 - 病室
「無事だったか」
「ええ何とか。体調はどうですか、ディー?」
「薬が効いているので痛みはない」
ディーは生命力に溢れ、元気そうに見えた。しかしそれは間違いだった。その左腕には包帯が巻かれ、力なく横たえられている。
「この通り左腕をやられてな。医者には、怪我が治ったとしても剣を持つことは出来ないだろうと言われた。警備隊は辞めることになるだろう。戦力が半減した俺がいても、仲間に迷惑をかけるだけだ。これを機に辞めるつもりだ」
「後遺症が残るんですか?」
心の深淵から、負の感情が湧き上がりかけた。闇が、少しずつ俺の世界に虫食いを作っていく。
「そんな顔をするな。別に死ぬわけじゃない。左腕が使えなくても右腕が使える。左脚も右脚も問題ない。敵を食い殺すための牙もある。これ以上必要なものがあるか?」
俺の世界を蝕んでいた闇が、雲散霧消した。狼族のディーは、雲を蒸発させるほどの輝きを持つ太陽だった。
何と強い人間なのだろうか。生きるために最善を尽くしてきた自負があった。しかし、こんなに真っ直ぐな気持ちを持ったことはない。
俺は目的地までのショートカットを探し、効率よく進もうとする人間なのだ。ディーはそんな小賢しい真似をしなくても、正道を歩む。その足取りは揺ぎなく、迷いがない。
銀色の毛並みをした狼の容貌が神々しく見えた。この世界の人間は生命力に溢れている。俺にはそれが無性にくやしくて、それ以上に嬉しかった。
このとき確信した。俺が生きるべき世界はここだ。
できることをやろう。ギブ&テイクだけではなくて、もう少しだけ与えよう。余っているリソース分だけでもいい。少しだけでも、世界に貢献しよう。
誰に言われたからではない。俺がしたいからそうするのだ。
「何かを決めた顔だな?」
「そう見えましたか?」
「ああ。元気が出たようだ」
「それではあべこべですよ」
珍しく、心の底から笑みが浮かんだ。
「そうだ、お見舞いを持って来たんでした」
俺はズダ袋から白い巾着を取り出し、ディーに渡した。
「これは?」
「砂虫を退治したお礼にと頂いた果物です。皮ごとどうぞ。ディーは甘いものは好まないでしょうが、バルバドスも美味しいと言ってましたので、騙されたと思って食べてみてください」
「ハルバード使いの虎族か……」
何かを思い出したのか、ディーが苦笑した。
「トラブルを招き寄せる体質と聞いている」
「あながち間違いと言い切れないところが怖いですね。帰路では『吊れ去るもの』や囁き鳥が出ましたよ」
「レベル 7 じゃないか。良く無事だったな」
「囁き鳥が蟲を食べてくれましたので。私たちは実質、何もしていません」
「脚色されたと思っていた噂が真実か……商隊でも、縁起を担いで雇いたがるところと、忌避するところがあるらしい」
「雇い主にとっては迷いどころでしょうねぇ。腕はいいんですが」
「若くしてレベル 9 に至るだけはあるか」
ディーは洒落た巾着から薄紅色の果物を取り出して、一口食べた。
「ん? ほう、美味いな……これは何という実なんだ?」
「ネクタールの実、だそうです」
「初めて食べる」
「シヴィルさんとリティは我慢出来なくて昨日食べてしまいましたので、遠慮せずにまるっと行ってください」
「我慢できなかったか! はははっ!」
俺も同じように一口食べた。
「へえ……美味しいじゃないですか」
そう言うのが精一杯だった。触覚が麻痺した。急速に体の自由が利かなくなっていく。俺の五感は失われつつあった。
「おいシドー! どうしたんだ!?」
薄れ行く意識の中でディーの声を耳にしながら、俺は暗闇の住人となった。