江戸風鈴っていいね
蜩の声に包まれながら夏の黄昏れ時が通り過ぎていった。開け放たれた縁側と畳の間に腰掛け、風鈴の音を聞きながら前から押し寄せる海風と後ろから体を冷やすクーラーの風を楽しむ。夕焼けに染まる海は赤く輝き、色付く西空の先にイカ釣り船の明かりがボーッと浮かんできた。手元に置いてあったコップの中で氷がカランと音を立てて崩れ落ちたのをキッカケに、私はやっと動く決心をして、重い腕を伸ばして足元の団扇を手に取った。美しい紅色の団扇。去年の夏に買ったものだ。それで少し扇ぐと香の香りが死に装束のまま直していない半纏の袖口から入り込み、まだ風呂上がりでほてりの冷めない体を撫でるように抜けてゆく。そしてしばらく海に落ちてゆく日を眺めていると、それがまだ沈みきる前に瞼が重くなってきた。このまま沈みゆく夕陽を今少し眺めていたかったが、私の体は意思に逆らい眠る事を求めているようだ。私はそれもよしとして、ゆっくりと縁側に横になった。最後に見えたのは染みのついた汚い天井だけだった。
何分、何時間経ったか分からない。気が付くと夕日は既に沈んで辺りは暗くなり、私を照らすのは虫のたかる白熱電球だけになっていた。寝すぎたかと反省しながら頭をもたげると海は真っ暗で何も見えなくなってしまっている。私は少し惜しい事をしたように思って、どうせ家の者が帰ってきたら起こしてくれるのだろうから寝て忘れてしまおうと電気を消してまた仰向けになって寝転んだ。
だがふと見上げると空には満天の星が広がり、それを追いかけてゆくと星の海は水平線まで続いていた。その中に輝く小さな月は遠い海面を銀色に照らしている。そのまるで絵画のような美しさに私は腹ばいに寝転がり、欠伸さえも忘れ、息を飲んで見入ってしまった。
夕日が沈めば美しい景色も終わりだと思ったが、そうでもないようだ。これだから自然の移り変わりというものはおもしろいのかもしれない。私は部屋の電気を小さくし、氷の溶けたコップに酒を注いで星空を見上げた。次は何が私を驚かせてくれるのだろうか。例え何も来なくとも、気長に待ってみようと思った。