君の代わりはいくらでもいると言った夫が、今さら頭を下げに来ましたが、私は公爵様のものです
「旦那様。水利権の更新が、来月に迫っております。隣領との合同署名が要りますので、ご確認を——」
「あ? そんなことお前がやればいいだろ」
書斎の夫は、顔も上げなかった。
「……あなたの、領地です」
「はっ! だから妻の君がやるんだろ? それとも嫌なのか? 君の代わりなんていくらでもいるんだ。嫌なら出ていきなさい」
「……わかりました」
私は一礼して、書類を抱え直した。
扉を閉める瞬間、葉巻の煙と一緒に、夫の独り言が聞こえた。
「まったく、可愛げのない。女のくせに」
私がハワード伯爵家に嫁いで、六年になる。
つまり召使のような扱いを受けて六年ということだ。
*
私、エレノアの一日は、夜明け前の帳簿から始まる。
領地からの報告書に目を通し、税の納期を確認し、使用人の給金を計算し、小麦の売り時を決め、水路の補修に人を出し、夜会の招待状に返事を書く。
それが終わると、夫の酒瓶を満たし、夫の外套の染みを落とすよう指示し、夫が愛人の家で使った金の帳尻を、帳簿の上で合わせる。
夫は、何もしない。
結婚してすぐに分かったことだ。この人の興味は夜会と、酒と、若い女だけ。それでも社交界で「ハワード伯爵は領地経営の名手」と呼ばれるのは――あの人の名前で領地を回しているからだ。
構わない、と思っていた。
貴族の結婚とはそういうものだと、母に教えられて嫁いだ。愛されなくても、務めを果たせば居場所はある。良き妻であれば良い。
女なのだから仕方ないのだ。
そして今日も夜会に連れていかれる。ただの召使の扱いなのに、私を侍らせることだけは楽しいようだ。
*
夜会は、嫌いだ。
「いやあ、うちのは全然だめでしてね。私がなんでも見てやらないと……ほら、ご挨拶して」
「妻のエレノアでございます」
夫は取り巻きに囲まれると、決まって私を笑いのネタにする。
「顔も気も利かん。帳簿くらいしか能のない女ですよ。ああ、皆さんの奥方が羨ましい」
どっと笑いが起きる。私は扇の内側で、笑みの形を作る。良き妻は、夫の冗談に怒らない。
その夜も、そうやって壁際で置物になっていた。
「――ハワード伯爵夫人」
声をかけられて、顔を上げた。
グレイル公爵。隣領の若き当主。灰青の目が、まっすぐこちらを見ていた。
夜会に出るたびにこの人は私の夫に話しかける。そしてその灰青の目で私を見る。
綺麗な目だなと思った。
「先日の大雨で、ハワード領の堤だけが持ちこたえたと聞きました。補修の采配が見事だったと。……あれは、どなたの指示です?」
「……夫の、です」
「…………そうですか」
公爵は、それ以上聞かなかった。ただ私を見ていた。夫ではなく私を。
「東の水門の補強も、砂利の入れ替えの時期も、完璧でした。ハワード伯爵領は――良い柱をお持ちだ」
一礼して、去っていく。
柱。
そんな言葉をもらったのは、六年で初めてだった。私はしばらく、扇の内側の笑みを忘れて立っていた。
思えば、あの夜会であの方だけだった。
夫が私を笑いのネタにしたとき、笑わなかったのは。
*
その日、夫は若い娘を連れて帰ってきた。
絹のドレスに、真新しい真珠。私より十は若い、砂糖菓子のような娘だった。
「ダリアだ。今日からこの子を側室とする」
「……側室、ですか」
「妻の座は残してやる。ありがたく思え。家のことは今まで通りやれ。――何を不満そうな顔をしている?」
夫は、面倒くさそうに眉を上げた。
「なんだ? 側室の一人や二人。君の代わりはいくらでもいるんだぞ」
ダリアが、夫の腕に絡みついたまま、私を上から下まで眺めた。
「この人が奥様ぁ? ふうん……思ったより、おばさんなのね」
くすくすと、鈴を転がすように笑う。
夫も、一緒に笑った。
私は一礼して、二人分の客室の支度を、使用人に指示しに行った。
廊下の窓に、夜明け前から働いて、夜会で置物をして、笑われて、それでも背筋だけは伸ばしている女が映っていた。
――良き妻であれば、いつかは。
その「いつか」が来ないことを、本当はもう、とっくに知っていたのだと思う。
◆
ダリアが来てから、屋敷は少しずつ、静かにおかしくなっていった。
私の私室は「日当たりがいいから」という理由で彼女のものになった。夜会のドレスは断りなく着られ、香水の瓶は勝手に開けられ、返ってこなかった。
「ねえ、まだいたの? はやく出ていけよ、おばさん」
使用人たちの前で、砂糖菓子のような顔がそう言って笑う。夫は窘めもせず、一緒になって笑っている。
それでも、私は帳簿を締め続けた。
務めを果たせば、居場所はある。六年間、そうやって生きてきた。今さら他の生き方など、知らなかったのだ。
――限界は、意外なところから来た。
その朝、古株の家令が青い顔で私のところへ来た。ダリア様が、帳簿部屋の鍵を寄越せと。それから、料理長と庭師頭を「顔が気に入らない」から解雇しろと仰っています――。
帳簿と、人。
私が六年かけて守ってきた、この家の柱そのものだった。
私は夫の書斎へ行った。
「旦那様。帳簿と使用人の人事は、家政の要です。ダリア様の一存で動かされては、領地が回りません。……それだけは、承服しかねます」
六年間で、初めて言った「嫌」だった。
夫は書類から顔を上げて、心底面倒くさそうに、眉を寄せた。
「……なんだ、お前。口答えか」
「口答えではなく、務めとして申し上げて――」
「嫌だと言うのなら、出ていけばいいだろ?」
「ですがそれでは」
「黙れ!! 女の癖に私に口答えするな!!」
怒鳴り。そして最後はいつものように。
「お前の代わりなど、いくらでもいる」
ああ。
不思議なほど、すとん、と音がした。六年間、胸の真ん中で支えていた柱が折れる音だった。折れてみれば、それは柱ではなくて、ただのつっかえ棒だった。
私は、頭を下げた。
「――分かりました」
「は?」
「では、引き継ぎ書だけ書かせていただいて。……出ていきます」
顔を上げると、夫が固まっていた。
書斎の入り口で聞き耳を立てていたダリアも、固まっていた。
泣いて縋るとでも、思っていたのだろう。
「はっ! そんな度胸もないくせに。出て行ってお前ごときに何ができると言うのだ?」
「わかりません。帳簿くらいしか能のない女ですので。ですがせめて残された方々のために引き継ぎ書だけでも書かせていただきます」
私は、六年ぶんの笑みの形を、最後にもう一度だけ作った。
*
引き継ぎ書は、三日三晩かかった。
帳簿の読み方。税の納期と、罰則の重さ。水利権の更新――期限が目前に迫っていること、隣領との合同署名が要ること。使用人の給金体系と、それぞれの功労。小麦を売る時期と、売ってはいけない相手。
全十二冊。
誰に感謝されるためでもない。これは私の六年間の、私による、私のための総決算だった。この家がどうなろうと、領民と使用人に罪はない。だから書いた。それだけだ。
最後の頁に署名をして、私は身の回りの物だけを鞄に詰めた。
玄関で、古株の家令が深々と頭を下げた。いかないでくれ……とは言わなかった。
私のこの家での扱いを知っているのだから、それは優しさだった。
「後は頼みます」
――それで、十分だった。
六年住んだ屋敷を、私は振り返らなかった。
*
これは、後になって屋敷を辞めた使用人から聞いた話だ。
私が出ていった夜、夫は引き継ぎ書を一冊手に取り、ぱらぱらとめくって――そして、言ったそうだ。
「なんだこれは。数字ばかり並べおって……あの女ができたことなど、誰でもできるわ。大層な引き継ぎ書など作りおって」
全十二冊、まとめて、ごみ箱へ。
ダリアがけらけらと笑い、夫も笑い、それで終わり。
水利権の更新日が書かれた三冊目も、税の納期が書かれた一冊目も、誰にも読まれないまま、翌朝の焚き付けになった。
――この家の柱が何だったのか。
それを知る日は、彼らが思っているより、ずっと早く来る。
*
王都は、六年ぶりだった。
実家は「出戻りは外聞が悪い」と言った。持ち出した私財は、安宿の三月分。仕事を探そうにも、貴族の女に紹介状なしで務まる勤め先など、そうはない。
石段に腰かけて、私は柄にもなく、ため息をついた。
働くのは、怖くない。六年間、誰よりも働いてきた。ただ――私の仕事には、いつも他人の名前がついていた。名前のない私……誰が雇ってくれるだろう。
「――ハワード夫人!」
顔を上げた。
往来の向こうから、上着の裾を翻して、走ってくる人がいた。
灰青の目。グレイル公爵。供も連れず、息を切らして、髪を乱して。
公爵ともあろう御方が、なぜ街中を走っていられるのだろうか。
「よかった、まだ王都にいた。……いや、失礼。もう『夫人』ではないのか。エレノア殿。探しましたよ……ええ……はぁ……ほんとに探し回りました」
「……公爵様。どうして、こんな場末に」
「君が家を出たと聞いた」
「……はい。恥ずかしながら」
「もしも……もしもだ。行くところがないなら――我が領地の管理を、してみないか?」
一瞬、言葉が出なかった。
それから、みぞおちの辺りが冷えた。ああ、これは、憐れみだ。
「……お気持ちはありがたく。ですが、施しなら結構です」
「施しではない」
公爵は即答した。懐から、折り畳まれた紙を出す。
「雇用契約だ。職務は領地経営の補佐、給金は家令職の倍。住み込み、休暇あり。……ここに来る途中で書いた。署名の欄が空いている」
道端で書いたにしては、恐ろしくきちんとした契約書だった。
「なぜ、そこまで」
「君の手腕……すべて私は知っている。あの伯爵の領地、突然の急成長だ。なにかあると調べた結果、君が嫁いでからではないか」
「ですが……」
「ずっと、聞きたかったことがある。君に直接」
灰青の目が、まっすぐ私を見た。あの夜会と、同じ目だった。
「大雨の夜、ハワード領の堤だけが持ちこたえた。あの采配は、誰のものだ」
「あ、あれは夫の」
「もう一度言う……あれは誰のものだ。私は君に聞いている」
風が、往来の埃を巻き上げて通り過ぎた。
私は――六年間ついてきた嘘を、置いていくことにした。
「……私です。あれは……私の仕事です! 夫のではありません。あれは、私の采配です」
「知っていた」
公爵は、初めて笑った。
「……ずっと、君を雇いたかったんだ。あの堤の話だけではない。君の仕事、すべてに私は感銘を受けた。だから……署名を、もらえないだろうか」
私はその雇用契約の紙を受け取った。
こんな私を見てくれる。夜会でも彼だけは私を笑わなかった。
どうせ行く当てもないのだ。なら……。
私は路上で、生まれて初めて、自分の名前で契約書に署名した。
エレノア。
家名はもう、書かなかった。
◆
グレイル領は、広かった。さすがは公爵家だ。そして、なによりも忙しかった。
「エレノア殿! 北の橋の修繕費の見積もり、これで通るでしょうか」
「三割水増しされています。石工の組合に直接。それから運搬は農閑期に回せば半額です」
「エレノア殿、小麦の買い付けの件で商会が」
「会います。……その前に、この帳簿を書いた方を呼んでください。三年前から数字がずれたままです」
滞っていた帳簿は一週間で締め直した。水路の改修計画を引き直し、使用人の配置を替え、眠っていた東の畑に麻を植えた。
働いて、働いて、働いた。
前と同じだ。何も変わらない。……いいえ。
ひとつだけ、違った。
「女神か……?」
家令たちが、ざわめくのだ。私の名前で。
「エレノア殿が来てから、この領は回り方が変わった。いや、回りだした!!」
仕事に、私の名前がついてくる。たったそれだけのことが、六年間どうしても手に入らなかった、たったそれだけのことが――夜、寝台の中で少し泣いてしまうくらいには、嬉しかった。
しかも公爵様が、伯爵領に置いてきた私の部下達も連れてきてくれて百人力。
公爵領は、収益を二倍近くまで増やしていく。
仕事は大変だが、やりがいはとてもあった。
*
公爵様は、変な雇い主だった。
執務室の隣に私の机を置き、決裁の前には必ず「君はどう思う」と聞く。私が理由を言うと、最後まで聞く。それから必ず「ありがとう、助かった」と言う。
相談すれば「君がやれ」ではなく「一緒にやろう」と言い、成果が出れば「私の手柄ではない、エレノア殿の采配だ」と議会で言ってしまう。
「……公爵様。ああいうことは、仰らないほうが」
「なぜ」
「雇い主の功績にしておくのが、円滑というものです」
「事実を言ったまでだが」
この方は、多分、私の前の六年間を知らない。知らないままでいい。ただその「事実を言ったまでだが」の顔を見るたび、私は目の奥が熱くなるのを、帳簿で隠すのだった。
「ところでエレノア殿。今日も夜まで働く気か」
「仕事は好きですので」
「……なら、休むのも仕事だと思ってくれ」
公爵様は、茶器を二つ持って、私の机の端に置いた。
「私と茶を飲むという仕事だ。給金は出ないが、菓子は出るぞ」
「ふふ……承知しました。職務でしたら」
職務でしたら、仕方ない。
そういうことにして、私たちは週に三度、夕暮れの執務室で茶を飲む。仕事の話をして、仕事じゃない話も少しして、彼が笑うと、私も笑ってしまう。
笑いの形を作るのではなく、笑ってしまうのだ。
六年間できなかったことが、この領では、息をするようにできた。
*
ハワード領の噂は、聞くつもりがなくても届いた。
税の申告を落とし、王家から罰金と叱責を受けたこと。
給金が遅配し、家令から下女まで、使用人が次々と辞めたこと。屋敷は掃除も行き届かず、夜会服には染みがあったこと。
水利権が失効し、隣領――つまりグレイル領との合同事業から外れたこと。これは噂ではない。私が書類で処理した。署名の欄に「ハワード」の名前を書く公爵様の顔は、事務的で、一切の容赦がなかった。
社交界では、もう誰もが知っているという。「ハワード伯爵の手腕」が、誰の手腕だったのか。
そして――金回りが悪くなった屋敷から、真っ先に消えたのはダリアだったそうだ。別の男の馬車に乗り込みながら、彼女は捨て台詞を残したという。
「あなた、奥様がいなきゃ何もできない人だったのね」
……ふふ。
その台詞だけは、少し笑ってしまった。だってそれは、あの人が六年間、私に言い続けた言葉の、ちょうど裏側だったから。
◆
その男が、グレイル領の屋敷に現れたのは、雨の日だった。
「エレノアに……妻に、会わせていただきたい」
取り次ぎの家令は困惑していた。無理もない。ずぶ濡れの、髭の伸びた、外套の擦り切れた男が「ハワード伯爵」を名乗ったのだから。
応接間に通された元夫は、私を見て、泣き笑いのような顔になった。
「エレノア……ああ、エレノア、探したんだ」
六年間、一度も呼ばなかったような声で、名前を呼ぶ。
「帰ってきていいよ、エレノア。私の妻!!」
「…………」
妻? 私に出ていけと言ったのに?
「なにしている! 早くしなさい!! 帰るぞ、エレノア!!」
私の腕を引っ張る。
だが、私はその腕を振り払った。
「今更何ですか! 私はもうあなたの妻ではありません!!」
すると元夫は絨毯に、膝をついた。
頭を、下げた。
あの人が。私に。
「帰ってきてくれ。今度は大事にする。側室も置かない。ああそれと、その、当座の金を、少しだけ……」
復縁の懇願に、金の無心が混ざった。
それが、この人の底だった。六年間、私が仕えた人の、これが底。
悲しいくらい、何も感じなかった。
私が口を開くより早く――隣で、静かに立ち上がる気配がした。
公爵様が、私と元夫の間に立った。そして、私の肩を、確かめるように抱き寄せた。
「彼女は私のものだが?」
低い、静かな声だった。
「指一本、視線一つ、近づけることを許さない。――言いたいことがあるなら、私を通せ」
「こ、公爵、閣下……し、しかし彼女は私の妻で」
「元、だろう。君が捨てた」
元夫の目が、救いを求めるように私を見た。
私は、公爵様の腕の中から、静かに微笑んだ。
「私の代わりは、いくらでもいるのでしょう?」
「……っ」
「お探しになっては。――ああ、それから」
六年ぶんの笑みの形ではなく、ほんものの笑みで、私は言った。
「私は、公爵様のものだそうですので。もう、あなたの妻ではありませんので」
元夫が、絨毯の上に崩れ落ちた。
家令に抱えられるようにして退出していく、その丸まった背中に、公爵様が最後の一言を落とした。
「引き継ぎ書は、捨てたそうだな。……私なら、国庫と引き換えにされても捨てないが」
*
元夫を乗せた馬車が、雨の中を帰っていく。
執務室に戻ると、途端に、気まずい沈黙が降りてきた。
肩に、まだ手のひらの熱が残っている。
「……先ほどは、ありがとうございました。話を合わせてくださって」
「……ああ。うん。それ、なんだが。エレノア」
公爵様は書類を持ち上げて、顔を半分隠して、それから観念したように置いた。
「わ、私の……ものになる気はないか?」
「……はい? すでに私はあなたのものですが」
「い、いや……そういう意味ではなく」
私は首を傾げた。
雇用契約されたのだから、私は公爵様のものだというのに。
「す、好き……だと言ったら?」
「はぁ?」
窓の外で、雨が上がりはじめていた。
六年間、動かなかった心臓が、一拍で跳ねた。
「――け、検討いたします。検討に検討を重ねて、再度検討致します!!」
「即決でないのか!? というか検討しすぎだろ!!」
仕方ないではないか。
こんな気持ちは初めてなのだ。
心臓がバクバクとはじけて、思考が回らない。
でも。
「ま、前向きに検討致します。そ、それまではまだ契約中ですので」
「…………ふ、ふふ。ははは! 了解した。では、引き続き雇用契約を頼む」
公爵様は笑って、茶器を二つ、机に置いた。
「では私と茶を飲むという仕事だ。今後は毎日、頼もうか」
「……承知、しました。職務でしたら……い、致し方ありませんね」
職務でしたら、仕方ない。
でも……この方となら、プライベートでも構わないかな。
本文をいれたのに、あらすじになってた……。
再投稿です。
いかがでしたでしょうか。
面白かった! と思っていただければ、よければ評価とブクマを頂けると幸いです。




