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第十六個体観測録

聖女ではないので祈れません。だから水を替えました

作者: 黒瀬 量衡
掲載日:2026/06/30

「セナ、祭壇布を白布の桶へ入れておけ」


 神殿の下働きが、雨に濡れた白い布を押しつけてきた。


 白い。


 高い。


 神殿の印もある。


 だから、普通なら先に洗う。


 貴族館の白布よりも、時には神殿の祭壇布が先になる。そういうものだ。洗い場の女が文句を言うことではない。


 けれど、わたしはその布を受け取らなかった。


「これ、熱の子に触りましたよね」


「は?」


「ここ。手形がついてます」


 わたしは布の端を指さした。


 雨と泥で少しぼやけている。けれど、見間違いではない。


 小さな手の跡だった。


 大人の手ではない。兵士の手でも、下働きの手でもない。


 子どもの手だ。


 熱のある子が、力の入らない指で掴んだ時の跡。


「施し列の子が倒れたんだよ」


 下働きは面倒そうに言った。


「祭壇の前へ運ぶ時に、少し触っただけだ。夕の祈りに使うんだから、早く洗え」


「白布の桶には入れません」


 わたしがそう言うと、下働きの顔が変わった。


「お前、何を言っている」


「熱の子に触った布です。別にします」


「祭壇布だぞ」


「知っています」


「神殿の布だぞ」


「知っています」


「なら、白布の桶へ入れろ」


「入れません」


 洗い場の手が止まった。


 正確には、みんな手を止めたふりはしない。布を揉む。灰を取る。桶を引く。棒で布を叩く。


 でも、耳はこちらへ向いている。


 そういう沈黙だった。


 わたしは聖女ではない。


 神殿の祈りの句も知らない。


 香油の名前も知らない。


 祭壇の布をどちら側から掛けるのかも知らない。


 けれど、桶の水が悪くなる瞬間くらいは分かる。


 魚布を入れれば魚臭くなる。


 膿の布を入れれば、次の布まで嫌なものを抱く。


 兵舎の包帯を貴族館の白布へ近づければ、白い布は白いままでも、使う者が嫌な顔をする。


 旅籠の寝布は、誰が寝たか分からない。


 分からないものは、分からないものとして扱う。


 それくらい、洗い場で働いていれば覚える。


「洗い場女ふぜいが、神殿の清さに口を出すのか」


 下働きが言った。


 口を出したいわけじゃない。


 清さを語りたいわけでもない。


 わたしに分かるのは、ただの水だ。


 水は濁る。


 水は臭う。


 水はぬるくなる。


 水は、一度混ざると、元へ戻らない。


「聖女ではないので祈れません」


 わたしは、白布用の桶を後ろへ下げた。


「だから、水を替えます」


     *


 王都南門の洗い場には、いろいろな布が来る。


 貴族館の白布。


 神殿の祭壇布。


 兵舎の包帯。


 商会倉の荷覆い。


 市場の魚布。


 門番の外套。


 旅籠の寝布。


 下働きの前掛け。


 捨てるには惜しいけれど、上へ戻すには汚れすぎた麻布。


 布は同じ場所へ来る。


 でも、同じものとしては洗えない。


 白いかどうかではない。


 高いか安いかでもない。


 誰のものかでもない。


 何に触れたか。


 どこに置かれていたか。


 どんな臭いがするか。


 濡れているか、乾いているか。


 血か、泥か、魚か、膿か、熱の子の汗か。


 それで桶を変える。


 わたしがそう覚えたのは、賢かったからではない。


 間違えたからだ。


 白布に魚布の臭いを移して、貴族館の下働きに怒鳴られた。


 兵舎の包帯を遅らせて、兵士に水を蹴られた。


 旅籠の寝布を祭壇布の風上へ干して、神殿の者に穢れを移す気かと罵られた。


 膿の布を素手で揉んで、三日ほど指が動かなくなった。


 だから覚えた。


 覚えなければ、洗い場では食べていけない。


 その日の雨は、朝から強かった。


 門の石畳は黒く濡れ、馬車の轍には泥水がたまっていた。


 神殿の施し列は、いつもより長い。


 母親が子を抱いている。


 老人が壁にもたれている。


 咳をする旅人がいる。


 片腕を吊った兵士がいる。


 濡れた髪を額に貼りつけた子がいる。


 雨の日は、布が増える。


 そして、熱の子も増える。


 だから水は、いつもより早く悪くなる。


 それなのに、神殿の下働きは、熱の子に触れた祭壇布を白布の桶へ入れろと言った。


 白いから。


 神殿のものだから。


 清い布だから。


 でも、わたしには白く見えなかった。


 小さな手形が、そこにあったからだ。


     *


「どけ」


 下働きが、わたしを押しのけようとした。


 わたしは桶の前から動かなかった。


 怖くないわけではない。


 神殿は強い。


 洗い場の女は弱い。


 神殿が怒れば、仕事が減る。


 仕事が減れば、パンも減る。


 パンが減れば、冬を越せない。


 それくらい分かっている。


 けれど、分かっているからといって、白布の桶へ入れていいわけではない。


「セナ」


 横から低い声がした。


 ミラだった。


 わたしより少し年上の洗い場女で、布の見方がいやになるほど確かだ。


 ミラの足元には、子どもがいる。


 リノ。


 ミラの子だ。


 父名の欄が薄い子。


 桶の影に座り、雨音と水音の中で眠りかけている。


 けれど、ミラが名を呼べば顔を上げる。


 帳の上では薄くても、母の声には薄くならない。


「リノ、そこは濡れるよ」


 ミラが言った。


 リノは目をこすり、立ち上がろうとした。


 けれど、足元が少しふらついた。


 ミラが、濡れていない方の手で支える。


 小さな肩。


 細い腕。


 温かそうな首筋。


 リノは、母の後ろに半分隠れるようにして、わたしと祭壇布を見ていた。


 白い布。


 神殿の布。


 偉い人たちが清いと言う布。


 それを、わたしは白布の桶へ入れない。


 リノが何を分かっているのかは知らない。


 たぶん、ほとんど分かっていない。


 それでいい。


 幼い子が、神殿の布と熱の子と桶の違いを分かる必要はない。


 ただ、そこにいる。


 ミラが名を呼べば顔を上げる。


 それだけで、帳に載らない多くのことより、ずっと確かだった。


「湯、まだありますか」


 わたしはミラに聞いた。


「少し」


「灰は」


「乾いたのが残ってる」


「古い桶を使います」


「ひびのあるやつかい」


「白布には使えないけど、別洗いなら使えます」


 ミラは一度だけ頷いた。


「リノ、離れてな。湯が来る」


 リノは母の手を握ったまま、少しだけ後ろへ下がった。


 それだけだった。


 布を持つわけではない。


 桶を運ぶわけでもない。


 ただ、母のそばで、濡れない場所へ動いただけだ。


 でも、それで十分だった。


「勝手なことをするな」


 下働きが言った。


「助祭様を呼ぶぞ」


「呼んでください」


 自分でも驚くくらい、声がまっすぐ出た。


 下働きが目を剥く。


 わたしは白布の桶をもう一歩下げた。


「助祭様が来るまで、この桶には入れません」


     *


 助祭はすぐに来た。


 雨に濡れないよう、白い衣の裾を持ち上げて歩いてくる。


 その後ろで、下働きがわたしを指さした。


「この女です。祭壇布を汚れ物の桶へ入れようとしています」


「違います」


 わたしは言った。


 声が少し震えた。


 助祭がこちらを見る。


 若い助祭だった。


 顔立ちは整っていて、手も白い。


 洗い場の水に手を入れたことは、たぶんない。


「何が違う」


「汚れ物の桶へは入れていません。別にしています」


「なぜ」


「熱の子に触れたと聞きました」


 助祭は、祭壇布へ目を向けた。


 白い布の端に、小さな手形が残っている。


 助祭の眉が寄った。


 汚れを見た顔だった。


 でも、その汚れを神殿側のものとして見たのか、洗い場女が勝手に判断したことへの不快として見たのか、わたしには分からなかった。


「祈りで清める」


 助祭は言った。


 それは、正しい言葉なのだと思う。


 神殿では。


 祭壇では。


 祈りの前では。


 でも、桶の前では違う。


「祈った後でも、水は濁ります」


 わたしは言った。


 言ったあとで、まずいと思った。


 洗い場がまた静かになる。


 下働きが、今度こそわたしを殴るのではないかという顔をした。


 けれど、言ってしまったものは戻らない。


 水と同じだ。


 一度混ざったら、元へは戻らない。


「お前は、祈りを疑うのか」


「分かりません」


「分からない?」


「はい。祈りのことは分かりません。だから、布のことだけ言っています」


 助祭は黙った。


 わたしは続けた。


「熱の子に触れた布を白布の桶へ入れたら、その水で洗った布も疑わしくなります。疑わしくなった布を、祭壇へ戻すのは、よくないと思います」


「祭壇を語るな」


「語れません」


 わたしはすぐに言った。


「だから、桶を分けます」


 その時、施し列の方で女の声が上がった。


「水を、誰か、水をください」


 助祭が振り向く。


 下働きも振り向く。


 わたしも、そちらを見た。


 列の中で、子どもがぐったりしていた。


 母親が抱いている。


 頬は赤い。


 唇は乾いている。


 泣く力もない。


 熱の子だ。


 さっき祭壇布を掴んだ子かどうかは分からない。


 でも、分からないからこそ、近づけてはいけない。


 分からないものを、分かっている桶に入れない。


 それが洗い場の決まりだ。


 わたしは、まだ使っていない小桶を取った。


「それは白布用の水だぞ!」


 下働きが叫んだ。


「はい」


「どこへ持っていく!」


「子どもです」


「祭壇布が先だ!」


 わたしは足を止めなかった。


 白布より先に、子どもの口が乾いている。


 そう思った。


     *


 母親は、わたしを見上げた。


 雨なのか涙なのか、顔が濡れている。


「飲ませましたか」


 わたしは聞いた。


 母親は首を振った。


「列に並べと……神殿の方に……」


「少しずつ飲ませてください。こぼしてもいいです」


「これは」


「水です」


「神殿の水ですか」


「洗い場の水です」


 母親の顔に、ほんの少しためらいが浮かんだ。


 洗い場の水。


 清い言葉ではない。


 神殿の祝福もない。


 香草もない。


 銀の器もない。


 でも、まだ何も洗っていない水だった。


「大丈夫。まだ布を入れていません」


 わたしがそう言うと、母親は子どもの唇へ水を寄せた。


 最初は、ほとんど入らなかった。


 水が顎を伝って落ちる。


 もう一口。


 今度は、喉が小さく動いた。


 飲めた。


 それだけで、母親の肩が震えた。


「濡れた服を替えましょう」


「替えはありません」


「古い麻布があります」


「お金が」


「捨て布です」


 嘘だ。


 まだ使える。


 でも、そう言わないと受け取らない顔をしていた。


 わたしは洗い場へ戻り、乾いた麻布を取った。


 包帯に使ったものではない。


 魚布の近くに置いたものでもない。


 旅籠の寝布を包んだものでもない。


 少し古いけれど、乾いている布。


「これを」


 母親が受け取る。


 その手も冷えていた。


「庇の下へ。あの壁際は風が抜けます。こっちの方がましです」


「でも、施し列が」


「列は後でも並べます。今は水です」


 助祭が近づいてきた。


「洗い場に熱の子を寄せる気か」


「水路からは離します」


 わたしは答えた。


「魚布の桶からも離します。兵舎の包帯からも離します。白布の干し場にも近づけません。古い板を敷いて、乾いた麻布をかけます」


「お前は施療師か」


「違います」


「薬師か」


「違います」


「聖女か」


「違います」


 わたしは、子どもを見た。


 母親が、もう一口水を含ませている。


 子どものまぶたが少し動いた。


「だから、水を替えて、場所を替えます」


     *


 その日は、長かった。


 祭壇布は白布の桶へ入れなかった。


 ひびの入った古い桶に湯を張り、灰を使い、別に洗った。


 洗った後も、貴族館の白布とは離して干した。


 魚布の風下にも置かなかった。


 兵舎の包帯の近くにも置かなかった。


 助祭は最後まで不満そうだった。


 けれど、夕の祈りには別の布が使われた。


 少し黄ばんだ古い祭壇布だ。


 神殿の者たちは、それで祈った。


 わたしは祈らなかった。


 祈る暇がなかった。


 施し列の熱の子は一人ではなかった。


 一人を庇の下へ移せば、別の母親が自分の子も連れてくる。


 二人になれば布が足りない。


 三人になれば水が足りない。


 四人になれば、どこからを離し、どこまで近づけてよいのか分からなくなる。


 でも、分からないからといって、泥の列へ戻す気にはなれなかった。


「ミラ」


 わたしは呼んだ。


「古い板、まだありますか」


「割れたのならある」


「敷きます」


「包帯の古い布は使いません」


「魚布の風下にも置くなよ」


「分かっています」


「水は」


「替えます」


 ミラは、そこで少し笑った。


「なら、いい」


 それだけ言って、ミラは乾いた麻布を一枚、わたしの方へ寄せた。


 リノはその足元にいた。


 さっきよりも眠そうな顔で、母の裾を握っている。


 何かを手伝うわけではない。


 ただ、母のそばにいる。


 それでも、母が一歩動けば、その小さな身体も少しだけ動く。


 ミラが濡れた布を避ければ、リノも濡れた場所から遠ざかる。


 母の手順を理解しているのではない。


 母の動きに守られている。


 セナは、それでいいと思った。


 幼い子は、まず守られるべきだ。


 働き手になるのは、そのずっと後でいい。


     *


 二日後、最初の子どもが立った。


 元気になったわけではない。


 走れるようになったわけでもない。


 咳も残っている。


 頬の赤みも消えていない。


 ただ、母親の腕から離れ、自分の足で少し立った。


 それだけだった。


 でも、母親は泣いた。


 神殿は、祈りが届いたのだと言った。


 それでいいと思った。


 祈りが届いたと思えば、母親は安心する。


 安心して、次も神殿へ来られる。


 施し列を恐れずに済む。


 わたしは、祈りではないと言い争う気はなかった。


 ただ、その日も水を替えた。


 熱の子に触れた布を別にした。


 乾いた麻布を残した。


 兵舎の包帯を近づけなかった。


 魚布の桶を風下へ置いた。


 白布の水が濁ったら捨てた。


 それだけだ。


 夕方、南門倉の若い鑑定係が、洗い場の端に立っていた。


 目のよい若者だ。


 泥を見て、通った道を疑う。


 封紐を見て、ほどいた者を疑う。


 荷札の穴の削れ方を見る。


 わたしたちは、名前を知らない。


 ただ「あの目のよい子」と呼んでいる。


 その若者が、わたしに聞いた。


「記録してもよいですか」


「何を」


「水を替えたことを」


「そんなもの、帳に載せるの」


「載せ方は分かりません」


「じゃあ、載せられないね」


「でも、残さないと忘れられます」


 わたしは布を絞る手を止めなかった。


 帳。


 王国は帳で人を見る。


 父名。


 家名。


 通行符。


 商会印。


 神殿の紹介札。


 仮札。


 書かれていれば、見える。


 書かれていなければ、薄い。


 わたしの名も薄い。


 ミラの名も薄い。


 リノの名は、もっと薄い。


 でも、洗い場にはいる。


 水に手を入れている。


 布を絞っている。


 子を呼べば、振り向く。


「好きにしな」


 わたしは言った。


「でも、聖女とは書かないで」


「では、何と」


「洗い場の女」


 若者は頷いた。


 そして、木札の裏へ小さく書いた。


 ――洗い場女一名。


 ――祭壇布を白布桶に入れず。


 ――理由、熱児に触れたため。


 ――水を替える。


 ――熱児に飲水。


 ――濡衣を替え、乾布を用い、泥列より離す。


 ――二日後、熱児一名起立。


 ――原因断定不能。


 ――布は、所有者ではなく、接触物により分けるべきものか。


「難しく書くんだね」


 わたしは言った。


「帳に残すには、少し難しくしないと残りません」


「面倒だ」


「はい」


「水は、難しく書いても濁るよ」


 若者は少し笑った。


「それも書きます」


「書かなくていい」


 わたしは濡れた布を石へ叩きつけた。


 水が跳ねた。


     *


 その控えが、王立学術院へ出ることはなかった。


 商会倉の年配の書記が止めたからである。


「神殿の布と施し列の子を、倉の帳へ入れるな。揉める」


 若い鑑定係は、反論しなかったらしい。


 反論すれば、控えそのものが破られる。


 反論しなければ、少なくとも倉の奥には残る。


 だから、正式な帳へは写されなかった。


 ただ、南門倉の荷札控えの裏に挟まれた。


 雨の日には湿り、夏には虫が寄り、冬には墨が薄くなる場所だ。


 それでも、完全には消えなかった。


     *


 ミラとリノは、しばらくして洗い場からいなくなった。


 理由は、わたしには分からない。


 聞かなかった。


 洗い場の女がいなくなる理由は、いくつもある。


 よい理由ばかりではない。


 悪い理由ばかりでもない。


 聞いても答えられないことがある。


 答えられても、帳に載せられないことがある。


 だから、聞かなかった。


 ただ、最後の日のことは覚えている。


 仕事が終わり、ミラが桶のそばで眠りかけていた子を呼んだ。


「リノ、帰るよ」


 リノは目を開けた。


 立ち上がろうとして、少しふらついた。


 ミラは、濡れていない方の手でその肩を支えた。


 小さな肩。


 細い腕。


 母の手を探す指。


 リノは、ミラの手を握った。


 その手は、洗い場の仕事をする手ではなかった。


 まだ、母に引かれて帰る手だった。


 わたしは言った。


「気をつけて」


 ミラは短く頷いた。


 リノは何も言わなかった。


 ただ、母の手を握ったまま、こちらを一度見た。


 それが、わたしが見た最後のリノだった。


     *


 その後も、王都南門の洗い場は続いた。


 白布は来る。


 祭壇布も来る。


 兵舎の包帯も来る。


 市場の魚布も、旅籠の寝布も、門番の外套も来る。


 神殿の施し列には、雨の日になると熱の子が増える。


 若い女たちは、時々文句を言う。


「まだ使えますよ」


「捨てたらもったいない」


「神殿の布を先にしろと言われました」


「白いから、白布の桶でいいんじゃないですか」


 そのたびに、わたしは言う。


「何に触れたかを見な」


 若い女たちは、不満そうにする。


 昔のわたしも、そうだった。


 だから、強くは言わない。


 ただ、桶を指す。


「聖女じゃないなら、水を替えな」


 それは祈りではない。


 教義でもない。


 学術院の分類でもない。


 王国法にも、神殿の帳にも、商会の荷札にも載らない。


 ただ、洗い場に残った手順である。


 わたしは聖女ではない。


 奇跡も起こせない。


 王子に見初められることもない。


 神殿に認められることもない。


 遠い森の外へ行くこともない。


 わたしは、王都南門の洗い場に残る。


 朝になれば、水に手を入れる。


 冷たければ、冬に近い。


 重ければ、雨の後。


 臭ければ、魚布が多い。


 赤ければ、兵舎の包帯が来ている。


 白ければ、貴族館か神殿の布が来ている。


 分からなければ、分からないものとして分ける。


 それだけで、すべてが救えるわけではない。


 水を替えても、悪くなる子はいる。


 布を分けても、間に合わない傷はある。


 乾いた麻布をかけても、朝まで持たない者はいる。


 だから、わたしは聖女ではない。


 ただ、濁った水をそのままにできないだけの女である。


 王国の帳は、その意味をうまく書けない。


 けれど、洗い場の水は、今日も替えられる。

お読みいただきありがとうございます。

本作は『第十六個体観測録』関連短編です。


本編:『第十六個体観測録』 https://ncode.syosetu.com/n6732mh/

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