「君なら黙って記録するだろう」と呼ばれた地味令嬢、議事録に王子の嘘を全部残します
「アデライン・ロシュフォード公爵令嬢。私は今この場で、君との婚約を破棄する」
第一王子セドリック・ヴェイル殿下の声が、卒業記念舞踏会の大広間に響いた。
楽団の音が止まった。
銀の杯を手にしていた貴族たちが振り返り、踊っていた令嬢たちが足を止める。華やかな笑い声で満ちていた大広間は、一瞬で、誰かが息を潜める音まで聞こえそうな場所に変わった。
視線の先には三人がいた。
第一王子セドリック殿下。
その隣で涙ぐむ、男爵令嬢ロザベル・カーライン様。
そして、背筋を伸ばしたまま静かに立つ、アデライン・ロシュフォード公爵令嬢。
今夜一番の見せ場なのだと思う。
少なくとも、殿下はそう思っている顔をしていた。
「君は私の大切なロザベルを虐げ、階段から突き落とし、学院奨学支援会の寄付金までも不正に扱った。王家は、もはや君を未来の王妃として認めることはできない」
大広間がざわめいた。
ロザベル様は、セドリック殿下の袖にそっと指を添えた。白い頬に涙を浮かべ、小さく震えている。
「私、何度も申し上げたのです。アデライン様を責めないでください、と。でも……でも、殿下が真実を明らかにするとおっしゃってくださって」
何人かの令嬢が息を呑んだ。
何人かの青年貴族が、アデライン様を冷たい目で見た。
アデライン様は何も言わない。
ただ、セドリック殿下をまっすぐ見ていた。
私は壁際に立ったまま、小さな記録板を抱え直した。
ミラ・ノートン。
子爵家の次女で、王立法務院の記録係見習い。
社交界では、いてもいなくても変わらない地味令嬢、と言われている。
実際、それはほとんど正しい。
舞踏会に出ても踊りに誘われることは少ないし、扇を広げて噂を交わすほど器用でもない。華やかな会話より、誰が何時にどの書類へ署名したかを確認している方が落ち着く。
だから今夜も、私は大広間の端で静かに記録係として控えていた。
今夜は、ただの舞踏会ではない。
卒業記念の挨拶、成績優秀者の表彰、学院奨学支援会への寄付金報告、そして奨学生名簿の確認が予定されていた。
そのため私は、式次第の写しと一緒に、奨学金名簿、寄付金受領記録、支援会会計の控えを記録板の後ろに挟んでいる。
宰相府のエドウィン・クレイス様も、奨学支援会の報告に立ち会うため、控えの間にいるはずだった。
まさか、それらを婚約破棄の場で使うことになるとは思っていなかったけれど。
「ミラ・ノートン」
突然、殿下が私の名を呼んだ。
大広間の視線が、今度は私へ集まる。
やめてほしい。
私は壁際が好きなのだ。
正確には、壁際にいると人の邪魔になりにくいし、会話も書き取りやすいから好きなのだ。
「君は王立法務院の記録係見習いだったな」
「はい、殿下」
「では、この場の議事録を取れ」
周囲がざわめいた。
議事録。
つまり殿下は、この婚約破棄をただの痴情のもつれではなく、正式な断罪として残すつもりらしい。
セドリック殿下は、少しだけ笑った。
「君なら、公平に書けるだろう?」
言葉だけなら、信頼に聞こえる。
けれど、その声には別の意味が混じっていた。
君なら黙って書くだろう。
君なら逆らわないだろう。
君なら、王子の言葉を正しい形に整えて残すだろう。
そういう声だった。
私は記録板を開いた。
「承知しました。発言はすべて記録いたします」
「よろしい」
「発言者名、時刻、訂正、削除命令、証言変更も含めて、すべて記録いたします」
セドリック殿下の眉が、わずかに動いた。
「……削除命令?」
「はい。公式議事録では、削除を命じた事実も記録対象ですので」
大広間が少し静かになった。
私は羽ペンにインクを含ませる。
先生が何度も教えてくれた。
記録係は裁かない。
記録係は味方をしない。
記録係は、怒りも涙も美談も書かない。
ただ、誰が、いつ、何を言ったかを書く。
それだけだ。
だが、時々、それだけが一番人を追い詰める。
「では続ける」
セドリック殿下は咳払いをした。
「アデライン。君はロザベルを階段から突き落としたな」
「しておりません」
アデライン様の声は静かだった。
「嘘をつくな。ロザベル本人が証言している」
ロザベル様が涙を拭った。
「私、南階段でアデライン様に呼び止められたんです。『身の程を知りなさい』とおっしゃって、それから背中を押されて……私、怖くて……」
セドリック殿下は、満足そうに頷いた。
「記録したか、ミラ」
「はい」
私は書いた。
ロザベル・カーライン男爵令嬢、南階段でアデライン・ロシュフォード公爵令嬢に背中を押されたと証言。
続いて、時刻未確認。
目撃者未提示。
傷害の詳細未提示。
そこまで書いてから、私は顔を上げた。
「確認してもよろしいでしょうか」
「何だ」
「ロザベル様。南階段で突き落とされたのは、何時頃でしょうか」
ロザベル様は、涙に濡れた睫毛を震わせた。
「え……?」
「議事録に必要です。何時頃でしょうか」
「ええと……舞踏会が始まる少し前ですわ。七時頃だったと思います」
私は記録した。
「七時頃、と」
セドリック殿下は不快そうに言った。
「そんな細かいことはどうでもいい」
「殿下。細かいことがなければ、記録は噂になります」
「……続けろ」
私はアデライン様へ視線を向けた。
「アデライン様。七時頃、どちらにいらっしゃいましたか」
「北控え室です。王妃殿下付きの侍女長に呼ばれておりました」
その瞬間、大広間の空気が少し動いた。
王妃殿下付きの侍女長。
王城で、その名を利用して嘘をつく者はいない。
セドリック殿下の目が細くなった。
「それがどうした。君がそう言っているだけだ」
私は記録板の後ろに挟んでいた控えを取り出した。
「本日の控え室入退室記録に、七時二分、アデライン様入室。七時十八分、退室。侍女長マルタ様の署名がございます」
ロザベル様の涙が、一瞬だけ止まった。
「南階段での転落時刻が七時頃であるなら、アデライン様は同時刻、北控え室にいたことになります」
「……時刻を間違えたのだろう」
セドリック殿下が言った。
私は頷いた。
「では、ロザベル様の証言変更として記録いたします」
「変更ではありません!」
ロザベル様が慌てて声を上げた。
「私、混乱していて……七時ではなく、七時半頃だったかもしれません」
「七時半頃」
私は記録した。
ロザベル・カーライン男爵令嬢、転落時刻を七時頃から七時半頃へ変更。
ロザベル様の顔色が少し悪くなる。
私は続けた。
「七時半頃ですと、アデライン様は大広間の入口で公爵夫人方にご挨拶されています。こちらは受付記録と、入口係二名の記名がございます」
大広間に、小さな笑いとも息を呑む音ともつかないものが広がった。
セドリック殿下の頬が強張る。
「貴様、誰の味方だ」
私はペンを止めずに答えた。
「議事録は味方を選びません」
今度こそ、大広間が完全に静まり返った。
アデライン様が、初めて私を見た。
その目は、助けを求める目ではなかった。
ただ、少しだけ驚いていた。
ロザベル様は、そこで崩れなかった。
むしろ、震える指で涙を拭き、痛ましそうに微笑んだ。
「ミラ様は、記録係ですものね」
細い声だった。
けれど、大広間の端まで届く声だった。
「でも、記録に残らない悪意だってあるのです。冷たい視線、陰での嫌味、階段ですれ違う時の小さな仕草……そういうものは、帳簿にも議事録にも残りません」
何人かの令嬢が、同情するように息を呑んだ。
うまい、と思った。
ロザベル様は、記録で戦うことをやめた。
感情で会場を取ろうとしている。
確かに、記録に残らない悪意はある。
人の視線、沈黙、微笑み、ささいな言い回し。そういうものが誰かを傷つけることはある。私はそれを否定できない。
だから私は頷いた。
「はい。記録に残らない悪意は、私には裁けません」
ロザベル様の目に、少しだけ勝ち色が浮かんだ。
私は続けた。
「ですので、記録に残っている部分から確認します」
その勝ち色は消えた。
「ロザベル様は今、アデライン様から冷たい視線や嫌味を受けた、と主張されました。では、先ほどの『南階段で背中を押された』という証言については、撤回されますか」
「撤回など……」
「では、継続します。転落時刻は七時頃、のち七時半頃に変更。どちらの時刻でも、アデライン様には別記録がございます」
ロザベル様の唇が震えた。
セドリック殿下が苛立ったように言う。
「言葉だけが脅迫ではない。アデラインは嫉妬深い。婚約者である私の交友関係にまで口を出し、ロザベルを何度も追い詰めた」
私は記録する。
セドリック・ヴェイル第一王子、アデライン・ロシュフォード公爵令嬢を嫉妬深いと評する。
ロザベル・カーライン男爵令嬢、記録に残らない悪意を受けたと主張。
階段突き落とし証言については撤回せず。
「では、脅された際の具体的な言葉を教えてください」
ロザベル様は目を伏せた。
「それは……その、冷たい声で……」
「言葉をお願いします」
「……『その書類は何か』と」
私は書いた。
「アデライン様が『その書類は何か』と発言」
セドリック殿下が声を荒げた。
「それが脅しなのだ! ロザベルは怯えていた」
「書類の内容を問う発言を脅迫として扱う、との殿下の見解を記録します」
「いちいち書くな!」
「いちいち書くな、との発言を記録します」
また、大広間が静かになった。
ロザベル様は、今度こそ少し焦っている。
私は尋ねた。
「ロザベル様。アデライン様が確認しようとした書類とは、何の書類ですか」
「覚えておりません」
「覚えていない、と」
「いえ、違います。たいしたものではありません」
「たいしたものではない、と」
「ミラ様!」
ロザベル様は、涙を浮かべたまま私を見た。
「どうしてそんなに私を疑うのですか。私はただ、殿下をお慕いしただけなのに」
その声は、痛ましかった。
何も知らない者が聞けば、私が彼女をいじめているように聞こえたかもしれない。
でも、私は書く。
ロザベル・カーライン男爵令嬢、殿下を慕っただけと発言。
私は本当に、彼女を疑っているわけではない。
疑うのは、法務官の仕事だ。
私の仕事は、残すことだ。
「では、奨学金の件に移ります」
セドリック殿下が口を挟んだ。
「アデラインはロザベルに与えられるはずだった特別奨学金を止めた。ロザベルは、平民出身の生徒たちのために支援会を立ち上げようとしていたのだ」
ロザベル様が悲しげにうつむいた。
「私、自分のように身分の低い家から学院へ通う者にも、学びの機会が必要だと思って……」
私は書く。
ロザベル・カーライン男爵令嬢、平民出身生徒のために学院奨学支援会を立ち上げようとしたと発言。
アデライン・ロシュフォード公爵令嬢が特別奨学金を止めたと、セドリック・ヴェイル第一王子が主張。
「確認してもよろしいでしょうか」
セドリック殿下は苦々しげに言った。
「またか」
「はい。記録係ですので」
「……言え」
「ロザベル様。学院奨学支援会の寄付金管理には、カーライン商会が関わっていますか」
ロザベル様は、今度はすぐに崩れなかった。
「実務は父の商会が手伝っております。ですが、それは善意ですわ。貴族の方々から集まった寄付金を、間違いなく学院へ届けるために」
返答としては、悪くない。
私は頷いた。
「善意による実務協力、と記録します」
ロザベル様は、少しほっとした顔をした。
だが、私は記録板の後ろから、寄付金受領記録の控えを取り出した。
「今夜は、学院奨学支援会への寄付金報告が予定されておりました。そのため、私は寄付金受領記録の控えを持っています」
大広間の視線が、私の手元へ集まる。
「今年度の学院奨学支援会の寄付金は、合計三百二十枚。学院への実入金は百八十枚。差額百四十枚は、カーライン商会の倉庫修繕費として処理されています」
大広間が大きくざわめいた。
ロザベル様は目を見開いた。
だが、まだ泣き崩れなかった。
「それは、一時的な立替です」
セドリック殿下がすぐに言った。
「カーライン商会が支援会の事務を引き受けるにあたり、必要経費が生じた。その程度のことも分からないのか」
「必要経費としての申請書はありますか」
「後で出せばいい」
私は記録する。
セドリック・ヴェイル第一王子、カーライン商会の倉庫修繕費について必要経費と説明。申請書は後日提出可能と発言。
「後日提出可能、ですね」
「そうだ」
「では、現時点では未提出と記録します」
セドリック殿下の顔が固まった。
「貴様、わざと嫌な書き方をしているな」
「いいえ。現時点で提出されていないものを、提出済みとは書けません」
ロザベル様が慌てて言った。
「でも、父はきっと手続き中で……」
「手続き中、と記録します」
「記録しないでください!」
声が、少しだけ鋭くなった。
しまった、という顔をしたのはロザベル様自身だった。
私はペンを走らせる。
「ロザベル・カーライン男爵令嬢、カーライン商会の手続き中との発言について『記録しないでください』と発言」
セドリック殿下が手を上げた。
「今の発言は削除しろ」
来た。
私はそのまま書いた。
「セドリック・ヴェイル第一王子、ロザベル・カーライン男爵令嬢の『記録しないでください』との発言について、削除を命令」
「ミラ・ノートン!」
「削除のご命令も、ただいま記録いたしました」
広間の空気が変わった。
それまで好奇心で眺めていた貴族たちの顔に、別の色が混じる。
これは、ただの婚約破棄ではない。
そう気づいた顔だった。
セドリック殿下は、怒りで顔を赤くした。
「貴様、自分が何をしているか分かっているのか」
「はい。議事録を取っております」
「王子である私に逆らうつもりか」
「逆らってはおりません。殿下の発言を、その通りに書いております」
私は本当にそうしているだけだ。
少しも盛っていない。
少しも飾っていない。
ただ、殿下の言葉が殿下に優しくないだけだ。
「もういい!」
セドリック殿下は手を振った。
「議事録など必要ない。この場にいる者たちが証人だ。アデラインはロザベルを傷つけ、奨学金を妨害し、王家の名誉を傷つけた。よって、私は――」
「殿下」
アデライン様が、初めてセドリック殿下の言葉を遮った。
その声は、刃のように静かだった。
「その奨学金の件について、私からも発言してよろしいでしょうか」
「君に発言権はない」
「では、その発言も記録していただけますか、ミラ様」
「はい」
私は書いた。
セドリック・ヴェイル第一王子、アデライン・ロシュフォード公爵令嬢に発言権はないと発言。
アデライン様は、胸元から封筒を取り出した。
「私はロザベル様を妬んでいたのではありません。学院奨学支援会の寄付金が、なぜカーライン商会の倉庫修繕費に流れているのかを調べていました」
ロザベル様が震えた。
「違います……それは、お父様が……」
言いかけて、彼女は口を閉じた。
今度は自分で止まった。
ロザベル様は、愚かではない。
少なくとも、自分の発言が記録されていることを学習する程度には。
アデライン様は封筒を開け、数枚の書類を取り出した。
「こちらは、カーライン商会への送金記録です。そしてこちらが、王立学院の会計監査を止めるよう命じた書簡です」
セドリック殿下が目を見開いた。
「なぜ、それを」
アデライン様は冷たく言った。
「届く前に差し止められたはず、とお思いですか」
大広間が、再びざわめいた。
私は記録する。
セドリック・ヴェイル第一王子、アデライン・ロシュフォード公爵令嬢提示の書簡について「なぜ、それを」と発言。
アデライン様の唇が、わずかに動いた。
笑ったのかもしれない。
「殿下。私は婚約者として、何度も申し上げました。王家の名で行う奨学金に不明金があるのは危険です、と」
「君はいつも私に恥をかかせた」
セドリック殿下の声が荒くなる。
「人前で帳簿だの監査だのと。王子である私に、まるで不正をしているかのように」
私は書いた。
セドリック・ヴェイル第一王子、アデライン・ロシュフォード公爵令嬢が帳簿および監査について発言したことを、自らへの恥と表現。
「殿下」
私は顔を上げた。
「確認してもよろしいでしょうか」
「何だ」
「殿下は、アデライン様が帳簿と監査について指摘していたことをご存じだった、ということでよろしいですか」
セドリック殿下が固まった。
遅い。
もう書いた。
「……違う。私は、一般論を言っただけだ」
「訂正として記録します」
「訂正するな!」
「訂正しないでほしい、との発言を記録します」
「黙れ!」
私は黙った。
だが、ペンは止めない。
沈黙も時には記録対象だ。
発言者が怒鳴り、記録係に沈黙を命じた場合、その怒鳴り声もまた記録される。
その時、大広間の入口から低い声がした。
「ずいぶん賑やかな議事録になっているようだな」
人垣が割れた。
若い男性が歩いてくる。
濃紺の礼服に、銀の飾緒。王族ではないが、王城で彼を知らない者は少ない。
エドウィン・クレイス様。
若き宰相補佐。
王国の法務と行政手続きを束ねる、次代の宰相候補と噂される方だ。
セドリック殿下の顔に、わずかな焦りが走った。
「エドウィン。これは王家の私的な問題だ」
「公的行事の大広間で、法務院記録係に議事録を命じ、学院奨学支援会の会計に触れた時点で、私的とは言い難いかと」
エドウィン様は私を見た。
「記録係。続けて」
「はい」
私は少しだけ息を吸った。
手が震えていないことを確認する。
記録係は、裁かない。
だが、書くことをやめてはいけない。
エドウィン様はアデライン様の書類を受け取り、ざっと目を通した。
「カーライン商会への送金記録。学院奨学支援会の未着金。監査差し止め書簡。殿下の承認印」
セドリック殿下は強く言った。
「私は知らない。側近が勝手に」
「先ほど、殿下は『王子である私に、まるで不正をしているかのように』と発言されています」
私は口を挟んだ。
セドリック殿下が、憎々しげに私を見る。
私は記録板を見たまま続けた。
「また、アデライン様が帳簿と監査について指摘していたことを、殿下はご存じであったと解される発言がございます」
「解するな! 記録係が勝手に解釈するな!」
「はい。解釈ではなく、発言原文を読み上げます」
私は記録板を持ち直した。
「『君はいつも私に恥をかかせた。人前で帳簿だの監査だのと。王子である私に、まるで不正をしているかのように』」
読み上げ終えると、大広間から音が消えた。
セドリック殿下の顔が、赤から白へ変わる。
ロザベル様は震えながら後ずさった。
「私は……私は、詳しいことは何も……」
今度は、先ほどより慎重だった。
だが、エドウィン様は静かに言った。
「詳しいことは、これから確認する。少なくとも、受領確認書には君の署名がある」
「そんな……私は、お父様に言われて署名しただけで……」
言ってから、ロザベル様は口元を押さえた。
私は書いた。
ロザベル・カーライン男爵令嬢、父の指示で受領確認書に署名したと発言。
ロザベル様が、今にも泣きそうな顔で私を見る。
「ミラ様……」
「はい」
「それも、書くのですか」
「はい」
私は少しだけ迷ってから、正直に答えた。
「あなたを責めるためではありません。後で、あなたが『言っていない』と言われないためにも、書きます」
ロザベル様は、何も言わなかった。
その顔に、初めて被害者の仮面ではないものが浮かんだ。
怖がっている顔だった。
アデライン様は、ロザベル様を見下ろさなかった。
勝ち誇りもしなかった。
ただ、淡々と言った。
「ロザベル様。あなたが私を嫌っていたことは、もう構いません。けれど、奨学金は、あなたと殿下の恋愛劇の小道具ではありません」
その言葉は、ロザベル様よりもセドリック殿下に刺さったように見えた。
アデライン様は、続ける。
「本来なら、平民出身の生徒たちに届くはずのお金でした。学費を払えず、学院を去った者もいます。私は、それを止めたかっただけです」
大広間の空気が変わった。
悪役令嬢。
嫉妬深い婚約者。
王子の恋を邪魔する女。
そう見られていたアデライン様の輪郭が、少しずつ変わっていく。
彼女は、冷たい女ではなかった。
冷静な女だった。
エドウィン様は、セドリック殿下へ向き直った。
「殿下。今夜の件は、宰相府と王立法務院で正式に扱います。婚約破棄についても、王家側の有責事案として再審査されるでしょう」
「私を裁くつもりか」
「私ではありません。記録と証拠です」
セドリック殿下は、私を見た。
その目には、初めて恐れがあった。
「ミラ・ノートン。お前は、私が王子だと分かっていて」
「はい」
「それでも、書いたのか」
「はい」
「なぜだ」
私は少し考えた。
なぜ。
理由は単純だ。
「記録係ですので」
大広間の奥で、誰かが小さく息を吐いた。
笑いではなかった。
たぶん、緊張が切れた音だった。
セドリック殿下はもう何も言わなかった。
ロザベル様も。
エドウィン様の指示で、王城警備の者たちが側近数名とカーライン商会関係者を別室へ案内していく。ロザベル様も事情聴取のため、侍女に付き添われて控え室へ向かった。
セドリック殿下は、最後まで私の記録板を見ていた。
まるでそこに、自分を刺した刃があるかのように。
違う。
刃は私の記録板ではない。
殿下自身の言葉だ。
私はそれを写しただけだった。
◇
その夜の舞踏会は、中止になった。
当然だと思う。
婚約破棄、冤罪、奨学金不正、削除命令、証言変更、受領確認書への署名。
踊るには、少し議題が多すぎた。
後日、セドリック殿下は王位継承権を一時停止された。
ロザベル様の実家であるカーライン商会には監査が入り、学院奨学支援会の寄付金流用について正式な調査が始まった。
アデライン様への婚約破棄は、王家側の重大な瑕疵により、ロシュフォード公爵家の名誉を傷つけた行為として扱われた。
つまり、世間が思っていた「悪役令嬢の断罪劇」は、王子側の断罪劇になった。
私はというと、翌朝、王立法務院の小さな記録室に呼び出された。
叱責かもしれない。
そう思っていた。
王子の発言をそのまま書いたことは、法務院の規則には反していない。だが、王族に恥をかかせたと言われれば、下級貴族の娘である私は強く出られない。
記録室の扉を開けると、そこにはエドウィン・クレイス様がいた。
昨夜の礼服ではなく、宰相府の執務服を着ている。
「ミラ・ノートン嬢」
「はい」
「昨夜の議事録を読んだ」
「誤記がありましたでしょうか」
「いや」
エドウィン様は、机の上の写しを指で軽く叩いた。
「誤記がないことが問題になるくらい、正確だった」
私は返事に困った。
褒められているのか、困られているのか、判断が難しい。
「君は、王子の顔色を見なかった」
「見る必要がありませんでした」
「怖くなかったのか」
「怖かったです」
これは本当だ。
手は震えていなかったが、背中はずっと冷たかった。王子に睨まれて、怖くない人間など少ないと思う。
「ですが、顔色を見ると、字が曲がります」
エドウィン様は一瞬黙った。
それから、小さく笑った。
「なるほど。法務院向きだ」
私は少しだけ目を伏せた。
「私は、ただの見習いです」
「ただの見習いが、王子の断罪劇を王子自身の公式記録に変えた」
「私は、言われた通りに記録しただけです」
「だから価値がある」
エドウィン様の声は、舞踏会場で聞いた時より少し柔らかかった。
「権力者の望む言葉ではなく、実際に発せられた言葉を書く。簡単に見えて、それができる者は少ない」
私は記録板を抱え直した。
「お褒めいただき、ありがとうございます」
「褒めているだけではない。提案がある」
「提案、ですか」
「宰相府の記録官補佐に来ないか」
私は固まった。
宰相府。
王国の中枢。
王立法務院の記録係見習いからすれば、遠すぎる場所だ。
「私のような者が、ですか」
「君のような者が、だ」
エドウィン様はまっすぐ私を見た。
「王国には、きれいな言葉を残す者は多い。だが、都合の悪い言葉を消さずに残す者は少ない」
その言葉は、不思議と胸に残った。
私は地味だ。
壁際にいる。
踊りも得意ではない。
社交界で目立つ美貌も、場を明るくする話術もない。
けれど、言葉を残すことはできる。
誰かが消そうとした言葉を、消えない形にすることはできる。
「君は昨夜、王子の嘘を暴いた」
「嘘を暴いたつもりはありません」
「では、何をした」
「発言を順番に並べました」
エドウィン様は、また笑った。
「それが一番怖い」
私は少しだけ困った。
怖がらせたいわけではない。
ただ、順番は大切だ。
人の言葉は、都合よく切り取れば何にでも見える。だが、いつ、誰が、何を言い、その後に何を訂正し、何を消そうとしたかまで並べると、嘘はだいたい自分で形を失う。
私はその形を追うのが、少し得意なだけだ。
「ミラ嬢」
「はい」
「次は、私の隣で記録してほしい」
私は顔を上げた。
エドウィン様の表情は、仕事の話をしている時のものだった。
けれど、その声には少しだけ別の温度があった。
「王国には、君のように嘘を書かない人間が必要だ」
そこで一度、言葉が切れる。
そして、彼は小さく付け足した。
「……私にも、そういう人が隣にいると心強い」
記録係としてなら、その一文も記録した方がいいのだろうか。
そう思ったけれど、今は議事録を取っているわけではない。
だから私は、書かずに覚えておくことにした。
「考えさせていただいてもよろしいでしょうか」
「もちろん」
「ありがとうございます」
私は頭を下げた。
記録室の窓から、朝の光が差し込んでいる。
昨夜、私は壁際にいた。
王子は、私なら黙って記録するだろうと思って呼んだ。
実際、私は黙って記録した。
ただし、都合よくは書かなかった。
その結果、婚約破棄のために開かれた断罪劇は、王子自身の発言で終わった。
地味令嬢と呼ばれた私の名前は、華やかな舞踏会の噂ではなく、王立法務院の公式議事録に残った。
ミラ・ノートン。
発言をすべて記録。
削除命令も含む。
そして、その記録は王子の嘘より長く残る。
最後までお読みいただきありがとうございます。
面白い、続きが読みたいと思っていただけましたら、下の評価・ブックマークで応援していただけると嬉しいです。
【追記】
連載版を始めました。
短編版を未読でも読めるように再構成しつつ、ミラが未来の女公爵アデラインの記録官になるまでを書いています。
連載版はこちらです。
『「君なら黙って記録するだろう」と王子殿下はおっしゃいましたので
〜議事録令嬢は未来の女公爵様の記録官になります〜』
よろしければ、そちらも読んでいただけると嬉しいです。




