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人間の僕と魔族の彼女は、世界に拒まれ寄り添って眠る

作者: アポロ
掲載日:2026/04/14

森の奥で、焦げた匂いがまだ消えていなかった。

 昨夜、人間の集落が魔物に襲われたという報せを受け、魔族の戦士ガルドは焼け跡を慎重に踏みしめていた。


 黒く崩れた家々の間から、かすかな泣き声が聞こえた。


「……赤ん坊の声だ」


 瓦礫をどけると、煤にまみれた布包みが現れた。

 中には、人間の赤ん坊が必死に泣いている。


 母親らしき女性は、すぐそばで冷たくなっていた。

 魔物の爪痕が胸を深く裂いている。


「この子だけが、生き残ったのか……」


 ガルドは赤ん坊を抱き上げた。

 小さな体は震え、泣き声は弱々しい。


「連れて帰るのか?」

「置いていけば死ぬ」


 短い言葉で、ガルドは決断した。


 それは掟に反する行為だったが、ガルドの腕の中で泣く命を見捨てることはできなかった。


 村に戻ると、ガルドの妻ミラが驚きの声を上げた。


「人間の子……?」


「無視できなかった……リュミナは?」


「家の中よ。泣き止まなくて……」


 ガルドが家に入ると、揺り籠の中で魔族の赤ん坊リュミナが泣き続けていた。

 普段は静かな子なのに、今日はまるで何かを探すように泣き続けている。


 ガルドが人間の赤ん坊を近づけた瞬間――

 リュミナの泣き声が、ぴたりと止まった。


 そして、小さな手を伸ばし、人間の赤ん坊の頬に触れた。


 人間の赤ん坊も、泣き止んだ。


 家の中に、静寂が落ちた。


「……この子は、殺せん」


 ガルドは低く呟いた。


「掟はどうするの?」

「掟よりも……この子たちを見ろ」


 揺り籠の中で寄り添う二人は、まるで最初から兄妹だったかのように眠っていた。


「この子はヒューゴだ」


 ガルドは迷いなく言った。


「今日から、我が家の子だ。リュミナと同じように育てる」


 その決断が、十五年後にガルドの家を揺るがすことになるとは、誰も知らなかった。


ヒューゴが村に来てから、季節が三つ巡った。


 魔族の村は険しい山に囲まれ、外の世界から隔絶されている。

 その閉ざされた場所で、ヒューゴとリュミナは同じ揺り籠で眠り、同じ乳を飲み、同じ歌を聞いて育った。


 ガルドの妻ミラは、二人を分け隔てなく抱きしめた。

 ヒューゴが泣けばリュミナも泣き、リュミナが笑えばヒューゴも笑った。


 村の者たちは最初こそ戸惑ったが、赤ん坊の無垢さは、どんな偏見も溶かしていった。


「人間の子でも……赤ん坊は赤ん坊だな」

「リュミナとよく似てる。兄妹みたいだ」


 そんな声も聞こえるようになった。


 だが、全員が受け入れたわけではない。


「……あの子は人間だぞ」

「いつか牙をむくかもしれん」

「戦が始まれば、真っ先に疑われるのは我らだ」


 ヒューゴが物心つく前から、村には小さな亀裂が走っていた。


 それでも、二人の世界は穏やかだった。


 ヒューゴが五歳になった頃、リュミナはよく彼の後をついて回った。

 森の中で花を摘むときも、川で石を投げるときも、いつも隣にいた。


「ヒューゴ、これ見て!」

 リュミナが小さな角を誇らしげに見せる。

「昨日より伸びたんだよ!」


「すげぇ! リュミナ、かっこいい!」


 ヒューゴは本気でそう思っていた。

 魔族の特徴である角も、爪も、肌の色も、彼にとっては“リュミナの一部”でしかなかった。


 逆に、リュミナはヒューゴの人間らしさに憧れた。


「ヒューゴの髪、ふわふわでいいなぁ。私のは硬いのに」

「リュミナの髪も好きだよ。光に当たると綺麗だし」


 そんな他愛もない会話が、二人の日常だった。


 だが、ヒューゴが七歳になった頃、初めて“違い”を突きつけられる出来事が起きた。


 村の子供たちと遊んでいたとき、年上の魔族の少年がヒューゴの腕を掴んだ。


「お前、人間だろ。なんでここにいるんだよ」


 ヒューゴは答えられなかった。

 自分が人間だということは知っていたが、それがどういう意味なのかは分からなかった。


 リュミナが間に割って入った。


「ヒューゴは私の家族だよ! 文句あるの?」


 魔族の少年は鼻で笑った。


「家族? そんなわけないだろ。お前は魔族で、そいつは――」


 その言葉を聞く前に、リュミナはヒューゴの手を引いて走り出した。


 森の奥まで逃げ、息を切らしながら座り込む。


「ヒューゴは……ヒューゴだよ。人間とか魔族とか、関係ないよ」


 リュミナは泣きそうな顔で言った。


 ヒューゴは小さく頷いた。


「うん。でも……俺、ここにいていいのかな」


「いいよ! 私がいるもん!」


 その言葉は、幼いリュミナが言える最大の“約束”だった。


 だが、ヒューゴの胸には小さな棘が残った。

 その棘は、成長するにつれてゆっくりと深く刺さっていく。


 村の大人たちの視線も、少しずつ変わっていった。


 優しさの裏にある警戒。

 笑顔の奥にある不安。

 ヒューゴはそれを敏感に感じ取るようになった。


 それでも、リュミナだけは変わらなかった。


「ヒューゴ、明日も一緒に森行こうね」

「うん。リュミナとなら、どこでも行くよ」


 その言葉が、二人の世界を支えていた。


 ――だが、外の世界は静かに動き始めていた。


 人間と魔族の戦争が、再び激しくなりつつあった。


ヒューゴが十五歳になる頃、村の空気は目に見えて変わり始めた。


 外の世界では、人間と魔族の戦争が再び激化していた。

 山の向こうで立ち上る黒煙は、遠く離れた村にまで不穏な気配を運んでくる。


「人間どもが攻めてきたらどうする」

「この村に“あれ”がいることが知られたら……」


 “あれ”とは、ヒューゴのことだった。


 ヒューゴはその言葉を聞くたび、胸の奥が冷たくなるのを感じた。

 だが、リュミナだけは変わらなかった。


「ヒューゴはヒューゴだよ。誰が何を言っても」


 その言葉に救われる日々だった。


 しかし、村の視線は確実に変わっていった。


 ある日、ヒューゴが水汲みをしていると、背後から声がした。


「……お前、いつまでここにいるつもりだ」


 振り返ると、村の戦士たちが立っていた。

 彼らはヒューゴを育てたガルドの仲間であり、かつては優しく接してくれた大人たちだった。


「戦が近い。人間の子を匿っていると知れれば、村ごと焼かれるぞ」


「俺は……そんなつもりじゃ……」


「つもりなど関係ない。存在そのものが危険なんだ」


 ヒューゴは言葉を失った。


 そこへ、リュミナが駆け寄ってきた。


「ヒューゴに何してるの!」


「リュミナ、これは村のためだ。お前も分かるだろう」


「分からない! ヒューゴは家族だよ!」


 戦士たちは顔をしかめた。


「……その“家族”という言葉が、村を危険に晒しているんだ」


 その言葉は、ヒューゴの胸に深く刺さった。


 家族であることが、誰かを危険にする。

 そんなこと、考えたこともなかった。


 その夜、村の長老たちが集まり、密かに会議が開かれた。


「人間の子を置いておくのは危険だ」

「追放すべきだ」

「だが、ガルドの家族は……」

「情に流されて村が滅ぶわけにはいかん」


 結論は、すでに決まっていた。


 翌朝、ガルドの家に長老が訪れた。


「……ヒューゴを、村の外へ出す時が来た」


 ガルドは拳を握りしめた。


「十五年……十五年も家族として育ててきたんだぞ」


「分かっておる。だが、戦は待ってはくれん」


 ミラは泣きながらヒューゴを抱きしめた。


「ごめんね……ごめんね、ヒューゴ……」


 ヒューゴは何も言えなかった。

 自分がここにいることで、誰かが苦しんでいる。

 その事実だけが胸を締めつけた。


 リュミナは泣きながら叫んだ。


「嫌だ! ヒューゴはここにいていいの! ずっと一緒にいるの!」


「リュミナ……」


「行かないでよ……ヒューゴ……」


 その声は、幼い頃に森で聞いた“約束”の声と同じだった。

 だが、今はもう守れない。


 ヒューゴは静かに言った。


「……俺がいると、みんなが危ないんだろ。だったら……」


「違う! 違うよヒューゴ! そんなの嘘だよ!」


 リュミナは必死に否定した。

 だが、村の視線は冷たく、現実は残酷だった。


 ヒューゴは気づいてしまった。


 ――自分には、この村に居場所がない。


 その気づきは、胸の奥で静かに、しかし確実に何かを壊した。


 そして、追放の日が決まった。


 十五歳の誕生日。

 ヒューゴが魔族の大人として扱われるその日に、村は彼を“外の世界”へ送り出す。


 リュミナはその日を前に、何度もヒューゴの手を握った。


「絶対に行かせないから……絶対に……」


 だが、運命はもう動き始めていた。


ヒューゴの十五歳の誕生日は、朝から重い空気に包まれていた。

 村の広場には、戦士たちと長老たちが集まり、まるで儀式のように整列していた。


 ヒューゴはガルドに連れられて広場へ向かった。

 リュミナはその手を離さず、必死に歩幅を合わせていた。


「ヒューゴ……行かなくていいよ。逃げようよ。森に隠れれば……」


「リュミナ。逃げたら、村がもっと危なくなる」


「そんなの……そんなの、ヒューゴのせいじゃない!」


 リュミナの声は震えていた。

 ヒューゴはその手をそっと握り返した。


「大丈夫。俺は……平気だから」


 その言葉は嘘だった。

 でも、リュミナを泣かせたくなかった。


 広場に着くと、村人たちの視線が一斉にヒューゴに向けられた。

 その視線は、十五年間で初めて“敵を見る目”になっていた。


 長老が前に出る。


「ヒューゴ。お前は今日をもって、この村を去らねばならぬ」


 リュミナが叫んだ。


「なんで! なんでヒューゴが追い出されるの! ヒューゴは何もしてない!」


「リュミナ、下がりなさい」


「嫌だ!」


 長老は静かに言った。


「戦が近い。人間の子を匿っていると知れれば、村は滅ぶ。

 お前を憎んでいるわけではない。だが……生かしておくことができぬのだ」


 ヒューゴは唇を噛んだ。


 “憎んでいない”

 その言葉が、逆に胸を刺した。


 憎まれていた方が、まだ楽だった。


 ガルドが前に出た。

 その顔は、戦士ではなく“父”の顔だった。


「……すまない、ヒューゴ。守ってやれなかった」


「お父さんのせいじゃないよ」


 ヒューゴは微笑んだ。

 その笑顔は、十五年で覚えた“強がり”だった。


 だが、リュミナは違った。


「嫌だ……嫌だよ……ヒューゴがいない世界なんて、嫌だ……!」


 リュミナはヒューゴに抱きつき、離れようとしなかった。

 戦士たちが近づくと、彼女は牙をむいて叫んだ。


「触らないで! ヒューゴは私の家族なの!」


 その言葉に、村人たちがざわめいた。


「魔族の娘が……人間を家族と……?」

「やはりあの子は危険だ」

「リュミナまで人間に染まったのか」


 リュミナの叫びは、逆効果だった。


 ヒューゴはそっとリュミナの肩に手を置いた。


「リュミナ。俺は……行くよ」


「行かないで……お願い……」


「俺がここにいたら、みんなが危険なんだ。

 リュミナまで……」


 リュミナは首を振り続けた。


「危険でもいい! ヒューゴがいない方が……もっと嫌だよ……!」


 その言葉は、ヒューゴの胸を深く刺した。

 でも、決断は変わらなかった。


「リュミナ。ありがとう。

 でも……俺は行かなくちゃ」


 リュミナは崩れ落ちるように泣き叫んだ。


「ヒューゴ……ヒューゴ……!」


 ヒューゴは振り返らず、村の門へ向かった。

 背中にリュミナの声が突き刺さる。


「待って……ヒューゴ……行かないで……!」


 門の前で、ガルドが最後に言った。


「……息子よ、生きろ。どこに行ってもいい。だが、生きろ」


「うん。ありがとう」


 ヒューゴは門をくぐった。


 その瞬間、村の門が重く閉ざされた。


 ――二度と開くことはなかった。


 門の向こうから、リュミナの叫び声が響き続けた。


「ヒューゴ……ヒューゴ……!」


 ヒューゴは立ち止まらなかった。

 止まれば、進めなくなってしまうから。


 涙が頬を伝っても、歩みは止めなかった。


 こうして、十五年続いた“家族”は終わった。


 だが、ヒューゴは知らなかった。


 ――リュミナもまた、村を出る決意を固めていたことを。


 村の門が閉ざされたあとも、リュミナの叫び声はしばらく続いていた。

 だが、やがてその声も途切れ、村はいつもの静けさを取り戻した。


 ――はずだった。


 夜になっても、リュミナは家に戻らなかった。


 ガルドとミラは村中を探したが、どこにもいない。

 揺り籠は空っぽで、リュミナの大事にしていた小さな布人形だけが残されていた。


「まさか……」


 ガルドは門へ走った。

 門番に尋ねると、彼は気まずそうに目をそらした。


「……夕暮れ頃、ひとりで門を出ていった。止めたが……聞かなかった」


 ミラが口元を押さえて泣いた。


「リュミナ……!」


 ガルドは拳を握りしめた。


「……あの子は、ヒューゴを追ったんだ」


 その言葉は、誰も否定できなかった。


 リュミナは幼い頃から、ヒューゴの後をついて回っていた。

 ヒューゴが笑えば笑い、泣けば泣き、怒れば怒った。

 十五年、ずっと隣にいた。


 そのヒューゴがいなくなった世界で、リュミナが生きられるはずがなかった。


 ガルドは空を見上げた。


「神よ……どうか、二人が無事でありますように」


 祈るように呟いた。


 ヒューゴは村を出てから、山道をひとり歩いていた。

 夕暮れの光が森を赤く染め、影が長く伸びる。


 足は重く、胸は痛かった。

 十五年分の思い出が、歩くたびに背中を引っ張る。


「……リュミナ」


 名前を呼ぶと、胸が締めつけられた。


 あの泣き声。

 あの手の温もり。

 あの“行かないで”という叫び。


 全部が耳に残って離れない。


 ヒューゴは立ち止まり、深く息を吸った。


「……俺がいなければ、リュミナは幸せになれる」


 そう言い聞かせるように呟いた。


 その瞬間――


「ヒューゴ!」


 背後から声がした。


 振り返ると、息を切らしたリュミナが立っていた。

 髪は乱れ、足は泥だらけで、肩で大きく息をしている。


「……なんで」


 ヒューゴの声は震えた。


「なんで来たんだよ……!」


 リュミナは涙を拭いもせず、ヒューゴに駆け寄った。


「だって……ヒューゴがいない世界なんて、嫌だから……!」


 ヒューゴは言葉を失った。


「村にいたら、ヒューゴがいない。

 ヒューゴがいないなら……あそこはもう、私の居場所じゃないよ」


 その言葉は、ヒューゴの胸を深く刺した。


「でも……リュミナまで追放されるかもしれないんだぞ」


「いいよ。ヒューゴがいるなら、それでいい」


 リュミナは迷いなく言った。


「私の居場所は、ヒューゴの隣だけだよ」


 ヒューゴは目を伏せた。

 涙が落ちるのを隠せなかった。


「……ごめん。俺のせいで」


「違うよ。ヒューゴのせいじゃない。

 悪いのは……世界の方だよ」


 リュミナはヒューゴの手を握った。


「行こう。二人で。

 どこにも居場所がないなら……二人で作ればいいよ」


 ヒューゴはその手を握り返した。


 その瞬間、十五年で初めて、

 “二人だけの世界”が始まった。


ヒューゴとリュミナは、村を離れて山道を歩き続けた。

 夜の冷気が肌を刺し、風が木々を揺らすたびに、二人の影が細く震えた。


「寒くない?」

「ヒューゴがいるから平気」


 リュミナは笑ったが、その笑顔は少しだけ無理をしているように見えた。


 ヒューゴは自分の外套をリュミナの肩にかけた。


「ほら、これ着てろよ」

「ヒューゴは?」

「俺は平気だよ」


 リュミナは外套を握りしめた。


「……ありがとう」


 その声は、十五年で一番小さかった。


 山を越えた先に、人間の街があった。

 ヒューゴは胸の奥がざわついた。


「ここなら……もしかしたら、受け入れてくれるかもしれない」


 そう思いたかった。


 だが、街の門に近づいた瞬間、兵士が槍を向けた。


「止まれ! そこの魔族!」


 リュミナがびくりと肩を震わせた。

 ヒューゴは慌てて前に出る。


「違うんだ! リュミナは――」


「黙れ、人間の少年。魔族を連れてくるとはどういうつもりだ」


「彼女は……俺の家族なんだ!」


 兵士たちは嘲笑した。


「家族? 魔族と? 冗談も大概にしろ」


「魔族は敵だ。連れているだけで処刑されても文句は言えんぞ」


 ヒューゴは息を呑んだ。


 リュミナはヒューゴの袖を掴んだ。


「……行こう、ヒューゴ。ここは違う」


 ヒューゴは悔しさで唇を噛んだが、リュミナの手を握り返した。


「……ああ。行こう」


 街の門は、二人にとって“最初の拒絶”だった。


 次に訪れたのは、魔族の集落だった。

 リュミナは少しだけ期待していた。


「ここなら……ヒューゴも受け入れてくれるかも」


 だが、門番の魔族はヒューゴを見るなり、目を細めた。


「人間……? なぜ魔族の娘が人間を連れている」


「ヒューゴは私の家族だよ!」


「家族? 魔族の血を汚す気か」


 リュミナの顔が青ざめた。


「違う! ヒューゴは……ヒューゴは……!」


「帰れ。人間を連れている者を集落に入れるわけにはいかん」


 リュミナは震える声で言った。


「……ヒューゴは、私の大切な人なのに」


「ならば、お前も人間側へ行け。魔族の誇りを捨てた裏切り者め」


 その言葉は、リュミナの胸を深く刺した。


 ヒューゴは彼女の肩を抱いた。


「もういい。行こう、リュミナ」


「……うん」


 魔族の集落も、二人を拒絶した。


 それから、二人は森を転々とした。

 人間の村に近づけば石を投げられ、

 魔族の集落に近づけば追い払われた。


 夜は冷たく、昼は飢えが襲った。


 それでも、二人は手を離さなかった。


「ヒューゴ……疲れてない?」

「平気だよ。リュミナこそ……」


「私は大丈夫。ヒューゴがいるから」


 その言葉だけが、二人を支えていた。


 だが、旅が続くにつれ、リュミナの顔色は少しずつ悪くなっていった。


 食欲が落ち、歩く速度が遅くなり、

 夜になると咳が止まらなくなった。


「リュミナ、大丈夫か?」

「うん……ちょっと疲れただけ」


 リュミナは笑った。

 だが、その笑顔は日に日に薄くなっていった。


 ヒューゴは気づいていた。


 ――リュミナの体が、確実に弱っていることに。


 だが、どこにも医者はいない。

 どこにも助けはない。


 世界のどこにも、二人の居場所はなかった。


旅を始めてから、どれほどの日が経ったのか分からなくなっていた。

 森を抜け、丘を越え、川沿いを歩き、また森へ戻る。

 どこへ行っても拒絶され、追い払われ、二人はただ歩き続けるしかなかった。


 その旅の中で、リュミナの体は確実に弱っていった。


 最初は、少し歩くのが遅くなっただけだった。

 次に、食べる量が減った。

 夜になると咳が出るようになり、朝には熱が上がる日もあった。


「リュミナ、大丈夫か?」

「うん……ちょっと疲れただけ」


 リュミナはいつも笑って答えた。

 だが、その笑顔は日に日に薄くなっていった。


 ヒューゴは気づいていた。

 リュミナの手が、前よりも冷たくなっていることに。

 歩くたびに肩が揺れ、息が浅くなっていることに。


 だが、言えなかった。


「休もうか?」

「ううん。歩けるよ。ヒューゴと一緒なら」


 その言葉が、ヒューゴの胸を締めつけた。


 ある夜、焚き火のそばでリュミナが咳き込んだ。

 細い体が震え、肩が上下する。


「リュミナ……!」


 ヒューゴが背中をさすると、リュミナは苦しそうに息を吸った。


「ごめん……ちょっと、寒いだけ……」


 ヒューゴは自分の外套をかけ、リュミナの手を握った。

 その手は、まるで氷のように冷たかった。


「明日、どこかで薬草を探そう。

 人間の村じゃなくても、魔族の集落じゃなくても……きっとどこかに……」


 ヒューゴは必死に言葉を探した。


 リュミナは静かに首を振った。


「ヒューゴ……無理しないで」


「無理なんかしてないよ!」


 声が震えた。

 リュミナはその震えを聞き逃さなかった。


「ヒューゴは優しいね。

 昔からずっと……私のこと、守ってくれた」


「当たり前だろ。家族なんだから」


 リュミナは少しだけ目を伏せた。


「……家族、だけ?」


 ヒューゴは言葉に詰まった。

 リュミナは微笑んだ。


「ごめん。変なこと言っちゃった」


 その笑顔は、どこか遠くを見ているようだった。


 翌日、リュミナはほとんど歩けなくなった。

 足がもつれ、膝が折れ、地面に倒れ込む。


「リュミナ!」


 ヒューゴは慌てて抱き起こした。

 リュミナの体は軽すぎた。

 まるで、風が吹けば消えてしまいそうだった。


「……ごめん。ちょっと、立てなくて」


「もう歩かなくていい。俺が運ぶ」


 ヒューゴはリュミナを背負った。

 リュミナの腕がヒューゴの首に回される。


「ヒューゴ……重くない?」

「軽すぎるよ。もっと食べないと」


 リュミナは小さく笑った。


「ヒューゴの背中……あったかいね」


「……俺はまだまだ元気だから」


「うん……ヒューゴは、強いもんね」


 その声は、風に溶けるように弱かった。


 ヒューゴは歩き続けた。

 リュミナを背負いながら、未来の話をした。


「次の街に着いたらさ、ちゃんとした家を借りよう。

 朝はパンを焼いて、昼は市場に行って……」


「うん……いいね……」


「リュミナが好きだったスープも作るよ。

 あの村で初めて雪を見たときみたいに……また笑おうな」


「……うん……」


 返事はある。

 でも、その声は少しずつ小さくなっていった。


 それでも、話し続けた。


 話すのをやめたら、

 “終わり”が来てしまう気がしたから。


「リュミナが好きだったお菓子も作ろう。

 お花畑があるといいな。リュミナ、花好きだもんな」


「……うん……」


 返事はある。

 でも、その声は少しずつ確実に薄くなっていった。


 ヒューゴは気づいていた。

 返事が遅くなっていることに。

 息が浅くなっていることに。

 体温が下がっていることに。


 森を抜けると、小さな丘があった。

 ヒューゴはそこに腰を下ろし、リュミナをそっと抱きかかえた。


「ほら、見てみろよ。景色、綺麗だろ」


 リュミナはゆっくりと目を開けた。

 その瞳は、かつてよりもずっと薄い光を宿していた。


「……綺麗……だね……」


「な? ここに家を建ててもいいよな。

 小さくていい。雨がしのげて、風が入って……

 リュミナが笑える場所なら、どこでもいい」


 リュミナは微笑んだ。


「……ヒューゴ……」


「ん?」


「……ごめんね」


 ヒューゴは首を振った。


「なんで謝るんだよ。リュミナは悪くないだろ」


「ううん……違うの……」


 リュミナは言葉を探すように、ゆっくりと息を吸った。


「……ヒューゴの未来を……奪ってる……」


「奪ってないよ。俺の未来は……リュミナと一緒にいる未来だよ」


 リュミナの目が揺れた。

 その揺れは、涙ではなく、光が消えかけている証だった。


「……ヒューゴ……」


「なんだよ」


「……ありがとう」


 その言葉は、まるで遺言のように静かだった。


 ヒューゴは立ち上がり、再びリュミナを背負った。


「ほら、行こう。次の街まで、そんなに遠くないはずだ」


「……うん……」


 返事はあった。

 でも、声はもうほとんど聞こえなかった。


 ヒューゴは歩きながら、また未来の話をした。


「次の街に着いたらさ、まずはゆっくり寝よう。

 しっかり栄養を取って、市場に行って……」


 返事は――返ってこなかった。


 ヒューゴは気づいていないふりをした。


「リュミナ? 聞いてるか?

 ほら、また笑ってくれよ。

 俺、リュミナの笑った顔が一番好きなんだ」


 返事はない。


 ヒューゴは笑った。

 笑いながら、涙をこぼした。


「……大丈夫だよ。すぐ着くから。

 すぐ……すぐだから……」


 その声は、震えていた。


 リュミナの腕は、もうヒューゴの胸の前で組まれていなかった。

 ただ、重力に従って垂れ下がっていた。


 ヒューゴは気づかないふりをした。


 気づいたら、壊れてしまうから。


森を抜けた先に、小さな草原が広がっていた。

 夜明け前の薄い光が、草の先端を白く染めている。


 ヒューゴはリュミナを背負ったまま、ゆっくりと歩いた。

 足は重く、呼吸は荒い。

 だが、止まるわけにはいかなかった。


「リュミナ……もうすぐだよ……」


 返事はない。


 ヒューゴは笑った。

 笑いながら、涙をこぼした。


「……リュミナ……笑ってよ……声が聞きたいんだ」


 ヒューゴは歩き続けた。

 歩けば、何かが変わる気がした。

 歩けば、未来に届く気がした。


 丘の上にたどり着いたとき、ヒューゴは膝をついた。

 息が荒く、視界が揺れる。


「……リュミナ。ちょっと休もうな」


 ヒューゴはそっとリュミナを抱きかかえ、草の上に寝かせた。


 リュミナの髪が風に揺れた。

 その揺れは、まるで光が消える前の最後の瞬きのようだった。


「リュミナ……?」


 ヒューゴはリュミナの手を握った。

 その手は、冷たかった。


「なぁ……起きてよ。

 俺……リュミナが大好きなんだ……」


 声が震えた。


「リュミナ……返事してよ……」


 返事はない。


 ヒューゴはリュミナの頬に触れた。

 その肌は、もう温もりを失いかけていた。


「……なんでだよ」


 ヒューゴの声は、風に溶けるように小さかった。


「なんで……俺たちには居場所がなかったんだよ……

 ただ……普通に生きたかっただけなのに……」


 涙がリュミナの髪に落ちた。


「リュミナ……」


 ヒューゴはリュミナの手を両手で包んだ。


「……すぐに、そっちに行くよ」


 その言葉だけは、笑って言えなかった。


夜が明け始めていた。

 草原の端から、薄い光がゆっくりと世界を照らし始める。


 ヒューゴはリュミナを抱きしめたまま、動かなかった。

 彼女の体は軽く、冷たく、風に揺れる髪だけが静かに揺れていた。


「……リュミナ」


 名前を呼んでも、返事はない。

 それでもヒューゴは、もう一度呼んだ。


「リュミナ……」


 声は震えていなかった。

 涙も、もう出なかった。


 ただ、胸の奥が静かに空洞になっていくのを感じていた。


 ヒューゴはリュミナの頬に触れた。

 その肌は、夜の冷気よりも冷たかった。


「なぁ……リュミナ。

 俺さ……ずっと、お前と一緒に生きていく未来を考えてたんだ」


 言葉は淡々としていた。

 まるで誰かの話をしているように。


「二人がいればどこでも良かった……

 それだけで幸せなはずだった……」


 ヒューゴは目を閉じた。


「全部……全部、叶わなかったな」


 風が草を揺らした。

 その音だけが、ヒューゴの言葉に返事をした。


 ヒューゴはリュミナの体を抱き寄せた。

 まるで、眠っているだけのように。


 リュミナの髪に額を寄せる。


「ありがとう。

 十五年……ずっと隣にいてくれて」


 その声は、風に溶けるように小さかった。


 朝日が昇り、草原が金色に染まっていく。

 世界は、何も変わらなかった。


 リュミナの冷たい手を、自分の胸に当てた。


「……すぐに、そっちに行くよ」


 その声は、風に消えた。


 ヒューゴは目を閉じた。

 リュミナの髪に頬を寄せたまま、静かに呼吸を止めた。


 草原には、寄り添う二つの影が残った。


 世界のどこにも居場所がなかった二人は、

 最後の最後に、ようやく同じ場所に辿り着いた。


 ――誰にも邪魔されない、二人だけの場所に。

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