人間の僕と魔族の彼女は、世界に拒まれ寄り添って眠る
森の奥で、焦げた匂いがまだ消えていなかった。
昨夜、人間の集落が魔物に襲われたという報せを受け、魔族の戦士ガルドは焼け跡を慎重に踏みしめていた。
黒く崩れた家々の間から、かすかな泣き声が聞こえた。
「……赤ん坊の声だ」
瓦礫をどけると、煤にまみれた布包みが現れた。
中には、人間の赤ん坊が必死に泣いている。
母親らしき女性は、すぐそばで冷たくなっていた。
魔物の爪痕が胸を深く裂いている。
「この子だけが、生き残ったのか……」
ガルドは赤ん坊を抱き上げた。
小さな体は震え、泣き声は弱々しい。
「連れて帰るのか?」
「置いていけば死ぬ」
短い言葉で、ガルドは決断した。
それは掟に反する行為だったが、ガルドの腕の中で泣く命を見捨てることはできなかった。
村に戻ると、ガルドの妻ミラが驚きの声を上げた。
「人間の子……?」
「無視できなかった……リュミナは?」
「家の中よ。泣き止まなくて……」
ガルドが家に入ると、揺り籠の中で魔族の赤ん坊リュミナが泣き続けていた。
普段は静かな子なのに、今日はまるで何かを探すように泣き続けている。
ガルドが人間の赤ん坊を近づけた瞬間――
リュミナの泣き声が、ぴたりと止まった。
そして、小さな手を伸ばし、人間の赤ん坊の頬に触れた。
人間の赤ん坊も、泣き止んだ。
家の中に、静寂が落ちた。
「……この子は、殺せん」
ガルドは低く呟いた。
「掟はどうするの?」
「掟よりも……この子たちを見ろ」
揺り籠の中で寄り添う二人は、まるで最初から兄妹だったかのように眠っていた。
「この子はヒューゴだ」
ガルドは迷いなく言った。
「今日から、我が家の子だ。リュミナと同じように育てる」
その決断が、十五年後にガルドの家を揺るがすことになるとは、誰も知らなかった。
ヒューゴが村に来てから、季節が三つ巡った。
魔族の村は険しい山に囲まれ、外の世界から隔絶されている。
その閉ざされた場所で、ヒューゴとリュミナは同じ揺り籠で眠り、同じ乳を飲み、同じ歌を聞いて育った。
ガルドの妻ミラは、二人を分け隔てなく抱きしめた。
ヒューゴが泣けばリュミナも泣き、リュミナが笑えばヒューゴも笑った。
村の者たちは最初こそ戸惑ったが、赤ん坊の無垢さは、どんな偏見も溶かしていった。
「人間の子でも……赤ん坊は赤ん坊だな」
「リュミナとよく似てる。兄妹みたいだ」
そんな声も聞こえるようになった。
だが、全員が受け入れたわけではない。
「……あの子は人間だぞ」
「いつか牙をむくかもしれん」
「戦が始まれば、真っ先に疑われるのは我らだ」
ヒューゴが物心つく前から、村には小さな亀裂が走っていた。
それでも、二人の世界は穏やかだった。
ヒューゴが五歳になった頃、リュミナはよく彼の後をついて回った。
森の中で花を摘むときも、川で石を投げるときも、いつも隣にいた。
「ヒューゴ、これ見て!」
リュミナが小さな角を誇らしげに見せる。
「昨日より伸びたんだよ!」
「すげぇ! リュミナ、かっこいい!」
ヒューゴは本気でそう思っていた。
魔族の特徴である角も、爪も、肌の色も、彼にとっては“リュミナの一部”でしかなかった。
逆に、リュミナはヒューゴの人間らしさに憧れた。
「ヒューゴの髪、ふわふわでいいなぁ。私のは硬いのに」
「リュミナの髪も好きだよ。光に当たると綺麗だし」
そんな他愛もない会話が、二人の日常だった。
だが、ヒューゴが七歳になった頃、初めて“違い”を突きつけられる出来事が起きた。
村の子供たちと遊んでいたとき、年上の魔族の少年がヒューゴの腕を掴んだ。
「お前、人間だろ。なんでここにいるんだよ」
ヒューゴは答えられなかった。
自分が人間だということは知っていたが、それがどういう意味なのかは分からなかった。
リュミナが間に割って入った。
「ヒューゴは私の家族だよ! 文句あるの?」
魔族の少年は鼻で笑った。
「家族? そんなわけないだろ。お前は魔族で、そいつは――」
その言葉を聞く前に、リュミナはヒューゴの手を引いて走り出した。
森の奥まで逃げ、息を切らしながら座り込む。
「ヒューゴは……ヒューゴだよ。人間とか魔族とか、関係ないよ」
リュミナは泣きそうな顔で言った。
ヒューゴは小さく頷いた。
「うん。でも……俺、ここにいていいのかな」
「いいよ! 私がいるもん!」
その言葉は、幼いリュミナが言える最大の“約束”だった。
だが、ヒューゴの胸には小さな棘が残った。
その棘は、成長するにつれてゆっくりと深く刺さっていく。
村の大人たちの視線も、少しずつ変わっていった。
優しさの裏にある警戒。
笑顔の奥にある不安。
ヒューゴはそれを敏感に感じ取るようになった。
それでも、リュミナだけは変わらなかった。
「ヒューゴ、明日も一緒に森行こうね」
「うん。リュミナとなら、どこでも行くよ」
その言葉が、二人の世界を支えていた。
――だが、外の世界は静かに動き始めていた。
人間と魔族の戦争が、再び激しくなりつつあった。
ヒューゴが十五歳になる頃、村の空気は目に見えて変わり始めた。
外の世界では、人間と魔族の戦争が再び激化していた。
山の向こうで立ち上る黒煙は、遠く離れた村にまで不穏な気配を運んでくる。
「人間どもが攻めてきたらどうする」
「この村に“あれ”がいることが知られたら……」
“あれ”とは、ヒューゴのことだった。
ヒューゴはその言葉を聞くたび、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
だが、リュミナだけは変わらなかった。
「ヒューゴはヒューゴだよ。誰が何を言っても」
その言葉に救われる日々だった。
しかし、村の視線は確実に変わっていった。
ある日、ヒューゴが水汲みをしていると、背後から声がした。
「……お前、いつまでここにいるつもりだ」
振り返ると、村の戦士たちが立っていた。
彼らはヒューゴを育てたガルドの仲間であり、かつては優しく接してくれた大人たちだった。
「戦が近い。人間の子を匿っていると知れれば、村ごと焼かれるぞ」
「俺は……そんなつもりじゃ……」
「つもりなど関係ない。存在そのものが危険なんだ」
ヒューゴは言葉を失った。
そこへ、リュミナが駆け寄ってきた。
「ヒューゴに何してるの!」
「リュミナ、これは村のためだ。お前も分かるだろう」
「分からない! ヒューゴは家族だよ!」
戦士たちは顔をしかめた。
「……その“家族”という言葉が、村を危険に晒しているんだ」
その言葉は、ヒューゴの胸に深く刺さった。
家族であることが、誰かを危険にする。
そんなこと、考えたこともなかった。
その夜、村の長老たちが集まり、密かに会議が開かれた。
「人間の子を置いておくのは危険だ」
「追放すべきだ」
「だが、ガルドの家族は……」
「情に流されて村が滅ぶわけにはいかん」
結論は、すでに決まっていた。
翌朝、ガルドの家に長老が訪れた。
「……ヒューゴを、村の外へ出す時が来た」
ガルドは拳を握りしめた。
「十五年……十五年も家族として育ててきたんだぞ」
「分かっておる。だが、戦は待ってはくれん」
ミラは泣きながらヒューゴを抱きしめた。
「ごめんね……ごめんね、ヒューゴ……」
ヒューゴは何も言えなかった。
自分がここにいることで、誰かが苦しんでいる。
その事実だけが胸を締めつけた。
リュミナは泣きながら叫んだ。
「嫌だ! ヒューゴはここにいていいの! ずっと一緒にいるの!」
「リュミナ……」
「行かないでよ……ヒューゴ……」
その声は、幼い頃に森で聞いた“約束”の声と同じだった。
だが、今はもう守れない。
ヒューゴは静かに言った。
「……俺がいると、みんなが危ないんだろ。だったら……」
「違う! 違うよヒューゴ! そんなの嘘だよ!」
リュミナは必死に否定した。
だが、村の視線は冷たく、現実は残酷だった。
ヒューゴは気づいてしまった。
――自分には、この村に居場所がない。
その気づきは、胸の奥で静かに、しかし確実に何かを壊した。
そして、追放の日が決まった。
十五歳の誕生日。
ヒューゴが魔族の大人として扱われるその日に、村は彼を“外の世界”へ送り出す。
リュミナはその日を前に、何度もヒューゴの手を握った。
「絶対に行かせないから……絶対に……」
だが、運命はもう動き始めていた。
ヒューゴの十五歳の誕生日は、朝から重い空気に包まれていた。
村の広場には、戦士たちと長老たちが集まり、まるで儀式のように整列していた。
ヒューゴはガルドに連れられて広場へ向かった。
リュミナはその手を離さず、必死に歩幅を合わせていた。
「ヒューゴ……行かなくていいよ。逃げようよ。森に隠れれば……」
「リュミナ。逃げたら、村がもっと危なくなる」
「そんなの……そんなの、ヒューゴのせいじゃない!」
リュミナの声は震えていた。
ヒューゴはその手をそっと握り返した。
「大丈夫。俺は……平気だから」
その言葉は嘘だった。
でも、リュミナを泣かせたくなかった。
広場に着くと、村人たちの視線が一斉にヒューゴに向けられた。
その視線は、十五年間で初めて“敵を見る目”になっていた。
長老が前に出る。
「ヒューゴ。お前は今日をもって、この村を去らねばならぬ」
リュミナが叫んだ。
「なんで! なんでヒューゴが追い出されるの! ヒューゴは何もしてない!」
「リュミナ、下がりなさい」
「嫌だ!」
長老は静かに言った。
「戦が近い。人間の子を匿っていると知れれば、村は滅ぶ。
お前を憎んでいるわけではない。だが……生かしておくことができぬのだ」
ヒューゴは唇を噛んだ。
“憎んでいない”
その言葉が、逆に胸を刺した。
憎まれていた方が、まだ楽だった。
ガルドが前に出た。
その顔は、戦士ではなく“父”の顔だった。
「……すまない、ヒューゴ。守ってやれなかった」
「お父さんのせいじゃないよ」
ヒューゴは微笑んだ。
その笑顔は、十五年で覚えた“強がり”だった。
だが、リュミナは違った。
「嫌だ……嫌だよ……ヒューゴがいない世界なんて、嫌だ……!」
リュミナはヒューゴに抱きつき、離れようとしなかった。
戦士たちが近づくと、彼女は牙をむいて叫んだ。
「触らないで! ヒューゴは私の家族なの!」
その言葉に、村人たちがざわめいた。
「魔族の娘が……人間を家族と……?」
「やはりあの子は危険だ」
「リュミナまで人間に染まったのか」
リュミナの叫びは、逆効果だった。
ヒューゴはそっとリュミナの肩に手を置いた。
「リュミナ。俺は……行くよ」
「行かないで……お願い……」
「俺がここにいたら、みんなが危険なんだ。
リュミナまで……」
リュミナは首を振り続けた。
「危険でもいい! ヒューゴがいない方が……もっと嫌だよ……!」
その言葉は、ヒューゴの胸を深く刺した。
でも、決断は変わらなかった。
「リュミナ。ありがとう。
でも……俺は行かなくちゃ」
リュミナは崩れ落ちるように泣き叫んだ。
「ヒューゴ……ヒューゴ……!」
ヒューゴは振り返らず、村の門へ向かった。
背中にリュミナの声が突き刺さる。
「待って……ヒューゴ……行かないで……!」
門の前で、ガルドが最後に言った。
「……息子よ、生きろ。どこに行ってもいい。だが、生きろ」
「うん。ありがとう」
ヒューゴは門をくぐった。
その瞬間、村の門が重く閉ざされた。
――二度と開くことはなかった。
門の向こうから、リュミナの叫び声が響き続けた。
「ヒューゴ……ヒューゴ……!」
ヒューゴは立ち止まらなかった。
止まれば、進めなくなってしまうから。
涙が頬を伝っても、歩みは止めなかった。
こうして、十五年続いた“家族”は終わった。
だが、ヒューゴは知らなかった。
――リュミナもまた、村を出る決意を固めていたことを。
村の門が閉ざされたあとも、リュミナの叫び声はしばらく続いていた。
だが、やがてその声も途切れ、村はいつもの静けさを取り戻した。
――はずだった。
夜になっても、リュミナは家に戻らなかった。
ガルドとミラは村中を探したが、どこにもいない。
揺り籠は空っぽで、リュミナの大事にしていた小さな布人形だけが残されていた。
「まさか……」
ガルドは門へ走った。
門番に尋ねると、彼は気まずそうに目をそらした。
「……夕暮れ頃、ひとりで門を出ていった。止めたが……聞かなかった」
ミラが口元を押さえて泣いた。
「リュミナ……!」
ガルドは拳を握りしめた。
「……あの子は、ヒューゴを追ったんだ」
その言葉は、誰も否定できなかった。
リュミナは幼い頃から、ヒューゴの後をついて回っていた。
ヒューゴが笑えば笑い、泣けば泣き、怒れば怒った。
十五年、ずっと隣にいた。
そのヒューゴがいなくなった世界で、リュミナが生きられるはずがなかった。
ガルドは空を見上げた。
「神よ……どうか、二人が無事でありますように」
祈るように呟いた。
ヒューゴは村を出てから、山道をひとり歩いていた。
夕暮れの光が森を赤く染め、影が長く伸びる。
足は重く、胸は痛かった。
十五年分の思い出が、歩くたびに背中を引っ張る。
「……リュミナ」
名前を呼ぶと、胸が締めつけられた。
あの泣き声。
あの手の温もり。
あの“行かないで”という叫び。
全部が耳に残って離れない。
ヒューゴは立ち止まり、深く息を吸った。
「……俺がいなければ、リュミナは幸せになれる」
そう言い聞かせるように呟いた。
その瞬間――
「ヒューゴ!」
背後から声がした。
振り返ると、息を切らしたリュミナが立っていた。
髪は乱れ、足は泥だらけで、肩で大きく息をしている。
「……なんで」
ヒューゴの声は震えた。
「なんで来たんだよ……!」
リュミナは涙を拭いもせず、ヒューゴに駆け寄った。
「だって……ヒューゴがいない世界なんて、嫌だから……!」
ヒューゴは言葉を失った。
「村にいたら、ヒューゴがいない。
ヒューゴがいないなら……あそこはもう、私の居場所じゃないよ」
その言葉は、ヒューゴの胸を深く刺した。
「でも……リュミナまで追放されるかもしれないんだぞ」
「いいよ。ヒューゴがいるなら、それでいい」
リュミナは迷いなく言った。
「私の居場所は、ヒューゴの隣だけだよ」
ヒューゴは目を伏せた。
涙が落ちるのを隠せなかった。
「……ごめん。俺のせいで」
「違うよ。ヒューゴのせいじゃない。
悪いのは……世界の方だよ」
リュミナはヒューゴの手を握った。
「行こう。二人で。
どこにも居場所がないなら……二人で作ればいいよ」
ヒューゴはその手を握り返した。
その瞬間、十五年で初めて、
“二人だけの世界”が始まった。
ヒューゴとリュミナは、村を離れて山道を歩き続けた。
夜の冷気が肌を刺し、風が木々を揺らすたびに、二人の影が細く震えた。
「寒くない?」
「ヒューゴがいるから平気」
リュミナは笑ったが、その笑顔は少しだけ無理をしているように見えた。
ヒューゴは自分の外套をリュミナの肩にかけた。
「ほら、これ着てろよ」
「ヒューゴは?」
「俺は平気だよ」
リュミナは外套を握りしめた。
「……ありがとう」
その声は、十五年で一番小さかった。
山を越えた先に、人間の街があった。
ヒューゴは胸の奥がざわついた。
「ここなら……もしかしたら、受け入れてくれるかもしれない」
そう思いたかった。
だが、街の門に近づいた瞬間、兵士が槍を向けた。
「止まれ! そこの魔族!」
リュミナがびくりと肩を震わせた。
ヒューゴは慌てて前に出る。
「違うんだ! リュミナは――」
「黙れ、人間の少年。魔族を連れてくるとはどういうつもりだ」
「彼女は……俺の家族なんだ!」
兵士たちは嘲笑した。
「家族? 魔族と? 冗談も大概にしろ」
「魔族は敵だ。連れているだけで処刑されても文句は言えんぞ」
ヒューゴは息を呑んだ。
リュミナはヒューゴの袖を掴んだ。
「……行こう、ヒューゴ。ここは違う」
ヒューゴは悔しさで唇を噛んだが、リュミナの手を握り返した。
「……ああ。行こう」
街の門は、二人にとって“最初の拒絶”だった。
次に訪れたのは、魔族の集落だった。
リュミナは少しだけ期待していた。
「ここなら……ヒューゴも受け入れてくれるかも」
だが、門番の魔族はヒューゴを見るなり、目を細めた。
「人間……? なぜ魔族の娘が人間を連れている」
「ヒューゴは私の家族だよ!」
「家族? 魔族の血を汚す気か」
リュミナの顔が青ざめた。
「違う! ヒューゴは……ヒューゴは……!」
「帰れ。人間を連れている者を集落に入れるわけにはいかん」
リュミナは震える声で言った。
「……ヒューゴは、私の大切な人なのに」
「ならば、お前も人間側へ行け。魔族の誇りを捨てた裏切り者め」
その言葉は、リュミナの胸を深く刺した。
ヒューゴは彼女の肩を抱いた。
「もういい。行こう、リュミナ」
「……うん」
魔族の集落も、二人を拒絶した。
それから、二人は森を転々とした。
人間の村に近づけば石を投げられ、
魔族の集落に近づけば追い払われた。
夜は冷たく、昼は飢えが襲った。
それでも、二人は手を離さなかった。
「ヒューゴ……疲れてない?」
「平気だよ。リュミナこそ……」
「私は大丈夫。ヒューゴがいるから」
その言葉だけが、二人を支えていた。
だが、旅が続くにつれ、リュミナの顔色は少しずつ悪くなっていった。
食欲が落ち、歩く速度が遅くなり、
夜になると咳が止まらなくなった。
「リュミナ、大丈夫か?」
「うん……ちょっと疲れただけ」
リュミナは笑った。
だが、その笑顔は日に日に薄くなっていった。
ヒューゴは気づいていた。
――リュミナの体が、確実に弱っていることに。
だが、どこにも医者はいない。
どこにも助けはない。
世界のどこにも、二人の居場所はなかった。
旅を始めてから、どれほどの日が経ったのか分からなくなっていた。
森を抜け、丘を越え、川沿いを歩き、また森へ戻る。
どこへ行っても拒絶され、追い払われ、二人はただ歩き続けるしかなかった。
その旅の中で、リュミナの体は確実に弱っていった。
最初は、少し歩くのが遅くなっただけだった。
次に、食べる量が減った。
夜になると咳が出るようになり、朝には熱が上がる日もあった。
「リュミナ、大丈夫か?」
「うん……ちょっと疲れただけ」
リュミナはいつも笑って答えた。
だが、その笑顔は日に日に薄くなっていった。
ヒューゴは気づいていた。
リュミナの手が、前よりも冷たくなっていることに。
歩くたびに肩が揺れ、息が浅くなっていることに。
だが、言えなかった。
「休もうか?」
「ううん。歩けるよ。ヒューゴと一緒なら」
その言葉が、ヒューゴの胸を締めつけた。
ある夜、焚き火のそばでリュミナが咳き込んだ。
細い体が震え、肩が上下する。
「リュミナ……!」
ヒューゴが背中をさすると、リュミナは苦しそうに息を吸った。
「ごめん……ちょっと、寒いだけ……」
ヒューゴは自分の外套をかけ、リュミナの手を握った。
その手は、まるで氷のように冷たかった。
「明日、どこかで薬草を探そう。
人間の村じゃなくても、魔族の集落じゃなくても……きっとどこかに……」
ヒューゴは必死に言葉を探した。
リュミナは静かに首を振った。
「ヒューゴ……無理しないで」
「無理なんかしてないよ!」
声が震えた。
リュミナはその震えを聞き逃さなかった。
「ヒューゴは優しいね。
昔からずっと……私のこと、守ってくれた」
「当たり前だろ。家族なんだから」
リュミナは少しだけ目を伏せた。
「……家族、だけ?」
ヒューゴは言葉に詰まった。
リュミナは微笑んだ。
「ごめん。変なこと言っちゃった」
その笑顔は、どこか遠くを見ているようだった。
翌日、リュミナはほとんど歩けなくなった。
足がもつれ、膝が折れ、地面に倒れ込む。
「リュミナ!」
ヒューゴは慌てて抱き起こした。
リュミナの体は軽すぎた。
まるで、風が吹けば消えてしまいそうだった。
「……ごめん。ちょっと、立てなくて」
「もう歩かなくていい。俺が運ぶ」
ヒューゴはリュミナを背負った。
リュミナの腕がヒューゴの首に回される。
「ヒューゴ……重くない?」
「軽すぎるよ。もっと食べないと」
リュミナは小さく笑った。
「ヒューゴの背中……あったかいね」
「……俺はまだまだ元気だから」
「うん……ヒューゴは、強いもんね」
その声は、風に溶けるように弱かった。
ヒューゴは歩き続けた。
リュミナを背負いながら、未来の話をした。
「次の街に着いたらさ、ちゃんとした家を借りよう。
朝はパンを焼いて、昼は市場に行って……」
「うん……いいね……」
「リュミナが好きだったスープも作るよ。
あの村で初めて雪を見たときみたいに……また笑おうな」
「……うん……」
返事はある。
でも、その声は少しずつ小さくなっていった。
それでも、話し続けた。
話すのをやめたら、
“終わり”が来てしまう気がしたから。
「リュミナが好きだったお菓子も作ろう。
お花畑があるといいな。リュミナ、花好きだもんな」
「……うん……」
返事はある。
でも、その声は少しずつ確実に薄くなっていった。
ヒューゴは気づいていた。
返事が遅くなっていることに。
息が浅くなっていることに。
体温が下がっていることに。
森を抜けると、小さな丘があった。
ヒューゴはそこに腰を下ろし、リュミナをそっと抱きかかえた。
「ほら、見てみろよ。景色、綺麗だろ」
リュミナはゆっくりと目を開けた。
その瞳は、かつてよりもずっと薄い光を宿していた。
「……綺麗……だね……」
「な? ここに家を建ててもいいよな。
小さくていい。雨がしのげて、風が入って……
リュミナが笑える場所なら、どこでもいい」
リュミナは微笑んだ。
「……ヒューゴ……」
「ん?」
「……ごめんね」
ヒューゴは首を振った。
「なんで謝るんだよ。リュミナは悪くないだろ」
「ううん……違うの……」
リュミナは言葉を探すように、ゆっくりと息を吸った。
「……ヒューゴの未来を……奪ってる……」
「奪ってないよ。俺の未来は……リュミナと一緒にいる未来だよ」
リュミナの目が揺れた。
その揺れは、涙ではなく、光が消えかけている証だった。
「……ヒューゴ……」
「なんだよ」
「……ありがとう」
その言葉は、まるで遺言のように静かだった。
ヒューゴは立ち上がり、再びリュミナを背負った。
「ほら、行こう。次の街まで、そんなに遠くないはずだ」
「……うん……」
返事はあった。
でも、声はもうほとんど聞こえなかった。
ヒューゴは歩きながら、また未来の話をした。
「次の街に着いたらさ、まずはゆっくり寝よう。
しっかり栄養を取って、市場に行って……」
返事は――返ってこなかった。
ヒューゴは気づいていないふりをした。
「リュミナ? 聞いてるか?
ほら、また笑ってくれよ。
俺、リュミナの笑った顔が一番好きなんだ」
返事はない。
ヒューゴは笑った。
笑いながら、涙をこぼした。
「……大丈夫だよ。すぐ着くから。
すぐ……すぐだから……」
その声は、震えていた。
リュミナの腕は、もうヒューゴの胸の前で組まれていなかった。
ただ、重力に従って垂れ下がっていた。
ヒューゴは気づかないふりをした。
気づいたら、壊れてしまうから。
森を抜けた先に、小さな草原が広がっていた。
夜明け前の薄い光が、草の先端を白く染めている。
ヒューゴはリュミナを背負ったまま、ゆっくりと歩いた。
足は重く、呼吸は荒い。
だが、止まるわけにはいかなかった。
「リュミナ……もうすぐだよ……」
返事はない。
ヒューゴは笑った。
笑いながら、涙をこぼした。
「……リュミナ……笑ってよ……声が聞きたいんだ」
ヒューゴは歩き続けた。
歩けば、何かが変わる気がした。
歩けば、未来に届く気がした。
丘の上にたどり着いたとき、ヒューゴは膝をついた。
息が荒く、視界が揺れる。
「……リュミナ。ちょっと休もうな」
ヒューゴはそっとリュミナを抱きかかえ、草の上に寝かせた。
リュミナの髪が風に揺れた。
その揺れは、まるで光が消える前の最後の瞬きのようだった。
「リュミナ……?」
ヒューゴはリュミナの手を握った。
その手は、冷たかった。
「なぁ……起きてよ。
俺……リュミナが大好きなんだ……」
声が震えた。
「リュミナ……返事してよ……」
返事はない。
ヒューゴはリュミナの頬に触れた。
その肌は、もう温もりを失いかけていた。
「……なんでだよ」
ヒューゴの声は、風に溶けるように小さかった。
「なんで……俺たちには居場所がなかったんだよ……
ただ……普通に生きたかっただけなのに……」
涙がリュミナの髪に落ちた。
「リュミナ……」
ヒューゴはリュミナの手を両手で包んだ。
「……すぐに、そっちに行くよ」
その言葉だけは、笑って言えなかった。
夜が明け始めていた。
草原の端から、薄い光がゆっくりと世界を照らし始める。
ヒューゴはリュミナを抱きしめたまま、動かなかった。
彼女の体は軽く、冷たく、風に揺れる髪だけが静かに揺れていた。
「……リュミナ」
名前を呼んでも、返事はない。
それでもヒューゴは、もう一度呼んだ。
「リュミナ……」
声は震えていなかった。
涙も、もう出なかった。
ただ、胸の奥が静かに空洞になっていくのを感じていた。
ヒューゴはリュミナの頬に触れた。
その肌は、夜の冷気よりも冷たかった。
「なぁ……リュミナ。
俺さ……ずっと、お前と一緒に生きていく未来を考えてたんだ」
言葉は淡々としていた。
まるで誰かの話をしているように。
「二人がいればどこでも良かった……
それだけで幸せなはずだった……」
ヒューゴは目を閉じた。
「全部……全部、叶わなかったな」
風が草を揺らした。
その音だけが、ヒューゴの言葉に返事をした。
ヒューゴはリュミナの体を抱き寄せた。
まるで、眠っているだけのように。
リュミナの髪に額を寄せる。
「ありがとう。
十五年……ずっと隣にいてくれて」
その声は、風に溶けるように小さかった。
朝日が昇り、草原が金色に染まっていく。
世界は、何も変わらなかった。
リュミナの冷たい手を、自分の胸に当てた。
「……すぐに、そっちに行くよ」
その声は、風に消えた。
ヒューゴは目を閉じた。
リュミナの髪に頬を寄せたまま、静かに呼吸を止めた。
草原には、寄り添う二つの影が残った。
世界のどこにも居場所がなかった二人は、
最後の最後に、ようやく同じ場所に辿り着いた。
――誰にも邪魔されない、二人だけの場所に。




