陰謀論とは、なんぞや?
【陰謀】
影で行われる謀。二人以上の主体が共謀し、他者にとって不利益となることを秘密裏に行うさま。
「陰謀論」
この言葉が、最初に登場するのは、19世紀後半のこと。「現在の不利益な状況が、何者かによって、意図的に画策されたものであるとした場合」という「仮説」として登場する。この時点では、まだ「侮蔑的な性質」は持たない。陰謀論という言葉が「レッテル」としての機能を持ち始めるのは、ケネディ暗殺以後とされる。
暗殺を巡る辻褄の合わない公式説明。
そして、不可解な報告書の内容が物議を醸し、ジャーナリストたちが一斉に声を上げた。これに対するカウンターとして、CIAは「陰謀論者」という言葉を用い、彼らの信用を落とす作戦に出た。―― 1967年のCIA内部文書(通称 Dispatch 1035-960)にて、ネガティブキャンペーン戦略を記載。我々が「陰謀論者」と聞くと、「不確かな情報に踊らされる、不正確な人々」という印象を持つようになる始まりの話。
陰謀は、常に存在する。
特に「国家が不安定な時期」には、モラルの低下とも相まって、数多く産み落とされる。MKウルトラ計画(洗脳実験)、トンキン湾事件の捏造、ウォーターゲート事件などなど……米国政府やCIAは、これらすべての事実に対し、当初「陰謀論者たちのたわごと」として、対応を行っている。
ただ、この時点までは「権力者VSジャーナリスト」という、まだ一定の水準が担保された、せめぎ合いであったが、大きな転換期が訪れる。「インターネットの登場」である。
1990年代後半に入り、専門家でも何者でもない、匿名による不確かな情報が、世間に一斉放流される。裏取りのない、仮説未満の妄想を「物語」として、世間が消費し始める。物語は、過激なほど受け、本物の情報が、有象無象の妄想のゴミ箱の中で、埋没することとなる。
多くの人間は、自分の信じたいものだけを信じる。
思考が短絡的な者ほど、陥りやすい傾向だが、無限とも思われる情報の海は、思考停止の選択をも容易にする。特に、自己で責任を負わない「他責思考型」の人間にとっては、デタラメな情報であっても、「名のある者」が口にしてさえいれば、それに無審査で乗っかる。それが間違った情報や、思考であったとしても「責任は発信者にある」、「私は騙されただけだ」と言い張ることもできるからだ。
木を隠すには、森。
バレたくない陰謀を隠すのなら、その周辺を「嘘の情報」で固めればいい。嘘まみれの箱の中に、陰謀そのものもカテゴライズすれば、露見する可能性は極めて低くなる。
コロナを巡る話。
様々な陰謀論が、コロナとワクチンを巡って語られた。
実際に有益な、看過しえない情報も、数多く存在した。
だが同時に、どう考えてもバカの妄想といったレベルのものまでが混在し、有益な情報までもが「ゴミと同じ扱い」を受けることとなった。優秀な敵よりも「無能な味方」の方が、陣営に不利益を与えるとは、巧く言ったものである。自律的に思考しない無関心層からは、全てが「陰謀論者のたわごと」となった。
陰謀と妄想の境界線。
陰謀に対し、仮説を立てるのであれば、多くの証拠や利害関係、隠ぺいの本丸などを論理的に構成する必要がある。パーツの足りていない仮説は、仮説未満の妄想に過ぎない。
妄想が加速する現在。
「ひとつの情報」、「ひとつの出来事」を感情と願望のみで膨らませ、作られた「物語」。いわゆる「拡大解釈」を使ったデマゴーグのようなであるが、恐ろしいのは、それらを口にする者たちが、自分が捏造した物語に酔いしれている点だ。まともな頭があれば、彼らが「酩酊状態」にあることにも気づける。しかし、同じく「他責思考型」で「ストレスによるモラルの低下」の状態にある人間にとって、それらの物語は、甘美な音楽のようにも聴こえる。「狂った周波数での共振」を起こすためだ。
陰謀論は、レッテルどおりに「相手する価値もない妄想」へと変質を遂げた。その数はあまりにも多く、本当の陰謀は、ほとんど不可視の状態にも近い。
重要なのは、その「精度」であるが、ジャーナリストに対し、「偏向報道」と銘打ち、「オールドメディア」と呼ぶことによって、そちらの「格下げ」にも余念はない。レッテルを貼りさえすれば、自動で格が下がる。―― 彼らを馬鹿にしている人間ほど、短絡的な思考しか持ちえていない滑稽を指摘する者は少ない。
ひとはポジティブな情報よりも、ネガティブな情報に注意が向く。
これは「生存本能」とも癒着する部分であるが、ひとは「悪い情報」に夢中になる。自分が不利益を被らないためにも、アテンションが向けられる。
いつしかメディアは、悪い情報ばかりをピックアップするようになった。―― 視聴率が取れるからだ。
政治家は、他党や他国のネガティブキャンペーンに燃える。―― ポピュリズムによる支持を意識し。
悪感情が、悪感情を増幅する。
反吐の出る社会循環。
気付けば、自分で自分に毒を盛る。
これがバブル期以降の、この国の空気か。
行き止まりの閉塞感から、モラルが低下し、他人に罪をなすりつける。いわゆる「他責思考」というやつだが、歳をとるほどに、そういった傾向の人間が増えていく。国民の平均年齢も50歳近くとなり、出口の見えない現状から、国家を覆う空気も「被害者意識」にまみれ始める。
2000年代に口にされ、馬鹿にもされていた「軍靴の音が聞こえる」という文言も、タイムラグを経て、なかなかな水域にまで来ていると、個人的には感じている。―― 言葉は未来を先取りする、とでも言ったところか。
ヒステリーな人間が増えるほど、「物語としての陰謀論」も加速する。今では政治家たちまでもが、街頭演説などで、根拠のない陰謀論を展開する。「すべては誰かのせい」――「ヒステリーからの幼児退行」とでもいうべきか。
国家までもが、陰謀論を口にしだすと、いよいよだ。
ナチスドイツは、ユダヤ人の陰謀論を叫び、トランプ米国は、ディープステートとの闘争を宣言する。問題は、実際にそれが陰謀であるかどうかではない。国家までもが、それを口にする「他責思考型の状態」に陥ることの危険性。これこそが問題なのである。
政府に対する他責思考なら、まだいい。
しかし、外国人の排斥までをも謳い出す政党が、多くの議席を獲得し始めると、社会は混乱する。外国人は外国人の方で「被害者」としての意識を持ち始め、分断は加速する。
一匹の犬が吠えると、周囲の犬たちも吠え始める。
そして「自分たちの遠吠えに興奮」し、いつしか戦闘へと突入する。今は、野犬が集まり始めた状況ともいえる。それまで「敵」でなかった、ただの「外の人間」たちまでもが、無分別に、一括りに「敵」へと変貌する。
しかし、現在の「物語を好む陰謀論者」たちにとっては、それこそが望み(=半ば「無敵のひと」の思考状態)なのかもしれない。彼らは「お祭り」がしたいのである。出来れば、後ろの方から石を投げる立場を楽しみたい。くらいに考えているのかもしれないが、それらの行動が、この後、どういった呪いへと変貌を遂げるのかは、歴史の評価を待つとしよう。
解答困難な問題を単純・戯画化させるための物語。
ご破算のスイッチは、いつだって戦争であるが、これもまた歴史のサイクルか。




