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氷血の貴公子様が足にすがりついて「救済しろ!救済しろ!」と泣くのでうるさい

作者: 乃間いち葉

 

「救済しろ! 救済しろ!」


 仮にも皇女の御御足にすがりついて泣く男に、イシュタルは蹴飛ばしてやろうかと考えたが、どう考えてもゴリラみたいな体軀を蹴飛ばす膂力はない。最悪足首を折るので、とりあえず冷めた目で見下ろすしかない。


 目の前の男──アレスタス・リヒターは半年後、この世界の「主人公」の前で華々しく死ぬ。十七の少年の目指す背中として立ちはだかった男は、主人公の前で「進め、決して振り返るな」と血に濡れた唇を少しだけ持ち上げて笑って。


「お前のことは好きではないが、その剣筋だけは違ったな」


 彼の最期の言葉により、主人公は挫折を味わい、慟哭し、仲間に見守られながらも奮起する。この場面は連載漫画の「インフィニターズ・テール」では屈指の名場面であり、主人公の成長の転換期として多くのファンに今も語られている。


 そして彼の言う「救済」とは、いわゆる夢小説でよく使われている言葉である。端的に言えば、原作で死あるいは不遇な境遇が逃れられないキャラクターを、オリジナルキャラクターが救うことを意味していた。


 半年後に死ぬ予定のアレスタスが、今なぜか皇女であるイシュタルの足に縋りついて「救済しろ」と泣いて懇願している。漫画で見せたクールでシニカルな性格も、氷のように冷たい美貌も、すべてかなぐり捨てて命乞いをしている。


 イシュタルはアレスのファンではなかったが、友達が彼を推しており、公式でコラボグッズでアレスが登場するたびに「原作で死んだよね? 本当は生きてたりする?」と確認していた記憶がある。


 アレスのキャラクターを表すならば「貴族の次男坊でありながら異端の剣士イケメン」であり、二つ名は「氷血の貴公子」だ。

 十七の主人公が、すべての災禍の根源である悪魔の主と対抗するストーリーにおいて、主人公の師のような兄のような存在である。


 主人公の兄は基本強キャラのお手本のように戦闘力が高く、最初は威勢だけは良い主人公を毛嫌いしていたが、やがて主人公の芯の通った強さを認めて仲間として敵に立ち向かう。


 そして主人公を庇って死に、主人公の心に酷い爪痕を残すのだ。彼は当然人気キャラクターであった。普段クールなのにちょっと天然が入ってて可愛い! とは友人の言である。


 イシュタルはアレスを見下ろした。泣きすぎて鼻水を垂らしている。青みの強い瞳が涙を湛えて真っ赤になっていた。これはこれでオタク大歓喜の図ではあるが、イシュタルは違う。


「解釈違いすぎる……」

「俺なんて生まれてこの方二十三年解釈違いで生きてるんですよ!? 俺が公式のはずなのにセルフ解釈違いを起こして何度舌噛んで死にそうになったか……!!」

 さすがに可哀想に思えて、イシュタルはなけなしの慈悲を覚えてテーブルにあったナプキンを男の顔に押し付けた。

 ──その点、イシュタルは良かった。原作開始直後に死ぬ皇女に産まれたため、ほとんどエキストラのようなものだ。身分以外は詳しい設定がない。


 というか。アレスがこれだけ喋ってるのをイシュタルは初めて見た。皇族主催のパーティーで顔を見ることはあったが、いつも口数が少なく「そうですか」「はい」「別に」で会話のサイクルを回していた。


「とりあえず、落ち着きなさい。あと足から離れなさい。あなたの死を不敬罪で半年ほど前倒ししても私は構わないのよ」

 ピャッと逃げて向かいのソファに座り直したアレスに、イシュタルはどうしたものかと考えた。




「つまるところ、あなたも転生者で自分がアレスだと気づいたけど、どうあがいても設定から外れられないと?」

 三人は座れるほどの大きさのソファにかけ、アレスはお行儀よく膝を閉じて鼻をグスグス鳴らしている。


「そうなんです、いつも誤解されるようなことを言ってしまうので慌てて訂正しようとするんですが、何故か口が動かず無言で相手を見つめることになってしまい……相手が『ごめんなさい!』と泣きながら逃げていくことが多々あり」

「まあ相手からしたら『早く失せろ』と睨んでいるようにしか見えないでしょうね」

「後日きちんと謝罪しようとしても言葉が出ず……」

「『先日の詫びは?』の催促になるでしょうね……」

「相手が泣きながら膝をついて詫びてくるので、せめて『許してやる』とは言うんですが……」

「『その対価は高くつくが』って副音声が聞こえそうね……」


 イシュタルは冷めた紅茶をアレスのカップに注いでやる。なかなかの長話になりそうである。自分のカップにも注いでから、シュガーポットを開ける。


「つまり、あなたはあなたの意思で動けない。このままじゃ半年後に死ぬから助けてくれと」

「そうなんです! 殿下も転生者で、生き延びた実績を持つ方なら俺を助けてもらえないかと思って尋ねて来たんです。どうか、どうかお願いします……!!」


 ゴリラのような体で、子犬の目で縋ってくる男からイシュタルは視線を逸らす。ポットの中の角砂糖をシュガートングで摘み上げて、紅茶の中に入れた。一つ、二つ──頭の痛い話が来たから五つ。紅茶が冷たいから溶けずに底で滞留してザリザリしている。


「──無理ね。原作通り死になさい」


 ザリザリしてると舌触りが悪い。紅茶を一口飲んで、イシュタルはそう結論を下した。アレスはあまりの暴言に固まっており、寒々しいほどの美貌が隙だらけに見える。

 はらり、と青い瞳から涙が零れ落ちるので、イシュタルはその美しい泣き方に羨望すら覚えた。アレスはぼたぼたと涙を流しながら、嗚咽している。


「ど゛お゛し゛て゛で゛す゛か゛あ゛!! ゛お゛れ゛か゛な゛に゛し゛た゛っ゛て゛言゛う゛ん゛で゛す゛か゛あ゛!!」

「うるさ……」


 ギャン泣きされても無理なものは無理だ。冷めた顔をしているイシュタルを見て、アレスはさらに大号泣している。


「あのね、あなたが死なないと主人公が成長せず、このままだと根源主に負けるでしょう。世界滅亡よ」


 災禍の根源である悪魔の主──通称「根源主(こんげんしゅ)」。すべて悪の因果の根であり、やがてこの世界を滅ぼそうとする悪だ。


 アレスの死は根源主によるものであり、主人公は目の前で根源主に殺されそうになり、アレスに庇われる。そして初めての仲間の死を経験し、己の無力さを知りやがて剣の極地に辿り着く。アレスの剣技をもとにした絶技をもってして、根源主を打ち滅ぼすのだ。


「じゃあおれにしねっていうんですかああ!」

「言ってるわね」

「人殺しィ!!」


 見殺しが間接的な人殺しだと言われても、イシュタルに異論はない。冷えた眼差しで紅茶の底に沈む砂糖を見つめるイシュタルに本気だと気づいたのか、アレスは紅茶を勢いよく煽った。


「お願いします同郷のよしみでしょう!?」


 そのまま帰るのかと思ったらまた足に縋りつかれる。同情心につけ込む作戦は悪手だと気づいてないあたり、アレスは元々お人よしなのだろう。


「おれのこと好きじゃないんですか! この顔をよく見てください!! ほら! この! 顔を!」

「顔が良くても中身が……」

「俺の一番痛いところを刺すのはやめてください」


 イシュタルもさすがにアレスに同情はしているのだが、しかしアレスの死は世界存続の鍵なのだ。


「ほ、ほら! 女子って救済が好きじゃないんですか!?」

「主語デカ……」

「中身はともかく、顔はほら、顔はいいですよね!? それに結構強いんですよこれでも! ほら、中身はともかく……! うっ、うっ……中身が俺でごめんなさい……」


 本当に可哀想になってきてしまい、イシュタルはテーブルクロスの裾を引っ張ってアレスの顔を拭ってやった。


「死にたくない……!!」


 イシュタルはテーブルクロスの荒い目の生地で顔の涙をそっと拭き取った。できるだけ慈愛を込めて笑みを作る。


「今世があったし来世もあるかもしれないから安心して死になさい」

「鬼ィ!!」

「そうなのよ、修羅の鬼として今世を生きていくの、ごめんなさいね、死んで?」

「悪役ゥ!!」


 グスグスと大きな体を縮こませて、頬を紅潮させて泣き腫らす姿は、人によっては壮絶に嗜虐心を煽りそうだ。イシュタルは素でメンタルが鬼なので問題はないが、それはそうとして泣き腫らした顔で氷血の貴公子を返すのはまずい。


 宮殿内はただでさえ使用人の数が多いのだ。氷血の貴公子が来ただけでパレードでも行うのかというテンションの高さだったが、こんな顔で彼を返したが最後、使用人の間で三ヶ月は語り継がれるゴシップになる。


 ただでさえ腹違いの兄のせいでイシュタルは悪評が後を絶たない。兄はイシュタルが隙を見せればすぐに糾弾し、難癖をつけて幽閉や暗殺を企むだろう。そして愛する妹を亡くした兄として涙ながらに皇位を継ぎ、欲に目が眩んで根源主に国を明け渡すはずだ。


 イシュタルの変わらない顔色とは逆に、アレスはみるみる青褪めた。彼の噛み締めた唇が切れて、イシュタルだけがそれに気づいている。

 アレスが深く頭を下げた。


「……お願いします、俺には妹がいるんです、お願いします殿下、俺がいないと彼女は……」


 アレスが額を床に擦り付けて、震えながら哀願する。掠れる声はいまにも泣きそうなほど揺れていた。


 アレスには女兄弟はいなかったはずだ。設定が変わったのか、あるいは隠された設定として婚外子の妹が居たのか。


 アレスが異端と作中でも言われているのは、彼が貴族の家門であるリヒター家の純血思想を忌み嫌っているからだ。だからこそリヒター家に反発して、平民の主人公の仲間に加わることになる。


 ──そういえば、根源主の討伐隊としてすぐに名乗り上げた理由が、作中では語られていない。大体の読者が「主人公の気概を気に入ったのだろう」と解釈していたが、しかし。別の理由があったとしたら。


 そう──例えば、妹の死。


「……良い度胸ね」


 言葉が感情に振り回されず、音も滲まなかったことにイシュタルは安堵した。


 実は、原作開始直後に死んだのはイシュタルだけではない。弟のメディルもまた、その時に殺されていた。メディルは六歳下のイシュタルと同腹の弟であり、母亡き後、イシュタルの心の支えであった。


 しかし、メディルは今、宮殿にはいない。城の外れの皇族専用の墓地に、名が刻まれている。メディル──宵の明星はここに眠る──と。


「……メディア殿下亡き後、あなたが大層悲しんでいたのは知っています」

「よりによって私の前で眠る明星の名前を持ち出すとは」

 イシュタルの温度のない声音に、男は口を噤みさらに深く頭を下げた。それでも、彼が床についた握り拳は肌が真っ青になるほど力が込められたままだ。


 この男はよりにもよって、イシュタルの弟の死を利用しようとしている。あなたが救えなかった弟の代わりに、自分の妹を救え、と。


「お前の妹が私の弟の代わりになると? 本気でそう言っているのか?」


 大胆な手法は悪くない。人によっては傷口を掘り返され、感情的になり、アレスに同情して手を貸すだろう。

 しかしながら、話術がまずい。傷口を掘り返すどころか、瘡蓋の上にまた新しく傷をつける交渉の仕方だ。


「彼──ライルの前で妹ごとお前を殺してやろうか? 根源主に操られたフリをすれば、ライルは私を許すだろう」


 お優しい主人公──ライルはきっとイシュタルを責めない。彼はアレスを救えなかった自分の無力さだけを恨む人間だから。


 イシュタルは片手で扇子を持ち、「顔を上げよ」と厳命した。アレスが恐る恐る顔を上げる。その目にはもう涙はなく、恐怖というよりも生の執着で鈍く輝いている。

 しかも、それは己の生ではない。妹の生への執着だ。


 扇子の先で顎を上に向けて、イシュタルはその顔を覗き込んだ。アレスは緊張で強張った顔をしていたが、イシュタルから視線を逃すことはない。


 イシュタルは青い瞳が自分を縫い付けるように見つめるのを確認して、ふっと力を抜いて微笑んだ。アレスが目を丸くするのを見て、扇子を顎の下から抜いて狭い額を叩く。


「いて!」

「その心意気やよし。あなたが妹の命を盾に強迫してきたなら、本当に殺してやったのに」


 額を手で押さえる男に、イシュタルは足を上げて肩を軽く蹴飛ばした。アレスが尻餅をつく。


「妹のために私に殺されることも厭わないなら、私もあなたを捨て置くことはしない。意外と優しいのよ、私」


「嘘つけ」という顔でイシュタルを見るアレスに、口の端を上げる。


「一度だけ人間を殺して、生き返らせたことがあるの。その経験はあなたにも使えるわ」


 ソファから降りて立ち上がる。男のまだ血の気の引いた手を握り、引っ張りあげた。が、アレスの体の重さに全然敵わなかったので、「さっさと立ち上がりなさいよ」と扇子で軽く脳天を叩いた。


「原作通りライルの前で死になさい。そのあと私が、あなたを叩き起こしてあげる」


 ぱちくりと男が尻餅をついたまま見上げるので、イシュタルは「起き上がりなさいっていってるでしょう」と今度は本気で脳天を叩いた。



 ◇




「お父さま、私この子犬ちゃんが欲しいの、もらって良い?」

「ええ……?」


 王座に座りながら困惑する父と、死んだ目のアレス、ニコニコ顔のイシュタル。地獄の三者面談のスタートである。なお近衛騎士は下がらせている。


「えーと、イシュちゃん、それ合意取れてる?」

「非合意で何か問題が?」


 一瞬でサッと冷めた目つきになる娘に、皇帝は狼狽えた。それからアレスを「脅されてたりする?」と心配そうな目で見ている。


「まあそうなんだけどぉ、その子犬ちゃん血統書ついてるでしょ? お家に戻してきてあげたら?」

「嫌です。子犬ちゃんと子犬ちゃんの妹の面倒を見ることに決めました」

「イシュちゃん、事後報告はやめなさいってパパいつも言ってるでしょ」

「ってことで護衛騎士にしますね、パパありがとう!」


 ニッコニコのイシュタルの笑みを見て皇帝はため息をつき、「アレスタス卿」とアレスの名前を呼んだ。


「はい!」

「イシュちゃんは根っこは優しい娘なんだけど、目的のために手段は選ばないところがあるのよ。握られてるの弱み? それとも人質?」

「いえ、殿下には私の命しか握られてません!」

「命かー」

「お父さま帰っていい?」

「念の為聞いておくけどアレスタス卿、婚約者はいないよね?」


 無視された。可愛い娘のお願いくらい聞いて欲しい、とイシュタルは頬を膨らませてむくれる。


「はい、おりません」

「ならイシュちゃんの婚約者にするからね。嫌でも頑張ってね」


 さすが皇帝陛下、話が早い。イシュタルが満足そうに微笑めば、アレスが慌てて「婚約者!?」と聞き返している。


「しかし陛下、私はすでに騎士団の職を辞した身です! 公爵家の次男とは言え、あまりにも殿下と釣り合いが……!」

「あー、そういうの良いから。帰っていいよ」

「お疲れ様でーす」


 イシュタルがアレスの腕を引いて帰ろうとしたが、「イシュちゃんは居残りね」と言われたので舌打ちをしてしまう。


「メイドに案内させるから、部屋で待ってて」


 目を白黒させるアレスを信頼するメイドに託して、再度玉座に向き合う。

 背筋を伸ばし、顎を引く。皇女らしく、優雅にカーテシーをする。


「帝国の太陽にご挨拶申し上げます」

「そういうのいいから。あれ、なに?」


 父のぶっきらぼうな態度に、なんとなく血筋を感じてしまって嫌な気分だ。イシュタルは表情を消しながら、冷静に答える。


「根源主に殺される未来から助けようかと」

「助ける意味ある?」

「とりあえず身軽に動ける手足が欲しかったので」


 イシュタルがそう言えば、父は先程の気安い雰囲気は嘘のように「ふうん」と興味無さそうに相槌を打つ。


「皇女の未来予知に今更ケチつける気はないよ。その力で国庫を潤してくれたしね。でも、皇妃は相変わらず裏で馬鹿なことをしているし、皇太子だってろくなことをしてない。本当に余の息子なのかも疑わしいほどに」


 イシュタルは昔、「あのキャラめっちゃ好きなんだよね!」とはしゃいでいた友人に特大のネタバレをそっと心に秘めたことを思い出した。そのキャラ、次巻に死ぬのよ。


「だからこそお前に余計な的をくっつける気はないんだよ。使い捨てる気なら余の前に連れてこないはずだ。大事にするつもりならば、ちゃんと庇える立場に置いてやりなさい」

「はい。ご聡明な陛下の判断通りに事を進めます」


 イシュタルが再度挨拶をし、玉座の間を辞そうとすると、「待ちなさい」と一声かかる。


「お前が目にかけていた孤児院の院長の息子──シャマシュだったか? あの子はどうだ、元気か?」


 こともなげに聞かれたことなのに、辣腕の皇帝陛下にしては不器用な物言いなので、イシュタルは少しだけ笑ってしまった。


「ええ、シャマシュは元気です。ですが、亡くなった父が恋しいようで……プレゼントされた絵本を毎夜読んでいるそうです。十二歳だから恥ずかしいようで、絶対に誰にも言わないでと釘を刺されました。……まあ、あら、うっかり漏らしてしまいました。お父さま、これは秘密にしてくださいね?」

「そうか……。まだ子供だ、心細い夜もあるだろう。お前が良くしてやりなさい」


 染み入るような穏やかな声音は、いっそ泣きそうなほど柔らかい。イシュタルは深く礼をする。


「無論、そのつもりです」


 イシュタルは足早に玉座の間を去り、入れ替わりに入ろうとする近衛騎士たちに声をかけた。


「お父さまは私が婚約をしたから気分が悪いみたい。十分経ってから暖かい紅茶を用意して、戻ってくださる?」


 騎士たちが敬礼するのを受け止めて、イシュタルはアレスの待つ部屋へと足を向けた。



 ◇



 アレスは王女付きの侍女に出された紅茶を一口飲み、その風味もなにもかもがわからないことに気づいて、一旦ティーカップを置いた。喉は乾いていたが、飲み込むこともできない緊張がまだ喉につっかえている。


 アレスがいわゆる異世界転生に気づいたのは、十歳頃と非常に遅かった。すでに貴族として誇り高き両親と兄には蛇蝎のように嫌われており、三才の妹だけが心の拠り所だった。


 アレスの前世は普通の会社員で、三十半ばの独身、日々をルーティンのように繰り返していたことを覚えている。唯一の楽しみといえば週間連載のコミック紙と、コンビニ限定発売のアイスを買いにいくことだった。


 だからこそ、かつてのアレスが読んでいた漫画「インフィニターズ・テール」のキャラクターである「アレスタス・リヒター」が自分であると気づいたとき、一瞬ではあるが確かに歓喜した。

 その後、死ぬ役だと気づいて、すぐに青ざめたが。


 アレスは死ぬ定めにどうにか抗おうと奮起したが、やはりどうやっても役割からは逃れられなかった。

 父により隣国との国境争いに送り込まれて、人を切った夜をアレスは忘れられないだろう。


 この世界はマンガで、お芝居で、役割を演じているだけだと。いくら頭を誤魔化そうとしても、肉を断つ感触は手のひらに鮮烈に刻み込まれていた。


  それでもアレスが折れなかったのは、妹のセレスタがいたからだ。七歳下の妹は、アレスをよく慕っていた。産まれたときから病気がちで、両親も兄からも煙たがられた妹は、おそらく庇護者をアレスに定めたのだろう。


 アレスはそれでもよかった。前世で兄妹はいなかったからこそ、無邪気にアレスに笑う小さな命ほど大事なものはなかった。


 両親はセレスタを人質にして、アレスを利用した。アレスが戦果を上げるほど、セレスタの人質としての待遇はよくなった。

 しかし、セレスタの病気が悪化した途端、両親は手のひらを返してアレスに言った。


「あの子はもう手遅れだ。治療を続けるにはお金がかかるし、家にはそれほどまでに蓄えがない。お前だけか頼りだ」


 アレスは騎士団に入り、副団長の地位にも登りつめ、多額の給金を家につぎ込んだが、妹の快方の知らせは届かなかった。

 三年もそのように過ごして、ようやくアレスは気づいた。このまま一生妹を人質にされ、家の操り人形にされると。妹が死んだら、家族はきっと妹の位牌を人質にされる。


 ──原作のアレスは、ライルを守って死んだ。守れなかった妹の代わりに、ライルを庇って満足して死んだのだ。


 アレスの予定された死の半年前に、アレスは騎士団に辞表を出した。妹を攫って家から飛び出し、匿って暮らしている。


 そして、殺される覚悟で同じ転生者であろう皇女に面会をし、そしてなんとか約束を取り付けた。皇女イシュタルは、アレスを殺して、生き返らせてくれる、と。確かにそう言ったのだ。


 アレスの目の前に影が落ちる。イシュタルがアレスを見下ろして、無表情のまま扇子を広げた。目の下が隠され、余計に感情が読めなくなる。冷徹な皇女、という噂は本当だったらしい。


「まるで処刑される死刑囚みたいに悲壮な顔ね」


 温度の低い声音は、感情を綺麗に抑制している。アレスはうまく笑おうとして、失敗した。引き攣ったアレスの笑みを見て、皇女は黄金色の瞳を細める。

 それから、ゆるりと息を吐きだして、ソファに座った。


「こういうときはね、甘いものよ。不安には甘いもの、緊張にも甘いもの、幸せの誤認にも甘いものが必要なの」


 イシュタルが身を乗り出して、シュガーポットから角砂糖をひとつ、ふたつ。みっつ、よっつ、いつつ。容赦なくアレスのカップに投げ込んで、ティースプーンて大雑把に掻き回してくれる。


「飲みなさい」


 命令通りに紅茶を飲んで、本当に笑ってしまった。喉を焼く甘さが、緊張ごと胃の腑に落ちていく。噎せ返るほどの甘味は、もはや紅茶の良さをすべて殺している。


「……確かに、笑える味ですね」


 アレスの生意気な言葉に、イシュタルは片眉を釣り上げたが、猫のようなアーモンドの形をした目を伏せてから、またアレスを見つめた。


「そっちの間抜け面の方がいいわね」


 皇女の目は、いつか妹と分け合って食べた琥珀糖の色に似ている。


 それは確かに、幸せの味だった。




 ◇



「ってことであなたの妹は私が預かるわ。安心して死になさい」

「俺は安心して死ぬので、殿下は安心して生き返らせてくれますか?」

「あなたの態度次第ね。うっかり生き返らせるフェーズを忘れてしまうかも」


 アレスの妹の預かり先に宛てはある。この国でもっとも秘匿性が高い孤児院があるのだ。そこに住まわせて医者に見せれば、とりあえず酷い状態からは脱せるだろう。

 アレスが死ぬまでの段取りも決めてある。非常にシンプルなやり方なので、アレスが稀代の大根役者でもなんとかなるはずだ。アレスの頭にも叩き込んだため、抜かりはない。バックアップの根回しもしないと、と考えながらも、イシュタルは忘れていたことを思い出した。


「あなた、ライルとの接触は? それそろ知り合っておかないとまずいでしょう」


 原作での主人公ライルとアレスの邂逅シーンはよく覚えている。ストーリー開始直後に愛する母を根源主に殺されたライルが、母の残した手紙から剣の師匠に会いに行き、アレスと出会うのだ。


「直に会いに行く予定です。今は師匠のもとにライルがいるみたいなので、原作通り進めます」

「ちゃんとできるの? 初対面のセリフ言ってみなさいよ」

「できますよ! 『新たなインフィニターとは、お前か……』」


 イシュタルが一瞬で真顔になったのは仕方がないことだろう。人間向き不向きがあると言え、さすがに酷い。


「原作の強制力がなんとかしてくれるはずよね……でもそのせいであなたもうっかり死んだらごめんね……」

「そ、そんなに酷いですか?」

「私の前に役者として現れてたら首を跳ねてたわ」


 墓碑には「稀代の大根役者、ここに死す」と刻んでいただろう。


「そういえばあなた、原作の考察でインフィニターだったんじゃないかって言われてたけど、本当なの?」


 インフィニターとは、原作「インフィニターズ・テール」の鍵となる能力者のことである。


 その名の通り無限のパワーを体に宿して産まれ、最強の戦士として戦いに身を投じる運命を強いられる存在だ。心臓を貫かれても死にはせず、コアを破壊しない限りは不死身の存在だ。


 しかし、主人公は生まれたときに根源主にコアを半分持っていかれたために、能力者として中途半端な存在だった。


「いや、違います……たぶん……」

「原作ではライルがコアを根源主から奪い返した、みたいな描写だったけど、実はアレスが死ぬときに自分のコアを明け渡したのではって考察見たことあるわ」

「……違いますよ、たぶん」


 歯切れが悪いが、アレスは焦るというよりも困惑しているようだった。思い当たる節があるような、ないような。表情が変わりやすく、すぐ読めてしまう。


 そもそも、インフィニターは不死身だ。アレスがインフィニターだったら、あっさり原作で根源主に殺られることはなかったのだろう。──誰かにコアを分け与えてでもしない限りは。


「……そう。まあいいわ。あなたが私の婚約者になるなら、言っておかなければならないことがあるの。兄の話よ」

「皇太子殿下ですか?」


 そう聞き返すアレスの顔は非常に渋い。原作では根源主に国を売るクズ王子なので気持ちはわかる。そもそも原作でイシュタルとメディルを殺したのも皇太子と皇妃だ。彼らは邪魔な皇位継承権者を消して自分たちの地位を確保しようとした。


「あいつに会ったら殺される前に半殺しにしていいわ」

「いいんですか!?」

「まあね。最悪、私もあなたと一緒に死ぬわ。そもそも、ここまで残っていたのがおかしい話だもの」

「皇女様が死んだら誰が俺を生き返らせるんですか……?」

「来世はのんびり暮らしたいわね……」


 アレスが絶望顔をしている。

 ちょうど侍女が部屋に入ってきたので何事かと思えば、「皇太子殿下がいらっしゃいました」と青ざめた顔で告げられた。イシュタルは「お茶の用意を」とだけ返して、アレスを見た。


「一蓮托生、同郷のよしみとして死ぬときは一緒にいてあげるわ」


 アレスにはあんまりお気に召さないジョークだったらしい、表情がもう死ぬ寸前の人間のものだった。



 ◇



「おや、我が愛しの妹は私に内緒で婚約者を作ったらしいな! 血色の悪い男が好きなのか? それなら死体でも良さそうだが……」

「まあ、親愛なるお兄様、いの一番に婚約のお祝いしてくださるなんて嬉しいわ。私、扇子で渾身の力で殴ったら吹き飛びそうなガタイの良いゴリラが好きなの。死体なんて駄目よ、可愛い鳴き声を聞かせてくれなきゃ」

「ははは、さすか私の妹、良い趣味をしてるな」

「うふふ、きっとお兄様に似たのね。だからこの子を殺しちゃ駄目よ、私は死体を殴る趣味はないの」


 ──お兄様と違って。言外にそう示せば、兄が苛立つのがわかった。ジロジロとアレスを舐めるように見てから、嫌な笑みを浮かべる。


「なら死体のように突っ立っていないで、私に挨拶をしたらどうだアレスタス卿」

「帝国の若き太陽にご挨拶いたします。申し訳ございません、殿下の威厳ある佇まいに恐縮してしまいましたことをお詫び申し上げます」


 アレスの卒のない挨拶に、イシュタルは正直なところ驚いた。なにかしらの原作の強制力が働いている、とアレスは言及していたので、そのせいかもしれない。


「御託はいい。イシュタル、騎士団をやめた騎士など婚約者にしてなにをするんだ? 肉壁にでもするのか? 聡明なる陛下のお考えは私にはわからないな」


 兄の吐き捨てた言葉にはどうしようもない父親への嫌悪感がある。


「陛下のことですもの、きっとなにか思慮深いお考えがあるはずですわ」

「思慮深い? 思慮深いなら、陛下はお前の母親と弟を死なせることもなかっただろうに」


 わずかに強張ったイシュタルの肩に気づいて、兄はそれはそれは楽しそうに唇を釣り上げた。妹の肩に慰めるように触れて、「私は心配なんだよ。お前にまで死なれてしまったら、これほど悲しいことはないだろう?」と優しい兄の顔で囁いた。


 甘言に見せかけた毒を吹き込まれて、扇子を持つ手が震える。いますぐ殴り倒してやりたいのに、イシュタルが過去に兄にやられたことが体を竦ませる。

 しかし、そっと体を後ろに引き寄せられて、イシュタルはたたらを踏んだ。


「皇太子殿下、妹である皇女様が心配だったのですね。確かに私は騎士団の職を辞したために根無し草のような男、肉壁としてしか役に立たないでしょう。しかしながら、皇女様を楽しませることはできます。扇子で殴られても大丈夫なほど、丈夫な体ですので」


 腕の中にイシュタルを抱えたまま、淀みなくアレスが喋っている。兄もこれほど饒舌なアレスを初めて見たのか、ぽかんと固まっていた。


「今日も皇女様に大変泣かされましたが、大丈夫です。これほど己の体の丈夫さに感謝したことはありません……」


 泣きはらした目蓋の奥、熱の入った瞳をアレスから向けられて、兄は興ざめしたようだった。


「お似合いだな。陛下の慧眼のおかげだろう。お互い死ぬまでそうしててくれ」


 そういいのこして兄が去っていく。しばらく呆然とイシュタルは兄の後ろ姿を見送っていたが、アレスがガクリと床に膝をついたので、イシュタルも同じようにへたり込んでしまった。


「こ、怖かったぁああ!! なんですかあの人、サイコパスですか!? 見てくだいよ、俺のこの子鹿のような足を!!」


 確かにアレスの足がぷるぷる震えているが、立派な足なので確実に子鹿ではなくカモシカと言ったほうが適切だ。だが、イシュタルは声をあげて笑ってしまった。震える足を手でペチペチと叩いて、笑い転げる。


「ふふ、勇敢なところもあるじゃない、見直したわ!」


 そう言うと、アレスはパッと顔を赤らめて「ま、まあ! 解釈違いのムーブでしたけど、大根役者は卒業してもいいですよね!」とそっぽを向く。


「私が間違ってたわ、あなたはまさしく助演男優賞を狙える逸材ね!」


 アレスが立ち上がって、イシュタルの手を引っ張りあげた。イシュタルが驚くよりも早く、スカートの裾を払ってくれる。


「あなたのような大女優に言われると、光栄ですね」


 そう言って、アレスがやっと力が抜けたように柔らかく笑ったので、イシュタルも久々に重荷を捨てて同じように笑うことにした。





 ◇




 その日は、やまない雨が降り続け、陰鬱な空が続くばかりだった。やっとのことで修行を終え、街に繰り出そうとしたライルは辟易していた。結局はミラやガルドと部屋で談笑をして過ごし、夕食を取った後はすぐに寝ることにした。しかし、嫌な夢で目が覚めて、乾いた喉を潤そうと階下の食事処へと降りたのだ。

 明かりが絞られた食事処にいるアレスタスに気付き、ライルはいまだに跳ねる心臓を咄嗟に手で抑えてしまった。


 半年前から共に修行を始め、根源主討伐の旅に同行することになったアレスタスは実力は凄まじいものだ。ライルの剣の師匠の弟子でもあり、ライルにとっては兄弟子の存在。しかし、彼はライルに非常に厳しい態度ばかりを取るのだ。


「未熟者」と何回言われたことか。幼馴染のミラでさえ、彼の態度には憤っていた。


 アレスタスは貴族の次男でありながら、異端の剣士だ。婚約者はあの皇女様らしく、知ったときはライルもミラもひどく驚いた。


 各地にある根源主の植え付けた「悪の根」を払いながらも、アレスタスはあまりライルたちとは馴れ合わなかった。仲間のドワーフ族のガルドよりも頑固な態度で、ライルは何度もアレスタスに突っかかっていた。


 だからそんなアレスタスが柔らかい表情を浮かべ、温かい紅茶に角砂糖を五ついれているのを見たとき、ライルはとてつもない衝撃を受けた。


「砂糖入れ過ぎじゃない……?」


 ライルが目の前に現れて指摘したことに、アレスタスは眉を寄せた。


「うるさい、婚約者の好きな飲み方なんだ」

「皇女様ですか? すごい甘党なんですね」


 アレスタスは深くため息をつくと、マグカップをテーブルにおいて食事処の奥に引っ込んでしまった。怒らせたかな、とライルが眉を下げていたら、新しいマグカップを持ってきて、ライルの前に置いた。


「飲んでみろ」


 ライルはアレスタスの突然の行動に戸惑ったが、言われたとおりマグカップを口につけて、一口飲んでみた。喉を焼くような甘さに、ギュッと顔を寄せてしまう。


「甘すぎ!!」


 マグカップを慌てて置いたライルを見て、アレスタスは珍しく笑った。


「ああ、そうだな。だが、彼女は言っていた。『不安には甘いもの、緊張にも甘いもの、幸せの誤認にも甘いもの』だそうだ」

「幸せの誤認?」

「そうだ。少なくとも今のお前は幸せそうだ」


 アレスタスはマグカップの中の紅茶を飲み干して、ライルの頭をその底で軽く小突いてから、「早く寝ろ」と言い残して去っていった。


 ライルはようやく、自分の中の悪夢の残滓が振り払われているのに気づいた。母を亡くす悪夢が、砂糖の中に溶けていく。


 もう一度紅茶を飲んで、甘さに驚いて、一人で笑う。この夜だけ、アレスタスがまるでまぼろしのような優しさを見せたのだ。




 ◇



「死ね、アレスタス! 根源主様のために、この国の正統なる王であるハウゼン様のために……!!」


 その瞬間、ライルは「嘘だ」と思った。ライルを狙う刺客を、すぐさま止めに入ったアレスタスが切り捨てる。しかしながら背後から現れた別の刺客が、ライルを貫こうと剣を振り上げた。固まってしまったライルを押し抜けて、アレスタスが剣に貫かれる。刺された衝撃で口から血を吐いたアレスタスを、ライルは馬鹿みたいに見ていた。


「貴様を殺したら、次は皇女だ!! あの邪悪な女の首を切り、ハウゼル様に捧げよう!」


 刺客の言葉にアレスタスの目が鈍く光る。

 心臓を一直線に貫かれながらも、アレスタスは最後の力で持っていた剣を振り、相手を切り捨てた。

 他の刺客が退却をし、切り捨てられたその体を回収して、消えていく。


「ア、アレス……」


 ふらふらとライルはアレスタスの元に行き、貫かれた心臓部分を圧迫した。手に力が入らず、指の間から血が溢れていく。──助からない。間違いなく心臓を貫かれて、これほどまでに出血をしたのならば、奇跡を起こさない限りは助かるはずがない。


 ──奇跡。

 ライルは自分に宿る無限の力を思い出し、その力を使おうとして──アレスタスに手を掴まれた。


「それはいま、使うべきではない……」


 いつも覇気のある声音は、今や掠れて聞き取るのも難しい。ライルは身をかがめて、アレスタスの声を聞きながら泣いた。アレスタスの手はひどく冷えていて、命の温もりを探すのが難しい。


「たとえ、修羅の道であったとしても──。進め、決して振り返るな……」


 泣きじゃくるライルを、アレスタスが微笑を浮かべながら見つめている。


「……お前のことは好きではないが、その剣筋だけは違ったな」


 それが、アレスタスの最期の言葉だった。




 ◇




「はあっ、緊張した……!!」

「おつかれさま、良かったわよ。ライルが可哀想になるくらいには」


 棺から起き上がったアレスは、まさしく「死者の復活」にふさわしい光景だ。胸元はぐっしょりと血糊で濡れており、口元もまだ血がこびりついている。


「や~! 名演技でしたね、こちらも楽しかったですよお! ライルくんの泣き顔にゾクゾクしちゃいましたね〜!!」

「気持ち悪いわ。金は払うからさっさと出ていって」

「え〜!? 姫もゾクゾクしちゃったでしょお!? それともアレスタス卿の死に顔の方に──グフッ!!」

「死になさい変態。アレスはすぐ風呂に行って」


 扇子で殴りつけたフードの男を怪訝そうな目で見ながらも、おとなしく頷いて奥の洗面室に消えていく。イシュタルはそれを確認したあと、フードの男をソファに座らせて、抹茶をティーカップに注いで差し出した。


「よくやったわ。想定以上の結果よ。さすが鷹の羽(たかのは)と言ったところかしら」


 惜しみない賛辞をかければ、秘密組織の「鷹の羽」のリーダーことノウンは仮面を外して笑った。ふわふわの赤毛とそばかすの散った顔は妙に愛嬌がある。

 ──ただし、抹茶に角砂糖を入れるのは許せないが。


「それ次にやったら出禁にするって言ったわよね?」

「紅茶に角砂糖五つ入れる人には言われたくないよね〜」

「抹茶に砂糖なんてとんだ有罪よ。懲役五百年の大罪だわ」


 ノウンは肩を竦めてから、「殺してもらえないほどの罪ってことね」と笑う。イシュタルはイライラしながらも、砂糖多めの紅茶を口に運んだ。一口飲んでから、今回の陰謀について成果を話す。


「ライルは根源主とお兄様が手を組んだことを知ったわ。アレスも死んだことになったし、結果としてはこれ以上のことはない」


 アレスの偽装死は非常にシンプルだ。根源主が来る前に、アレスを殺すふりをする。鷹の羽が作った血糊(血は本物)をアレス仕込んで、ノウンと部下が

透過のできる剣を使う。体を刺し貫いたように見せてから、こっそりと仮死毒を注射して息を弱くする。


 そして偶然近くに来ていたイシュタルが駆けつけ、兄が婚約者を殺したことを知り、「遺体はこちらで引き取るわ。兄の手には絶対に渡さない……!」と怒りに震える悲恋の皇女を演じる。そして棺に入れて回収。その後、仮死毒の解毒剤を注入してアレスを目覚めさせた。


 それがすべての真相だ。


 ついでに兄のハウゼンと根源主に罪をなすりつけてライルの敵と認識させた。もしかしたら原作よりも早くこの戦いに決着がつくかもしれない。


「でももう少し遅かったら解毒剤が間に合わなかったかもね。だいぶ危なかったよ。いったい何してたの?」

「ライルにお別れをさせてあげてたの」


 ノウンはつまらなさそうに「お優しい姫」と皮肉を言っている。イシュタルとしても早くアレスを回収したかったが、ライルの顔を見ていたらそんなことはとてもできなかった。


「結局なにがしたいのかわからないけど、姫のことだからね。悪いようにはしないでしょ」


 ノウンとの付き合いはもう八年近くにもなる。だからこそイシュタルに全幅の信頼を置いているせいか、わりとイエスマンとして動くことが多いのだ。


「あなた、私のことを少しは疑った方がいいわよ。お兄様に売り渡さないとも限らないのに」

「そうしたら全員殺すまで。シンプルでしょ?」

「あなたたちならできるわね」


 かつて「鷹の羽」は王家のものだった。しかし大戦後、仕えるに値する王を見定めるようになったという。いまはイシュタルの父親に彼らは忠誠を誓っていた。国内の暗殺や諜報、そればかりではなく国外まで耳目を持っている。独立した集団であり、王家が無理矢理に忠誠を誓わせようとしたのなら、彼らは一気に牙を向くだろう。


 ノウンはイシュタルをジッと見てから、トントンと自分の唇の端を指で叩いた。意味がわからずイシュタルが指先を見つめていると、ノウンは大きなため息をついた。


「口の端の血。やっぱりアレスタス卿の死に顔に興奮して吐血した? じゃないとそこに血なんてつかないよねえ〜?」


 ニヤニヤと笑う顔に目掛けて、イシュタルは全力で扇子を投げつけたので、ノウンは笑いながらも消えるように帰ってしまった。


 誰もいなくなった部屋で、イシュタルは親指で口の端を拭う。親指の腹に滲んだ血を、テーブルクロスに擦りつけてしまった。




 ◇



「セレスタ!」

「お兄ちゃん!!」


 アレスがセレスタを抱き上げてくるくると回転すると、セレスタはキャーッ! と楽しそうに声を上げた。十六歳の妹にする扱いではないが、それでもセレスタは幾らか丸くなった頬を持ち上げて笑っている。


 アレスが死から目覚めたあと、今度はひどい高熱があり、三日ほど寝込んでいた。やっと全快したのは、偽装死から一週間経ったあとだ。ようやく妹に再会できたために、アレスのテンションが高い。


「セレスタ、お兄ちゃん頑張ったんだ! 褒めてくれよ!」

「お兄ちゃん泣き虫なのによく頑張ったねえ!」

「ウッ、グスッ……本当にここまで頑張ったんだ、お兄ちゃん本気で死ぬかと思ったあ……」

「えらいえらい!!」


 膝を抱えて泣き始めた兄を、セレスタが笑いながら頭を撫でている。それを見てイシュタルは呆れつつ、隣に来た少年に目を向けた。


「お姉様」


 お姉様、とイシュタルを呼ぶ子供は、この孤児院では珍しくない。イシュタルは年下の子供にはいつもそう呼ばれている。

 しかしながら、この子に呼ばれる「お姉様」の響きほど胸を打つものはこの世にない。


「シャマシュ」


 栗毛に同じ色の瞳は、いまはイシュタルとまったく似ていない。だけど人懐っこい笑みは亡き母によく似ていて、胸を締め付けられる。


「あなたの亡き父上が、なぜか私の枕元に立ってブツブツ言うの。風邪引いてないか、怪我してないか、孤児院の子供に泣かされてないかって。なにか伝言はあるかしら?」

「父上は僕が四歳で時が止まっているのです。あなたの息子は十二歳なのでそろそろ安心して成仏しろとお伝えください」


 顎をツンと反らして可愛くないことを言うので、イシュタルはクスクスと笑ってしまった。


「そうね、こんなにも立派な紳士様をあなたの父上に見せられないのが悲しいわ」


 イシュタルは偽装死を企てたのは、アレスが初めてではない。初犯はもう九年も前、弟と一緒に兄に殺される運命を知り、ノウンに手伝ってもらって解毒剤を作った。あれがなければ、三日三晩苦しみ抜いたあとにイシュタルもメディルも死んでいただろう。

 そして、イシュタルはわざと王城で火災を起こして、この孤児院に弟だけを逃した。一緒に逃げようと泣く弟を置いて、兄の矢面に立つことにしたのだ。


「あの情けないのが婚約者ですか?」

「そうよ。それにしてもよく泣くわね」


 メディル──シャマシュの視線の先で、アレスは妹を抱きしめて大号泣している。

 しばらくセレスタは我慢していたようだが、耐えられなくなったのか「お兄ちゃんならしゃんとしなさい!」と喝を入れていた。


「なんでアレを?」

「なんでかしらねえ」

「お姉様は信頼していますが、顔で選ぶのはどうかと思います」


 憮然とした顔の弟に笑う。それから、優しく栗毛を撫でてやった。指通りの良い髪を、やわらかく梳る。


「きっと、ホッとするのね。悲しんで、怖がって、喜んで、泣く。ぜんぶ私が無くしたものばかり」

「お姉様……」

「あの人が私が無くしたものばかり抱えていてくれるから、安心するのよ。なぜかしらね?」


 イシュタルの選択に後悔はない。弟を生かすために人を殺しても、己を生かすために誰かを嵌めようとも。

 だけど、一抹の哀愁ぐらいはイシュタルにだってあるのだ。

 シャマシュは姉を見上げてから、やれやれと首を振った。


「お姉様はからかいがいのある男が好きなんですね。僕をからかうのもお好きでしょう?」

「よくわかったわね、さすがシャマシュ」

「僕がいないときは、あの音の出るオモチャで遊ぶがいいですよ」


 あの父にして、この子あり。この姉にして、この弟あり。強い血筋の力を感じて、イシュタルは苦笑した。




 ◇




「ごめんなさい、ごめんなさい……! アレスタスは俺を庇って……っ」


 泣きじゃくるライルをイシュタルは一瞥もせず、棺に収まるアレスタスの亡骸だけを見ている。アレスタスは呼吸が止まったというのに、ずいぶんと穏やかな顔をしている。それだけはライルが心底「よかった」と思えることだ。


 公務のために近に居たというイシュタルは、婚約者のアレスタスが息を引き取ってから一時間後に駆けつけてきた。護衛騎士に亡き骸を収めてもらってから、イシュタルは泣きもせずアレスタスの顔を見つめている。


「本当に死んだみたいね」


 それが「本当に死んだように見える」なのか「本当に息の根が止まっているのね」なのか、ライルには判別がつかなかった。何も言えず息を詰まらせるライルを、イシュタルはようやく見た。太陽のようは瞳が、ライルを射抜く。


「あなたのせいじゃないわ。まさか、この世の不幸をすべて背負っていくつもり?」


 その言葉は、痛烈にライルの心を突き刺した。何も言えないライルから興味を亡くしたのか、アレスタスの方を見て「彼は私が連れて行くわ。兄はこれ以上に酷いことを簡単にできるの」と言った。


「皇女様も危険です! 奴らはあなたの命を狙っていて……!!」


 ライルは刺客が言っていたことを思い出してイシュタルにそう言えば、「そんなこと?」と返された。


「私は生まれてからずっと命を狙われていたわ」


 アレスの頬に触れる手は、ひどく優しい。頬骨をなぞる指先に、乾きかけた血がこびりつく。


「でも、私の周りの人間をこれ以上殺すことは許せない。いつか、決着をつけなきゃね」


 イシュタルは「勝たなきゃね」とは言わなかった。皇女が死ぬか、皇太子が死ぬか。その二択だと考えている。


「皇女様が皇帝になればいい」


 ライルの無意識の言葉に、イシュタルが息を呑んだ。


「あなたしかいないんです。生きてください。アレスタスのために、生きてください……!!」


 ライルの懇願を聞いて、イシュタルは笑った。心底困り果てた、と言わんばかりの顔で、眉を下げて笑う。


「ごめんね」


 何への謝罪か、ライルにはわからなかった。護衛の騎士が「殿下、時間です」と声をかけて、イシュタルは鷹揚に頷いた。「少し待って」と声をかけて、身をかがめてアレスタスの顔を覗き込んだ。


「あ、」とライルは声を出してしまったかもしれない。イシュタルの唇が、アレスタスの唇の端にくっついて、すぐに離れていく。名残惜しそうに離れたイシュタルの唇は、血で紅く染まっていた。黒髪の隙間から見える赤い唇は、女皇の風格を持ってして、ライルの思い出に刻まれた。


「またね、アレス」


 ライルの知らない確かな恋慕の果てが、そこにはあったのだ。


 ライルはもう、何も無くしたくはない。たとえ無限の力を使わずとも、無力な人間になりたくはなかった。イシュタルから譲り渡されたアレスタスの剣に、ライルは修羅の道を進むことを誓った。




 ◇



 イシュタルは寝間着に身を包んで、ソファにだらしなくもたれかかった。孤児院の中には隠し部屋はいくつかあり、アレスにもその一つを貸している。


 冷めた紅茶で唇を湿らせて、広げた地図に視線を落とした。印のある箇所が日々増えていく。ハウゼンが父王を殺しにかかるのも、時間の問題だ。父王を殺したら、次はイシュタルが殺される。先延ばしにしてきた死が目前にあるのは、なんだか妙な気分だった。


 部屋のノックの音に気づき、「入りなさい」とイシュタルが指示すれば、入ってきたのはアレスだった。


「イシュタル」


 ワインボトルとグラス二つを掲げて笑う顔は、快晴の空のようだった。暗雲を払い除けて、杞憂がすべてなくなった安心に満ちている。


「片付けるわ」


 イシュタルがテーブルから雑に地図を落とすと、「それは片付けではないでしょう」と呆れた声音で言われた。ワインボトルをテーブルに置いてからアレスが地図を畳んで、執務机の方に避難させる。


 ワインのコルクを抜いて、アレスがワイングラスに中身を注いだ。アルコールの匂いにイシュタルが少しだけ怯むと、アレスが目を丸くする。


「もしかして、ワイン飲めない?」

「お酒嫌いなの……」

「すみません今すぐ捨ててきます」

「あなただけ飲んでいいわよ。今ある命に乾杯するくらいなら付き合えるわ」


 イシュタルがワイングラスをつまみ上げると、アレスがおずおずと同じように持ち上げて、軽くグラスをぶつける。イシュタルはワインを少しだけ舐めてから、やっぱり駄目かとグラスを置いた。


「イシュタルは、このあとどうするんですか?」

「婚約者を亡くした可哀想な皇女として城に戻るわ」

「皇太子に殺されますよ」

「うまく逃げるわ。偽装死なら得意なの」


 そう言えば、アレスは黙り込んだ。その重い沈黙を破るよう、イシュタルは気楽な物言いをすることにした。


「あなたはここですべてが終わるまで過ごしていなさい。戦火は届かないはず」

「イシュタルもここにいればいい」

「駄目よ、あの王太子を牽制できるのは私しかいない。陛下も皇妃の後ろ盾があるからこそ今の地位があるから無闇に手が出せない」

「あなた、死にますよ」


 アレスの率直な言葉に、イシュタルは笑った。


「あなたは私が生き延びたと言ったけれど、それは違う。生き延びたんじゃないの、先延ばしにしただけなのよ」


 あの日、念の為に解毒剤を弟にだけ多く飲ませていた夜。予定通り、兄の指示で盛られた毒にイシュタルは三日三晩苦しみ続けて、起きたときに弟が生きていることに安堵した。


 確かに、あの夜、イシュタルは一度死んで蘇ったのだ。だからこそ、イシュタルはずっと兄ごと道連れにして死ぬことを考えている。根源主にさえ、兄の命は渡さない。王家の恥として、イシュタルが止どめを刺してやる。


 それこそが、端役が準主役に成り上がったイシュタルの役目だ。


「あなたが女皇になればいい」


 イシュタルはアレスの言葉にため息をついた。ライルといい、兄弟弟子は同じことを考えるのだろうか。それなのに、アレスはまた前のようにイシュタルの前に跪いて、手を取った。

 大きな手は温かくて、どこか現実味がないように思える。


「俺があなたの騎士になります。あんなクズに皇位を渡すぐらいなら、あなたが女皇になった方がこの世界のためだ」

「アレス……」

「それに俺は、ずっと悔しいです。死ぬ運命をしりながら、死に抗えないなんて。あなたが助けてくれなければ、俺はなす術なく死んでいました」


 イシュタルの手の甲にアレスが額を押し付ける。硬質そうに見える髪の毛が肌をくすぐり、ぞわりと背筋が震える。


「少なくともあなたは三人を救った。だからこそ、あなたなら運命に抗える。これは復讐なんです。死に損ないたちの、復讐です」

「死に損ないたちの、復讐……」


 イシュタルの冷えた指先を、アレスが握って熱を移してくれる。これほどに心が震える言葉を、イシュタルは知らない。

 イシュタルを射抜く瞳は、高音の(ほむら)のようだった。焚べた彼の悔恨によって、やがて世界を燃やし尽くすような青い炎が、その瞳の中で揺れている。


「言ってください、イシュタル。願ってください。泣いてください。縋り付いて、みっともなく泣きわめいて、抗ってください」


 炎がイシュタルへと舌を伸ばしているようだった。魂ごと焼き尽くすような苛烈な熱に、抗うすべはない。


 イシュタルはアレスの手を引いて、ソファに乗り上げるように導いた。座面に膝を付き、イシュタルを見下ろすその潤んだ瞳に、希う。かすかな、いつしか諦めた願いを。


「私を救済して、アレス」




 完


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