外縁
外縁の流れは、ひたすらに乱れていた。
視界も聴覚も、そもそも五感という分類さえあいまいになる。
視たつもりのものは既に揺らぎ、聞いたはずの音は輪郭を変えて脳裏に残る。
それは波ではなく粒であり、粒ではなく絡まりであり、絡まりはほどけてまた意味の霧となって溶けていく。
地も天もないはずなのに、わたしの体は重さを持ち、下へと落ちていくような感覚だけは確かだった。
――落ちる、ではない。崩れる。
そのとき、不意に「人影のような気配」が近づいてきた。
輪郭は淡く、形容しがたい。だが不思議と「ヒト」に似ていると感じられる。
輪郭の内側には、かつて私が知っていた色が混じり合っていた。
赤でも青でもない、しかし「赤に憧れていた頃の青」のような色。
気配は問いを投げかけた。
「おまえの名は?」
その問いは音ではなく、ただ「問い」という現象だけが世界に響いた。
「……リル」
口にした瞬間、遠い層の記憶がかすかに触れた。
それはかつて持っていた音の欠片。かつて誰かに呼ばれ、呼び終えられた音の残響。
目の前の気配がわずかに濃くなる。
淡い人影めいたものが形を取る。
淡い輪郭が、かろうじて「漂泊者」と呼べる姿をとった。
けれど、その目は、わたしの名を確かめるように柔らかく細められていた。
漂泊者は、淡い笑みを浮かべたように見えた。
けれどそれは表情ではなく、ただ私の認識がそう感じ取ったにすぎない。
「Lyr、息をしろ。この地で生きるなら、意味が飽和する前に呼吸を覚えろ。
意味を吸え。そして、吐け。
おまえの息で、この場を揺らせ。」
その声――いや、声に似た何かが肺に滑り込む。
言葉ではなく、意味そのものが呼吸を占めていく。
わたしは言われるままに、意味の流れに耳を傾けた。
そこには高低の勾配があった。密な意味が押し寄せてくるところと、薄く散っていくところ。
その差が波のように繰り返し、私の輪郭を押しつぶそうとしている。
「この世界じゃ、呼吸は空気じゃなくて密度だ。
濃いところから一度抜け出して、薄い層で輪郭を整える。吸って、離して、混ぜないように返す」
漂泊者の気配が、背にそっと触れた気がした。
感覚が開き、外縁のざらついた勾配が直接流れ込んでくる。
肺ではなく、意味の器官で息をする感覚。
吸い込むたび、形が安定する。
吐き出すたび、余剰な意味が剥がれ落ちて深層の暗がりへ沈んでいく。
「うまいな。おまえ、元の世界で『間』を読むことをしていたな」
「……そうかもしれない」
「それが、意味呼吸だ」
遠くで何かが開く音がした。
見えない門の輪郭が、一瞬だけ外縁に浮かび上がった。
私を呼ぶ声ではない。ただ、向こう側に続く構造が確かにあると告げる音。
外縁の乱れがわずかに静まり、足元のない空間に一筋の道が見える。
進めば、次の環へ――進まなければ、意味はここで溶ける。
「ならば、第一環は、おまえの前にある」
漂泊者はふいにこちらを振り返り、形のない笑みを残した。
その笑みは言葉にならぬまま、足元の白を揺らす波紋のように広がって──やがて消えた。
白一色の空間は、足を進めても広がるばかりだった。
残されたのは、呼吸のリズムと、胸の奥に刻まれた自分の名だけ。
わたしは、リル。
そして、ここはレキタス・クオルム。
私を呼び寄せた世界。
だがそれは「来た」のではなく、「還った」のかもしれない。
その感覚は、まだ言葉にならなかった。
◆リルの名前の意味
Lyr = L(流動的安定性)+ y(可変接合)+ r(可変終止)
L 意味構造の中に流れ込み、構造の中で「振動」を起こす
↓
y 未定義な振動で、意味構造の境界を曖昧にし、律(構造)を溶かす
↓
r 意味構造の共鳴点の共振/逆流/脱構築を引き起こす