収穫の夜
pixivにも同様の文章を投稿しております。
男女の恋愛のつもりで書いた文章ですが、恋愛ジャンル内のジャンル分けに迷い、ジャンルをヒューマンドラマにさせていただいております。
異世界ではないし、現実世界とも少し違う気がするのです。
(ゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります)
【傷口に花】
おこづかいを稼ぐため、夕食後の食器洗いをしている。家事の手伝いを毎日すると、一週間で五百円もらえるのだ。ちゃんと毎日続けていたら手がガサガサに荒れて、人差し指の第一関節がぱっくりと割れてしまった。第一関節に口ができたみたいにパクパクと赤い割れ目が痛い。
「ミケが痛いところ舐めたげようか」
朝、学校へ行く途中で、私の指の割れ目を目敏く見つけたミケちゃんがそんなことを言うのだけれど、私は断る。
「いらないよ。ミケちゃんの舌、たぶんザラザラしてるでしょ」
舐められると余計に痛いと思う。ミケちゃんは、元猫なのだ。
「今は人間だから、ザラザラじゃないよ」
「オロナイン塗っておけば、そのうち治るよ」
「ミケ、オロナイン嫌い。変な味する」
「舐めちゃだめだよ。薬だもん」
そんな話をしたのが、一週間前くらい。傷口がむずむずして痒くなったのもその頃だった。傷口から少しずつ植物が生えてきたのが昨日。抜くのが怖くて一晩放っておいたら、今朝はものすごいスピードで葉をつけ始めた。傷口に種が入り込んでしまって、私の身体から養分を吸い取り、どんどん成長しているらしい。だからなのか、私は最近すごくお腹がすく。
「ミケがその草食べたげようか」
朝の教室でミケちゃんが言った。私は家からこっそり持ってきていたキャロットケーキをがふがふと食べていた。それを飲み込んで、
「だめだめ。猫草じゃないんだから。毒があったらどうすんの」
ミケちゃんの言動を注意すると、
「吐く」
ミケちゃんはシンプルにそう言った。
「ねえ、ラビちゃん。どうして指から草が生えてるの?」
さっきまで私たちから離れた席にいた浮島さんが、いつの間にか近くにいてそう尋ねてきた。
「これ? やっぱ気になっちゃうよね。たぶん、種が入り込んじゃったんだよ」
私が言うと、
「抜いちゃわないの?」
浮島さんは不思議そうに言う。
「抜くのって痛そうじゃない? 血が出そうだし、なんか怖い」
「そのままにしておくのも怖いよ。ラビちゃん、最近ずっとなにか食べてるじゃない。養分を吸い取られてるんじゃないの?」
浮島さんは心配そうに言う。
「今は痛くないし、ちょっと様子を見てみるよ。それに、この草が生えてる限り、いくら食べても太らなそうだし」
私は現状維持を選択し、指から生えた草をそのままさらに放っておいた。そうしたら、なんと花が咲いてしまったのだ。ミケちゃんはその花に鼻先を突っ込んで匂いを嗅いでいる。
「花粉が鼻についてるよ」
私が言うと、ミケちゃんはくしゃみをし、花を手の甲で拭った。
「このお花、ミケがお耳に飾ってあげようか」
「それはいいね。お願いしようかな」
私はミケちゃんの提案を素敵だと思い、そう答えた。ミケちゃんは、花をぷちっと摘んで、自分の耳に飾った。
「ミケ、かわいい?」
花を飾ったミケちゃんが言う。
「耳って自分のか」
私は思わず笑ってしまう。
「かわいいよ」
そう言うと、ミケちゃんは満足そうににんまりと笑う。
「ミケ、猫のときはもっとかわいいって言われた」
「ミケちゃんは人間になってもかわいいよ。福原のおばちゃんはかわいいって言ってくれるでしょ?」
福原のおばちゃんというのは、ミケちゃんの飼い主だ。ミケちゃんが人間になってから、学校の制服や鞄や靴など、いろいろ揃えるのが大変だったと、楽しそうに言っていた。
「うん。毎日かわいいって言ってくれる」
「そうでしょう、そうでしょう」
ミケちゃんが花を摘んでしまったあと、草はいつの間にか枯れて、午後の授業中に根っこからぽとんと落ちてしまった。痛みはなく傷も治っていたので、「ラッキー」と私はよろこんだ。 あの底なしの空腹も感じない。
「これでまたお皿洗いができる」
放課後の教室で帰り支度をしながら言うと、
「ミケはお皿舐めるよ」
ミケちゃんは得意そうにそんなことを言う。
「舐めちゃだめだよ。ミケちゃん、今は人間なんだから」
えー、とミケちゃんは不満をそうな声を上げた。
「お皿洗うとどうなるの?」
「うちでは、おこづかいをもらえるんだよ」
「おこづかいって?」
「お金のこと」
「お金もらってなに買うの? カリカリ買うの?」
「お洋服を買うんだよ。ひらひらでふんわりの、かわいいやつ。ああいうお洋服はすごく高いんだよね」
いわゆる、ロリータ服が欲しくて私は食器を洗っているのだ。
「ひらひらの服って邪魔じゃない? このまえ着せられたけど、ミケは嫌だった。ミケは普通の服も邪魔。本当はなにも着たくない」
「ミケちゃん、今は人間なんだから服は着なきゃ」
言いながら、福原のおばちゃんがミケちゃんにかわらしいお洋服を着せようとしたらしいことを知って、なんだか楽しい気持ちになる。
「食器洗いするなら、ゴム手袋したら?」
いつの間にか、鞄を持って近くにいた浮島さんが言う。
「浮島さんて、いつも気配なくいるよね」
「うん。存在感が薄いってよく言われてた」
私の言葉に浮島さんは、人の好さそうな笑顔で頷いた。
「でも、ゴム手袋はいいね。帰りにホームセンターで買って帰ろう」
「ミケも行く」
「僕も行く」
そう言ってから、浮島さんは「しまった」という表情をし、「わたしも行く」と言い直した。
「もう、僕っ子ってことにしたら?」
私の提案を、
「だめだよ。こういうのはちゃんとしておかないと、こういうところから綻びが出るんだ」
浮島さんは生真面目に却下した。そういうもんか、と私は思う。
【収穫の夜】
ミケちゃんは、収穫の夜に現れた。
秋になると、収穫の夜がやってくる。山の途中の果樹園で、謎の果実を収穫するのだ。夜にしか収穫できない果実だと私たちは聞かされていて、しかもその山は男子禁制だ。山に棲んでいる神様が、昔、そう決めたらしい。なので最近では、夜ふかしが好きで体力のある私たち女子高生が集められ、果樹園で実った果実の収穫をするという決まりになっている。秋の学校行事にされてしまっているのだ。
その夜、私たちは全員、学校指定のジャージで山裾の鳥居前広場に集まった。田舎町で、高校はひとつしかない。クラスだって、各学年に一組しかない。なので、全員と言ってもそんなに多くはない。今年、高校に進学したばかりの私にとっては初めての収穫の夜だ。
収穫は、灯りのない真っ暗な中で行われる。真っ暗な中で収穫するので、自分がどんな果実をもいでいるのか、自分でもわからない。そんなわけのわからない行事だけど、私たちは少し楽しみにしている。この日だけは、収穫が終わって夜遅くまで出歩いて遊んでいても、誰にも怒られたりしない。それに次の日は、学校を休めるのだ。
毎年、引率の先生が持つ懐中電灯の灯りだけを頼りに、はぐれないようにみんなで手を繋いで、ゆっくりと山を登る。ちなみに、この引率の先生も女性だ。果樹園までの道は整備されているので、転ばないようにちゃんと気をつけていれば、真っ暗でもなんとかなる。ただ、真っ暗なので、誰が隣にいるかわからない。いつの間にか、全く知らない子と手を繋いでいたなんてこともあるらしい。人間じゃないなにかが交じっているかもしれない。大人たちから、そんなふうに言われたりもする。
でも、今夜、交じっていたのはミケちゃんだった。
収穫した果物のカゴを指定された場所に置いて、きたときと同じようにみんなで手を繋いでゆっくりと山をおりた。鳥居前広場の灯りにほっとしながら繋いでいた誰かの手を離したときだ。
「ラビちゃん」
後ろから名前を呼ばれて、私は振り返る。
「だれ?」
知らない女の子が立っていた。少しつり気味で大きな目の、かわいらしい女の子だ。
「びっくりした? ミケだよ。福原ミケ」
「え、ミケちゃん? どうしたの、その格好」
ミケちゃんは、斜向かいに住む福原さんというおばちゃんちの三毛猫だ。でも今、目の前にいるミケちゃんは人間の姿をしていて、私と同じ学校のジャージを着ている。しかも、裸足だし、髪の毛の色は黒と白と茶のまだらになっている。
「収穫のお手伝いするから、神様に女子高生にしてもらった。ミケは女の子だからオッケーだって」
「靴は?」
「靴はいらない。服は仕方ないから着た」
「もう猫に戻らないの?」
「本当は山を下りる前にこっそり戻れる予定だった。でも、今日は男子が混じってたみたい。だから、神様の力が狂っちゃってミケは猫に戻れない」
ミケちゃんの言葉に周りにいた子たちがざわついた。どうやら、この中に男子がいるらしいということに驚いたのだ。私も驚いた。でも、その前にミケちゃんのほうが気になる。
「戻れないって、どうするの?」
「混じってた男子を捕まえて、神様に差し出す。そしたら戻れる」
「なにそれ、怖い。生贄ってこと?」
「ううん、神隠し。二時間くらい」
「二時間か……」
随分と短い神隠しだな、と思う。普通に用事を済ませて帰れるくらいの時間だ。
「ごめんなさい。私です」
同じクラスの浮島さんが唐突に手を上げた。表情が強張っている。
「私、いえ、僕、本当は男子です」
「うそ」
周囲がさらにざわつく。まさか、浮島さんが男の子だなんて誰も思っていなかったのだ。
浮島光希さんは、クラスでもおとなしくて目立たない地味な感じの子だ。あまり話したこともないので、どういう子なのかも知らない。県外からこの学校に入学したらしく、親戚の家に住んでいると聞いたことがある。いつもひとりでぼうっとしているような子で、浮島さんはあまり他人と親しくなるつもりがないのかな、と、私はなんとなく感じていた。
男だと言われて、改めて浮島さんの顔をまじまじと見ると、浮島さんは男の子にも女の子にも見えるような顔立ちをしている。すごくかわいいわけじゃないけど、かわいくないというわけでもない、普通に薄い感じの中性的な顔立ちだ。
「なんで女の子のふりしてるの? 心が女の子なの? だったら浮島さんは女の子にカウントされるはずだけど」
誰もなにも言わないので、私がしゃしゃり出て質問する。
「違うんです。ちょっと、家の決まりでこういう格好してなくちゃいけなくて。心は男です」
浮島さんは、申し訳なさそうにそう言った。
「家の決まりなの? 変なの」
浮島さんは、私の言葉を肯定するように深く頷いた。そして、
「男子禁制って、軽く考えてました。なにも起こるはずない、黙っていれば大丈夫だろうって。でも、こんなふうに迷惑かけることになるなんて」
浮島さんは、ミケちゃんに「ごめんなさい」と謝っている。ミケちゃんのほうは自分のことなのにあまり危機感はないらしく、「はい」と、ひとつ頷いて大きな口を開けてあくびをした。
「僕、神様のところへ行ってきます」
浮島さんは、きっぱりとそう言った。なんとなくほっとしたような、解決に向かうような空気が流れる。
「じゃあ、ミケが連れてったげる」
ミケちゃんが言った。
「私も行っていい?」
全力の好奇心で私は言う。すごくおもしろそうだったから。
「いいよー」
ミケちゃんは軽く言った。
私たちは、真っ暗な山道を再び登る。先生の懐中電灯がないので、本当になにも見えない。だけど、ミケちゃんには見えているようで、私の手を引いてくれる。私はもう片方の手で浮島さんの手を引く。
途中の果樹園の辺りも過ぎて、てっぺんに向かってどんどん道を進んでいくと、ぼんやりとした灯りが見えた。どうやら焚き火らしい。
「くま。くまだ」
驚いて声が出た。真っ黒いくまが焚き火の前に座っている。山のてっぺんの拓けた場所でテントを張ってキャンプをしている。くまが。
「あれが神様」
ミケちゃんが言う。私と浮島さんは、へーとか、ほーとか感嘆のため息をもらした。
「山の神様って、くまなんだ」
「これは、かぶりものだよ」
私たちに気づいた神様が、こちらを向いてそう言った。ぼわぼわとくぐもった声だった。
「男子いたよ。連れてきた。ミケのこと戻して」
ミケちゃんが言い、三人で神様の近くに寄る。近づいても、ますますくまだ。
「ルールを破ってすみませんでした」
浮島さんが、深々と頭を下げて謝っている。
「きみが男の子なの? 名前は?」
神様は、かぶっていたくまの頭を取り、地面に置いた。一度見ただけでは忘れてしまいそうな印象の薄い顔が現れる。この神様も、浮島さんみたいに男か女かわからない顔立ちをしている。
「浮島光希です」
「えー、あーそっか、浮島さんとこの子か。なら、仕方ないな」
神様は納得したように言った。
「どういうこと?」
わけがわからなくて、私は思わず不躾に尋ねてしまう。
「浮島さんとこの男の子は、高校生の間は女の子なんだよね」
神様は気軽に答えてくれたけど、言っている意味がよくわからない。
「全然意味がわかんない」
なので、そのままそれを口にする。
「昔むかしの話だけど、わたしの友だちが浮島さんちと約束して、なんかそういうことになってんの。浮島さんとこの子は、異性として過ごさなきゃいけない時期があるの。男の子は女の子として、女の子は男の子として」
「そうなの?」
「うん」
浮島さんは頷いた。
「よくわからないけど、龍神様との約束だって聞いています」
「へー、くまの神様の友だちも神様なの?」
「うん。龍の格好してるよ」
「へー」
龍の神様も、くまの神様みたいにかぶりものなのだろうか。
「とはいえ、そうなると、わたしの力は狂ったままだから、ミケにはしばらく人間でいてもらわなきゃならないね」
「ミケ戻れないの?」
「しばらくはね。待ってたら、いつかは戻るよ」
「しばらくって、どのくらい?」
「わからないな」
「そんなことある?」
ふたりの会話を聞きながら、私は口をはさむ。
「こういうとき、本当は、混ざってた男の子を女の子に変えて、みんなの記憶も根本から変えて、そうやって辻褄を合わせるんだけど」
神様はそんな乱暴なことを言った。
「やばっ、こわっ」
思わず言ってしまう。
「そんな無理矢理なことすんの? さすが神様って感じ」
そう言いながら、私は神様の座っている脇に生えている木に、変な形の果実がなっていることに気づいた。そういえば、焚き火の匂いに混じって、ずっと甘い香りがしていた。収穫の最中みたいな。
「無理矢理にしかできないんだよ。それに、女の子に変わった男の子も、自分は生まれた時から女の子だって思うように記憶を変える。無理矢理ね」
一泊置いて、神様は続ける。私は神様に気づかれないように、その果物をそっともぎ取ってジャージの中に隠した。もしかしたら、さっきまで私たちが収穫していたのはこの果物だったのかもしれない。そう思ったら、手が勝手に動いてしまったのだ。
「でも、女の子の格好の浮島さんは、わたしの友だちの力で守られていて、それが通じない。だから、わたしの力が正常に戻るまで待たなきゃいけない」
「浮島さん、神様の力が通じないんだって。すっごいね。無敵じゃん」
はしゃいだ私の言葉に、
「いや、でも、かえって面倒かけちゃって」
浮島さんは、ただただ申し訳なさそうにしている。
「なに言ってんの。無理矢理に女の子に変えられなくてよかったじゃん」
「それはそうだけど」
「とりあえず、きみが男の子だって記憶だけはみんなから消すよう努めます」
神様が目を瞑って頷きながら、もっともらしく言う。
「ありがたいです」
浮島さんは頭を下げている。その隙に、私は果物をかじってみた。あまりおいしくない。少し甘い気もするけれど、その甘さもすぐに消えてしまった。要するに、味がない。甘い香りだけが強いのだ。
「えー、別に記憶とか消さなくてもよくない? 私は気にしないけどな。おもしろいし」
果物をジャージのポケットに隠し、私は言う。無責任な私の言葉に、
「男だってばれたら、転校しなきゃいけないんで」
浮島さんはそう返事をした。
「なら、浮島さん的には消したほうがいいのか。私の記憶も消えちゃうの?」
「わからないけど……消えると思うよ、たぶん」
神様は曖昧なことを言う。
「全然はっきりしないね」
「いまは力が狂ってるからね。多少のバグはあるかもしれない」
神様は右前脚の真ん中の指をぺろっと舐めて、それを地面にぺとっとくっつけた。
「はい、これでなんとか」
神様はぼそっと言った。なんとかなったのか、と私は平坦に思う。
「ラビ、ミケ」
神様が急に私とミケちゃんの名前を呼んだ。
「はい」
ふたり声をそろえて返事をする。ミケちゃんは半分眠っていたらしい。呼ばれた瞬間、肩がビクッと上下していた。ミケちゃんはともかく、私は自己紹介なんかしていないのに、名前を知られていることに少しだけ畏怖を感じた。神様はなんでも知っているんだなあと感心しながらじっとしていると、
「浮島光希さんの性別は?」
「なんで? 男でしょ? 自分で言ってたじゃん」
「男子って言ってた。だからミケ、ここに連れてきた」
質問された意味が解らず、私とミケちゃんは口々にそう言う。
「あ、消えてない。バグだよ」
神様はがっかりしたように言った。つまり、さっきの動作で、私たちの記憶を消していたらしい。
「きっと、近くにいたせいだ。関わりすぎたんだな」
神様は続ける。
「ま、いっか。下で待ってる子たちの記憶は消えてるはずだから。わたしの力が正常に戻ったら、そのときはきみたちの記憶も消えるからね」
神様のその言葉を最後に、私たちはみんなが待っている鳥居前広場にいた。
「瞬間移動だ」
そう言って、浮島さんは感動している。少しの間、行方知らずということになっていたらしい私たちが無事に戻ってきたことを確認し、収穫の夜はその場で解散となった。
私はミケちゃんと浮島さんのそばに寄り、内緒話をするようにひそひそと声をかける。
「ねえ、見て」
ジャージのポケットから果物を出して見せると、
「え、ラビちゃん、それ食べちゃったの?」
浮島さんが果物の歯形を見て、驚いたようにそう言った。
「うん。食べたくなっちゃって。でも、あんまおいしくなかった」
「だから、記憶が消えなかったんじゃないの?」
「え、この果物ってそんな効果があるの?」
「いや、知らないけどなんとなく。見たことない果物だし。昔話とかでも、なにかを口にしたせいでなにかが起こったりするでしょ?」
「なにかなにか」
やりとりを聞いていたミケちゃんが楽しそうに言う。
「でも、ミケちゃんは食べてないよ」
「あ、そうか……」
私の言葉に、浮島さんは頼りなげな返事をする。
「なにが原因かわかんないけどさ、せっかく浮島さんと仲良くなったのに、記憶が消えるなんてありえないよ。だから、私の記憶は残っててよかった」
「仲良くしてくれるの? 僕、男だけどいいの?」
「浮島さんが男でも女でも、どっちでもいいよ。仲良くしようよ」
「そっか。どっちでもいいのか」
浮島さんは、なんとなく肩の力が抜けたようなぼうっとした表情でそう言った。そして、「でも、勝手に取るのはよくないよ」と私を叱った。
「うん、そうだね」
それもそうだ。あたりまえのことなのに、あのとき、あまい香りに我慢がきかなくなって果物をもいでしまった。私は果物を鳥居の下に置き、「ごめんなさい」と頭を下げた。
果物はぶるぶると震え、そのままべしゃっと溶けるように地面を濡らした。
「なに今の。きもちわる……」
「ラビちゃん、あんなの食べちゃったの?」
浮島さんの言葉に、私の胃は波打ち、おえっとのどが鳴った。
「吐いちゃえ、ラビちゃん」
ミケちゃんが応援するみたいに言う。浮島さんも、「そうそう、吐いちゃえ」と言いながら、背中をさすってくれる。おえおえとのどを鳴らしながら、私は食べた果物をその場に吐いた。吐いた果物のかけらも、震えて溶けて消えてしまった。
「なんか、よかった。ラビちゃんが吐いてちょっと安心した」
浮島さんが言う。浮島さんはたぶん心配性だ。
「ほら、あっちの世界で食べものを口にすると、こっちの世界に帰ってこられなくなるって話、よくあるもん」
「それって、本当によくあるの?」
「あっちこっち」
ミケちゃんが楽しそうに言う。
「もう二度とあんなことしない。勝手になにか食べたりしない」
私はかたく誓う。
浮島さんとも別れ、私とミケちゃんはいっしょに帰る。事情を話すと、福原のおばちゃんは「あらあら、まあまあ」と驚きながら、ミケちゃんを家に迎え入れた。
「ラビちゃん、申し訳ないんだけど、明日から学校へ行く時にミケもいっしょに連れて行ってくれない?」
「うん、いいよ。でも、明日は女子は学校休みなの。明後日の朝、迎えにくるね」
「そうそう、そうだったわね。だったら、明日いっぱい準備ができるわ。ミケの制服を買いに行かなくちゃ」
福原のおばちゃんはそう言って張り切っている。そしてその夜、私たちは挨拶をして一旦別れた。
「ばいばい、ミケちゃん」
「ばいびー、ラビちゃん」
ミケちゃんはそれ以来、ぬるっと私の日常に入り込んできた。私は毎朝、ミケちゃんを迎えに行く。
「ミケちゃん学校行こ!」
【陽光ハンドクリーム】
冬になって流行するのが、陽光ハンドクリームだ。陽光ハンドクリームというのは、太陽の光を含んだ最新のハンドクリームで、塗ると手があたたかくなり血行がよくなるという効能があるらしい。パッケージがかわいいので女子高生にも人気のハンドクリームなのだ。
「買っちゃった」
教室で、鞄から取り出した陽光ハンドクリームを机に置いて、ミケちゃんに見せる。
「なにこれ」
「陽光ハンドクリーム」
「知ってる。テレビでCMしてるのを観たよ」
いつの間にかそばに立っていた浮島さんが言う。
「でも、ラビちゃん、服を買うためにお金貯めてるんじゃないの?」
「そうなんだけど、缶がかわいいでしょ。欲しくなって買っちゃった」
確かに、陽光ハンドクリームは千円を超える。千円といったら、私の好きなお店の靴下の半分の値段だ。女子高生が買うハンドクリームとしては決して安くはない。だけど、缶のかわいさに我慢ができず、どうしても欲しくなってしまったのだ。
「そっか。息抜きも大事だもんね」
浮島さんが言った。
「そうそう、息抜き。ちょっとは好きなもの買わなきゃ」
私は浮島さんの言葉に都合よく乗っかる。
「開けないの?」
缶の匂いをかいでいたミケちゃんが言った。
「まるい匂いがする」
「なにそれ。缶の形のこと?」
「まるい匂い」
私の問いに、ミケちゃんは同じ言葉を繰り返した。
「じゃあ、塗ってみよう」
私はビニールを剥ぎ、缶の蓋を開ける。白いクリームを指ですくい取り、両手にまんべんなく塗り込む。
「え、熱い! これって、こんなに熱いの?」
塗る量を間違えたのか、両手がびっくりするくらい熱い。私は慌てて、浮島さんの手を取って私の手のクリームを無理矢理なすりつける。ミケちゃんにはしない。舐めちゃいけないから。浮島さんの手にクリームを塗り込んだら、手の熱はだんだん引いていき、落ち着いてきた。私はほっと息を吐いて、浮島さんの手を解放する。
「ごめんね、浮島さん」
さっきの無理矢理な行動を謝ると、浮島さんは顔を真っ赤にして首を横に振った。
「顔赤いよ。ごめんね、浮島さんも手が熱くなっちゃった?」
「手は、別に……大丈夫」
浮島さんは真っ赤な顔のまま自分の両手をじっと見ている。ミケちゃんが私の手に鼻を近付けて、「まるい匂い」と言う。
「さっきから、まるい匂いってなに?」
尋ねると、ミケちゃんは口を開けてぼんやりと考えるような仕草をし、「おひさま」と言った。
「陽光ハンドクリームだからだ」
私は納得して言った。缶の裏の注意書きを読むと、稀にハンドクリームの熱を他の人よりも強く感じすぎる人がいるというようなことが書いてあった。私は稀な人だったのだ。
せっかくかわいい缶なのに、陽光ハンドクリームはなかなか減らない。怖くて少しずつしか使えないのだ。私が用心深く陽光ハンドクリームを塗っていると、いつも浮島さんがそばにきて、「必要なら、いつでもどうぞ」と満面の笑みで両手を差し出すようになった。
冬が終わるころには、月光ハンドクリームというのが流行り始め、それもまたかわいい缶入りのハンドクリームだったけど、私はもう買う気は起きなかった。
【逃げる影】
卒業式も入学式も終わり、私たちは二年生になった。春のぽかぽか陽気の朝、学校へ向かう途中、道路に星が落ちていた。ぱっと見て、星だ、と思ったけど、本当は星型のお菓子かなにかかもしれない。ミケちゃんが落ちている星に気づき、しゃがんで匂いを嗅ぎ始めた。慌てて、「だめだよ」と言ったけれど、遅かった。ミケちゃんは星を食べてしまった。
「にがい」
ミケちゃんが言った。
「だめだよ、ミケちゃん。危険なものだったらどうするの。人間は、道に落ちてるものを拾って食べたりしないんだよ」
私の説教を聞き、
「ラビちゃんは、神様の果物勝手に食べた」
ミケちゃんは不服そうにそう言った。それを言われると弱いので、
「それはごめんなさい。反省しました。もう二度とあんなことしない。人間だもの」
私は素直に反省する。
「ミケ、猫だもの」
「今は人間でしょ」
「人間ってつまんない」
ミケちゃんは言った。そういえば、ミケちゃんが人間になってから、私はあれだめこれだめばかり言っているような気がする。
「そうかもしれないね」
私はミケちゃんの言葉に同意した。そのとき、
「あっ」
空気のようにその場にいた浮島さんが短く声を上げた。
「ミケちゃん、浮いてる」
ミケちゃんを見ると、本当に少しだけ足が地面から離れている。
「本当だ」
「ミケ、浮いてる。なんで?」
「星を食べちゃったからじゃない?」
「すごーい!」
うれしそうにそう叫んだミケちゃんの身体がさらに、地面から離れた。
「やったあ!」
そう言って、ミケちゃんはぐぐっと伸びをするようにし、さらに浮かび上がる。
「ミケ、飛べる。人間もわるくないよ」
ミケちゃんは言い、両手を広げた。だけど、広げただけで、その場から動かない。
「あれ? 飛べない」
そう言って、ミケちゃんは空中を歩き出す。
「飛べないけど、歩ける」
歩き出すと、ミケちゃんの身体はだんだん下がってきて、結局地面に足を着けた。
「なんだったの、今の」
「へんなの」
「もう一回、浮かんでみたら」
私が言うと、ミケちゃんは真っ直ぐ上へジャンプした。ふわーん、という感じにミケちゃんの身体はゆっくりと浮かぶ。
「ミケちゃん、私のこと引っ張ってよ」
自分も浮かんでみたくなり、私はミケちゃんのほうへ手を差し出す。ミケちゃんは私の手を握り、ぐいっと引き上げるようにする。私の両脚が地面から離れて身体が軽くなった。
「わあ、すごーい」
私とミケちゃんは向かい合って両手を繋ぎ、ふわふわと空中を回る。
「ミケが星食べたから、これできるんだよ」
「そうだね。ミケちゃんのおかげだ」
空中でふわふわとそんなことを言い合っていたら、
「ラビちゃん!」
下のほうから浮島さんが私を呼んだ。
「大変だ! ラビちゃんの影、逃げてるよ!」
浮島さんの指さすほうを見ると、確かに、私の足から離れた影がするすると滑るように逃げて行くところだった。
「あ、本当だ」
私とミケちゃんは、歩いて地面に下りる。
「どうしよう」
浮島さんが心配そうに言った。
「なくても困らないんじゃない?」
私はあまり気にならなかった。影がないからといって、なにか不便なことがあるとは思えない。
「ミケの影は逃げてない。いい子だよ」
「私の影が悪い子だって言うの?」
「ミケの影よりは」
「どうするの、ラビちゃん」
お気楽に言い合う私とミケちゃんとは反対に、浮島さんだけが不安そうだ。
「気にしなくていいよ、浮島さん。そのうち戻ってくるよ」
「そんな他人事みたいに。ラビちゃんの影なのに」
浮島さんが蒼白な顔色で情けない声を出すので、私は困ってしまう。影が逃げたことは全く困らないが、浮島さんが私のことを自分のことのように心配していると、そっちのほうに困ってしまって、どうしたらいいのかわからなくなる。私が気にしていないのだから浮島さんも気にしなくてもいいのに、と思う。
「心配してくれてありがとう。でも大丈夫だから」
私はそう言って、浮島さんをなだめる。
「行こう」
そう言って、浮島さんの手を握ると、浮島さんのほっぺたに血色が戻り、うれしそうな表情になったので、ちょっと安心する。私たちは三人で手を繋いで、ふわふわと学校へ向かった。
私は影のないまま学校に到着し、授業を受け、お弁当を食べた。午後の体育の時間には、グラウンドでふわふわと創作ダンスをした。天気のいい午後だったけど、私にだけ影がない。
そのまま、影が戻ってくる気配はない。ミケちゃんの星の力もいつの間にか消えていた。影がなくても特に不便は感じないので、私は気にせずそのまま生活している。
「今まで貯めてたお年玉とお皿洗いのおこづかい、全部あわせたら、なんとか一式買えそう」
金曜日の放課後の教室で、私は雑誌を開いてミケちゃんに見せる。
「重そうな服」
ミケちゃんが言った。
「明日、買いに行くの。ミケちゃんもくる?」
「それ、なにか乗り物に乗る?」
「バスに乗って行くけど」
「じゃあ、ミケ行かない。バスきらい」
「そっか。なら、仕方ない。ひとりで行こう」
そう呟くと、
「いっしょに行きたい。ねえ、いいかな?」
いつの間にかそこにいた浮島さんが言う。
「いいけど、こういうお洋服が好きじゃないと楽しくないかもよ?」
私は開いていたロリータファッション雑誌を浮島さんに見せる。
「かわいい服だね」
雑誌を見た浮島さんは笑顔になり、
「こういう服を着たラビちゃんを見たいから、やっぱりいっしょに行きたい」
そう、きっぱりと言った。そんなふうに言われて悪い気はしない。私は浮島さんと待ち合わせの時間を決め、楽しみに明日を待つ。
土曜日、路線バスの、二人掛けの座席に座って、私は浮島さんに話す。
「ネットショップとかで安く買えたりするらしいけど、私は好きなお店があって、そこのお店のお洋服が欲しいの」
「行ったことあるの? そのお店」
「ない。でも、いつもお店のサイトとか雑誌とかで見てる。好きなの」
私は、ロリータ服がいかに素敵か、浮島さんに話して聞かせる。リボンだとか、パフスリーブだとか、ドレープだとかペチコートだとか、その他云々の話を、浮島さんはうんうんと頷きながら聞いてくれる。浮島さんが全く嫌な顔をしないものだから、私は調子に乗って、話したいだけべらべらと話す。こういう話を聞いてくれる人が、今までいなかったのだ。浮島さんはと言うと、今日はシンプルなロングスカートを穿いている。そういえば、制服やジャージ以外の浮島さんを初めて見た。「浮島さんは脚が長いから、ロングスカートが似合うね」と言うと、浮島さんは少し複雑そうな表情をした。
お店では、店員さんがとても親切に対応してくれた。予算を伝え、店員さんと相談しながら、お洋服を選ぶ。どのお洋服も素敵すぎて、目の前に宝の山があるという錯覚に陥ってしまう。どれか一着ずつなんてとても選べない。それでも、なんとか選んで、ヘッドドレスから靴まで、頭のてっぺんから足の先までの一式を試着させてもらう。
「どうかな」
試着室を出て尋ねると、
「かわいい」
浮島さんは即答してくれる。
「本当?」
うれしくなって、私はふんわりとしたスカートの裾をつまむ。つま先のまあるい靴は底が厚くて、穿くと、私は浮島さんと同じくらいの背の高さになる。
「服もかわいいけど、着たい服を着てるラビちゃんが、かわいい」
浮島さんの言葉に、私はさらにうれしくなった。
「このまま着て帰りたいんですけど、大丈夫ですか?」
「もちろんです」
店員さんに値札を切ってもらい、今まで着ていた服といっしょに紙袋に入れてもらう。
「うれしい、楽しい。浮島さん、ついてきてくれてありがとう」
私はすっかり舞い上がって、浮島さんにお礼を言う。貯めたお金はすっかりなくなってしまったけれど、心は満たされている。
「いや、勝手についてきただけだから……」
浮島さんは言い、照れたように笑った。少しだけ街を歩いて、帰りのバスに乗る。どこかでお茶でも、という浮島さんの誘いを、残念だけど断る。帰りのバス代しか残っていなかったのだ。
「そのくらい、ご馳走するのに」
浮島さんはそう言ってくれたけど、なんとなく浮島さんにご馳走してもらうのは違う気がした。浮島さんと私は、なんか、そういうのじゃない気がしたのだ。
帰りの路線バスから降りると、誰とも繋がっていない影がするすると道を横切った。
「あ。あれ、ラビちゃんの影じゃないの?」
浮島さんが言う。その声に反応したのか、影がこちらを向いた。影と目が合う。正確には、そんな気がしただけだ。影の正面がどちらなのかわからない。制服姿の影は、しばらくそのまま私たちを見ていた。
「帰ろう、浮島さん」
浮島さんの手を取ると、浮島さんはやはりほっぺたををバラ色にしてうれしそうな表情をする。私はそれがうれしい。
「でも、いいの?」
浮島さんは、影を振り返って言う。
「いいんだよ。勝手に逃げたんだから」
手を繋いで歩く私たちの後ろを、影はなぜかついてきた。
「なんでついてくるの?」
影のほうを振り返って言う。当たり前だけど、影は黙っている。
「あんた、私が羨ましいんでしょ」
私の言葉に、影がわずかに反応した。
「あんたも、このお洋服好きなんだ」
影は、うんうんと頷く仕草をする。
「だったら、戻ってきたら」
そう言ってやると、影はするすると私の足にくっついた。制服姿のままだった影は、私と同じ、素敵なシルエットに変化する。
「よかったね、ラビちゃん」
浮島さんが、心底安心したように言った。もしかしたら、ずっと心配してくれていたのかもしれない。
「うん」
私は頷いて、また歩き出す。私は浮島さんと手を繋ぎ、私の影は浮島さんの影と手を繋いでいる。
【ひっくり返った夜】
春が終わるころにはお祭りがある。なんのためのお祭りかは知らないけれど、神様に関係するものではあるらしい。私たちは浴衣を着て、夕方の鳥居前広場に集合した。
「浮島さんもミケちゃんも、似合ってるよ。かわいい」
私が浴衣をほめると、浮島さんは複雑そうな表情をし、ミケちゃんは、「うんうん。ミケはかわいい。でも窮屈」と言った。
三人で夜店をまわり、食べたいものを片っ端から食べていると、
「あっ、ミケちゃん! 耳!」
ミケちゃんの黒と白と茶のまだらの髪の毛の間から、猫耳がはえていることに気づいた。
「そろそろ、神様の力が正常に戻ってきてるのかな」
「お祭りだし、そうかも」
私の言葉に、浮島さんがそう応じた。
「お祭りだと神様の力が戻るの?」
「わかんないけど、お祭りってそういうものでしょ?」
浮島さんの言うことは、時々よくわからない。たぶん、浮島さん自身もよくわかっていないんじゃないかと思う。
「ミケ、急に戻っちゃうんだ」
「猫に戻っても、また遊ぼうよ」
ミケちゃんが猫に戻ってしまう前にと、私は急いで言う。
「うん、遊ぶ」
ミケちゃんが頷いたと同時に、ミケちゃんは猫に戻ってしまった。
ドカンと花火が上がる。私の頭の中に星が散ったようなチリチリパチパチした刺激が走った。気がつくと、足もとに福原さんちのミケちゃんがいた。
「ミケちゃん、きてたの」
私はしゃがんで、足もとに座っているミケちゃんののどを指で撫でた。
ふと、下駄を履いた足が視界に入る。見上げると、足の主は同じクラスの浮島さんだった。同じクラスといっても、一学年に一クラスしかないのだけれど。浮島さんは浴衣を着ている。私と同じように、お祭りにきていたらしい。
「浮島さんも、お祭りにきてたんだね。浴衣、似合ってるよ」
立ち上がってそう話しかけると、浮島さんはショックを受けたように固まってしまった。
「どうしたの、ラビちゃん。僕っ、わたしたち、いっしょにお祭りにきたんだよ。ミケちゃんと三人で」
「そうなの? そうだっけ?」
言いながら、自分の記憶が頼りなくて急に不安になる。お祭りにはひとりできていた。だけど、誰かといっしょだったような気もする。
「忘れちゃったの、僕のこと」
「覚えてるよ。同じクラスの浮島さんでしょ」
「それは、そうなんだけど……」
浮島さんは言葉を探すように口ごもる。そして、
「僕たち、本当はもっと仲良しだったでしょ?」
そんなことを言う。
「そうなの?」
もし本当にそうなら、私はどうしてその仲良しの浮島さんのことを忘れているのだろう。思い出そうとがんばるのだけれど、頭の中をチリチリパチパチと弾けるように刺激が走ってうまくいかない。
「ねえ、ラビちゃん。僕が本当は男だって覚えてる?」
さらに浮島さんは不安そうな表情で、そう言った。
「えっ、浮島さんって男の子なの?」
「そうだよ。本当に忘れちゃったの?」
「忘れちゃったっていうか、初耳だよ」
「耳」
「そう、初耳」
「じゃなくて。ラビちゃん、耳が……」
浮島さんは、私の頭よりも少しだけ上のほうへ視線を向けている。
「え?」
「うさみみ」
浮島さんが。あっけにとられたように言った。
「ラビちゃん、うさみみがはえてる」
浮島さんのその言葉を聞いた途端、ドカンと花火が上がって、世界がぐるんとひっくり返ったような気がした。私は地面のすごく近くにいて、気がつくと目の前にミケちゃんの顔があった。
「ラビちゃん!」
浮島さんの声はすごく上のほうから聞こえてきて、私はミケちゃんに言う。
「私、どうしたんだろ。ミケちゃんと同じくらいの大きさになっちゃったみたい」
ミケちゃんは首を傾げて、「ミケの知ってるので言うと、ラビちゃんはうさぎ」と言った。
「うさぎ」
やった、かわいい動物だ! 一瞬思ってしまったけれど、そんなのんきなことを言っている場合ではない。
「え、うさぎ、なんで。それに、ミケちゃんと話ができるよ」
「ミケ、話せるよ」
浮島さんは自分が男だって言うし、私はうさぎになっちゃうし、猫のミケちゃんの話している言葉がわかる。突然いろんなことが起こって、私はパニックになりそうだった。
「どうして? 私って、本当は人間じゃなくてうさぎなの? 私、それを忘れちゃってるの?」
さっきからの自分の記憶の頼りなさに、そんな突拍子もないことを考えてしまう。
「ミケは、ミケが猫だってことしかわかんないよ」
困ったようにミケちゃんが言う。
「そりゃそうだ。でも、私は私のこともわかんない。いろんなことを忘れちゃってる。どうしよう」
「ラビちゃん、ミケちゃん」
浮島さんが私たちを呼び、両腕で私たちふたりを抱え上げた。
「私、このままうさぎになっちゃうのかな。うさぎになっちゃったら、ミケちゃんとは遊べるかもだけど、浮島さんとはもう遊べないかもしれない。せっかく仲良しだったみたいなのに。これから仲良くなれるかもしれなかったのに」
そう思うと、寂しくなった。私は今うさぎなので、寂しくて死んでしまうかもしれない。
「そんなことない。ラビちゃんがうさぎでも、いっしょに遊ぼうよ」
浮島さんが言った。
「浮島さん、私の言葉がわかるの? 私、今うさぎなのに」
「わかる。不思議だけど」
浮島さんの声を聞きながら、私は気づく。
「浮島さん、本当に男の子なの? おっぱいあるけど」
「えっ」
私の言葉に浮島さんは声を上げて、自分の胸元に視線をやる。
「本当だ。どうしよう、神様の力なのかな。女の子になっちゃう。話がちがう。龍神様に守られてるんじゃなかったの」
泣きそうな声で浮島さんが言う。ミケちゃんは、前脚で浮島さんの胸をふみふみしている。
「ねえ、女の子でもいいよ。覚えてないけど、私たち仲良しだったんでしょ。女の子になっても仲良くしようよ。私、浮島さんが男でも女でも、どっちでもいいよ」
浮島さんを元気づけようとそう言うと、浮島んさんは、「ラビちゃんは、やっぱりラビちゃんだね」と言って笑う。
「そうだね。僕も、ラビちゃんが人間でもうさぎでも、どっちでもいい。ラビちゃんが、何者でもいい。僕はラビちゃんが……」
浮島さんの言葉を全部聞く前に、また世界がぐるんとひっくり返った。ドカンと花火が上がって、浮島さんが私の額に自分の唇をくっつけた。パチンと光がはじけたような感覚があり、一瞬だけ、夜空に大きな龍を見たような気がした。
次の瞬間、私の目の前に浮島さんの顔があった。私は人間の手で猫のミケちゃんを抱いていて、そのまま浮島さんにお姫さま抱っこをされていた。
「戻った!」
私が声を上げると、
「重い」
浮島さんは苦しそうにそう言って、私をゆっくりと下におろす。
「今、重いって言った?」
「ごめん」
浮島さんが即答で謝り、私たちは少し笑った。私の腕の中で、ミケちゃんがあくびをした。
ふっくらしていた浮島さんの胸は平らになっていて、さっきまで心許なかった私の記憶も、すっかりもとに戻っていた。戻った、のだと思う。たぶんだけど。浮島さんは家の決まりで女の子のふりをしている男の子で、ミケちゃんは神様に人間にしてもらっていたけれど猫に戻った。そして、私は。私は何者なんだろう。それだけが、どうしても思い出せなかった。物心ついたときから人間だったような記憶があるにはあるけれど、それを素直に信じることができなかった。それも神様がつくった嘘の記憶かもしれないからだ。
「浮島さん、私、自分が人間なのかうさぎなのか、わかんなくなっちゃった」
不安になってそう言うと、
「人間でもうさぎでも、僕はラビちゃんが好きだよ」
浮島さんは、そう言ってくれた。私はその言葉で急に安心して、浮島さんに抱きついてしまった。急に放り出されたミケちゃんがきれいに着地して、抗議の声を上げるのを聞きながら、私たちはしばらく抱き合っていた。
結局、ミケちゃんは完全に猫に戻ってしまった。もう人間の言葉を話さない。私も、もうミケちゃんの言葉がわからない。言葉がわからなくても、私とミケちゃんはたびたびいっしょに遊んでいる。
私は、人間になったのか、人間に戻ったのかわからないままだけど、傷口から植物が生えることも、道に星が落ちていることも、影が逃げることも、きっともうない。もう福原のおばちゃんの家にミケちゃんを迎えに行く必要もなくなってしまった。その代わりかどうかは知らないけれど、浮島さんが毎朝、私の家に迎えにきてくれるようになった。おはようを言い合ったあと、私と浮島さんは手を繋いで学校へ行く。
手を繋ぐと、浮島さんはほっぺたをバラ色にしてうれしそうにするので、私はそれがとてもうれしい。
了
ありがとうございました。