「ビオトープ」という言葉(改)
この項について。
大変失礼な物言いであったにも関わらず、お目通しいただき、『海水ビオトープ』について、「私の考えるビオトープではない」と否定もしていただいたオイカワ丸先生に、お詫びしまた感謝いたします。
それに伴い、失礼な部分を改訂し、それでもなお「ビオトープ」を語るうえで私が重要と思うこと、また先生とのやり取りで浮かび上がったことについて、改訂という形で書かせていただきたいと思います。
*** *** *** *** ***
とある投稿者が、『海水ビオトープ』を見に行った、とつぶやいた。
それは、なかなか見事な飼育槽であった。
水生生物飼育定番の濾過装置はなく、ポンプで水流を作っているだけ。
しかし、様々な工夫の末、海水耐性のあるマングローブなどの木々を植え、潮の干満を再現し、各種の熱帯性海水魚や無脊椎生物、そして微生物群が、互いの生物活動を利用してつながりあい、小さな生態系を作り出すことによって、水替えなどの手間がほとんどかからない状態だという。
素晴らしい技術と情熱である。
いちアクアリストとして敬意を払うし、願わくば、俺も目指したい境地でもある。
ただ、俺はビオトープ管理士であり、そのことに多少矜持もあるから、もちろん、頭の隅には引っかかった。『海水ビオトープ』という言葉が、である。
正直、「これをビオトープと呼ぶのはおかしいよな」とは思った。
だが『外来水草を入れ、色メダカを泳がせた水盤』がビオトープと呼ばれて久しい昨今、べつにどうということはない。騒ぐだけ損であるから、『いいね』すら押さずに流した。
だが、これを「ビオトープじゃない」と文句をつけた人がいたらしい。
らしい、というのは、現時点でその返信を見ていないからなのだが、まあ、それも想定の範囲内。暇な人もいたもの、俺のあずかり知らぬことであるし、勝手にやってくれ、くらいの気持ちでいた。
だが、そのことはどうもプチ炎上したらしく、SNS上の識者たちがいろいろコメントを始めたことで、俺は「ああ、まずいな」と思ったのである。
まず、なんでこの『海水ビオトープ』がビオトープではないのか、という件
ビオトープの語源は「ビオ(生物)」+「トープ(場所)」の合成語であり、生物の住みかであれば、ビオトープである、という。
これを持ち出して、最初の方は「これはビオトープじゃないのか」と、憤っておられるわけだが、実はそれを適用すると「地球上にビオトープじゃない場所は無い」ってことになってしまう。
何故なら、大気圏の超高空から深海、地底や極地の海底に至るまで、『生物のいない場所』などないからである。
そこまで行かなくとも
ドブは『ユスリカ・チョウバエビオトープ』
街路樹は『イラガ・ムクドリビオトープ』
風呂場は『黒かびビオトープ』
キッチンは『ゴキブリ・コバエビオトープ』
プールは『レジオネラ菌ビオトープ』
と呼んでいいことになる。
これらと比べれば、『普通の農地』の方がよほど『ビオトープ』と呼ぶに相応しいのではないか。いや、正直言って、この『海水ビオトープ』よりビオトープに近いと思っている。
それは極論だ、と思うだろうか?
では、『農地』と今回の『海水ビオトープ』の違いはどこにあるだろう?
・自分が気に入った生物を投入し
・様々な生物の生活活動を利用して
・そこに人間が手を加え
・思った通りの状況を作り出す
どこか違うだろうか?
じゃあ、ビオトープである条件とは何なのか?
・そこで生物が生活していること
・周辺環境との明確な区分があること
・外部環境との生物や物質の行き来があること
である。
以下 Wikipediaからの引用
ドイツ連邦自然保護局ではビオトープを「有機的に結びついた生物群。すなわち生物社会(一定の組み合わせの種によって構成される生物群集)の生息空間」と位置づけている。別の表現をするならば「周辺地域から明確に区分できる性質を持った生息環境の地理的最小単位」であり、生態系とはこの点で区別される。つまり、ビオトープ(環境)とその中で生息する生物群集(中身)によって、生態系は構成されていると言うこともできる。
引用終わり
お分かりだろうか。
たしかに、どこにも「外部環境との生物や物質の行き来があること」とは書かれていない。しかし「地理的最小単位」のものなのであって、「設備」ではない。
また、周囲とかかわりのない領域がいくつ集まっても『生態系』は構成されない。
よく使われる、たらいやプラ船は「地形」ではない、が、その地にある木石や倒木などと同等の存在と位置付けることが可能で、それらは周辺環境と無関係に存在しているわけではない。
視点を変えてみよう。
例えばここに、プラスチックの球塊があったとする。プラスチックであるから、基本的に分解されず、形状は水を貯めず、付着する藻類も分解する菌類もなく、ただそこにある。
これをビオトープと呼ぶだろうか、という話である。
海水で構成された循環型水槽。これが室内にある。
行き来する生物は無い。
物質循環も閉じている。
それが存在することで、微気候にも変化はない。
つまり、なんら周辺環境に影響はない。
プラスチックの塊が置いてあるのと何が違うのであろうか? 少なくとも俺には分からない。
もちろん、影響が全くゼロということではないだろう。
だが、それは農地よりも大きいだろうか?
釣り堀よりも大きいだろうか?
盆栽より影響があるだろうか?
もしかすると、街路樹の方がマシではないのか?
そんなものを『ビオトープ』というくくりの中に入れていいのか?
そういう疑問を俺は持つ。
次に、そう思っているにもかかわらず、なんでこれを俺が『こんなもんビオトープじゃねえよwww』と指摘しなかったのか、という件。
「言葉は使ったもん勝ち」である、ということだ。
言葉は、共通認識であるから、たとえ間違った意味であろうとも、使って意味が通じたら勝ちなのである。
騒いだところで変わらないどころか、騒ぐことで反発され、逆の力が強く働く、と思ったのであり、結局、それはその通りになった。
いわく「堅苦しく言葉の定義を言うことで、初心者が入りづらくなる」
いわく「専門家ヅラして敷居を高くすることで、せっかく興味を持った人が逃げていく」
いわく「厳しいことをキツイ言葉で言うから反発を買う」
いわく「そんな面倒なこと言うなら、俺は好きなようにやる」
言葉はそのままではないが、おおよそそんな感じだ。
こう考えてしまった人たちは、もはや相手が何者であろうと聞く耳を持たないであろう。
俺も今更『ビオトープの定義』を堅苦しく言うつもりはない。
だが、最低限押さえておきたい部分はあって、それこそが「領域外と生物の行き来や物質の循環があること」だ。
これがある、ということは即ち、そのビオトープが存在することで地域生態系に何らかの影響を与え、また地域生態系から影響を与えられている状態であるといえる。
そう考えると、いくら堅苦しいことを嫌っていても、どんなビオトープでも好き勝手に作ればいいというわけではないということも分かってもらえないだろうか。
ビオトープは、いくつかのハビタット(生息場所)の集合体ということができる。
異論はあろうが、ビオトープというものの性質上、複数のハビタットを含まなければ、多様な生物を育むことができないからである。
ハビタットの種類が多ければ多いほど、ハビタット同士の境界の種類も増え、そこがいわゆるエコトーンであるなら、そこを行き来できる生物種も増えるというわけだ。
これをもう少し分かりやすく説明してみよう。
まず「水場」と「陸地」という二つのハビタットの境界には「湿地」ができる。
つまり、二つのハビタットが隣接することで、三つのハビタットが生まれ、そこを行き来する生物が住みやすくなる。
では、ここにさらに「草地」を加えてみよう。
二種類のハビタットだと、境界の種類が一種プラスになるだけだが、三種類になると「陸地」と「草地」、「水場」と「草地」という二つの境界がさらに生まれ、三種類プラスとなる。
ハビタットが四種類なら、境界の種類は六種類。
五種類なら、九種類。
六種類なら、十二種類。
中には境界同士が隣接して、新たな境界を作り出すこともあるわけで、机上論ではあるが、ハビタットの種類が増えるほど、境界の種類はさらに増え、それを利用する生物の種類も増えるわけだ。
つまり、ハビタットの種類が多いほど、そこに住める生物種数も増える、といえる。
また、他のエリアとの生物の行き来できる回廊がコリドー。
コリドーは種類によって、利用できる生き物、利用できない生き物がいる場合もある。
そして、コリドーやエコトーンでつながることで、生き物の行き来や供給が起きる。そうするとビオトープ同士には有機的な関係が生まれ、地域全体を大きな生活空間と見なせるようになる。
これを「ビオトープ・ネットワーク」と呼ぶ。
では、どうしてビオトープには、コリドーやハビタットの概念が必要なのか。
設置場所、を考えてみよう。そこの周囲が何であるか、隣接した緑地の有無、排水溝や用水路、その先につながる自然水系が近いか遠いか、何メートル以内に開放水面があるかないか、また山沿いであるかどうか、標高や海岸との関係によっても、適したビオトープは変わってくるのである。
こんな例がある。
福井県の若狭湾国定公園内にロープウェイで行く山頂公園というものがあるのだが、山頂の尾根のような場所に「メダカビオトープ」がある。
俺が最後に見た時は、メダカは滅び、モリアオガエルが産卵に来ていたが、これをどう考えるか、という話だ。山頂に放されたメダカが、いくら三方五湖周辺由来であっても、山頂はメダカの住むべき場所ではない。
ゴツゴツした岩だらけの山頂には、そこに相応しいビオトープ、つまり高地の岩山の植物などが生えるビオトープなどが設定されるべきで、珍客のモリアオガエルが来たからOKではないのではないか。
また湿地帯ビオトープを作ってもトンボが来ない、という例があるが、これは、ネットワークとコリドーの概念がないと、解決できない問題でもある。
放っておいても多種のトンボが来るような場所もあるが、これは周辺に自然水域が多く、自然のビオトープネットワークの中にビオトープを設置した状態といえる。
しかし、トンボは種類によって飛翔行動範囲が決まっていて、都会の場合には、その範囲内に現生息地がなければやって来れないことになる。
また、水面が浮標植物に覆われていたり、樹木がかぶさって水面を隠していた場合は、トンボは水面を見つけられないが、これは「空中コリドー」を断った状態といえる。
けっこう近くにカエルが住んでいるのに、やって来ない、という場合もある。
これも道路や建造物などでコリドーが分断されている状況であり、側溝に蓋をするとか、水路にツル植物を垂らすとかの工夫でコリドーをつなぐと、あっさり来たりする。
これらは、知っているとプラスにできる例だが、逆もあり得る。
獣害が増加する一方の昨今。小さな水辺は獣の水場や餌場にもなり得、それは好ましい面ももちろんあるが、大型獣や外来の獣が現れるようになると問題になる。
場合によっては、そのビオトープをコリドーとして利用し外来の獣が生息域を拡大することもあるかも知れない。
しかし、周辺の緑地とつながる茂みを無くすとか、床下の空間をふさぐとか、実のなる植物を除去するとか、コリドーの概念を知っていれば、対処も可能なわけだ。
また、自分の小さなビオトープが、地域の大きなビオトープネットワークの一部と分かれば、自ずとやってはいけないこと、やっていいこと、も見えてくる。
生き物の道筋が見えてくれば、水系をまたいだ生物の移動が好ましくないことも分かるだろうし、外来植物や園芸種をビオトープ内で育てた場合、その種子などが周囲に散っていく道筋や影響もおぼろげながら見えるようになるわけだ。
俺がビオトープ造成の依頼を受けた時は、どんな相手でもどんな規模でも、まず最初に「現地調査」を提言する。状況が分からなければ、どんなビオトープを作ればいいか分からないからであり、周囲にどんな影響を与えるか分からないからである。
これは個人のプラ舟ビオトープでも同じで、まずは「楽しみながら、周囲の生き物を一緒に観察しましょう」とやる。
自然観察してみたら、家の前の水路にメダカがいることが分かって「作らんでもいいわ」となったこともあれば、最初は「何が何でもホタル飛ばす」と言っていた公民館が「湿原とカエル中心のビオトープ」になったこともあった。
『小さな湿地帯ビオトープ』という基本は変わらなくとも、周辺状況によっては「野生の近縁種が自生してるから、この園芸種は違法じゃないけどNG」と分かることもあるだろうし「屋上だけど、たぶんトンボがあそこから来るな」と予想がつくこともある。
冒頭の『海水ビオトープ』だが、それを領域外との生物の行き来や物質の循環を意識して、屋外に作ればいい、というわけではない。たとえば海岸や河口近くであるならば、もしかすると意味を持つかもしれないが、内陸部では、生き物の行き来はほぼないだろうし、雨水が入れば海水はどんどん薄まる。
人の手が加えられ、生物多様性が向上した『海水ビオトープ』と呼んでいいと思われるのは、某番組の「DASH海岸」くらいではないかと思うのだ。
今後、ビオトープが復権していくのか、それともこのまま衰退していくのか分からないが、全く違う存在には成り果てて欲しくないものである。




