バカの相手もしてられんけど
ちょっと前になるが、SNSでまためんどくさいリプが来た。
何? ツキノワグマを野生絶滅させるべき?
絶滅させても生態系に影響ないから?
アホか。
「ツキノワグマが絶滅した」ってことそのものが、まず生態系へのマイナスの影響だろうが。
『ツキノワグマが絶滅した九州では生態系に何も影響がない』?
いや何でそれ分かるの。
現在進行形かも知れんし、クマの糞に依存してたり、クマの冬眠穴にのみ依存してたりする何かがひっそりと絶滅してるかもしれんのに、その調査を誰もしてないのに、影響ないって何で分かるの。
その上、こいつ保全生態学者を税金泥棒呼ばわりしてる。
保全生態学者は、研究をしているわけであって活動家ではない。どうやったら保全できるか、科学的に生態系の謎を解かずして、何を基準に保全活動をするというのか。
税金泥棒なのは保全生態学者ではなく、保全生態学者の言うことを聞かずに、いまだにコイやシャケ稚魚の放流を幼稚園児にやらせて、資源保護どころか「自然保護」すらできると考えている、脳内お花畑の行政マンどもじゃねえか。(どっちもできねえけど)
そいつはどうも『生物学部を首席卒業した』過去の栄光を、ずっと鼻にかけてるようだが、そんなしょうもない腐った経歴に惑わされ、暴論を真に受ける素人がいたら非常に困る。
炎上目的だとしてもタチが悪すぎる。
まあ、そう言う俺も研究者でも何でもない、素人の範囲内だと自覚しちゃあいるが、一応、生物学部出身だし、卒研は動物生態学だったし、開講されてた生態学関連の授業はすべて履修したし、動物分類学も履修したので、こいつの暴論がアホだということくらいは分かる。
本当の専門家たちはまともに相手してないようだけど、やっぱ肝心なところで「生物多様性」って概念には穴があるから、この暴論を否定しきれていない。
ほんとめんどくさい。
めんどくさいし、SNSでケンカするのはバカバカしいから、ここに書くけど、価値観によってはこいつの暴論は、無知な連中に支持されてしまう可能性がある。
よって危険思想である、ということも含めて論じておきたい。
さて、まず「生物多様性」というのは科学的客観的事実ではなく、人間を中心とした場合の生態系のあり方の「価値観」のひとつである、ということを確認しておきたい。
いや、科学的客観的事実やろ、と言われる方も多いと思うが、主観が入ってくる余地がある以上、「価値観」であるとしか言えない。
概念をざっと簡単に説明しておくと、その中身は
①生態系の多様性
②種の多様性
③種内の遺伝的多様性の三つに大別される。
『①生態系の多様性』とは、生息環境の多様性のこと、つまり乾燥地、湿地、草地、森林など、様々な環境があれば、それぞれに適した生物が住み、種数が増える。またその生活ステージによって、違った生息環境を必要とする生物も生きていける。
『②種の多様性』はそのままで、出来るだけ多くの種が生息している環境が望ましいとする考え方。
『③遺伝的多様性」は、同じ種内でも遺伝的に均質でなく、より多様な遺伝形質を持っているものが生息しているのが望ましいということ。それにより、急激な環境変化があっても適応できる可能性が高まるし、遺伝的な病気が発現する確率も減るわけだ。
これが何で「科学でなく価値観」なのか。と問われれば、これらが『常に正』ではないから、である。
例えば、外来種問題。
ある外来種が放逐されて定着した場合、そのことで全体種数が減少しなければ、外来種のぶん一種増えたことになる。つまり、『種の多様性は増加』してしまう。
これは、決して外来種の放逐を肯定しているわけではないので、間違えないでいただきたい。
客観的に、また数値で評価した場合、矛盾が生じるようであるなら、それは科学とは言えないと言っているだけだ。
また、その外来種と近縁な在来種、あるいは別亜種や同種の地域変異個体群がもともといた場合も、交雑が起これば、『種内の遺伝的多様性は増加』してしまう。
『生態系の多様性』もそうで、たとえば砂漠に都市を建設した場合、都市周辺には日陰や高湿度、建造物の屋上、あるいは植栽といった新たな生息地が創出され『生態系の多様性が増加』してしまうわけだ。
これらが望ましい変化か? といえば言うまでもなくNOであるわけだが、『生物多様性』のみを錦の御旗にしていると、ちょっと齧ったような人に足元をすくわれかねないわけである。
こうしたことへの対策として、「在来種に悪影響を与えるような人為的改変はダメ」という、ひとつの基準もたしかにある。
ただ「在来種」って何だ?
そして「悪影響」って何?
つい最近、京都のミナミイシガメが天然記念物指定を解除されたようだ。これは、遺伝的によく調べたら、過去に人為的に大陸から持ち込まれたものであると分かったからだというが、そういう注目度でもない限り、目の前の生物が本当に在来種かどうかなんて、調べられることもない。
ギンブナを調べたら、キンギョの遺伝子が混ざっていたとか、マガモの中からアヒルの遺伝子を持った黄色いヒナが生まれたとか、実際にある話なのだ。
東日本のナマズは人為的な移入らしいとか、日本にいるクサガメは全部外来種だとか、少し前までは分からなかったことである。
九州地方のカササギ、長野県のハクビシン、沖縄のスッポンもまた、外来生物である。
だが、それが分かったのは、それを客観的に証明できる手法が確立されたからであって、それが無ければ在来種と外来種の区別はつかなかった。
『外来種による悪影響』もそうで、ある生物が増えてくれば、その影響として他の生物の捕食や、競合による圧迫は必ず起きる。それが外来種なら「悪影響」となり、在来種なら大して問題にはされない。
まあ、数年ごとに大発生するマイマイガやカゲロウの例もあり、その場を埋め尽くすほど増えたりすれば、さすがに問題にはなるが『根本的対策を』とはなりにくい。
そもそも論として「悪影響」の「悪」は価値観である。
「影響」は単なる現象、事実に過ぎず、それが悪かどうかは人が判断するものである。
だから「在来種への悪影響を与えるような人為的改変はダメ」という原則は、一見隙が無いようでいてその実「人間が判断した生物種群に対して、人間がマイナスだと判断した影響を与えるような人為的改変はダメ」という、なんともどうとでもとれる恣意的かつ主観的な基準なのだ。
勘違いしないで欲しいのは『だからこの原則がダメだ』と言っているのではないということだ。
これはこれでいい。
だが、こんな曖昧な原則を金科玉条だと思い込んで、そこで思考停止するな、と言っている。
そうでなければ「俺が問題ないと思ったからやった」「俺にとっては悪じゃないから大丈夫」「この程度なら影響ないと俺が判断した」などという、クソみたいな理由で、取り返しのつかない愚行が行われてしまうし、現に今、そうなりつつある。
チュウゴクオオサンショウウオのおそらく大規模、広範囲にわたるゲリラ放流による、オオサンショウウオの交雑問題。
日本産の希少タナゴ類やオヤニラミなどの、本来の自然分布域外へのゲリラ放流。
クマゼミの人為的移動による、分布域の北上。
断言してもいいが、どれもこれもやってる奴らは「正義」と信じて「善意から」やっている。仮に悪と認識していても「このくらいは生態系全体に影響はなく、問題ない」と思ってやっている。
冒頭の「ツキノワグマの野生絶滅を目指すバカ」も「自分たちくらい大丈夫と沖縄の生物を採って売っていたアホ生物屋」もこれらと同じ穴のムジナだ。
主観による「生物多様性の保全」の限界が露呈した、ともいえる現象だと思う。
じゃあ、どうすべきか。
物の分かった保全家の方たちはすでにやっている。
『自然環境の保護・生物多様性の保全は、自然のためではなく人間自身の生活基盤を、持続的に維持するためにやっていることだ』
と表明し、これを啓蒙していくことだと思う。
『人間の今の生活を、持続的に維持していくため』となると、あらゆる変化には慎重にならざるを得ない。つまり『現状の状態維持』が前提となる。
であるならば、自然環境に変化をもたらすどんな人為的な働きかけも慎重になるべき、ということくらいは、どんなアホでも分かるだろう。
少なくとも「これが身近にいたら楽しい」とか「これはキモいからいなくなって欲しい」とか、そういうごく個人的な感覚で行動を起こしてはいけないことくらいは分かるはずだ。
何をするにしても、たとえ良いことだと思っても、個人的な動きはしないこと。
これは、実は生物多様性保全において、もっとも重要なことだと思う。
自然環境における生物系の事象は、不可逆性で取り返しがつかず、しかも個人レベルの活動でやれてしまうことだからだ。
前述した、外来生物や国内外来種の広範囲への放流など、自家用車一台あれば、数年かければ一人でも出来てしまう。
たった一人のアホのせいで、すべてが失われることが、普通に起きうるわけである。
行政機関や企業が主体となる活動でも、動く前に、その影響の予測や検証をしてからやることが重要だ。そして、動いた後はその評価をし続けること。
「それってただの環境アセスメントじゃねえか」と言われるかもしれないが、そんなものは、大規模な開発工事の際にしか適用されていない。
これまで、魚類の放流の効果をちゃんと検証したか?
小さな溜池や湧き水埋め立ての影響を評価したか?
里山を放置した場合の影響を評価してれば、今のような獣害は起きなかったんじゃないのか?
もちろん、これもまた価値観つまりイデオロギーの一種だが、変な解釈が入る余地が少なく、あらゆる局面でフレキシブルな対応が可能となることが、「錦の御旗」である『生物多様性』とは違う。
ある局面では、在来種であろうとも駆除すべき事態があるだろうし、埋め立てや干拓、太陽光発電や風力発電などの開発行為も完全に否定されるべきものではない。
もちろん、影響評価のコストはかかるだろう。
だが、そのコストと、これまでないがしろにされてきた専門知識を持った人々に、仕事の場を与えることになること、生態系と生物多様性が維持されることで、食料供給や獣害、その他災害などのリスクが減ずること、景観の維持や観光収入を天秤にかけてみたらどうなのか。
変な手続きだらけの制度にしてはいけないが、手間がかからなければ、やる側としても悪い話ではないはずだ。
最近では、『ビジネスで生物多様性を』なんて掛け声も聞こえてくるが、何でもかんでもビジネス化しようとする連中は、きわめて浅い理解で、時には曲解ともいえる解釈で「こうしたら儲かる」を創り出す。
そういう連中は、形だけの環境保全や、SDG‘s、さらには偽科学といっていいようなものまで操って、目の前の儲けをむさぼろうとする。
あらゆる言い訳を駆使して正当化するヤツらと、絶対とは言い難い生物多様性という「価値観」でもって渡り合うのは困難なのだ。
真に生物多様性でビジネスをやる、というのは、『生物多様性に貢献する何かをやる』のではなく『何かをやる時に生物多様性を損ねないようにする』ものであるべきだ。
いらん場所への植林も、変な放流も、野生生物への給餌も、貢献どころか逆効果。放置した方がよほどマシな結果が出るだろう。
ところで、日本の生態系における、ツキノワグマ、ヒグマの重要な役割、このバカのおかげで気が付いた。
それは「人間と野生生物の境界線、関わり方のレベルを示す指標生物」だ。
この役割ができる生物は、本来は無数にいる。
だが、『境界線』に異常があったとしても、そいつらは地味にいなくなったり、地味によく見かけるようになったりするだけである。
中には、ちょっと臭かったり、地味に血を吸ってきたり、壁に張り付いていたりする奴らもいて、そういうのは多少気付くが、ほとんどの種は気付かないうちにいなくなっている。
だが、クマは違う。人との関係性、存在感が身体的恐怖と結びついているからだ。
シカ、イノシシあたりも生活圏にまでやって来て農作物を荒らしたり、生ゴミをあさったりするが、命が危ないレベルで、人間どもに『真剣』のスイッチを入れる生物ってのは、日本ではクマ(ツキノワグマ、ヒグマ)以外にいないのではないか。
実際、農業被害を額面換算した場合、クマの被害はイノシシ、シカに遠く及ばない。
地域によっては、カラスの方が大きいくらいだ。
クマが絶滅した福岡県の獣害状況を見てみたが、イノシシとシカが双璧である。
クマが野生絶滅した場合の問題点は、第一に「クマが野生絶滅したこと」第二に「人間が自然との距離を測るバロメータを一つ失うこと」だといえると思う。
もちろん、クマによって選択的に種子を散布していた植物の減少や、クマが始末していた大型哺乳類の死体の問題、クマに直接寄生していた生物の絶滅なども起きるかも知れないが、それは今は観測されていない。
顕著に目に見える問題というのは、上記の二つで、それだけでもクマを保護するには十分な理由だと思う。
これまで日本では「自然に親しもう」「自然と触れ合おう」などというスローガンが一般的だったように思うが、今後は「自然との境界をどうするか」「自然との距離の取り方を学ぼう」といったスローガンが必要になるのかも知れない。
そもそも、人間による影響をゼロになどできないし、人間の生活によって出てくる物質や熱量、地形や微気候に依存している生物も数多くいる。
どこからどこまでが自然で、どこからどこまでが人為であるとか、ある生物群が在来種であるから尊重すべきで₀、それら以外の外来種は尊重されるべきではないとか、それもまた価値観に過ぎないのだ。
貢献するとか、守るとか、あまつさえコントロールするとかおこがましい限り。
どう共生していくのか、どこまで尊重できるのか、それを研究し続けていくことこそ重要ではないのだろうか。
安易な道を選ぶべきではない。