表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/8

モモのこと


 モモが死んだ。

 モモはメスの雑種犬だった。

 肩の部分の脊椎に癌ができ、歩けなくなっていた。

 余命二カ月と診断されてからさらに一年と二カ月、頑張ってくれた。

 モモの遺骨は業者に預けたままだ。

 持ち帰る人もいるらしいが、俺にはその必要はない。モモはいつでも俺の中にいるし、なにより、必ず生まれ変わって帰ってくるのだから、その時自分の遺骨があってはおかしいだろう。

 心配なのは、モモが非常に方向音痴で、よく迷子になる犬だったことだ。

 待っていては、なかなか帰って来られないだろうから、迎えに行ってやらなくてはならないかもしれない。

 夢の中にでも、生まれ変わったことを知らせに来てくれるといいのだが。



 雑種犬を二匹、保護施設から引き取って来たのは、もう12年前のことになる。

 犬を飼おう、ということになった時。

 ペットショップで購入するのではなく、保護犬をもらって来る、ということについて、家族のだれも反対しなかった。

 べつに純血種が嫌いなわけでもなし、純血種を購入する人を非難する気もない。

 俺たち家族は、どんな犬に会えるか分からないことに、ワクワクしたい連中だったし、どうせ飼うなら、俺たちが飼わなければ不幸になるかもしれない犬を飼って幸せにしたい、と思っただけのことだ。

 だから、保護施設に行った時、生後二カ月ほどのメスの子犬が二匹出てきたことに、俺はひどく動揺した。

 選べない。

 どっちを選んでも、それは両方の命に責任を取らなくてはならないことだと感じたからだ。選んだ命を、その命が尽きるまで背負う責任。選ばなかった命がどうなろうと、その先まで背負う責任。その両方を飲み込んで、この先生きていく覚悟。

 だが、手が止まった俺に「二匹もらって帰ればいいじゃない。一匹も二匹も同じでしょ」と言ってくれたのは、妻だった。

 もともと別に生き物も犬も好きではない、そんな妻だが、物事の本質はちゃんと分かっている。そんな女性である。

 選ばなくていい、そのことにホッとし、妻に感謝したことを覚えている。

 だが、それは「今はまだ」選ばなくていいだけだということだと、その時の俺はまだ気づいていなかった。


 二匹のメスの子犬に俺たちは「サクラ」「モモ」と名付けた。

 絵にかいたような雑種犬。黒茶のサクラは活発で、白茶のモモはおとなしかった。

 しばらくは玄関先で飼ったが、二カ月もすると体もしっかりしてきて、外飼いをすることになった。鎖でつなぐとこんがらかってしまうため、庭先用の大きな木製ケージを購入。

 一間(1.8m)×二間(3.6m)。ケージというよりは、半分屋根と床が付いた柵である。

 最初のうちは、二匹ともよく遊び、よく寝て、よく食べた。

 だが、成犬用のフードに変えた頃、モモの食欲があまりなくなってきた。

 食い終わるまで見ていないと、ちゃんと食べない。放っておくとサクラがモモの分を食べてしまう。

 たまにぼーっとしていることもあるし、呼んでもすぐには来ない。外からケージに近づくと、逆に柵から離れて奥に引っ込んでしまう。

 体格もサクラより一回り小さかった。

 いつもお腹が瘦せていて、腰骨もろっ骨もさわれる。

 だが、便は良好だし吐くわけでもない。獣医師に見せても、太りすぎよりはいいってことで、そのまま数年が過ぎた。

 彼等の餌やりが億劫だと思ったのはこの頃だ。

 なにしろ、さっさと食い終わってしまうサクラは、虎視眈々とモモのエサ皿を狙い、モモはいくら待っても餌に手を付けないのだ。

 夜はまだしも、朝などは会社に遅れそうになる。食わないとなると、取り上げておかないとサクラが平らげてしまい、太ってしまう。

 放っておくと三日も四日も餌を食わないので、更に痩せてしまう。仕方なく、粉ミルクや煮干し粉をふりかけるなどして食欲をそそらせたり、小分けにしたり、手から与えたりと工夫して与えた。何故か床にばらまくと食べたので、そういうやり方もした。

 そうして迎えた、彼らが四歳の夏。

 深夜、犬小屋からけたたましい鳴き声が響いてきた。

 ただ事ではない、と家族全員が家を飛び出し、懐中電灯で照らすと、そこには横たわって痙攣するモモの姿があった。

 手足はピンと伸び、目をカッと見開いている。だらしなく舌を出した口元には、真っ白な泡が溜っている。

「おまえ、何をした!?」

 まるで瀕死の別の犬のように見えるモモ。俺は、サクラを怒鳴りつけた。

 傍でおろおろしているサクラを見て、モモを噛み殺したのか、と疑ってしまったのだ。

 だが、「いやこれ癲癇てんかんじゃない?」と言ったのは、驚いたことに中学生だった娘であった。

 どうも、そのような情報をSNSか何かで知っていたらしい。

 たしかに娘の言う通りであった。モモは十分ほどで気が付くと、何事もなかったかのように元の様子になったのであった。外傷はもちろんどこにも無い。

 俺は、怒鳴ってしまったサクラに、平謝りに謝ることになった。


 結局、週末に獣医師に診てもらうまでの間、モモは数回倒れ、同じような状態となった。

 急にこんなことになるとは、もしかすると脳に腫瘍でもできたのか、もしかすると長くないのか、と悲観的になったが、獣医師によれば、このくらいの歳で急に発症するのは珍しいことではないらしい。

 しかも、最近は薬が良くなってきて、症状を抑えることは可能だとか。

 獣医師が昔飼育していた犬も癲癇だったらしいが、服薬しつつ十四歳まで生きたらしい。

 だが、投薬は一生、毎日続けなくては発作を抑えることはできないのだとか。それからモモは、毎日朝晩、錠剤を飲み続けることになった。

 また、アレルギー症状も指摘され、おやつのジャーキーは禁止となった。

 一番アレルギーの可能性が低い、とうことで、サツマイモをスティック状にして菜種油で揚げたものを、妻が大量に作って冷凍しておき、与える際にはレンジで解凍してやった。


 服薬していれば発作は起きないのだが、困ったのは俺が出張に行く時や家族旅行の際である。モモは食事に錠剤を混ぜても薬を避けるし、粉末にしてかけると餌自体を食わない。

 喉の奥まで錠剤を押し込み、飲ませられるのは、家族で俺だけだったのだ。

 よって、出張はかなり遠方でも宿泊せずに日帰りにした。どうしても仕方なくて宿泊した時には、ずいぶん妻は苦労して、飲ませてくれたものだ。

 家族旅行の際には、普通のペットホテルには預けられず、主治医のやっている預かりサービスを利用するしかなかった。

 そんな感じで、モモは家族の中心になっていった。

 手のかかる末っ子。

 愛想もなく、賢そうでもなく、体が丈夫でもない。

 だけど、何故か一番気にされ、一番愛された。

 サクラをモモと呼び間違えることはあっても、その逆はまずなかったし、サクラもひがんだりせず、なにかとモモの世話を焼いている様子だった。

 このまま彼らが老犬になり、寿命でその生を終えるまで、ずっと幸せな時間が続いていくのだと思っていた。


 モモの左前足が、なんとなく調子が悪くなってきたのは、9歳になった頃だったと思う。

 痛そうというか、軽く麻痺しているというか、ちょっと引きずる感じ。

とはいえ、走れないだけであって、それ以外に支障はなさそうだった。俺は、癲癇の症状の一つか、もしくは見ていないときに捻挫でもしたのかと思っていた。

 だが、10歳になった頃、左前足の様子はさらにおかしくなり始めた。

 これまでは、注意しないと分からなかった引きずりが、誰にでもわかるようになってきた。走れないどころか、歩くのも遅い。相変わらず痛そうではないが、どうもこれは放っておいて治る病気ではないらしい。

 そこで、主治医に相談したところ、レントゲン程度では正確な診断ができないとのこと。京都に高度医療の可能な病院があり、そこでMRI診断してもらうことを勧められた。

 モモにとって京都までドライブなど、初めてのことだ。

 車に酔いやすい犬でもあったし、その頃は、四肢の踏ん張りがきかなくなっていたこともあって、ケージに滑り止めを敷き、慎重に運転して連れて行ったことを覚えている。

 そこで受けた診断が、脊椎の癌であったのだ。

 まさかと思った。ただでさえ、癲癇などという辛い病気を持って生まれたモモが、なんでまた、さらにこんな病気にかからなくてはならないのか。

 その時の診断が、余命二カ月。

 数十万円支払って手術したとしても、予後不良の場合が多く、再発の可能性も高く、やはり余命は二か月。

 それならば。

 ただ苦しませるだけかもしれないならば、手術を受けさせるという選択肢は無くすしかないと思った。

 安楽死、という選択肢が浮かばないではなかったが、二カ月であるなら、いいと思った。

 長引かせてしまった苦しみは責任が取れないが、出来る限りのことをしてやろう、二か月のことであれば、その間が幸せであるよう、精一杯世話をしてやろうと。


 それから、一か月後。モモは、ほぼ歩けなくなった。

 それでも、散歩には行きたがるので、犬用の乳母車を買った。

 最初の頃は、モモは乳母車の上に仁王立ちしていたが、そのうち後ろ足が動かなくなった。自力で立てなくなり、寝転んだ状態でも毎日二回散歩に行った。

 食欲も落ち始めた。皮膚がたるみ、明らかな脱水状態。水が満足に飲めていないのだ。

 その時に見つけたのが、ペースト状のおやつフード。

 喜んで舐めた時にはうれしくて、メーカーに感謝のメールを送ったほどだ。

 メーカーからも返信が届いたが、まさかそれから一年も生き延びたとは、メーカーの担当も思いもしないだろう。

 メーカーさんには申し訳なかったが、ペースト状なら食べる、と分かれば、なにも高価なペーストを買う必要はない。栄養バランスのことも考えれば、普通のドライフードをペースト状にした方がいい。

 電動ミルで粉々にし、犬用ミルクで練る。それでも足りない水分は、犬用ミルクを注射器で与える。

 ただ、もともと食が細いので、口元に持って行ったところで食べはしない。口を開けて素手で口内に塗り付けるようにしてやると飲み込むのだ。

 この給餌パターンが確立できたのが、延命できた大きな理由だろうと思う。

 厄介だったのは、何故か腹の調子が常に悪い状態となったことだった。

 肌寒くなってきたので、小屋の中に藁や敷布を持ち込んでみたが、下痢便で汚してしまうため、毎日交換した。散歩中にも漏らすことが多く、乳母車を丸洗いしたことは一度や二度ではない。

 だが、この問題は整腸剤を処方してもらうことで、なんとかクリアできた。

 便の状態が良くなり、規則的になると、世話は格段に楽になった。

 だが、そのうち、もう一つの問題が生じ始めた。

 褥瘡、すなわち「床ずれ」である。

 その頃には、もはや寝返りすら打てなくなっていたモモだ。板の上に藁を敷いただけでは、いつも固い床に当たる肩と腰骨の部分が、床ずれで皮膚が壊死し、出血し始めたのだ。

 気づいた時にはかなりひどい状態で、獣医で広範囲を毛刈りしてもらい、抗生物質と手当のガーゼや包帯、湿潤保全のための樹脂テープなどを購入。

 特に腰の褥瘡部分は尿で汚れるので、これの交換が一日三回。朝昼晩と三十分ずつくらいかけて行った。

 だが、板の上では褥瘡の回復は見込めない。

 自宅の勝手口には、ビンや缶ゴミ、生ごみ処理機の置き場が三和土になっている場所があるのだが、ここをすべて空け、モモの寝所にした。

 ペット用ベッドを用意し、ドーナツ状のビーズクッション(人間用)で患部に重さがかからないようにした。

 だが、寝返りを打てないというのは恐ろしいことで、患部は治り始めたものの、今度はビーズクッションに触れ続けている部分が、ドーナツ状に褥瘡になってきた。

 獣医師は、左側と右側、同じくらいの時間になるよう裏返してやってくれという。そのこと自体は容易だが、右側が下で態勢が慣れてしまったモモは、左側を下にすると首も上げられず、前足も動かせず、悲しげに鳴くのである。

 これを解消するには、もう抱っこしてやるしかなく、朝昼晩の包帯交換とエサをやった後の三十分ずつは、腕の中に抱っこしてやり、重量を分散してやった。

 褥瘡が完全に治った時、気が付くと余命先刻から四カ月が過ぎていた。

 その頃、五キロ代まで落ちていた体重は、7キロ台に回復。もう少しで8キロに達しようとする勢いで、一向に死ぬ様子はなかった。

 このままでも構わないから、いつまででも生きていて欲しい、なんなら奇跡が起きて歩けるようになってくれないか、そんな風に思っていた。

 だが、その頃から、尿の色がおかしくなり始める。

 尿が濁っているな、と思ったら、そのうちゼリー状のものが混じり出し、陰部には血が滲むようになった。膀胱炎である。

 気張ることが出来ず、垂れ流しであるせいで、尿意を感じにくいのであろう。

 そのうち血尿も出始めた。

 そして、俺の日課に餌やりと褥瘡の手当と抱っこ以外に、下腹部を押して尿を出させる、というのが加わった。

 最初は膀胱が破裂しないかと心配で難しかったが、慣れてくると尿の溜まり具合や押し方も分かり、膀胱炎は改善した。

 この他にも、歩かないことによって爪が伸びすぎたり、いつも下にしている耳の中が不潔になり、感染症を引き起こしたり、夜のうちにわずかに動く手足でベッドからずり落ちてしまったり、なにかとトラブルはあったが、モモは冬を乗り越え、春を迎え、一番苦手な夏をも越えて、また年を越そうとしていた。

 この頃には、俺もモモの世話が習慣となり、かかる時間も短くなってきた。まあ、手当の時間は短くなっても、抱っこする時間は長くなったから、世話時間は変わらなかったが。

 ドライフードをミルで挽くのは面倒だったが、おいしそうに食べてくれる間は、モモは死なない、という確信めいたものがあった。

 だが、その一方で、癌の進行が止まっていないことは、ひしひしと感じていた。

 手足の動かせない範囲が増え、首の起こせる角度も、ほんの少しずつだが少なくなっていく。左目の視線が定まらなくなり、呼んでもこちらを向くことが少なくなった。

 そんなある日の朝。

 モモのベッドに大量の出血を見て、俺は驚いた。

 出血は右前脚。いつも口元を乗せていた部分を、なぜか自分で強く嚙んだらしく、深い穴が開いている。俺は仕事を休んで、すぐ獣医に連れて行った。

 けが自体は大した大きさではないが、出血量が多い。8キロの体重で数十CCも失えば、どうなるのか。

 それでも、朝、昼はちゃんと餌を食べ、大きく様子が変わらなかったことで、安心していたのだが……

 やはり容体はよくなかったのだ。モモはその夜、こうなってから初めて餌を食べなかった。

 朝の様子を見てから、もう一度獣医に連れていこうと思っていたのだが、翌朝、モモは息を引き取っていた。抱き上げると、まだ体は柔らかく、暖かい。

 まだ、モモの心はそこにいる。そう思ったから、何度もモモに感謝を伝え、何度も「早く生まれ変わって戻っておいで」と伝えた。

 今度は、癲癇もなく、癌にもならない丈夫な健康な体で。

 姿は犬でも、猫でも、人でもいい。必ず俺が見つけてやるからと。

 モモの顔を整えてやろうとしたのだが、見開いた目だけはどうしても閉じさせられなかった。穏やかな死に顔ではあったのだが。

 いったん出勤した俺は、ペット葬儀社に電話した。

「ワンちゃんのお名前は?」

 そう聞かれ「モモ」の二文字がどうしても言えずに、嗚咽した。

 泣かない。と決めていたのだが。

 それから考えた。

 なんで、モモは自分の前足を嚙んだのだろう?

 完全に麻痺した脚に、痛みを感じなかったせいか?

 でも、何でこのタイミングで? もしかすると……自殺ではなかったのか。

 衰えていく体、自由にならない体のまま生きていくことに疲れたのか?

 それとも、表情には出さないだけで、痛みや苦しみがずっとあったのだろうか?

 そこから逃れようとしたのだとすると、俺には詫びのしようもない。

 いや、まさかとは思うが、俺にこれ以上迷惑をかけられない、とでも、思ったのではなかろうか。

 だったら、それはモモの勘違いだ。

 モモはずっと我が家の中心だった。モモがいるから、楽しかった。モモのためにと言いながら、俺はずっとモモに癒されていたのだ。世話をすることで、モモと話すことで、モモが快適そうにすることで、俺は間違いなく癒されていた。

 でなければ、なんで毎日休みなく朝昼晩、一時間ずつ世話をしたりするものか。


 モモが死んで一か月。

 まだ、モモの気配を感じることがある。

 モモが寝ていたベッドの場所で。

 サクラに餌をやる時、小屋の奥の暗がりに。

 あるいは散歩中のサクラの隣に。

 あの優しい視線とぬくもりという実感をともなって、モモはまだ、そこにいるように感じるのだ。

 だが、あわてて成仏しろ、生まれ変われとは、言わないようにしている。

 父が亡くなった時のこと。

 四十九日の前に一度だけ夢に出てきたことがあって、その時、生前持ち歩いていた酸素ボンベを付けていなかったのだ。

 それでも息苦しそうに縁石に座り込むから、何故かと聞いたら、「死ぬと、病気は少しずつ治るみたいなんだが、まだちょっと息苦しいんだ。たぶん、四十九日で治るんだろう」と言っていたのだ。

 であるならば、四十九日の間くらいは、黙ってモモの気配を感じようと思うのだ。

 そして、本当に健康になってから、生まれ変わるといい。

 その頃には2月になる。犬の妊娠期間は二カ月くらい。産まれて二~四カ月になれば、つまり、今年の初夏から夏ごろには、生まれ変わったモモに会えるのではないか。

 そう願っているのである。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ