386 知らない世界で唯一人
聖痕の聖女 リターニア・グレイス
激しい頭痛に見舞われながら、周囲を見回す。
霞む視界に映るのは、深緑の草原と、彼方に見える紺碧の水面。
そこまで認識して、耐え切れずにその場に倒れ伏す。
「頭が割れそう・・・今じゃ、無作為転移程度でもこのザマなのね・・・」
ゆっくりと流れていく雲を眺めながら、頭痛と気怠さが治まるのを待つ。
素肌を擽る風がこそばゆいけれど、何もかもを失った私にはどうする術も無い。
私が眠っていたあの場所、そこに人が立ち入る事が出来たのは邪神が覚醒したからに他ならない。
だけど、それでもあの島は世界の海を揺蕩う揺籠であり、そう易々とは見つけられない。
恐らく、マンベルの巫女に神託が降ったのだろう・・・全く、余計な事を。
しかも、明らかに私に敵意を持つ輩まで紛れ込んでいると来たら尚の事。
あの双子やマンベルの遣いは気付いてなかったのだろうけど、まぁそもそもあの敵意も私にしか向けていなかったのだし、仕方が無いだろう・・・けれど、
「お陰でまたこんな事になっちゃった・・・ホント、最悪ね」
彼らの言葉を信じるなら今から300年前、私にとっては1年にも満たない過去だけど、フェオールでの儀式から逃げ出し、世界を放浪した。
あの時は明確な目的もあったし、何よりも己の存在が世界にどれだけの影響を及ぼすのかも理解していた・・・いえ、本質的には全く違う意味ではあったのだけどね。
だけど、今は違う。
今の私には何も無い。
魔王だとか邪神だとか、或いは聖女という呼び名も、もう今の私には残っていない。
その証拠に、ここに転移した直後に私に残されていた聖痕の残滓は消え去った。
唯一、胸にのみ邪神との繋がりを示す聖痕は残っている・・・けれど、それはもう私の意思に反応しなくなっている。
ただ、邪神の所有物である事を嫌でも見せつけるだけの、ただの刻印に過ぎない。
幸いと言うべきか、私と邪神の魂が分たれた事で、この身で得た膨大な魔力自体は残されている。
果たしてそれがこの時代の人々とどれ程の差があるかは分からないけれど、どの道以前のような無茶はもう出来ない。
いえ、例え無茶をして魔力を使い果たしたとしても、死ぬ事だけはないだろうけど・・・この胸の聖痕が残っている限りは。
勿論、疑問はある。
私と邪神は完全に分たれはしたけれど、聖痕という繋がりだけは残っている。
ましてや、これは向こうの所有物であり、何なら相手は神だ、聖痕を足掛かりに私を探知する事も、干渉する事も出来るはず・・・でも事実、今に至るまでそんな様子は微塵も無い。
もうあちらにとって私は不要でしか無いのか、或いは捨て置いても問題無いと相手にされていないのか・・・どちらにしても、もう私は世界に何の影響力も無いし、どうにかしようなんて気も無い。
そう、結局結論は同じなのだ。
「世界も邪神も、私にはもう興味無い・・・私には関係無い」
どれ程の時間、そうしていただろうか。
ふと、遠くから近付く複数の足音が耳に届く。
少し様子を窺っていたけど、足音は明らかに真っ直ぐこちらに向かってきている。
距離が縮まるにつれ、明確に感じる敵意と、それ以上の下卑た何か・・・聖痕を失ったというのに、邪神との繋がりが残っているせいか、そういう負の感情だけは以前よりも敏感に捉えられるようになっていて嫌気が差す。
そうこうしている内に、いよいよ足音は間近にまで迫っていた。
身を起こし、一応見られたくない部分を腕や手で隠す・・・うーん、余計に煽情的な気がするけど、何も無いのだからどうしようもない。
「おいおい、マジで裸の女じゃねえか」
「な?言っただろ?」
「しかも相当な上玉・・・楽しめそうだぜ」
数は3、見てくれからして野党の類だとは思うけど、装飾の一部に同じような意匠があるから、何かしらの犯罪組織とかの可能性もありそうだ。
「何か御用ですか?」
とりあえず様子を見る為に、少ししおらしい口調で話しておく。
「いやいや、お嬢さんがこんな所に1人で、しかも裸で居ると聞いてなぁ。俺達は親切だからよ、お世話してやろうと思って来たんだよ」
この中でのリーダーらしき男がニヤケ面を隠そうともせずにそう言ってくる・・・まぁ、今回ばかりは私にも非が無くもないから仕方ないけど。
「まぁ、それはそれは。あまりにも気持ちが良い風でしたので、思わず肌で感じていたんです。すぐに帰りますので、ご心配無く」
何処かズレた返事を返し、男達から距離を取りながらそこから離れようとし・・・
「おっと、ここらは危ないぜ?俺達がエスコートしてやるよ」
「そうそう、優しくしてやるぜ」
「何なら、もう家に帰りたく無くなるかもな?」
案の定、取り囲まれる。
ジロジロと無遠慮に人の体を舐め回すように見ていて中々に不快だけど、まぁ今の私でもこの程度・・・
「なぁ、聖痕の聖女サマよぉ?」
咄嗟に右手に魔力を集めようとし、それよりも先に動いていた背後の男に口元を何かで覆われる。
何か粉のようなものを僅かに吸ってしまい、だけどそれが致命的だった。
急激に意識が遠退き、体が痺れて動かなくなる。
薄れゆく意識の中、最後に聞こえた言葉だけがやけにハッキリと聞き取れた。
「情報通りだな。ヤツには後で礼をするとして、さっさと連れてくぞ」




