233 迫り来る悪意
広くは無い宿の部屋で、女と睨み合う。
突然の凶行、だけど、それ以上に彼女の様子に戸惑いしか抱けない。
さっきまで会話していた時と何ら変わらない表情で、私を殴り倒そうとしてきた彼女。
まだ名前すら聞いていないのに、道中の会話で少しは打ち解けたつもりだった。
けど、何がどうしてか、こうして敵対する状況になっている。
何よりも、彼女の状態が異常さを物語っていて、余計に混乱を招いているのだ。
何処か間の抜けた、のんびりとした笑みを浮かべたまま、手に持った棍棒を構える姿は、悪い夢の様な光景だ。
そして、さっき口走った事もまた、気掛かりな点だ。
「、、、ラウの下に、ですって?」
「あ、いけませんよ。ちゃんと殿下って呼ばないと。あっ、貴女は旦那様か、それよりご主人様の方が良いのかな?」
悪い冗談、では無さそうだ。
少なくとも、彼女は本気でそう考えているのだろう。
確かに、私はアイツに捕まっていたけど、少なくとも妻として娶られる話はまだ公にはされていないはず。
なら、何故彼女はその事を知っているかの様に話している?
、、、一つだけ、思い当たる節はある。
最も最悪な考えだし、到底成し得ない事ではあるけど、既に前例は見ている。
「、、、貴女、記憶を弄られたわね」
「えぇー!そんな事ありませんよ!私は私です!そして、貴女を殿下の下に連れて行かないといけないんです!」
そう言うや否や、またしても棍棒を振りかざして飛び掛かってくる。
それを躱して、仕方なく軽い雷撃を放って意識を刈り取り、、、
「ぁ、、、ダめ、、、デすよぉ?こイツが、コワれテもいイのか?」
不気味な人形のように、不自然な動きと口調で振り返りざまに棍棒が振るわれる。
体を反らしてそれを躱し、意を決して窓を破って外に飛び出す。
二階の高さから風を纏って飛び降り、雨が降り始めた地面に着地する。
その背後で、ベシャリと何かが落ちる音。
振り返ると、女が地面に倒れている姿があった。
その下に、血が流れていて、何が起きたのかを理解する。
「何て事、、、」
まさか、体勢すら整えず、窓から飛んだのか、、、
あれではもう助からない、そう思ったその時だった。
「アアア、、、デンカ、ノ、、、モトヘ、、、」
女が呻きながら立ち上がる。
首が不自然な方に折れ曲がり、目からは生気が失われているのに、それでもまだ動いている!
だけど、事態はそれで終わらなかった。
彼女の呻きを合図に、周りの建物から次々に人が出てくる。
その手に、手近にあった物を持ち、ジリジリと私を取り囲む町の人々。
その中には、ここまで同行していた双血の楔の奴らも混ざっていて、町人と同じ様に私を包囲していた。
何が起きているのか分からないけど、生気の失われた彼等の顔を見て、この町はもう駄目だという事だけは悟ってしまう。
そして、この異常事態が誰の手によって引き起こされているのかも、、、
「サァ、デンカノモトヘ、、、」
彼等が、口々にその言葉を放つ。
いや、それはもう意味のあるものではない。
ただ、それだけを音にする物に、彼等はされてしまった。
「クソ野郎、ここまでするなんて、、、!」
口汚くラウを罵り、だけど今は目の前に集中する。
どの道、彼等をこのままにはしておけない。
右目の聖痕を使い、彼等の状態を確認する、、、けど、すぐにやめる。
ほんの一瞬見ただけで、彼等がもうどうしようもない状態だと分かってしまった。
何をどうしてこんな風にされたのかは分からないけれど、既に手遅れだ。
胸の聖痕に魔力を流し、解き放つ。
せめて苦しまない様に、聖痕の力で静かな終わりを与える、、、私に出来るのはそれだけだから。
雨が強まる。
私以外、誰も動かなくなった町の中で、その光景を目に焼き付ける。
何か、弔いでもするべきかと考えたけど、今回はウルギスの村とは規模が違う。
しかも、建物は全て無傷で、何なら住人も他の人々も、一人を除いて怪我すら負ってない。
「、、、ただの自己満足だけど、せめて貴女だけでもね」
その、ただ一人の負傷者、私と共にここへ来た双血の楔の彼女を町外れに埋葬する。
町の方を振り返り、沈黙に沈んだ景色をもう一度心に刻み込む。
そして、奥底から湧き上がる怒りを今は鎮め、駆け出す。
振り返りはしない。
それよりも、大橋へ向かった連中の状況を確認するのが先決だ。
どこまでラウの手が及んでいるのか分からないけれど、あの記憶を好き勝手に書き換える能力は危険過ぎる。
或いは、ヴァネス達もリアメノに関する部分だけでなく、他にも何かされている可能性もあるのだ。
もしもそうだとしたら、、、いや、今は考える暇は無い。
身体強化を掛け、川沿いを駆けていく。
大橋に辿り着く。
だけど、その光景に私は雨に打たれたまま立ち尽くした。
大橋が崩落している。
根本を残して、架かっていた筈の橋が崩れ落ちていた。
残骸が川の中に飛び散り、火の手も上がっている。
陸地では、その瞬間を見たのだろう、多くの人々が顔を覆い、或いは空を仰ぎ見ている。
その中に、ヴァネス達の姿は無かった。