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「…えっと、それで…なんのためにマルガレーテはここに?」
お互いが少しずつクールダウンしてハグしている状況がちょっと照れくさくなってきたタイミングで、少しだけ体を離してマルガレーテに尋ねる。
まさか、事情を聞くためだけにこんな深夜にこんな場所にやってきたとは思えない。なにか大事な伝言とか…そういうのがあるのではないだろうか。
「…ああ、忘れるところだったわ」
マルガレーテはぐいっと私の身体をおしやり、彼女の背中に回された両手をべりっと剥がすと、そのまま私の両手の手首をがっしりと掴んだ。
「帰るわよ、村に」
…ん?
「…ん?」
「帰るって言ってるのよ。村に」
「あ、あぁ…はい…急だね…。近いうちに村に行くよ…じゃあ、またね…」
「あんたもに決まってるでしょうが!!!!」
バイバイと緩く振っていた手をパチンと軽く叩かれ、「すみません!」と思わず両肩がびくっと跳ねあがる。
「え、いや、でも…そんな唐突に…」
「別に村に戻ってそのままずっと村にいろって話じゃないわ。とりあえず、いったん村に戻ってあんたの家族とか村のやつらとかを安心させなさいって言ってるの」
「え?ああ?ああ…。いや、でも…」
いや、確かにきっとそれはするべきことなんだけど…でも…
「でもってなによ。メイ、あなたみんながどれだけ心配しているかわかっているの?あなたのお母さまは本当に毎日毎日泣いてるし、お父さまはもう頭がおかしくなっちゃったみたいにずっと働きっぱなし。ヨハンはお菓子の家に乗り込むとか言い出してるわよ」
「えっ!」
「もちろん私はちゃんと黙ってたわ。あなたがお菓子の家にいるらしいってことは。約束したもの」
「だったらなんで…?」
「…ハンスが」
…まさか、
「ハンスが、あなたと会ったっていうのよ。森の…お菓子の家の近くで」
やっぱりそうだ。よく考えてみれば…いや、よく考えなくても、彼が私と森で会ったということを話さないわけがない。だって私は口止めすることすらせずに、ただただあの場から逃げ出した。説明するという義務を放棄するために。
「それで…ヨハンがあなたはお菓子の魔術師に攫われたんじゃないかって。だから、ヨハンは…」
…まずい。大変まずい。
当然ながら、私は攫われてはいないし、むしろ搾取と言う名の害を加えられているのはガトーの方なのに。
でも確かに、そう誤解されてもおかしくはないかもしれない。だって、彼は悪役なのだから。無条件の悪で、無条件に疑われる存在なのだから。
私は、そんな彼の立場にたしかに心を痛めていたはずなのに、一体なにをしているのだろう。彼を利用するだけ利用して、自分勝手な逃げのせいで彼の立場をさらに苦しいものにしようとしている。
ヨハン兄さんはやるといえばやるし、集めようと思えばいくらでも人を集められるだろう。でも、ガトーは魔術師だ。強大な力を持っているし、人間相手であればある程度の人数であればどうとでもなるかもしれない。
だからもし、ヨハン兄さんが実際にこの家に乗り込んで来たら…どうなってしまうのかは正直わからない。ただ、お互いにどうしようもないほど傷つくことは必定だ。その時になって私が止めても、きっと誰も話なんか聞いちゃくれない。ガトーが善良だと私がいくら訴えてもヨハン兄さんは洗脳されてるとしか受け止めないだろうし、ガトーだって自分の生活を破壊しようとするものたちを許しはしないだろう。結局、人間は自分が信じたいものしか信じないし、聞こうとしない。特に、憎しみや怒りなどの強い負の感情に染まった人間は。
「…正直、私はあんたの正気を疑ってる。…でも、この前あんたが言ってたことが本当で…あんたがお菓子の魔術師のことを少しでも大事に思ってるなら、私との約束を抜きにしても今すぐ一度村に戻って来るべきよ。ヨハン、本当に明日にでも飛び出していきそうなんだから」
…そうだ。その通りだ。
ガトーにお礼もまだ言えていない。でも、それは一度村に戻ってその後しばらくしてからでもいいだろう。お礼も大事だが、ヨハン兄さんがお菓子の家に乗り込んでくることを防ぐ方が大事だ。
甘えた私は、明日お礼をいって明日の夜…なんて思ってしまうけれど、それこそ明日乗り込んで来たらどうしようもないし、時間を置けば間違いなく私の覚悟は鈍る。だったら今、マルガレーテの手をとるべきなのではないだろうか。もともと何も持っていない状態でここに来たから、生活に必要なものはちゃんと村の家にもあるし、ここから持っていく必要があるものはほぼない。本当に、今すぐにだって出られる。
「…私、」
勝手にいなくなったら、ガトーはきっと怒るだろう。今度こそ本当に愛想をつかされるかもしれない。そんなのは嫌だ。
でも、それを恐れて、私が原因で引き起こされるかもしれない悪いことをただ黙って見つめているのは…ダメだ。ガトーとヨハン兄さんが傷つくところなんて見たくない。ガトーからの恩になにかを返すことはできなくても、せめて仇で返したくないのだ。
だから、変に時間を置いて決意が鈍る前に、
「私、帰る…」
私は、黙って差し出されたマルガレーテの小さな手を取った。