6
次の日は、その日の夜に行われる夜会に向けての準備に追われた。
茶色のウィッグを被り、化粧を変えるだけで、随分印象が変わる。
これならニースと顔を合わせたとしても、向こうにはマリアンだとわからないかもしれない。
王太子の婚約者であり、公爵令嬢であるミーナリアには、メイドが何人も付き添っている。だからその中に紛れ込んでしまえば、より安心だ。
「ああ、準備ができたようだね」
先に支度を整えてミーナリアを待っていると、煌びやかに正装したリオが通りかかった。
相変わらず兄妹揃って、眩しいほどの美貌である。
彼はメイド服を着て正装したマリアンを見ると、目を細めた。
「そうやってシンプルな服装をしていると、かえって美しさが際立つ。
貴族の中には、メイドになら何をしてもいいと思っている愚か者がいる。気を付けたほうがいいな」
「……え? あの……」
昨日のニースがどんな様子だったのか。それを聞こうと思っていたマリアンは、思いがけないリオの言葉に動揺してしまう。
(う、美しいって言った? 聞き間違いかしら?)
それとも、社交辞令なのか。
そっと彼の様子を伺うと、リオは何から思案したあと、懐から何かを取り出した。
「これを身に付けておくといい。変な男に絡まれたら、これを見せろ」
そう言って手渡されたのは、サザリア公爵家の紋章が刻まれた指輪だった。
「王太子以外なら、効き目があるはずだ」
「ええと……」
さすがに公爵家の紋章を預かるわけにはいかない。だから断るべきかと思ったが、今日の夜会は若い貴族ばかりの交流会のようなもので、普段は王城に上がることのない、爵位があまり高くない者も参加している。
そういう人達の中にはリオが言っていたように、身分が下の者には強く出る者もいるのだ。
余計な騒動を引き起こして目立ってしまうよりは、有り難く借りた方がいいのかもしれない。
「すみません。お借りします」
そう言うと、リオは満足そうに笑った。
「気を付けて行くように。何かあったら、すぐに俺かミーナに言ってほしい」
「ありがとうございます」
お礼を言うと、リオは会場で会おう、と言って立ち去っていく。
(……ずっと、ミーナ様に言われたからだと思っていたけど)
リオもちゃんと、マリアンのことを案じて、そのために動いてくれているのかもしれない。
「ごめんなさい、マリアン。待たせてしまって」
リオの後ろ姿を見送っていると、身支度を終えたミーナリアがやってきた。
(美人が着飾ると、迫力が増すわね)
呑気にそんなことを考えていたマリアンだったが、ミーナリアの方は、目ざとくその手の中にある指輪を見つけたようだ。
「マリアン、それって」
「リオ様が貸してくださいました。メイド姿なので、変な男に絡まれたら使うようにと」
「……そうね。持っていた方がいいわ。今日は、少し騒がしくなるだろうから」
ミーナリアはそう言ったあと、ふと意味深に笑った。
「小説のような恋って、案外身近にあるのかもしれないわね」
ミーナリアとともに公爵家の馬車に乗り込み、王城に向かう。
彼女のエスコートは本来、婚約者である王太子だが、今夜の夜会は政務で欠席するらしい。だから兄のリオが、エスコート役を務めるようだ。
「リオ様は、ご自身の婚約者をエスコートなさらなくても大丈夫なのですか?」
何気なく尋ねると、ミーナリアは憂い顔で、深い溜息をついた。
「それがね、お兄様にはまだ婚約者がいないのよ……」
「え? 本当ですか?」
驚いて思わず聞き返してしまう。
リオは公爵家の嫡男で、いずれはサザリア公爵家を継ぐ身だ。まさか婚約者がいないとは思わなかった。
「私の方が先に婚約が決まってしまったので、お父様も頭を悩ませていらっしゃるわ。無理に決めても、なぜか数日後には、向こうから辞退してしまうのよ」
リオが手を回しているのは明確だが、証拠をまったく残していないので、サザリア公爵もどうにもできないようだ。
「私は王家に嫁ぐし、もしお兄様が結婚相手を連れてきたら、それがどんな女性でも、お父様は歓迎するでしょうね……」
サザリア公爵も、なかなか苦労が多いようだ。
「あ、お兄様が預けた指輪だけど」
馬車がそろそろ王城に到着する頃、ミーナリアは思いついたようにそう言った。
「トラブルがあってからだと遅いから、最初から指に嵌めておいたほうがいいわ。それに後から出すと、借りてきたことがすぐにわかってしまうから」
「そうですね。そうします」
魔除けの指輪を嵌めると、ミーナリアは満足そうに笑った。
「さあ、行きましょう。マリアンを裏切ったあの人を、ちゃんと追い詰めてやるからね」
王城でリオと合流し、彼にエスコートされて、ミーナリアは会場に向かって行く。
それを見送ったマリアンは、他のメイド達と一緒に控え室に向かう。
会場の中を直接見ることはできないが、声はよく聞こえる。
だからニースと顔を合わせることなく、事の次第を見届けることができるだろう。
ファーストダンスが終わるまで、ミーナリアは動かないだろう。
そう思ったマリアンは、控え室で寛ぐことにした。
やはり若い貴族ばかりなので、会場はどことなく浮ついた雰囲気だった。
それは控え室も同じのようで、他家のメイドと情報交換をする者もいれば、何度も顔を合わせているうちに親しくなった者もいるようで、楽しくおしゃべりをしている者もいる。
そしてリオが危惧していたように、夜会に参加している貴族の中には、控え室に顔を出して、メイドに声をかける者もいた。
メイド達は慣れているらしくうまく交わしているが、やはり少し困っているようだ。
これからニースを追い詰めるために、ミーナリアが置き手紙を披露してくれるのだから、問題など起こさないでほしい。
そんなことを思って溜息をつくと、ふいに背後から腕を掴まれた。
「きゃっ」
驚いて、思わず声を上げてしまう。
振り返ると、貴族の子息であろう男性が、にやついた顔をしてマリアンの腕を掴んでいた。
「ふん、メイドにしてはなかなかだな。俺が相手をしてやろうか」
「……離してください」
そう言いながら、男の手を振り払う。
まさかリオが言っていた通りになるとは思わなかったが、こっちには切り札がある。
その男の顔に、見覚えはなかった。
あまり頻繁に王城に来られるような者ではないのだろう。
そう言う者に限って、メイドに手を出したり、従者に絡んだりするものだと、ミーナリア付きのメイドが教えてくれた。
どうやらそれは本当だったようだ。
「何だと?」
メイドだと思い込んでいるマリアンに手を振り払われた男は、声を荒げた。けれど、その指に公爵家の紋章がある指輪が嵌められていることに気が付いて、目を見開いた。
「まさか、それは……」
男の顔が真っ青になっていくのを見て、マリアンの方が戸惑う。
(これって、サザリア公爵家の関係者だっていう証明だと思っていたけれど……)
違う意味があるのだろうか。
偉そうに振る舞っていた男が、急に真っ青になって震えだしたのを見て、周囲にも騒めきが広がっている。
だが、マリアンも彼らと同じように戸惑っていた。
「あの……」
「ひっ!」
とにかく事情を聞こうと、マリアンの腕を掴んだ男に声をかけた。
だが、男は怯えるように後退りして、あっという間に逃げ去ってしまった。
「……」
思わず呆然と、その後ろ姿を見送る。
誰かに聞こうかと振り向いたとき、夜会の会場となっているホールからミーナリアの声がした。
「ニース。あなたに聞きたいことがあるの」
凛とした声が、ホール中に響き渡る。
とうとう始まったようだ。
マリアンは控え室からその声に耳を傾けた。