5 婚約者ニース視点
ディーダロイド侯爵家の次男ニースには、婚約者がいた。
ドリータ伯爵家の令嬢で、マリアンという。
黒髪に緑色の瞳をした、なかなか美しい女性だ。
別に彼女に不満があるわけではない。
ドリータ家は爵位こそ伯爵だが、かなりの資産家で、裕福な暮らしをしている。マリアンには弟がひとりいるが、侯爵家の次男である自分を婿に迎えて、爵位を継がせようと考えているのだろう。
多方面に事業を繰り広げているドリータ伯爵家を継ぐのは大変だろうが、やりがいのあることだ。
それに関しても、不満はなかった。
問題があるとしたら、真に愛する女性と出逢ってしまったことだけだ。
彼女はピエット子爵家の令嬢で、名をエミリアという。
マリアンのような華やかさはないが、優しく穏やかで、一緒にいるととても心が和らぐ。
健気なエミリアはニースの結婚が政略結婚で、姉のリエッタが大王子であるクレートの婚約者に選ばれるためにも、この結婚が必要であると理解してくれている。
「ニース様を愛しています。ですが、ニース様とリエッタ様の将来のために、私が身を引くべきだということは、理解しています」
目に涙を溜めたまま、そんなことを言う彼女が愛しくてたまらない。
「ああ、エミリア。たとえ過酷な運命がふたりを引き裂こうとも、私が愛しているのは、永遠に君だけだ」
彼女と添い遂げることができたら、どれだけ幸せだろう。
だが、すべてを捨て去ってその手を取ることはできない。そんなことをしたら、多くの人間を不幸にしてしまう。
愛しいエミリアを抱きしめて、すまない、と何度も口にする。
「ああ、ニース様。たとえお傍にいられなくても、私の愛は、永遠にあなたのものです」
彼女もそう言ってくれた。
今度はいつ会えるかわからない。思う存分抱き合ってホールに戻ると、なぜかあちこちから視線を感じた。それも、あまり好意的なものではなさそうだ。
何があったのだろう。
エミリアとともに首を傾げていると、王太子殿下の婚約者であるミーナリアが、マリアンがいないと探し回っているようだ。
彼女はサザリア公爵家の令嬢で、どうやらマリアンと親しいようだ。
将来は王妃になる女性が、妻になるマリアンとかなり親しいのは、今後のためにも良いことだろう。
ただ、彼女の兄のリオという男は、かなり冷酷な男らしい。彼にだけは気を付けなくてはならない。
そんなことを考えていたニースの耳に、ミーナリアの心配そうな声が届く。
「少し風に当たりたいからと言って、ひとりで庭園に出て行ったの。それから戻っていないのよ。何かあったのかしら……」
庭園、と聞いてどきりとした。
先ほどまで、エミリアに愛を囁きながら抱き締めていた場所だ。
もしかしたら、その場面を見られてしまったのかもしれない。
そう思うと、血の気が引くような思いがした。
「庭園? そういえば、あの二人も庭園に……」
「婚約者でもない方と、何をしていたのかしら」
「まさか、王城で開かれる夜会で、密会なんてことは……」
周囲から聞こえてきた声に、エミリアも青ざめている。
そんな彼女を支えようと手を伸ばしたが、エミリアはその手を振り払うようにして離れた。
きっと周囲の噂を気にしてしまったのだろう。
いくら彼女と会える数少ない場所だったとはいえ、人の目のあるところで抱き合っていたのは、まずかったのかもしれない。
ニースは言い訳を考えながら、マリアンを探してひとりで庭園に向かった。
だが、彼女が戻って来ることはなかった。