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虚妄の明晰夢

作者: 月山蛍


 夢を夢だと自覚しながら見る夢のことを明晰夢と呼ぶ。


 通常は自分が夢を見ていると自覚することはない。

 どんなに生々しい夢でも、どんなに荒唐無稽な夢でも、楽しい夢でも、悪夢でも、目が覚めた時に初めて夢であったと理解できる。

 一抹の寂しさもしくは安堵とともに、現実に引き戻される。


 一方、明晰夢であれば夢を見ているときからこれが夢であると自覚できる。

 もっと正確に表現するのなら、夢を見ている途中でこれが夢であると気付くことで、ただの夢を明晰夢にすることができる。


 夢を見ていると気付くきっかけになるのは、現実世界では絶対にあり得ない夢を見ることだという。

 それは多くの場合、空を飛ぶ夢だ。

 現実世界において、人間が生身で空を飛ぶことはあり得ない。

 しかし、夢の中では空を飛ぶこともできる。

 だからこそ空を飛ぶ夢を見ることが、夢であると気付くきっかけになり得るのだ。


 明晰夢を見ている最中は、夢を見ているという自覚のもと、夢の中で何をしたい、誰と会いたい、どこに行きたいという願望を意識することができる。

 そしてその願望は、明晰夢の中で叶えることができる。

 これが明晰夢を見れば見たい夢が見られると言われる所以でもある。


 夢の内容を自由自在に操ることができたなら、どんなに素晴らしいことだろう。

 どこに行きたいだろうか。

 何をしたいだろうか。

 誰と出会いたいだろうか。

 テレビでは見たことがあっても現実には行けないような、世界の絶景を見てみたいと思うだろうか。

 実際にはお金がかかってできないような贅沢を、夢の中だからと楽しむだろうか。

 それとも……。


 ただし、本当に明晰夢という現象は起こり得る事象なのだろうか。

「夢を見ていると自覚している」という設定のもとで見ている夢と、本当に「夢を見ている」と自覚して夢を見ているのを、どう区別すれば良いのだろうか。

 あるいは、自分の願望のもとで見る内容をコントロールするというのは本当に可能なのだろうか。

 自由意志で夢の内容をコントロールできていると思いこみながら見ている夢と、実際に自由意志でコントロールしている夢を、どうやって区別できるのだろうか。


 睡眠中という脳の不完全な休眠状態で、あたかも現実かのように感じる観念や心象をどれだけ完全に認識できるだろう。

 夢という主観的経験を、客観的に計測、検証することはできない。

 あくまでも「自覚できた」あるいは「自由自在に操ることができた」というわずかな手応えだけを残して、夢は夢として覚めていくのである。


 結局のところ、夢とは虚像である。

 願望や無意識や、記憶や強迫観念が脳神経の細胞膜に浮かび上がらせる幻に過ぎない。

 夢の中で何を見ようとも、夢の中で誰と会おうとも、それが現実世界の何か、誰かと直接の因果関係を持つわけではない。

 たとえそれがどんなに生々しく、どんなに強烈な印象を残した夢だとしても。


 夢とは虚妄。


 しかし、虚妄としか呼べない観念を求めるのもまた、人を人たらしめる真実なのである。




 一度だけ、明晰夢を見たことがある。


 世間一般によく知られているように、夢を見ていると気づくことができたのは、空を飛ぶ夢だったからだ。

 ただ、空を飛ぶ夢を見れば必ず夢を見ていると気づけるかというと、そうではない。

 実際、僕自身はこれまでに何度も空を飛ぶ夢を見てきた。

 それにも関わらず、夢の中では空を飛べることが当然のことのように感じられるから、現実にはあり得ないという認識、つまり夢を見ていると気づくことができないでいた。


 もちろん、空を飛んでいるときに感じる感覚は現実世界ではあり得ない感覚だ。

 空中を泳ぐような感覚。

 水をかくように空気をかいた時に手に伝わる重さ、ゆっくりと浮かび上がる浮遊感。

 ただ、その感覚は学生時代スキューバダイビングをしていた僕にとって馴染み深い感覚でもあった。

 だからこそ空気を水のようにかいて浮かび上がる感覚を味わっても、それが現実でないと気づくことは難しかったのかもしれない。


 ただ、その時だけは違った。

 空を飛ぶ夢を見たのがずいぶん久しぶりだったからなのかもしれない。

 あるいは、大人になって何年もプールにすら泳ぎに行かなくなってしまったからかもしれない。

 いつもと同じように空中を泳ぐ感覚を味わいながらも、その非現実的な感覚にそれが夢であると気づくことができた。

 あるいは、夢であると気づいたように感じられた。


 僕は空中で立ち止まった。

 僕は夢を見ている。

 そして、これが夢であると気づいている。


 明晰夢だ。


 僕の思考は自然と、明晰夢であれば自分の思い通りに夢の内容をコントロールできることを思い出していた。

 何をしたいだろうか。

 あるいは誰と会いたいだろうか。


 ふわふわと浮かんでいた僕の体は、少しずつ地面に近づいていった。

 夢が覚める気配なんてものは一度も感じたことはないけれど、まだ目が覚めるまでに猶予があるように思われた。

 地面に降り立ってあたりを見回してみる。

 遠景はぼやけているけれど、見覚えのある場所だ。

 何の変哲も無い、仕事で訪れたことがある街の一角だった。


 川が流れていて、橋がかかっている。

 川の幅はそれほど広くはないけれど、海が近い。

 近くに中華街があって、観光目当てでくる人通りも多い。

 頭上を高速道路の高架が覆っていて、少しだけ薄暗い。

 記憶に残っていない断片に関しては曖昧にしか再現されていなかったけれど、ここは確かに僕が見たことがある場所だった。


 少しだけ、思考がクリアになった気がした。

 それでも、これは夢の中だ。

 それなら、何をしたいだろうか。

 誰に会いたいだろうか。


 現実にはできないけれど、夢の中でもいいからしたいと思っていたこと。

 現実には会うことができないけれど、夢の中でもいいから会いたいと思っていた人。


 僕は自然と、昔好きになった人のことを思い出していた。




 彼女と知り合ったのは、大学三年生の頃だった。


 大学近くの居酒屋でバイトをしていた時に、たまたま同じシフトに入ったことが重なったのがきっかけだった。

 最初に会話をしたのは、注文オーダーの取り方について彼女から聞いてきたときだ。

 その居酒屋バイトとしては一年先輩だった僕に頼るように質問をしてきた新人の彼女に、言いようのない儚げな印象を受けたのを鮮明に覚えている。


 当時付き合っていた恋人がいた僕としては余計なものを背負い込むつもりもなかったけれど、その儚げな印象は放っておくにはあまりにも弱々しく見えた。

 休憩時間に一言二言世間話をして、その日の帰りには遅いから一人で帰るのは危ないよと、途中まで送ることを申し出た。


 送り狼になるつもりはなかった。

 ただ、私服に着替えて灰色の柔らかそうなステンカラーコートを羽織って出てきた彼女を見たときに、胸が苦しくなるような感覚が走った。

 バイト中は後ろでまとめていた髪を解いたロングヘアの香りは、居酒屋の喧騒の残り香と明らかに違う甘さを含んでいた。

 僕は動揺を悟られないように、本当にたわいもない話をしながら夜道を並んで歩いた。

 彼女は近くにある別の専門学校に通っていて、資格のための実習をこなしながら、バイトを続けているのだという。

 その資格を取ろうと思ったきっかけも含めて話を聞いていると、儚げという最初の第一印象からは想像もできなかった彼女の芯の強さに触れたようで、僕はその会話に心地よさを感じていた。


 ここまで送ってもらえばあとは明るい道だから大丈夫ですから、という彼女と別れる時には、それじゃあまたねと言って取り繕ったけれど、その胸の高鳴りをどうすれば良いいのか戸惑った。

 大学の同期でもある恋人と半同棲生活をしているアパートに向かう道を急ぎながら、こんなはずじゃなかったのにと何度も自分に言い聞かせた。


 当時の恋人との関係が悪かったわけではなかった。

 ただ、まだまだ大学生だった僕が一人の女性に永遠の愛を誓えるほど成熟していたわけでもなかった。

 恋人に対しては何食わぬ顔をしながら、バイトのシフトが重なるたびに僕は彼女との時間を過ごすようになった。

 彼女に対して僕に恋人がいることは話さなかった。

 バイト仲間から聞くことはあったのかもしれないけれど、少なくとも彼女が僕に対して、僕に恋人がいると知っているようなそぶりは見せなかった。

 数回の送り狼未遂の後に、ついに僕は彼女の部屋に上がりこむことに成功した。

 恋人にはバイト仲間と急遽オールで飲みに行くことになったと嘘の連絡をした。

 恋人がそれを信じたのかどうか、それは今となってはわからない。


 こぎれいにまとめられた木目調の家具と、机の上に積み上げられた専門書の山。

 何か飲む?と聞かれて差し出されたのは、熊のキャラクターが描かれたマグカップだった。

 マグカップを受け取るときに、彼女の髪の甘い香りが鼻先をかすめた。

 僕はやっぱり当たり障りのない話を続けた。

 僕自身の話をするよりも、彼女の話を聞きたがった。

 僕自身の話を始めてしまえば、どうしても決定的な嘘をつかなければならないような気がしていた。


 彼女の話を聞きながら、僕と彼女の距離は次第に近づいていった。

 最初に触れたのは小指の先。

 その瞬間に一度だけ目を合わせて、手を彼女の手に合わせた。

 少しだけ、彼女の手を握った。

 彼女は手を引っ込めない。

 少しうつむきながら話し続ける彼女にさらに少し近づいて肩が触れた。

 彼女はまだ飛び退かない。

 自制は効かない。

 僕は少し強引に彼女の肩を抱き寄せた。


 今度ははっきりと、彼女と顔を合わせた。

 呼吸の仕方は忘れた。

 驚いて見開かれている彼女の瞳を覗き込んだ。

 澄み切った角膜の表面にうっすらと動揺の色が滲む。

 彼女の吐息を口元に感じるほどに近づけば、彼女の瞳以外何も見えない。

 そのまま、僕らは唇を重ねた。


 そこから先に、歯止めなんてあるはずもなかった。

 僕はただ僕自身の感情の欲求に従って行動に移したし、彼女は少しだけ震えるように、ひどく曖昧に頷いただけだった。

 僕は彼女の耳元で何度も彼女の名前を囁いて、彼女は黙って声にならない息を吐きだすだけだった。




 それ以降、彼女とシフトが重なるたびに僕は彼女の部屋に泊まった。

 最初からそれが目的であるとでも規定されているかのように、決まって身体を重ねた。

 それ以外に二人の関係を確かめる術を知らなかった。


 彼女は僕の言葉を疑わなかった。

 僕が求める行為を拒否しなかった。

 ただし、否定をしないということが、肯定していると同値であるとは限らない。

 少なくとも、言葉や行為の正当性を担保したことにはならない。

 僕自身の言葉や行為の誠実さを証明できるのは僕しかいない。


 最初にあったのは僕が彼女に対して抱いた感情であったはずだ。

 感情があり、言葉があり、行為が成立する。

 決して行為が先に成立して、言葉が後付けをして、感情を発現させるわけではない。

 だとすれば、言葉や、ましてや行為が伴わなかったとしても感情は単独で成立し得たはずである。

 感情を感情のままに終わらせることができたのなら、僕は何一つ嘘をつく必要はなかった。


 嘘という外郭で覆われた彼女との関係の中において、誠実であると言えるものは何だったか。

 僕が彼女に伝えた言葉に真実はあったのだろうか。

 僕が彼女に行った行為に誠実さは伴っていたといえるのだろうか。


 僕と彼女の間には、数え切れないほどのまやかしが横たわっていた。

 けれど、最大の虚構はなんだっただろう。

 感情の強さこそが真実であり、それが真実である限り想いは必ず伝わると盲信する思い込みこそ、最大の虚妄だったのではないか。

 感情の強さが、ただそれだけで現実を左右するなどということはあり得ない。

 それでも言葉にして行動に移してしまうのが僕の弱さだというのなら、それはその通りなのだろう。


 僕が彼女に対して、そして同時に恋人に対して繰り返した不実は、本来僕が抱いた感情が望んだ関係ではなかったはずだ。

 少なくとも、そばに居たいと強く願うほどに大切な相手を、潜在的に傷つけてしまいかねない方法で関係を迫ることは、明らかにいびつだった。


 感情の強さは、そのいびつさを解消しなかった。

 そしてそのいびつさは行為を繰り返すたびに醜悪さを増していった。

 結果的に、僕と彼女の関係は長くは続かなかった。

 歪みは明らかに僕から喜びを奪っていたし、彼女もまたそんな僕の変化に何かを察しているようだった。


 彼女には何も伝えず、バイトを辞めた。

 それに伴って、彼女と会うこともなくなった。連絡を取り合うこともやめた。

 確かめる機会すら奪って一方的に関係を終わらせることが彼女をひどく傷つけるかもしれないことは分かっていた。

 ただ、それ以外に終わらせる方法がわからなかった。


 さらにほどなくして、恋人とも別れた。

 彼女のことが原因ではなかった。

 本当につまらない些細な諍いが原因で、あっさりと恋人は僕を置いて出て行った。

 それほど長い時間ではなかったかもしれないが、二人で時間を重ねたはずのアパートには、笑ってしまうほどに何も残らなかった。


 以降、僕はずっと独りで生きている。




 彼女のことを思い浮かべた瞬間、橋の向こう側から誰かが歩いてくるのが見えた。

 彼女に決まっている。

 これは夢の中、明晰夢の中なのだから。


 彼女は最初に出会った頃と同じ、灰色の肌触りが良さそうなコートを羽織っていて、長い髪を揺らしながらこちらに向かって歩いてきた。

 表情まではよくわからない。

 ただ、彼女だということはわかる。


 彼女は僕の目の前で立ち止まった。

 あれからずいぶん年が経っているというのに、出会った時のままの印象で、黙って立っている。


 夢の中に彼女を呼び出して、何を話したかったのだろう。

 何を話して欲しかったのだろう。

 夢の中で会ったところで、独りで生きてきた今までの日々が肯定されるわけじゃない。

 ましてや明日からの生活の何かが変わるわけじゃない。

 夢の中で何かを伝えたところで、実際の彼女に何かが伝わるわけじゃない。


「君のことは……」


 彼女の口が静かに動いた。

 彼女が僕のことをどう呼んでいたのか思い出せなくなるくらいに自然に「君」と呼ばれた。

 その予想以上に静かな声色に僕は硬直した。


「もう、なんとも思っていないよ」


 言い終わるやいなや、彼女は歩き出した。

 硬直したままの僕の横をすり抜けて、そのまますれ違っていく。

 夢の景色が色彩を失い始めた。

 夢が終わる。


 僕はとっさに振り返った。

 多分二度と思い出すこともできなくなる彼女の痕跡にすがろうと、手を伸ばしかけた。

 彼女は僕の方を振り返ってもいない。

 それどころか、彼女の隣にはいつの間に現れたのか、後ろ姿の男性が寄り添うように歩いていた。



 気が付いた時には朝になっていた。

 目が覚めた瞬間から、夢の記憶は急速に曖昧になっていく。

 夢を見ていると自覚しながら夢を見たという微かな手応えだけを残して、それ以外の一切は霞んでいった。


 一方的な願望か、ただの自己満足か、いずれにしても夢とは虚妄でしかない。

 けれど、その虚妄こそ、僕が一番必要としていた救いだったのかもしれない。

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