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ギムレットには早過ぎる

その日は、朝から小雨がぱらついていた。

最近は雨も降らず、湿度ばかりが高くて過ごしにくい夜だったから、少しはこれで過ごしやすくなるだろうか。


だが、これでは今夜の来客は少ないだろうか…ビールの売り上げは落ちそうだな、そんなふうに寝起きの頭でぼんやりと考えていた。

午後2時、そろそろ店に入って今日の仕込みを始める時間だ。


私はバーテンダー、まだまだこの業界では駆け出しの部類だ。


気怠いカラダを奮い立たせて、シャワーを浴びる。

湯温は39度、ぬるいくらいでちょうどいい。

今日が休みなら、このままぬるいビールでも浴びるように飲みたいところだな、なんて幾分スッキリした思考回路が怠惰な願望を訴えるが、それをドライヤーの温風と一緒に吹き飛ばす。


さあ…仕事に向かおう。

今宵も、街角酒場の時間だ。


その日は、やはり来客はいつもよりも控えめだった。


まばらに見える、いつもの常連さん。

他愛もない話で盛り上がっている。


師匠は黙ってグラスを磨いていて、その眼鏡の奥には優しげで、でも厳しい眼差しがテーブルの隅々まで注視している。


目の前の客の、モスコミュールの銅製マグがカランと音を鳴らす。

このお客様は…まだ2杯目だ。ペースも早くもないし、ほろ酔いまでもう一杯、か。


「お客様。次はどうしますか?」


「ん?あ、あぁ。ちょうどいいや、次は…そうだな、オススメあるかい?」


「そうですね…1杯目は確か、ギネスでしたね。

次にこちらのモスコミュールですから、少し度数の高いのにしてみますか?こんな雨の日に、ぴったりのカクテルをお作りしますよ。」


「おっ、いいね。それにしようか。じゃあ、お兄さんのオススメ、頼むよ。」


お兄さん、か…。ちぇっ、まだまだ若造か。まあ、仕方ない。


レシープに従って材料を用意する。

カクテルグラスをブルーキュラソーと砂糖でスノースタイルに仕上げ、シェーカーに氷を詰める。


ここが肝心だ。

氷の組み方が甘ければ、余計に水が溶けてボケた味わいになりかねない。


ウォッカ、バナナリキュール、ホワイトキュラソー、ブルーキュラソー、そして少しドライに仕上げたかったのでフレッシュなライムジュースを入れて、柔らかくシェイク。


カシャ、カシャ、カシャ…小気味良いシェーカーの音を聞きながら、中の氷とアルコールが攪拌されていくのを想像する。


うん、頃合いだ。

これ以上もこれ以下もない。


トップを外して慎重にグラスへと注ぐ。


「お待たせしました。レイニーブルーです。」


「あぁ、ありがとう。

綺麗なカクテルだね。

レイニーブルーって、有名な曲だよね?」


「はい、徳永英明さんの名曲ですね。

そこから着想を得た、斉藤政之さんというバーテンダーさんが作ったカクテルです。

Jr.バーテンダーカクテルコンペティションで優勝した折り紙付きのカクテルですよ。」


「ヘェ〜…、んっ、結構甘いね!

あ、でも後味はさっぱりしてる。

面白いカクテルだね。」


「はい、雨の日の憂鬱、という意味のカクテルです。


気怠げな感じが出ていますよね。


後味をさっぱりさせるのに、フレッシュなライムジュースをわずかに多くしていますし、材料に使うリキュール類も甘味の抑えたものにしています。

お気に召して頂けたなら幸いです。」


「うん、気に入ったよ。

また雨の日にはコイツを頼もう。」


「ありがとうございます。では、ごゆっくりとお過ごしください。」



カランカラァン…


ちょうど会話が終わったタイミングで、見計ったかのようにドアベルが鳴る。


月に何度かいらっしゃる、確か近隣にある総合病院のお医者様達だ。

いつものメンバー4人でのご来店。

助かる。今日の来客なら、4人はでかい。


いつもの窓際の席は空いている。


「いらっしゃいませ。

4名様ですか?

では、いつものこちらの席が空いておりますので、こちらへどうぞ。」


「ん、ありがと。」


席へ通して、おしぼりとお通しの落花生の塩茹でを出す。


1杯目のオーダーを承って、グラスへと注ぎお客様の元へとサーブする。


全員が葉巻を用意している。ああ、今日も葉巻の日かな?じゃあ静かに飲まれそうだな、そんな風に思った。


このお客様方は、月に何度か、多分週一、二回くらいでいらっしゃるけれど、その内の何回かはこうして全員で葉巻を燻らせる。普段はタバコすら吸われないのに、だ。


そんな日は決まって、最初の乾杯以外は静かに、黙々とグラスを空けていくだけで、正直言ってお客様としては助かる存在だ。


中には、ついつい飲み過ぎて声が大きくなったりする大トラもいるからね。


そんな事を考えていて、お客様の乾杯を見ていて、…ああ…そうか、と気付いた。

医者だもんな。



全員が同じようなタイミングでグラスを空ける。


そこに、私は黙って新しいカクテルを持って行く。もちろん、マスターに許可はもらっているが。


「あれ?まだ次の頼んでないよ?」


「いえ、これは私からです。いつもご利用いただき、ありがとうございます。

…ギムレットにはまだ早過ぎるかも知れませんが。

どうぞ。」


「「「「……!!」」」」


驚いたような、切なそうな表情で、私を見詰める。

1人が、震える唇で言葉を捻り出す。


「気付いて…いたのか…」


「…ここは、バーですから。そのくらいの魔法は、赦されるでしょう?」


「あぁ…そうだな…。ありがとう。

マスター、こっちのバーテンダーさんにも一杯、何かいいかな?

お礼がしたいんだ。」


マスターは黙ってうなずく。


「ありがとうございます。それでは、頂戴致します。」


「あぁ、飲み物は任せるよ。好きなの飲んでいい。まあ、ワインとかは止めてくれよ?」


「はい、ちょうど飲みたいカクテルがありましたから。

少々お待ちください。」


そう言って、マスターの元へ戻り、スーズを出す。本当はライムなんだろうが、レモンの方が好きだからフレッシュレモンジュースを搾り、シェイク。さらにサッパリさせようと、レモンピール。


「お待たせしました。

ありがたく頂きます。

…献杯。」


「…献杯。」


グラスをぶつける事なく、掲げる。


「そのカクテルはなんていうやつ?」


「これは、スーズギムレットですね。

本来ならライムですが、個人的にはスーズにはライムよりレモンの香りが合うと感じましたのでレモンを合わせております。」


「スーズ?あまり聞かないお酒だね。」


「はい。


スーズは、ゲンチアナという種類の植物の根から作られる、独特の苦味があるリキュールです。

ゲンチアナはリンドウ種の植物です。


今日、皆さまにぴったりのリキュールかと思いまして。


…リンドウの花言葉は、あなたの悲しみに寄り添う。少し切ないですが、優しい花言葉だと思います。


私も、バーテンダーとしてこの花言葉を戒めとさせていただいております。」


「そう…か…。ひと口、試させていただいてもいいかな?


…うん、苦味があるけど、これは美味しい。


次からは1杯目にはこれをいただこう。

こんな日には、ぴったりだ。」


「かしこまりました。

…ご馳走様でした。


では、ごゆっくりとお過ごしくださいませ。」


いらっしゃいませ、お客様。

ここは街角の、しがない酒場です。

お客様の疲れを、悲しみを癒す、最高の一杯をご用意してお待ちしております。

レイモンド・チャンドラーの小説、探偵フィリップ・マーロウの活躍する探偵小説シリーズの中に、長い別れという話があります。

その中で、主人公の友人が発した台詞、「ギムレットには早過ぎる」

この台詞から、長い別れ=患者さんを救えなかったことを表しています。

葉巻は送り火。

救えなかった患者さんを悼みながらも、医師として悲しんでいる暇なんてなくて、気持ちを切り替えなければやっていけない。

せめて、この場所においては存分に別れを告げて、明日を生きる活力にして欲しい。

そんな願いを込めて、この駆け出しのバーテンダーはギムレットをサーブ致しました。

スーズギムレットは本来はライムが正しいレシープになりますが、飲み比べてみてどちらがお好みか試してみるのも面白いと思います。

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