おふろで ドキドキさせた、ゆうなの おてがみ
最近のマイブームは、くろとと
いっしょに銭湯に行くことだ!
この前 外仕事で ひざ周りの腱を
ヤッちゃって、ちょっとガッツリっマッサージ
したかったから くろとも付いてきて、
戦闘に行ったんだよね……?
その時は ちょっと くろとの様子が おかしかった のだけれど、
マトモに歩いたり 自転車を漕ぐだけでも激痛が走る状態だったから、
正直それどころじゃなくって、そのあと 二人で4日寝込んで
―――というか、今 考えると今年 流行ってるインフルエンザ
ぽかったんだよね? 今までの人生で あそこまでひどかった 風邪は
かかったこと なかったし、最悪 死まで覚悟したのは(まともに思考できなかったから
魂 精神的には、不本意な 唐突死になって しまうのだけれども)初めてだったのだし―――
やっと今日 今週の外仕事さんが終わったから、
仕事終わりに待ち合わせして、くろとと
連れ立って銭湯に行ったんだよ??
かー!!!
んで、くろとのやつ やっぱり わたしの裸を見て 初恋の人の
はじめての体を見るみたいに、めっちゃくちゃ 顔も耳まで
赤くしちゃって 照れてる(?)のね??
「顔 赤いよ?」
って指摘したら
「ほら、のぼせちゃって!!!」
とか、まだカラダ濡らしても ないのに、
テンパって あたふたして わたしの方見ないように
床のタイルなんか見て 顔そらして答えてくんのね?
あー、コイツやっぱガチなんだなー?
って わたしは実感したし、なんだか
その反応が面白かった。
わたしたち双子だから体格ほとんど変わんないのに、
(家庭の事情が複雑だったから 11歳までは
赤の他人として暮らしてきて、面識できたのは
それからだから、双子と言っても 幼い頃は
仲がいいとか ミラーリングが スゴかったとか
そういう系の双子エピソードは 一個も無いのだけれども)
自分のカラダでは まったく抜かないし 性的な興味も くろとは 湧かないクセに
(ギリシャ神話の 水面に映った 自分の姿に恋をシたナルシスじゃないけれど)
わたしのカラダには こんなにも あからさ あからさまに反応するって、
なんつーか くろとって ほんとうに わたしのこと 好きなんだな? って、
私のことを特別に見てくれているって、それは くろとが
わたしを そう扱ってくれている というのは、
とっても ありがたいことだなって、
まあ、これ以上 くろとに欲情されて 公衆浴場で
襲ってこられても困るから、これ以上の挑発は
なにも できなかったん だけれどもね……??
あと、まったり 湯船に浸かってたら、
幼女の二人(といっても 小学2・3年かな?)
が お母さんに連れられて お風呂めぐりしてて
(銭湯には いろいろな 種類の お風呂がある!)
◇ ◇ ◇
わくわくっ!
「ほら ゆうな、あの子達 双子じゃない??
あんな歳の双子とか、とっても いいよねっ?」
とか いつになくハイテンションで 話しかけてきて、
……まあ 言葉足らずだったけど 付き合い長いから
くろとの 言いたいことは だいたい わかって、
こいつ、まあ確かに わたしたちが あの歳から いっしょにいて、
もしも わたしの 初恋が すがさんじゃなくって くろと だったならば、
(いちお 現実でも、わたしが すがさんに初めて会う2・3ヶ月
に くろととは 記憶にある限り初めて会っているの だけれども)
それはとっても、希望に満ちたもの であったのカモしれなくって、
こんな幼女の時なら あの 相方の つる●じに 無理やり
ねじ込もうなんて 発想が起こるハズもなくって、
―――そうしたら、ゆるやかな 友情的な姉妹の
姉妹愛から 物語は始まったかも しれなくって、
それは、とっても希望的で 満ち足りた 絶望を知らない
可能性を貪欲に追求できる 物語で あったかも
しれなかったんだよね……??
わたしが いまも くろとを憎み続ける なんってことは
起こるハズもなくって、毎晩 わたしたちは別の世界線では
毎日 受け手と責め手になって、ずっぽし
嵌め合っていたのかも しれなかったんだからね……?
―――絶望は、不治の病だ。
思想家のキルケゴールは、絶望の深化の過程で キリスト教を
より深く 信仰することで、自己の主属的でない従属的な
類起性によって、新約聖書のヨハネ福音書でラザロを
復活させた奇跡の再興が 見られると言うけれど、
キリストがヨハネ福音書11-25で言っている「わたしは復活であり、命である。
わたしを信じるものは、死んでも生きる、生きていて わたしを信じる
者は だれも 決して死ぬことはない」って 言っているのは
これは わたしは 死の直限についての限定として
わたしが 中2で この世の地獄の唯一の救いとして求めた、
[ 死の直前に 死ぬまで時間が ほぼ永遠として 引き伸ばされるのならば、
わたしは このまま 明日まで物理的に肉体的に生きたならば 魂が殺されて しまうけれど、
このまま くろとと 一緒に墜ちて心中して その落下している間に 永遠を感じることが出来るのならば、
それは わたしは 心が生き続けることができて、わたしは ずっと生きていられる ]
と結論に至ったこと と、本質的には
同じことだと わたしは 考えていて、
だからこそキリストは、
ラザロが病死してから それを知って
「ラザロは死んだのだ。わたしが その場に居合わせなかったのは、あなたがたにとって
よかった。あなたがたが信じるように なるためである。さあ、彼のところへ行こう」
(ヨハネ福音書11-14~15)
「私達も行って、一緒に死のうではないか」
(ヨハネ福音書11-16)
と 言う(語らせる)。
◇ ◇ ◇
もし、
イエス・キリストは超現実主義者で、
死後の世界なんて 1ミリも信じていなくて、だから ラザロ
イベントの流れの キリスト発言の
「もし信じるなら、神の栄光が見ら
れると、言っておいた ではないか」
(ヨハネ福音書11-40)
って いうのは、死ぬ直前に 死の確定の
運命を 確信した時の、わたしが十年以上も渇望し続けている、
永遠の無への その直前の、生の意識が 極限まで引き伸ばされた
甘美な死欲愛の至福と享受であると考えるのならば、
そういう読み方をスルのなら、新約聖書は一気にイエスの絶望と
世への呪いで 可能な限り詰め込まれた、世界で一番
読まれてるホラーストーリーということになる。
だからこそ、絶望は不治の病であるし、
善意の解釈として聖書も 世の中も
そうして見れていることは 正しいのだと思う。
くろとは、わたしたちは、もう 汚く悪に塗れて
しまって、もう手についた血は 決して拭い取れない。
……じっさい、わたしはキリストと同じ論理で 人を合法的に 殺してて、
それは 完全犯罪であるの だけれども(追尾は出来ない形にしてある)、
だからこそ キリストは 死欲愛 信者として
わたしと同類として、
この新約聖書っていうエゲツない読み物を
毎日読んで キリストを信仰している キリスト教ってのは、
わたしより もっと多くの人を合法的に殺せているワケなのだから、
―――なかなかエゲツなく凶悪的で、
知らないっていうことも 善意的に解釈
することにも 限界が あって、
だから結果として、キルケゴールが絶望への特効薬・救済策として
キリスト教を深く信仰したとしても、それはキリストの呪いを
ただ深く受け続けることだから、絶望は深くなるばかりだし、
―――絶望は、呪いと 発散のために対象を壊すこと。
……それだけが 解決の手段じゃないのかな? って、
くろとが わたしに裸で照れてきて、
わたしは そんなことを考えてた。




