ss #012 『恋愛前線完全勝利』
その日ゴヤが持ち帰った物は、ごく普通のシャンプーボトルだった。ラベルにはアロエをはじめとする数種類の植物の絵が描かれ、商品名の下には『リンスなしでもきしみません』とある。
市内の薬局でよく見るオーガニックシャンプーのようだが、宿舎の浴場にはシャンプーも石鹸も用意されている。わざわざ自分で購入する必要は無い。
「どうしたんだ、それ?」
当然の質問を投げかけるトニーに、ゴヤは嬉しそうに答える。
「今日の任務で薬剤師やってる魔女に会ったんだ~♪ お土産にこれ貰っちゃった~♪」
「ただのシャンプーだろ?」
「違うんだな~♪ これ、俺用に調剤してもらったヤツ♪」
「女じゃあるまいし、オリジナルシャンプーなんて使ってどうするんだ?」
「フッフッフ。甘いなトニー。このシャンプーに入っているのは美髪成分じゃなくて、女子からモテモテになるフェロモン香水なのだよ! ぬはははは!」
「……あー……お前、それ、本当に効くと思ってるのか? フェロモン香水ってただの香水だぞ? なんとなく女子に好かれそうな香料が使われてるだけの……」
「うーるーさーいっ! もともとモテまくるトニーに非モテの気持ちが分かってたまるかーっ! 俺はこれでモテ男デビューするんだーっ!」
「そんなん使うくらいだったら髪を切れ。今ロン毛流行ってないし」
「これは流行りとかじゃないの! 十二剣士ガルボナード・ゾーマへのリスペクトだから切れないの!! トニーにはそういうの無いの!? あるだろ!?」
「無い」
「えっ! マジで!?」
「あったとしても髪は伸ばせない。俺は本来の姿がイヌだ。どうせ換毛期に抜ける」
「ウッソ!? それ、毎シーズン生え変わってたの!?」
「ああ。犬系種族でロン毛の奴は魔法で伸ばしてるか、エクステか、どちらかしかいないはずだ」
「驚愕の事実!」
「あんまり期待しすぎるなよ。ガッカリ感が増すだけだぞ」
「うるさいなあ! 分かってるよ!」
シャンプーボトルを大事そうに抱え、ゴヤは浴室のほうへ向かった。
この時点ではまだ誰も、これが大変な代物であることに気付いていなかった。
それから数日後のことである。
昼食を終えてオフィスに戻ろうとするゴヤを、事務員の一人が呼び止めた。この事務員はゴヤと同い年で、かねてから漫画本の貸し借りをする仲である。
「あ、あのさ、良かったら今度、この映画観に行かないか? 知り合いからチケット貰ったんだけど、一緒に行く人がいなくて……」
「マジで!? これ前評判すごくいいヤツじゃん! え、ホントに俺でいいの? いつ行く?」
「そっちの都合に合わせるよ。うちの課は有休申請出せばいつでも休める感じだけど、特務はそうもいかないだろ?」
「じゃあ、明日までにスケジュール確認しとくね!」
「ああ、よろしくな!」
笑顔で別れて、廊下を駆けていくゴヤ。その後ろ姿を、事務員の彼はうっとりした目で見送っている。だが、ゴヤはこの異常事態に気付いていない。
ゴヤがオフィスに戻ると、なぜかチョコが不機嫌だった。
「えーっと……チョコ? あの、俺がいない間に、なんかあったの??」
チョコはゴヤのほうを振り向きもせず、頬杖をついたまま答える。
「べつに。なんもねーけど?」
「え、ホントに? だってなんか、怒ってない?」
「はあっ!? 誰が怒ってるって!?」
そう言いながらバッと振り向き、ゴヤの顔を見た瞬間、チョコは慌てた様子で視線を逸らす。
「ほ、ほほ、ホントになんもねーから! 気にすんなよな!」
「えー……うん、まあ、それならいいんだけど……?」
任務で外に出ている隊員から連絡があるかもしれず、オフィスを空にすることができない。電話番のために昼食の時間をずらしたのだが、先に行きたかったのだろうか。それとも、自分がいない間に面倒なクレーム対応をさせてしまったのだろうか。
ゴヤはチョコに確認しようとしたのだが、チョコは逃げるようにオフィスを出て行ってしまう。
「……? 内線の通話記録も無いし……俺、なんか怒らせるようなことしたかなぁ……?」
首をかしげるゴヤ。だが、いくら考えてもそれらしい出来事には思い当たらない。
まあいいやと事務仕事を始めると、内線端末が着信を告げた。
「はい、こちら特務部隊オフィス……あ、隊長、どうしたんスか? ……ええ、特に変わったことは……え? 俺ッスか? いつも通り元気ッスけど? ……はい、わかりました……」
通話を終えて受話器を戻し、またも首をかしげる。
「隊長、どうしたんだろ? 俺の健康状態なんか、わざわざ電話で確認しなくても……?」
オフィスと隊長室はドアからドアまで徒歩十秒。何か気になることがあるなら直接見に来れば良さそうなものだが、ベイカーは終始歯切れが悪く曖昧な物言いで、特にこれといった用はなさそうだった。なぜ内線をかけてきたのか、理由がさっぱり分からない。
「チョコといい、隊長といい……どうしちゃったんだろ?」
ゴヤはまだ気付かない。しかし、この後の出来事によってこの事象の危険性を知ることになる。
午後一時を過ぎたころ、オフィスのドアが勢い良く開けられた。
「ただいまゴヤーッ! 好きだーっ!」
「ちょっ、キール先輩!?」
「俺のほうがもっと好きだ!! 会いたかったぞゴヤッ!!」
「ハンク!? 何言ってんの!? 会いたかったって、今朝フツーに会ってたじゃん……って、うわあっ!?」
任務から戻ってきたマッチョ二人に両側から抱きしめられ、ゴヤはハッとした。
ひょっとして俺、今、モテモテになってない――??
ここでゴヤは思い出す。数日前、自分が受け取ったシャンプーのことを。
どんな効能がいいかリクエストした際、魔女は自信なさげにこう言っていた。
「うちのお客さんって女の子ばっかりでしょう? 男の子用のフェロモン香水は調合したことが無いから、どのくらい効き目が出るか分からないの。一応、強めに配合しておくわね。効きすぎるようだったらもう一度来てちょうだい。調整するから」
そう、確かに言っていたのだ。『男の子用のフェロモン香水は調合したことが無い』と。
(ちょ……ま……まさか! あのシャンプー、効き目があるのは……!)
強めに配合された有効成分。それはゴヤの想像通り、『男性を虜にする魔女の媚薬』である。
「邪魔するなよハンク」
「邪魔はどっちだ。いつまでゴヤにくっついている気だ?」
「なんだと? それはこっちのセリフだ。おい、表に出ろ」
「いいだろう、やってやる」
「や、やめて二人とも! お願い! 俺を巡って争わないでぇ~っ!!」
ゴヤは自分で発した言葉に精神的打撃を受けた。
(ヤ……ヤバい……ッ! これ、戦って勝ったほうが所有権主張できちゃう三角関係モノあるあるシーンで……アレな感じのナニがソレしてホニャララしたあと最終的にはハッピーエンドな……そっち系だよねっ!?)
もともと貧弱な語彙力は、混乱によってさらに壊滅的状況に陥っている。今の自分の立ち位置が『決定権を持たないトロフィーのようなもの』だと気付いても、そうではないことを主張する言葉が出て来ない。力ずくで状況を打開しようにも、自分には興奮状態の二人を押さえつけるだけの力がない。
世間の美女は、いつもこんな苦労をしているのか。
半ば現実逃避気味にそんなことを考えていると、二人はさっさとオフィスから出て行ってしまった。
「あぁ~……ど、どど、どうしよう……どうしたら……あっ! そうだ!」
こんな時、最も頼りになるのは我らが隊長、サイト・ベイカーである。
ゴヤはドアを出てから徒歩十秒、いつでも行ける隊長室に駆け込み、キールとハンクが自分とハグする権利を巡って喧嘩を始めてしまったことを報告する。
するとどうだろう。ベイカーまでもが訳の分からないことを言い出した。
「ほう? 俺を抜きにして、勝手に決闘を始めるとはな……」
「え? あの、隊長……?」
「安心してくれ、ゴヤ。お前の唇は誰にも奪わせない!」
「ファッ!?」
剣を引っ提げ、颯爽と駆けてゆく特務部隊長。事務棟裏の訓練場では、すでにド派手な戦闘音が鳴り響いている。
「こ、これってもしかして……隊長にも、効いちゃってる……??」
なんなのだろう、この状況は。
自分が望んだ『モテ期』は、こんな血沸き肉躍るマッスルバトルロワイアルではなかったはずだ。
「……あれ? ってことはまさか、さっき映画に誘われたのも……??」
今日は朝からツイていた。清掃スタッフのアンコーさんからスナック菓子の差し入れがあったり、警備部のイルマ君から大人気ロックバンドの限定ステッカーを譲ってもらえたり、車両管理部のデニスが今日発売の漫画本を持ってきてくれたり。
だがよくよく思い返してみると、みんな少しずつ、どことなく距離感がおかしかった気がする。友達同士というよりは、意中の女の子にアピールするときのような、少々前のめりな態度で――。
「そ……そんな……。まさか……まさかみんな、おかしくなっちゃって……?」
よろめきながらオフィスに戻り、ゴヤはミーティングルームに籠った。今本部内を歩き回るのは危険だ。打開策が見つかるまで、ガラス張りの小部屋に閉じこもるしかない。
ゴヤは携帯端末を取り出し、フェロモン香水の有効範囲外に助けを求める。
「……あ、もしもし? シアンさん、今、庁舎ッスか?」
「ああ。何があった? キールとハンクが言い争っていたようだが……?」
幸いなことに、シアンは監視カメラ越しに一部始終を目撃していた。ゴヤは自分が使用したフェロモン香水入りシャンプーのこと、自分に対して男性限定で反応がおかしくなっていることを話す。
一通り話を聞き終えたシアンは、万人が底冷えする声でこう言った。
「よし分かった。団長にバレる前に、こちらでなんとかしてやろう。お前はそこを動くなよ」
「す、すすす、すんません……あの、その、マジでサーセン……」
なにをどう『なんとか』するのか。そんな疑問は抱くだけ野暮である。通話が切れるとほぼ同時に、訓練場には魔導砲を装備した大型戦闘用ゴーレムが出現している。
それは『手品師』の異名をとるゴーレムマスター、ナイルのオリジナルゴーレムだった。シアンの隣にナイルもいて、一緒に話を聞いていたらしい。
魔導砲の発砲音。
落雷に揺れる大地。
唐突に出現する巨大氷山。
ゴーレムホースに騎乗した重武装兵たちが、訓練場を縦横無尽に駆け回る。
これはナイル、ベイカー、ハンク、キールの『通常技』である。まだ誰も『必殺技』を使用していないにも関わらず、訓練場には巨大クレーターがいくつも出現している。
窓から様子を窺うゴヤは確信していた。
男たちの戦いの行く末を見守るヒロインの気持ちは、いつだって『勘弁してくれ』一択だと。
それから三十分後、ゴヤはシアンの持ってきた中和剤で『非モテ男』に戻された。おかげで脱童貞前にバックバージンを奪われる悲劇だけは回避することができたのだが――。
「あのー、シアンさん。なんか、まだフェロモン香水の効果が切れてない人がいるみたいなんスけど……」
「なに? まだ……?」
騒動からすでに一週間が経過している。中和剤無しでも効果はとっくに切れているはずである。
「詳しく話せ」
「はい。えっと、昨日の夜、警備部のイルマ君とライブ観に行ったんですけど、演奏中はず~っと手ぇ握りっぱなしで、あっれぇ~? なんだこの距離感~?? って感じで……」
「……公演終了後は?」
「一緒にご飯食べて、もう電車も動いてない時間だったんで、ホテルに泊まって……」
「ちょっと待て? それ、普通のホテルだよな?」
「はい。でも、その、イルマ君が言うには、予約した時点でダブルベッドの部屋しか空いてなかったとかって話で……」
「同じベッドで寝たのか!?」
「あ、はい。疲れてたし……」
「何もされていないよな!?」
「た、たぶん大丈夫だと……爆睡してたから、よく分かんねえッスけど……」
「ガルボナード。いいか、よく聞け。それは香水のせいじゃない。本物だ」
「……はい?」
「だから! 本物のゲイなんだよ! お前にその気が無いのなら、次からそいつの誘いは断れ! 次も拒否しなかったら、三回目は確実に本番コースになるぞ!」
「ま……マジっすか!? えっ!? まだ香水が効いてて、それでちょっと変なのかと思ってたんスけど……ウェエエエェェェ~イッ!?」
「ほかにはいないよな!? 大丈夫だよな!? 妙なボディータッチを求めてくる男はいないよな!?」
「そ、そそ、そう言われると、あの……」
「いるのか!?」
「ナイルさんが三日に一回くらいのペースで『おっぱい揉ませろ』って……」
「貴様かあああああぁぁぁぁぁーっ!!」
通信機越しに聞こえる鈍い音、悲鳴、何かが床に叩きつけられる音と、ガラスが割れる音。
ドタバタとした物音の嵐は三十秒ほどで止み、シアンのゼエゼエと荒い息遣いが聞こえてくる。
「ガルボナード、もう大丈夫だ。性転換薬とセーラー服は押収した。他に変な奴はいないな!?」
「あ、はい、たぶん……」
「何かあったらすぐに連絡しろよ! いいな!?」
「はい! シアンさん、あざっす!」
そうして通信を終え、ゴヤはふと、妙な思いにとらわれた。
「……あれ? もしかして俺……もともとプリンセスポジションにいる……?」
いやいやチョット待て。
そんな馬鹿なことがあるものか。
自分は男だし、もう立派な成人なんだぞ。
必死にそう思おうとするのだが、面倒見の良すぎる騎士の顔がチラついて離れない。
「……もしかして、騎士のディフェンスが鉄壁すぎて……?」
ゴヤは真実に気付いてしまった。
これは最も気付いてはいけない類いの真実である。
「……俺、このままじゃモテ期来ないかも……」
真剣な顔で呟くゴヤ。そこに入ってきたのは、冒頭のやり取りの直後から任務で中央を離れていたトニーである。
「ただいま戻りました! ……って、なんだ。今日はゴヤしかいないのか?」
「あ、トニー、お帰りー。南部はどうだった?」
「任務自体はどうということは無かった。ジャングルのヌシだかなんだか知らんが、森ごと焼き払えばそれまでだ。丸焼きにして変異生物研究所に送り付けてやった」
「えーと、それ、保護区とか、天然記念物のいる森じゃないよね?」
「近年になって人工的に植林された荘園だ。何の問題も無い。それより、貴族からの面会申し込みが多くて参った。断れない相手ばかりで……」
「それね! わかる! ベイカー隊長によろしくお伝えくださいぃ~ってヤツでしょ?」
「ああ。面倒臭すぎて死ぬかと思った。それより、アレはどうなったんだ?」
「アレ?」
「ほら、あのシャンプー」
「あー……うん。アレねー……」
表情を曇らせるゴヤを見て、トニーはドヤ顔で言う。
「だから言っただろう? フェロモン香水なんて、所詮はただの香水だって」
「う、うん……ただの香水だったよ、ただの……」
あの日巻き起こったバトルは情報部との合同演習ということになっている。問題は何も発生していない。少なくとも、公式記録上では。
ゴヤは何事も無かったような表情を作り、トニーに言った。
「お昼まだだったら、一緒に行かない?」
「ああ、いいぞ。今日の日替わり、まだあるかな?」
「どうだろう? 今日はチーズハンバーグだから、もう終わっ……」
「走るぞゴヤ! 全力で!!」
「え、ウソ、マジで!? そんなにハンバーグ食べたいの!?」
二人はバタバタとオフィスを出て行った。
ゴヤがトニーを昼食に誘う理由は、一人で食堂に行くとイルマとの相席を断りづらいからである。何も知らないトニーはまんまと弾避けに使われることになったのだが、無自覚なプリンセスは気付いていない。
何の警戒心も無く手近な男を頼るこの行動こそが、騎士のディフェンス力を高めてしまった最大の要因であると。