一話(Ⅳ)出会い
図書館裏にある長い階段を上ると、すぐ小さな公園がある。その一帯は住宅街で、大昔は山林が広がっていたらしい。
虎冴は柴崎の後をついてさらに坂を上り、交差点に差し掛かったところで右に曲がった。
平坦な場所に出ると、そこでは住宅がぐるっと中央を囲むように軒を連ねていた。柴崎は一番奥の建物に向かって直進していく。
二階建ての、少し薄汚れたマンション。
柴崎が二階に向かうので、そのまま虎冴も階段を上がる。
ここまでの所要時間は約十分だった。
ポケットから鍵を出して玄関を開ける柴崎を、虎冴は不思議そうに眺めた。
「お邪魔しまーす」
「……誰も入っていいなんて言ってないぞ」
「いや、ほら。外雨だし」
そう苦笑いを浮かべて靴を脱ぐ虎冴を、柴崎は無理強いしてまで止めることはなかった。
虎冴は玄関を向いて屈み、律儀に靴を並べると、横にある空の下駄箱をしばらく見つめる。
「最寄り駅までいくらかかるんだ?」
「千円あれば足りるよ」
虎冴は言いながら立ち上がると、柴崎のいる奥の部屋に進む。
外装のイメージに反して、中は意外に広く。扉の数から察するに部屋数も二、三はあるらしかった。
「柴崎くんって何組なんだっけ?」
「A組」
虎冴は柴崎から千円を受け取って、扉のそばの大きな本棚を神妙な面持ちで眺める。
大きな本棚は、まだ半分ほどしか埋まってはいなかった。
「……意外だね。A組って確か理系だろ? てっきり文系なんだと思ってた」
「なんで?」
〝文理を決めつけられるほど仲良くないだろう〟という目で柴崎は虎冴を見つめる。
「いっつも本読んでるみたいだし……最初にぶつかったときも読んでたよな?」
「本が好きだったら、文系じゃなきゃいけないっていうルールでもあるのか?」
「いや、別にないけど」
柴崎はわざとらしく、壁に掛かった時計を確認する。
「こんな時間まで出歩いて、親に怒られたりしないのか?」
「あっ、〝オムライス〟もある。長月望も読むんだな」
話を聞かずに本棚の本を手に取る虎冴に、柴崎は大きなため息を零す。
「柴崎くんの方はどうなの?」
「何が?」
虎冴は本を手に取ったまま、柴崎の瞳の奥をじっと見つめる。
「柴崎くんの親は?」
「……今、まだ仕事だ」
柴崎は視線を逸らして首を擦る。
「嘘でしょ」
「何だよ、根拠でも……」
「だって、靴箱が空で柴崎くんの靴しかないっておかしくない? 例えば柴崎くんのお父さんが会社員で、革靴を履いて仕事に行かなきゃいけなかったとしたら、革靴以外の靴がここにあってもいいと思うんだけど」
閉口する柴崎に「家族で住むには少し狭いし」と虎冴は続ける。
――玄関で鍵を出してたときから思ってたことだけど……――
「もしかして、一人暮らしだったりする?」
柴崎は黙ったまま虎冴のことを睨み付ける。
「やっぱり! へぇー、すげぇな。高校生で一人暮らしってアニメとか小説とかフィクションの中だけの話かと思ってた!」
虎冴は純粋に驚きながらも、内心はひどく冷静なままだった。
これは、好都合なんじゃないかと――
「なあ、折角ならさ。泊めてくれないか?」
「はぁっ!?」
大きな声を出した柴崎の顔が、驚愕で今日一番に歪む。
「だってさ。お金借りて、わざわざ返しに行くのも面倒じゃん? 同じクラスじゃないしさ」
「そのくらい……」
虎冴は図々しいと重々承知の上で、柴崎の言い分を遮る。
「外も雨降ってるし、今日だけでもいいからさ」
柴崎は眉間に皺を寄せたまま、虎冴が自分を拝む様子を凝視する。
「お前……」
「あっ、親だった別に大丈夫だからな? うち、放任主義だから」
そう笑みを浮かべる虎冴に、柴崎は呆れきった顔で再度口を開く。
「……お前、今日知り合った奴の家に泊まるのか?」
「何かダメなことある?」
心底不思議そうに首を傾げる虎冴を見て、柴崎は腕を組んでまたため息をつく。
「柴崎くんこそ、お泊りだよ? わくわくしないの?」
「別にしないな、家主だし」
「ああ、そりゃそうか。じゃあ今度、俺のうちに泊めてやるからさ」
「……そんなことしなくていい」
一連のやりとりの中で、虎冴は〝こいつとは分かり合えないな〟と思っていた。柴崎の表情を見るに、彼も同じように思っているのではないかと感じていた。
ただ不思議と、分かり合えないからといって拒否したいとは思わなかった。
「泊まるって言っても、寝るだけみたいなもんじゃん? 確かに柴崎くんに俺を泊める理由はないかもしれないけどさ。泊めない理由もこれといってないでしょ?」
柴崎は組んでいた腕を外して首を擦る。
「……お前、折れる気ないだろ」
「あれ、よく分かったね」
ヘラヘラしている虎冴のことを、柴崎はまた睨む。睨まれても虎冴は初めのときのように怯むことはなかった。
――怒ってるっていうより、ただ目つきが悪いだけ?――
虎冴はそう思いながら、真っすぐと柴崎の瞳を見つめ返した。
「……寝る場所だけだからな」
「おっ、いいってこと?」
虎冴の喜々とした様子に、柴崎は対照的に眉間の皺を深くする。
「……寝る場所を提供するだけだ。ご飯とかは、自分でどうにかしろ」
そう言うと、虎冴の手の千円札と本をひったくる。
「……お前……名前は?」
虎冴が家に電話しようとスマホを取り出したところで、柴崎が声をかける。
「なっ」
――おっと、危ない――
「……伊吹虎冴……だいたい友達には下の名前で呼ばれてるかな?」
「伊吹虎冴……ね」
柴崎は興味なさそうに虎冴の名前を復唱した。
「……何笑ってるんだ?」
「いや、名前って……今更だなって」
静かな室内の中で、虎冴の耳元では雨音が響く。
明日は外で部活ができるだろうかと、虎冴は他人の家でそんなことを考えていた。