一話(Ⅱ)出会い
〝時間潰すなら、図書館にでも行け〟
説得空しくそう言われた虎冴は、実際に図書館の中にいた。
――あいつ、俺が本読まないの知ってるくせに――
心の中で犬養に悪態をつきながら、虎冴は小説コーナーに入って、本の背表紙をぼんやりと見つめる。「あ」から作者名で並べられた棚を順番に歩きながら、「作家名 な」と書かれたプレートの位置で立ち止まった。
『長月望』
県立図書館で数十冊の単行本が並ぶその人気作家は、虎冴にとって大好きな――そして大嫌いな小説家であった。
『オムライス』というタイトルの代表作を手に取って、表紙の絵を眺める。
――文庫の装丁の方が、俺は好きかな――
中身をパラパラと捲るも、虎冴は毛頭読む気などなかった。
虎冴は、この本を読んだことがないし、これからも読むつもりはないのだ。
『長月望』の本を手に取って棚に戻すことを繰り返しながら、結局、小説は読めそうにないと諦める。
――1冊くらい読んでやろうかと、いつも思うんだけどな――
心の中で苦笑いを浮かべながら、虎冴は図鑑コーナーに移ると、『恐竜図鑑』を手に取った。
高校生にもなって恰好はつかないが――案外時間も潰せるので――虎冴は割と図鑑が好きだった。
長机の窓際の席に座って、図鑑の適当なページを広げる。
ふと、窓の外を眺めてみると、雨は激しさを増しているようだった。
虎冴は頬杖をついて、改めて図鑑に目を落とす。
――たまに見てるけど、全く名前とか憶えらんないんだよな――
ティラノサウルス、プテラノドン、トリケラトプス……
目をつぶって、浮かんだ名前がたったの三つだった事実に愕然とする。図鑑に対する冒涜の証明に、虎冴は苦笑いを浮かべる他なかった。
目を開いて、たまには真面目に読もうかと思った矢先、長机の反対側に、自分と同じ制服の少年を見つける。
彼はブックカバーのついた文庫本を手にしており、どうやら持参してきた本を、わざわざ図書館で読ん
でいるらしかった。
――図書館で新しい本を探してみたけど、やっぱり今読んでる本の先が気になったとか?――
図書館では少数派であろう彼の顔を、目を細めて確認した虎冴は、素早く図鑑を持ち上げると自分の顔を隠した。
――おいおい、イケメンくんじゃないか――
彼はあの、帰り際に虎冴がぶつかり、虎冴を睨み付けた、例の少年だったのだ。
――修司の話だと、名前は確か柴崎龍介だっけか――
そっと図鑑をずらして、虎冴は彼の様子を観察する。
柴崎は、少し猫背気味な姿勢で両肘を机に置き、依然として文庫本に視線を落としていた。
――なんだか……――
虎冴の胸に何かつっかえたような、肌触りの悪い感情が込み上げてくる。それはふわふわしているが冷たくて、下手したら虎冴の全てを包み込んでしまうような、そんな〝何か〟だった。
柴崎が虎冴を無視して背を向けたときも、虎冴はこの気持ち悪さを感じていたのだが、虎冴にはこの感情を言語化することはできなかった。
――……そもそも隠れる必要もないか。悪いことした訳じゃ……いや、したけど。多分逆恨みされるほどでもないし――
虎冴は冷静になると、持ち上げていた図鑑をそっと元に戻す。
そして、チラチラと柴崎の方を見ながらも、紙面上で息づく白亜紀の巨大生物に思いをはせた。
「すみません、もう閉館時間になるんですが……」
小さく左右に揺り動かされながら聞こえた女性の声に、虎冴は目を擦りながらゆっくり起き上がる。
「……すいません」
虎冴のことを起こした司書は、小柄で眼鏡をかけており、起き上がった虎冴の顔を覗き込むと、小さく笑みを浮かべた。
「本、戻しておきましょうか?」
「いや、大丈夫ですよ。 自分で戻します」
「蛍の光」が聞こえる中、虎冴はそういって立ち上がると、図鑑のあったキッズコーナーに向かう。
――三十分くらいは起きてたかな……――
図鑑を所定の場所に戻した虎冴は、大きな欠伸を一つすると、あのイケメンの座っていた席を確認する。
当然のように、柴崎龍介の姿はそこにはなかった。
「イケメンくんは一生懸命、何の本を読んでたんかね」
虎冴のことを睨み付けた、彼の冷めた瞳を思い出しながら、彼は自動ドアから図書館を出た。
虎冴は、自分でも気付かないうちに柴崎のことが気になっていた。それは正体不明の感情のせいであったし、一見、全く似ていないはずなのに、柴崎にどこか〝近い〟ものがあると感じていたからだった。
小降りになった雨の中で、虎冴は一瞬傘を差そうとして立ち止まるが、思い直して傘を閉じる。
図書館から虎冴の目指す駅は十分もかからない距離にあり、この振り方なら、傘を差さずとも問題はないだろうと思われた。
「あれ……これって……」
たまたま水たまりを避けようと、下に視線を向けていたとき、虎冴は茶色い物体を見つけて拾い上げる。
そのケースの透明な部分からは、駅名が書かれた定期が覗いていた。駅名の一つは学校からの最寄り駅で、虎冴が今まさに向かっている場所だった。
――おっちょこちょいな奴がいるもんだな――
名前でも書かれていないかと、片手でケースに隙間を作って片目で中を確認する。
――?……――
定期の裏側に、定期と同じ大きさの、白い厚みのある紙を見つけて虎冴はそれを引き出す。
予想外にも、今度の品は写真だった。
どこかの民家の玄関で、二人の男性が肩を並べて映った写真。
片方はセーターを着た爽やかな笑顔を見せる好青年で、片方は学ランを着たぎこちない笑顔の少年だった。
特別なポーズをとっている訳でもなく、写真の二人は拳ほどの間を空けて突っ立っているだけだったが、二人はとても親しい間柄に見えた。
――まあ、定期だし。駅まで行けば、落とした人はすぐに見つかるだろ――
虎冴は写真を元に戻すと、改札の前で定期が見つからずに、慌てて辺りを探す青年を想像しながら、足早に駅まで急ぐ。
ふと、先ほど見た写真の絵が頭に浮かび、違和感がよぎる。
――今、何かを感じたけど……なんだ?――
しかし、虎冴がその正体に気付くよりも駅に着いてしまう方が早かった。
コンビニやカフェが並ぶ駅構内を、挙動不審な人がいないか歩いて探す。辺りを見回しながら、自分も挙動不審になって駅の改札前まで到達するも、特段困った顔をした人はいないように見えた。
――おかしいな。駅に着くまでにすれ違った人も、何か探してる風じゃなかったし……探すの諦めて帰る
なんてことも、あまりないと思うんだけど――
「おーい、少年。何かお困りかい?」
思案気に首を傾げていると、遠くから男の声が響く。虎冴は最初、それが自分に向けられているものだとは気づかなかった。
「おーいってば、そこの改札前で突っ立っている少年」
二度呼ばれて、虎冴は訝しく思いながら声のした方を振り返る。そこには、カフェの横で手を振っている壮年な男が立っていた。
恐る恐る近づいてみると、男はスーツ姿で、首から『フリーハグ実施中』と書かれた段ボールをぶら下げていた。
――……スーツ姿でフリーハグって……会社帰りとか?――
虎冴は『フリーハグ実施中』の字面を凝視しながら、男の恰好と行動のちぐはぐさに疑問符を浮かべる。
「あれ、興味あるかい? やろうか? ハグ」
男は首から下げた段ボールを背中に回すと、にこやかな笑みで手を広げる。
「……いや……結構です」
「遠慮しなくていいのに」
「……遠慮とかじゃないんで、ホント」
そう言われた男は、虎冴の拒絶を意に介した様子もなく、段ボールをすぐに元の位置に戻した。
「ハグはすごいんだよ。三十秒ハグすれば、一日のストレスの三分の一は無くすことができるんだから」
嘘だと思うならスマホで検索してみなよ、と男は腰に手をあて、胸を張る。男のにこやかな笑みを見上げると、少し長い黒髪が耳にかかっているのが分かった。
「ネットの情報が正しいとは限らないんじゃないんですか?」
「……今時の若者にしては珍しいことを言うね。流石だ」
――何が流石なんだ……――
「おじさんは、セクハラでもやるつもりなんですか?」
「おお、すごく心外だなぁ。まず、僕という若人を見ておじさんと呼んだことについて言及したいところだが、取りあえずそこは置いてあげるとして……フリーハグをやってる人間をセクハラ呼ばわりなんていただけない」
妙な言葉遣いに、妙な大人に絡まれた事実を虎冴は再確認する。
「なんだい、少年よ。この僕が、ひいては全国のフリーハグ民が女性のお尻目当てにやってると思っているのかい? それは偏見というものだ。だいたい〝フリー〟なんだから、男性とだってハグするんだ。今日だって二時間で十人近くハグしたけど、七割は男性だよ! セクハラ目的で三十パーセントに賭けるなんて、奇特な人間のやることだね」
「……おじさん十分、変人っぽいですけどね」
「まあ、否定はしないよ」
ちなみに、――少年もきっと将来分かるだろうが――この歳でおじさんって言われるのは傷つくからやめるんだ、と男は続ける。
「特に用がないんだったら、もう解放してもらってもいいですか? 俺、この定期の持ち主探さないといけないんで」
そう言いながら虎冴が掲げた定期入れに、男は顔を近づけ目を細める。
「少年は、この持ち主が見つからなくて困っていた訳か」
「……その少年っていうの、やめてもらってもいいですか?」
虎冴の要求に、男はにこやかな笑みを浮かべる。
「……それは定期だけど、定期としての役目を果たしていないから。駅には来ないんじゃないかな?」
平然と虎冴を無視してそう指摘され、虎冴は意味が分からず間の抜けた顔をした。
「ほら、よく見てみなよ」
言いながら男は定期入れから定期本体を取り出すと、虎冴の目の前にそれを突き付ける。
初めに虎冴が確認したとき同様に、それには駅名が二つ書かれており、紛れもなく定期ではあった。ただ男の指さした位置をよく見てみると、記載された日付が三月末になっていたのである。
「今年の三月ってことは……」
「切れてるね有効期限、とっくの昔に」
自分の行動が徒労だったと知って、虎冴は脱力する。
「無駄足ってこと?」
「そうだね、駅に来ても会える可能性は低いかも」
そう言いながら、男は定期の入っていたケースをじっと眺める。男の目線の先では、あの写真がケースから少しだけ顔を出していた。
「ただ、わざわざ有効期限が切れた定期を持ち歩いていたことには……意味はあるのかもしれない」
「意味?」
男は虎冴に定期入れを戻すと、静かに笑みを浮かべる。
「そう。だから、これを拾った場所に戻ってみたらどうかな?」
「持ち主がいるかもしれないってことですか?」
虎冴は定期をケースに戻しながら、首を捻る。
「でも、有効期限の切れた定期券なんて、必死に探したりするもんですかね? ……諦めても不思議じゃないと思いますけど」
「まあ、ものは試しだよ」
釈然としない思いに駆られながらも、虎冴は駅を出るために身を翻す。
「あっ、もしハグしたくなったら、またおいでよ。気まぐれではあるけど、大抵ここにいるからさ」
「……おじさんとハグしたくなることなんか、一生ないんで大丈夫です」
虎冴は振り返りもせずに、そう男をあしらう。
「また困ったことがあったら、相談にのるよー」
背を向ける虎冴に、男はそう大声を出すが、結局は無視されたままだった。
「案外、虎冴くんは辛辣だね」
虎冴が見えなくなると、男は知らないはずの少年の名を零し、苦笑いを浮かべる。
「彼はまだ……大事な人を傷つけたことはないんだろうね……」
そう言いながら、男は自分の右手を見つめる。
豆も傷もない薄っぺらいその手は、男には薄汚れて見えていた―――