小話:其の九拾六《ああ……そういえば(仮題)》
【ふと、それは遅れてやってくる】
《ああ……そういえば(仮題)》
科学技術と通信技術が発達し、国中のあらゆる場所で高速通信ネットワークが当たり前のように利用できる時代。老若男女の誰もが多機能情報通信携帯端末を所持し、場所や時間に拘束されることなく、関わりたい相手と関わりたいときにコミュニケーションできるようになっていました。
街ではだいたいのヒトが多機能情報通信携帯端末を片手に情報をかじりながら歩き、あるいはそれを通じて“この場に存在しない相手”とコミュニケーションをとったりしています。
科学技術と通信技術があまり発達していない国の旅行者はその光景を見て、なんて人間関係が希薄な国なんだと言葉をこぼします。多機能情報通信携帯端末ばかり気にして、すぐ隣のヒトと世間話もしないなんて、と。この国の最先端に憧れていたが、もしかしたら自分たちのほうが幸せなのではないか、と。
そんな意見に。科学技術と通信技術の発達したこの国のヒトは、一定の理解あるヒトの顔をして子どもをさとすような慈愛溢るる口調で教えます。高速通信ネットワークと多機能情報通信携帯端末のおかげで、場所や時間に拘束されることなく関わりたい相手と関われるのですよ、と。あなた方がどこかの誰かと世間話をして消費する時間を、私たちは関わりたい相手とのコミュニケーションに使っているだけなのですよ、と。
その分、関わりたい相手との関わりが濃密になるでしょう?
* * *
科学技術と通信技術が発達したある国に、そのヒトは熱烈な憧れを懐いていました。映画や創作物語にある“未来の姿”を、断片的に得られる情報をツギハギして一方的に想像していたからです。
そのヒトの生まれ育った国は、けっして劣っているわけではありませんでした。畜産農業の発展に注力しており、その分野では高い知識と経験を有してあります。それは誇るべきことであり、国民の大半もそれを当たり前のように誇り生活していました。しかしそれは、そのヒトの憧れるスマートな“未来の姿”とは異なっていました。
なのでそのヒトは、憧れの国へ移り住むことを計画しました。
数年後、そのヒトは汗水流してお金を貯め、ついに憧れの国にその足を下ろしました。ただ、いきなり永住はできませんから、とりあえず期限付きの出稼ぎ扱いです。あまり積極的ではなかった家族にも、そうであることを理由に押し通し言いくるめました。
憧れの国についに足を下ろしてそのヒトが最初に懐いた感想は、空気がとてもまずい、でした。しかしそれも想像の範囲内の、むしろ憧れの“未来の姿”の一部でしたから、そのヒトの気持ちはがぜん高揚しました。
そしてそのヒトは、下宿先へ連絡をとって向かうより先に、“自分の”多機能情報通信携帯端末を受け取りに向かいました。
この国では“それ”が生活必需品なので、身元と財布の中身がハッキリしている入国者には支給されるのです。多機能情報通信携帯端末が常時、人工衛星を用いた無線測位システムと高速通信ネットワークに接続しているため、そこから得られる所持者の現在位置情報を、行政が法律の範囲内で把握できる、という理由もあります。なので、多機能情報通信携帯端末を犬の首輪だと揶揄する声もあります。
しかしそんなことを毛先のホコリほども気にしていないそのヒトは、嬉々としてそれを受け取りました。手にしただけで気分は、映画や創作物語にある“未来の姿”に登場するスマートな人物です。
多機能情報通信携帯端末は画面に表示されてある記号に触れるだけの直感的操作で使用できるよう作られてあるという至極簡単な説明と、落とすと壊れるので使用するときは付属のストラップを手首に装着してくださいという注意を、それを受け取るときにされたそのヒトは、律儀に注意を守ってストラップを手首に装着し、ほくほく顔でそれを観賞しつつたまに画面に触れたりしながら、下宿先へ向けて歩んでいました。本当は受け取ってすぐにそれをもちいて下宿先へ連絡したかったのですが、残念ながら時期尚早だったのです。
しばらく歩みを進めたところで、そのヒトは「お、おう……?」と思わず声をもらしてしまう事態に遭遇しました。
憧れの国のヒトが、ボロボロと涙を流して立ち尽くしていたのです。多機能情報通信携帯端末を片手に持って。なかなか人通りのある歩道の真ん中で。
涙しているヒトとそのヒト以外にも通行人の姿はありましたが、誰もが一瞬だけ見やってすぐに自らの多機能情報通信携帯端末に意識を戻してしまい、関わろうとするそぶりは一切、感ぜられません。
そのヒトはしかし、意識してしまったので、いまからあえて無視して通りすぎるということはできず。多機能情報通信携帯端末に標準搭載されてある音声翻訳機能をどうにか使用して、
「どうしましたか?」
と話しかけました。
涙しているヒトは、「え?」と驚いたふうな顔をしてから、
「いえ……ね、当たり前だと思っていたのですよ」
恥じるような笑みを浮かべて涙をぬぐって言います。
「当たり前だと思って、まったく特別にも大切にもしようとしていなかったのですよ。でも、ふと、なんとなく、当たり前だと思っていた“それ”をおこなおうとして、“それ”をおこなえることがじつはとても特別で大切だったと気づかされたのですよ。それと同時に、もう“それ”はおこなえないのだと実感させられてしまったのですよ。ああ……そういえば、と。いつでも“話せる/関われる”と思っていた“とても身近なヒト”が、もうこの世にいないのだと」
道で配布しているのをもらったポケットティッシュを涙していたヒトに譲って、そのヒトは下宿先への歩みを再開しました。とくに自らがどうこう述べられることではない、と判断したのです。
そしてそのヒトは歩みつつ、下宿先より先に連絡をとりたいところがあったことに気がつき、まだ慣れていないたどたどしい手つきで多機能情報通信携帯端末を操作し――
「あ……うん。そう。到着して――」