小話:其の九拾《たいくつ(仮題)》
【生きているのか、生かされているのか――】
《たいくつ(仮題)》
「…………はぁ、……退屈だ」
四畳半の部屋で大の字に寝そべり、“なにか”を幻視する天井の汚れを見やりながら、その男は“そう”を漏らしました。
部屋の窓の脇の角にブラウン管の小型テレビ、その隣の壁際に電池式のラジカセ。最低限の情報受信媒体は存在してありましたが、どちらも黙しており、部屋は静かでした。しかし古くてボロい木造二階建てアパートの、二階の真ん中の部屋なので、生活っぽさには事欠きません。テレビの音、異国っぽい音楽、ご機嫌な鼻歌、料理をする音――と、匂い。
そんな生活っぽさに包囲されてその男は、
「退屈だ……、はぁ…………」
呼吸するように一定の間隔で、“そう”漏らします。
――しばらくしてから。
その男はのそりと身を起こし、
「……弁当、買いに行くか」
手早く、外出の身支度を整えます。
退屈でも、食欲は損なわれないようです。
靴を履き、ドアを開けると、
「……ん?」
外開きのドアは、しかしゴンッと“なにか”にぶつかってそれ以上、開きません。かろうじて頭部をのぞかせる程度は開いているので、そこから外廊下のほうを見やります。
ウサギの耳と尻尾の付いた薄桃色のカバーオールを着た小っさいおっさんが、体育座りしていました。
「……なにを、しているんですか?」
その男は、じつに淡々と事実確認のために訊きました。
「キミが退屈だ退屈だとうるさいから、わたくしは不快の意を表明するために抗議の座り込みをしている」
ウサ耳の小っさいおっさんは、心地よい渋さある音声で応じました。揺るぎない意を宿す眼差しで、その男を睨み上げます。
退屈だ、と口にした憶えはあっても、抗議を受けるほどの大声を出したつもりのないその男は、
「そうですか。それは、失礼しました」
じつに淡々と詫びました。
「うむ、許そう。素直に謝る者を責め続けるほど、わたくしも鬼ではない」
小っさいおっさんは、あっさりと詫びを受け入れました。
「では、どいてもらえますか? ドアが開けられないので」
「うむ、わかった。どこう」
小っさいおっさんは大仰に肯いてから、身を起こします。立ち上がっても、その男の腰ほどの身長ですが、ウサギの耳と尻尾の付いた薄桃色のカバーオールに包まれた身体は隠し切れないほどに筋骨隆々でした。
「ところでキミ、これからどこへ行く?」
小っさいおっさんは、ドアに鍵を掛けているその男の背中に問いかけました。
「退屈でも腹は減るので、弁当を買いに」
「ほう、なるほど。そういえば、そういう頃合いか」
小っさいおっさんはひとり得心したふうに相づちを打ってから、
「しばし待たれよ」
と言い残して、二部屋挟んだ先にある角部屋の中へ姿を消します。
小っさいおっさんは、その男と同じ階に住むご近所さんでした。位置関係的に、その男の漏らした言葉が、その耳に届くということはありえません。しかし小っさいおっさんの証言では、聞こえたことになっています。
なぜ? という疑念を、その男は当然、懐きましたが、けれど深く考えようとはしませんでした。ご近所付き合いに配慮して、というわけではなく。ただ単に、関心が湧かないだけのようです。
「お待たせした。では、行こうか」
小っさいおっさんが、財布を手に戻って来ました。
その男はとくに意を述べることなく、近所のスーパーへ向けて一歩を踏み出します。
「わたくしは、“のり弁ちくわの天ぷら載せ”を食べようと思う」
道を歩きながら、小っさいおっさんが言いました。
「そうですか」
その男は、進行方向に眼差しをやりながら応じました。
「キミは、なにを食す?」
「…………売っているモノの、どれかを」
「おい、キミ、あれが見えるか? なんだあれは?」
近所のスーパーに到着して開口一番、小っさいおっさんが驚き興奮しているような音声で言いました。駐車場のほうを指差しています。
その男は示されたほうを見やり、
「…………とても大きなフリスビーのようなモノ、だと思います」
と答えました。
駐車場には、大型トラック三台分ほどの大きさを持った楕円形の“なにか”が、地面から少し浮いた位置で微動だせずに静止していました。
「うむ。そう言われると、確かにそのように見えるな――あ、キミ、待たれよ」
いつの間にか入店してしたその男の背を追って、小っさいおっさんも入店します。
「おい、キミ、あれが見えるか? なんだあれは?」
小っさいおっさんが、またも驚き興奮しているような音声で言いました。弁当売場のほうを指差しています。
その男は示されたほうを見やり、
「…………“のり弁ちくわの天ぷら載せ”が残りひとつですよ」
と、小っさいおっさんに知らせました。
「なにっ! それはよろしくない。わたくしの“のり弁ちくわの天ぷら載せ”を、あのような珍妙奇妙な者たちに取られてなるものかっ」
息巻いて、小っさいおっさんは弁当売場に突貫します。
弁当売場には、弁当を物色している、形容し難い見てくれをしたかろうじて知性あるだろうと推察できる生命体のような存在が複数ありました。
弁当を購入するのは困難そうだと判断したその男は、とくに執着する理由がないので、パン売り場へ向かうことにしました。そこでツナとタマゴのサンドイッチを手に取り、レジに向かう途中で飲料売り場に立ち寄ってお茶を追加し、会計を済ませます。
用事が済んだので、その男はスーパーから退店しました。
店を出た先にある駐車場に、先ほどまで弁当売場にあった複数の形容し難い存在が見られました。その中に、まるで担がれるようにして、ウサギの耳と尻尾の付いた薄桃色のカバーオールを着たヒトの姿がありました。意識を失っているかのように脱力して、ピクリとも動きません。
複数の形容し難い存在は、駐車場に静止している“とても大きなフリスビーのようなモノ”のほうへ移動し――転瞬、“それ”に融けるように吸い込まれます。
そして“とても大きなフリスビーのようなモノ”は音もなく上昇し、またたく間に空の点となり、雲の向こう側へ消えてしまいました。
その男は一部始終を目撃し、
「…………」
風船が空の向こう側へ消えたのを見たヒトのような無関心さで、帰路につきます。
塗装の剥げた錆だらけの外階段を上り、自室のドアの前へ。ポケットから鍵を取り出し、鍵穴に挿して回し、ノブに手をかけて回し、
「……ん?」
その男は、ドアが開かないことを知りました。施錠を解いたつもりが、施錠してしまったようです。なので、改めて解きます。
ノブに手をかけ、回します。
今度は、ドアを開くことができました。
「…………ん?」
しかし、ドアを開いた向こう側に、いつもの四畳半を見ることはできませんでした。それどころか、部屋の存在そのものを確認することができません。
そこには、四畳半の部屋ではなく、ダンボールで作られたトンネルがありました。輸送などにもちいられる極普通のダンボール箱を展開したモノが無数に、ガムテープで貼りつなげられ、トンネルを形作っています。縦幅と横幅はドアのそれと同様で、奥行きはアパートの一室に作られたモノであるにも関わらず果てが視認できません。吸い込まれるような錯覚を覚える静かな暗闇が、じっとそこにあります。
その男は、いちおう部屋番号を見て、ここが自室か否かを確認しました。持っている鍵が使用できた時点で結果は出ていますが、その結果通り自室でした。
そこが自室である以上、いつまでも外廊下に立っている理由はないので、その男はなんの迷いもなく入室――トンネルに入りました。
玄関から三歩、いつもなら四畳半の上の位置で、その男は立ち止まりました。トンネルの側面のほうを向き、ダンボールを貼りつないでいるガムテープの一部を剥がします。そうして露出した隙間に両の手を突っ込み、左右に引きちぎります。ダンボールがどんなに優れていても所詮は紙ですから、難なくヒトが身を通せる大きさの穴があきました。
「…………ん?」
しかし、穴の向こう側に、いつもの四畳半を見ることはできませんでした。それどころか、またも部屋の存在そのものを確認することができません。
そこには、まるでその男が“そこ”に穴をあけるのが前提であったがごとく、静かな暗闇へと続くダンボールで作られたトンネルがありました。
その男はとりあえず新たなトンネルのほうに移り、先ほどと同じようにして側面に穴をあけてみました。結果も、先ほどと同じでした。
その男は、どうしたものかと思考を巡らせました。先にある静かな暗闇を眺めながら、思考を巡らせました。
「…………ん?」
静かな暗闇が迫ってくるような感覚に気がついたとき、その男は自身が歩を進めていたことを知りました。そして同時に、とても腹が減っていることも認識しました。
その男はその場に腰を下ろして、持ち続けていたレジ袋からツナとタマゴのサンドイッチとお茶を取り出します。包みを剥がし、まずはツナサンドを食べ――
「ほうほうほうほう、じつにじつに興味深い匂いがしたが、いったいぜんたいどういうわけだか、それはそれは、キミよ、生きるためかい?」
――ようとしたところで、そんな音声が前方の静かな暗闇のほうからやってきました。
それは、音声の発生源は、猫のような見てくれをしていました。身体の作りも大きさも一般的な成猫のそれと大差ありませんでしたが、体毛がサイケデリックな色をしているところは、じつに独特でした。
「……それ、とは、このツナサンドを食べることですか?」
「うむうむうむうむ、いやいやいやいや、それはそれは、そうであると言語化することもできるし、そうでないとも言語化できる」
猫のような存在はちょこんと座り、その男のほうをじぃと見やりながら述べました。より正確には、その男の手にあるモノを注視しています。
「…………食べますか? これ?」
言って、その男はツナサンドを差し出してみました。
「それはそれは、厚意か哀れみか施しか、いやいやいやいや、行動の理由がどうであれ、もらえるならば、遠慮なくもらうがね」
猫のような存在の背中がパックリと縦に裂け、そこからドロドロとした形容し難いモノが質量云々を無視して伸びてきて、差し出されたツナサンドをのみ込みました。転瞬、掃除機の電源コードを本体に巻き戻すときのような素早い動作で、それは裂け目の内に消え、裂け目もふさがります。
「うむうむうむうむ、いやいやいやいや、これはこれは、じつにじつに、微妙だ」
「……あの、ここは、いったいどういうところなんでしょうか」
その男は、なにげなく訊いてみました。
「うむうむうむうむ、いやいやいやいや、キミよ、“ここ”とは、いったいぜんたい、なんのことだい?」
「このダンボールで作られたトンネルのことです」
「ほうほうほうほう、なるほどなるほど、キミにとって“ここ”は、そういうふうになっているのかい」
猫のような存在は後ろ足で耳の後ろをかきながら、応じます。
「うむうむうむうむ、いやいやいやいや、それはそれは、つまりキミが“そうである”ということだ」
言って、猫のような存在は身を起こし、その男の脇を通って行ってしまいます。
その男は、猫のような存在の動きを目で追い、そしてその流れで背後を見やることになりました。
そこには、まるで最初からそうであったかのように、ダンボールで作られたトンネルがありませんでした。
頭上には青空が広がり、緑鮮やかな平原が地平の果てまで続いていました。
そして、その男の背後には、単線の錆びついたレールが地平の果てから続いていました。