小話:其の八拾五《たられば(仮題)》
【些細な違いが大きな違い】
《たられば(仮題)》
人生の九割九分は嫌な出来事であると、私は経験から思っている。そして残りの微々たるところで気まぐれ的に起こる好意的な出来事によって、“もしかしたら”という淡い期待を懐き、どうにかいまを継続する。
――なんて面倒くさい言い回しをしてみたところで、べつに現状が好転するわけでもないのに。無駄で無意味とわかっていてもやってしまうのは、ヒトの性というやつか。
まあ、つまるところ、簡単に述べてしまえば、ここのところずっと“ついてない”のだ。なにをやってもうまくいかない。それどころか、まったく身に覚えのないことで責められたり不評を受けたりする。
だから今日も私はまったく心持ちよくなく我が家に戻り、部屋の明かりを点ける気力もなく、リビングのソファーにダイブした。クッションに顔を埋めて、心の底から深々とため息をひとつ吐き出す。クッションは湿っぽい熱を帯びて、けれどすぐに冷たくなる。
しばしクッションに顔を埋め――そのまま手探りでソファー前のテーブルに置いてあるテレビのリモコンを取り、テレビを点ける。数瞬の間を置いてから、今日のニュースを読み上げる抑揚のない音声が聞こえてきた。
そもそも関心がないので右から左に聞き流していたら、不意と“あるニュース”に気を引かれた。クッションから顔を離して、テレビに意識を向ける。
気を引かれた、と言い表すと、ともすれば私が冷静であるかのように受け取られるかもしれないが、実際のところは動揺すらしていた。
そのニュースは、ある凄惨な事件に関するものだった。事件現場の映像や、容疑者に関するパーソナルな情報が、もり立てる効果音と共に繰り返し映しだされている。
私の気を引いたのは、しかし事件そのモノではなく、容疑者に関するパーソナルな情報だった。
生い立ちや境遇や夢やその他いろいろ――
私のそれとまったく同じだったのだ。
ギクリともドキリともした。異なるところは“それ”だけだった。
テレビ画面の中に、明日の自分の“もしかしたら”の姿があったのだ。