小話:其の六拾弐《とくべつではないこと(仮題)》
【“それ”は自分の一部でもある】
《とくべつではないこと(仮題)》
とある時代の、とある町の、とある小奇麗なカフェのテラス席に、ブラックのコーヒーと甘いミルクティーをそれぞれ味わっているふたりの人影がありました。
「なあ、どうしても、“こっち”に移り住む気はないのかい?」
コーヒーを一口、飲んでから、ひとりの恰幅のいい中年の男が訊きました。
「ええ」
ミルクティーを味わっていたきちんとした身なりの初老の男は、
「気遣ってくださるお気持ちはとてもありがたいのですが、その気はありません」
きっぱり返しました。
それを受けて中年の男は、コーヒーに口をつけるのを中断して、
「どうしてなんだい? どうして、“あんなところ”に住むことにこだわるんだい? ――あ、いや、失礼。ただ、あなたが心配なんだよ」
相手のためを思って辛抱強く説得するヒトの表情で述べます。
「町から離れた山の中腹に住んでいて、あなたが町へ下りてくるまでの道は非常に険しい。それだけでもアレなのに、それに加えて“あの山”の至るところには、過去の戦争の負の遺産たる地雷と不発弾がいまだ大量に埋まっていて危険だ。これだけで、町へ移り住む理由は充分だろう?」
それを受けて初老の男は、ミルクティーに口をつけるのを中断して、静かに首を横に振りました。
「どうして?」
納得できないと声を少し荒げて、中年の男は言います。
「べつに金銭的な問題はだろう? あなたはとても優れた創造力を持っていて、あなたの創造した物語のファンは至るところにいて、その物語を販売した収入がある。正直な話、あなたは私よりよっぽど金持ちだ。それに人柄だって、ちょっと自己主張は苦手なようだが、真面目で礼儀正しくて、困っているヒトがいたら見返りを求めずに助けの手を差し伸べられるヒトだ。町のみんなだって、そんなあなたのことを好いている。迎え入れられないなんてことには絶対ならない。――町のみんなだって、あなたを心配しているんだよ」
初老の男は、心の底から申し訳なさそうな顔をして、
「みなさんには、本当に心から感謝しています」
「じゃあ――」
「でも、移り住むことはできません」
「どうしてっ! “あそこ”から離れられない特別な理由でもあるのかい?」
「特別な理由はありません。ただ、“私の暮らせる場所/私の帰れる場所”は、“私の家”だけなのです。生まれ育った愛着ある“そこ”が、どうしようもなく“私の居場所”なのです」