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小話:其の六拾《ゆめのきかい(仮題)》

【巨大な壁は、けれど思いのほか薄っぺらい】

《ゆめのきかい(仮題)》


“今すぐ洗面所に行って鏡を見てください。

 魔法使いはそこにいます。

 魔法をかけられる相手も、そこにいます”


            『お茶が運ばれてくるまでに ~A Book At Cafe~』

                               文  時雨沢 恵一

                               絵  黒星 紅白


                                      より抜粋

          *  *  *


 人影よりも野生動物の影のほうが多い街外れに、廃材を組んで作られたトタン屋根の、家というよりは秘密基地と呼んだほうがしっくりくる建物がありました。大型車両が余裕を持って格納できる倉庫並みの規模があります。

 そんな秘密基地めいた建物の中に、ひとりの人物の姿がありました。疲労の色濃い顔に、地肌の見える頭頂部を囲むようにクセのある白の混じった黒髪が生えているという頭髪事情を抱えた、中年の男でした。

「ついに、ついに完成した」

 疲れたヒトのしわがれた音声で、中年の男が言いました。

 彼の目前には、一台の自動車がありました。実生活での利便性を考慮しつつ、疾走感が堪能できるよう設計された市販の自動車です。――が、いまここにあるモノは、市販されているモノとは少々異なる部分がありました。

「これで、これでやっと――」

 中年の男が解放される喜びを噛みしめるヒトの表情をして、自動車に乗り込みました。――エンジンを始動させます。

「――“過去の間違えた自分”を殺しにゆける」


 中年の男が乗り込んだ自動車には、市販されているモノとは少々異なる部分がありました。中年の男が短くない時を費やして発明開発した“時空間を疾走する機能”が、この自動車には搭載されてあるのです。


「目的の時間は――」

 中年の男は、“時空間を疾走する機能”を管制できるよう改造したカーナビを操作して、

「忘れもしない」

 これから向かう“時”を設定し、決定します。

「いまも鮮明に思い出せる“あの”誕生日――」


          *  *  *


 その少年は、映画に取り憑かれていました。行動範囲圏内にある“パラダイス・ロマン座”という名の小規模で小汚い映画館に好奇心からこっそり忍び込んだ、その日以来――。その日の、ふたつの出逢い以来――

 ひとつは、心を奪う映画との出逢いでした。“パラダイス・ロマン座”は小規模な映画館であるからこそ、経営者の趣味趣向によって選ばれた映画が、客の入りをまったく気にすることなく上映されていました。世間で話題の最新技術と莫大な制作費を投入して作られたいわゆる流行の映画が上映されたことは、過去一切ありません。なので彼が出逢った映画は、新しい流行のモノではありませんでした。彼が出逢った映画は、“ニュー・シネマ・パラダイス/ Nuovo Cinema Paradiso ”という題名のイタリアの映画でした。ヒトと人生と映画への愛に満ちた映画でした。観始めはときは、退屈な、悟ったふうな大人の映画かと思った彼でしたが、しかし気づいたときにはエンドロールが流れており、そのとき彼は自分でも意外なくらい「いいな」という“形容し難い温かな感覚”に包容されていました。彼は、映画に好意を懐いていました。

 ――そして。

 このとき、もうひとつの出逢いがありました。空席の目立つ、余裕を持って座ることのできる環境にあって、わざわざ彼の隣に座っている人影があったのです。彼はエンドロールを視聴しながら、ふと、隣にある“その気配”に気がつきました。そこには、ひとりの女の人が居ました。黒の長い髪をした、色の白い肌の顔の中に、映画を観る燦々と輝く黒の瞳を持つ、麗しく美しいヒトでした。彼は、その“美”ある姿に見惚れました。それと同時に、「おや?」と不可思議さを懐きました。――彼女の身体の向こう側にあるはずの座席や劇場の壁などが、本来なら彼女の身体で隠れて見えないはずのそれらが、透けて見えるのです。映画に集中し過ぎて目が疲れてしまったのだろうと思った彼は、ぎゅっと目を閉じて、しばしそうしてから再び開いて、隣の席を見やりました。――そこには、誰も居ませんでした。これが、彼と彼女との最初の出逢いでした。


 ――翌日。


 少年の姿は“パラダイス・ロマン座”の昨日と同じ座席にありました。昨日と同じく、料金を払わぬ忍び込みです。映画を観るのが楽しくなったという理由と、あるいはまた彼女に会えるのではないかという理由から発揮された行動力でした。

 映画の上映が開始されました。けれど少年の意識は、どきどきわくわくな心待ちにする気持ちは、映画からそれたところにありました。視線を、チラリとスクリーンから隣の座席へやります。

 ――そこに、彼女は居ました。

 少年は嬉しい気持ちになりました。同時に、話しかけたい衝動に駆られました。――が、それは映画館のマナーに反するのでどうにかぐっと堪え慎みました。

 エンドロールが流れ終え、映画の上映が終了したタイミングで彼は話しかけようと試みましたが、話しかける第一声を考えている間に、彼女の姿はなくなっていました。

 それから少年は毎日のように“パラダイス・ロマン座”へ足を運んで忍び込み、映画を楽しみ、彼女と会話しようと尽力しました。――しかし、彼女との会話に成功したことは一度もありませんでした。


 ――ある日。


 一切の前触れなく、少年の悪事がばれました。料金を支払うことなく忍び込んでいたことが、“パラダイス・ロマン座”の経営者であり近所で偏屈者として有名な老人に知られてしまったのです。

「このクソガキ、ふざけたマネしおってからに」

 老人は、少年の行為がいかに映画と“映画を製作しているヒトたち/映画を愛するヒトたち”に対して失礼なことであるかを、たっぷりの時を費やして言い聞かせました。――そして最後に、

「ところで」

 素っ気ないふうを装って問いました。

「――映画、好きか?」

 少年は熱狂ある声で即答しました。


 その日から、少年は映画館の掃除などの雑用を命じられました。いままでの悪事に対する罰ですから、もちろん“タダ/無給”働きです。――と言っても、少年には学業という至極重大な仕事がありますから、朝から晩まで毎日というわけではありません。学校が終わってからの夕方や、休日に限っての“働き”です。

 雑用は悪事に対する罰でしたが、しかし当の少年は嬉しく楽しい気持ちで胸いっぱいでした。手際よく雑用をこなして、「よし」の言葉がもらえれば、そのままそのとき上映されている映画を観てもいいという話だったからです。


 ――映画館で雑用をこなすことが少年にとっての日課となった、ある日。あるとき。


 ふと、少年は、経営者の老人に話してみました。――彼女について。

「そうか、お前さんも彼女に会ったのか」

 老人はさして驚いたふうもなく応じました。その口ぶりには、旧知の友に関して話すような親しみがありました。

 なにか知っていそうな老人に、少年は問いの言葉を投げました。彼女はいったいどこの誰なのか、と。返答を急く口調で。

 多大な関心のある異性に関して情報収集することは、ある種の盲目さに囚われた者ならしばしばやってしまう、じつに健全で普通なことです。――少年も、例に漏れることなくじつに健全で普通な男の子でありました。

「古い客でな、――ま、“パラダイス・ロマン座”の常連さ」

 少年はそこから継ぐ経営者の老人の言葉を待ちましたが、しばし経ても継ぐ言葉はなく。

 堪らず、少年は話の先を要求しました。

「ただの経営者が普通、客のことをアレコレ知っているわけがないだろう」

 じつにあっさりとした返答に、少年はガックリとうな垂れました。まったくその通りだとは、彼も思います。しかし彼女がそもそも普通とはちょっと異なっているので、もう少しなにかあってもいいだろうとも思ってしまい、どうにもすんなり受け入れられないのです。

 経営者の老人は、そんな“少年の若さ”を娯楽のように楽しみつつ、

「まあ、熱烈な映画好きであることは間違いないだろうから――」

 まったく意図もなく、至極ただの思いつきとして、

「映画を通して彼女に語りかけたら、もしかしたら応えてくれるかもな」

 そんなことを言いました。


 少年の中で、“なにか”がカチリと音を発てて漸進を始めました。


 そんな“彼女に関する話”をした、翌日。

「…………はぁ?」

 経営者の老人はまったくの不意打ちで起こった“その愉快な事実”を、

「いまなんて言った?」

 慎重に確認するように訊きました。

 それを受けて少年は、けれど一切の揺るぎない姿勢で、再び“そのこと”を述べます。

「映画監督になって映画を撮って、それを“パラダイス・ロマン座”のスクリーンで上映して、彼女と話す!」

 再び“そのこと”を聞いて、経営者の老人は清々しく声を上げて笑いました。

 少年はむっと眉根を寄せ、抗議する視線で経営者の老人を射ます。

 経営者の老人はまったく悪びれたふうもなく、

「だったら、それまでこの“パラダイス・ロマン座”のスクリーンは維持しといてやろう」

 まるで歓喜するがごとく、最高の笑顔を浮かべて、

「せいぜいあがいてもがけよ、クソガキ」

 そう、少年に告げました。


 しばしの時を経た、ある日。


 もはや当たり前になっている雑用から解放された少年は、経営者の老人の私室も兼ねている休憩室で“あるモノ”と出逢いました。お茶のおともにお菓子でもないものかと、経営者の老人の用務机の引き出しを探っていたら偶然、発見したのです。

 その“あるモノ”というのは“八ミリフィルム・カメラ”でした。しばしば映画作品の中に登場するので、少年は憧れの気持ちを懐きながらよく知っていました。胸が高鳴るのを抑えきれず、瞳を煌めかせて、それを手に取ります。

 少年は、経営者の老人が私室兼休憩室に入室したと同時に、“八ミリフィルム・カメラ”を使わせてほしいと申し出ました。

 経営者の老人は最初、状況がよくわからないという顔をしましたが、少年の前のテーブルの上に丁寧に置かれてある“八ミリフィルム・カメラ”を見て、すべてを理解したようです。

「机の引き出しを勝手にあさっておいて図々しいヤツだな。盗人なんとやらだ」

 経営者の老人は、少年をまったく相手にしませんでした。置かれてある“八ミリフィルム・カメラ”を手に取ると、元あった机の引き出しに戻します。

 それから連日、ことあるごとに、少年は“八ミリフィルム・カメラ”を使わせてほしいと述べました。経営者の老人の対応は、いつも同じです。

 少年は使用許可を求めると同時に連日、図書館などで“八ミリフィルム・カメラ”に関するモノから雑学まで、映画製作に役立ちそうな知識を頭に叩き込むようになりました。


 さらにしばしの時を経た、ある日。


 少年が毎度の雑用をこなしていると、

「ちょっと来い」

 と経営者の老人に呼ばれました。

 なにか呼び出されるようなヘマをしただろうか? と思いつつ、少年は呼び出しに応じます。

 経営者の老人の私室兼休憩室、件の用務机を挟んで、ふたりの姿はありました。経営者の老人はさほど高級でもない革張りの椅子に腰掛け、少年は用務机の前に立たされています。

 経営者の老人は、用務机の引き出しからおもむろに“八ミリフィルム・カメラ”を取り出すと、それを机の上に置きます。そして、

「これは今日からお前のモノだ」

 と言いました。

 少年は最初、この老人がなにを言っているのか正しく理解できませんでした。

 そんな少年の無言の反応に、

「なんだ? いらないのか?」

 経営者の老人は“八ミリフィルム・カメラ”に手を伸ば――

 それより先に、少年は“八ミリフィルム・カメラ”を手に取ります。

「なんだ? やっぱりいるのか?」

 と訊く経営者の老人に、少年はコクコクと肯いて応えました。

 それから少しの間を置いて少年は、ふと疑問を懐き、訊きました。どうして急に“八ミリフィルム・カメラ”をくれたのか、と。

「誕生日なんだろう、今日」

 経営者の老人はあっさり述べました。

 言われて少年は、そういえば今日は確かに自分の誕生日だったと思い出しました。そうしたら、さらなる疑問が湧いてきました。どうしてこの老人は、自分の誕生日を知っているのだろうか、と。

 経営者の老人は、痛いところを突かれたように居心地が悪そうな顔をします。それからボソボソと聴き取り難い音声で、「映画を観に来たお前の学校の友人に聞いたんだ」と述べました。


 使い方などの知識の予習は万全でした。あとは実践あるのみ。少年ははやる気持ちに従って“八ミリフィルム・カメラ”を手に持ち、黄昏色の空の下、近所の公園へ向かい、そこで初の撮影を開始しました。

 しかし時間的に人影は公園からは去ってゆくモノばかりで、撮れるのは去りゆく後姿ばかりでした。公園にあった人影の最後、母親に手を引かれて去り行く幼子を撮り終えようとしたら、新たな人影が公園に入ってくるのを捉えました。その人影は、確たる意思があるかのようにカメラのほうへ歩んできます。


          *  *  *


 中年の男は、ここまで想定通りであることに安堵しつつ、ここからが重要だと気を引き締めて、自作した“時空間を疾走する機能”のある自動車から降りました。目前には、“あの日”の公園が一切の変わりなくありました。公園には、“あの日”の“自分”が一切の変わりなく“八ミリフィルム・カメラ”を手に持ってそこにいました。そちらへ歩みを進めます。

 ――しかし。

 いざ“過去の自分”の前にして、その輝かしさを前にして、中年の男はすぐに行動できませんでした。

 そんな中年の男に、“過去の自分”は好奇の“眼差し/カメラ”を向けながら、いったい何者なのかと警戒心ある問いの言葉を投げました。

 中年の男は、少し言いよどんでから、正しく告げます。“未来の自分”である、と。

 それを聞いて“過去の自分”は、当然のように自称“未来の自分”を不審者だと思いました。けれど、心のどこかで、“未来の自分”が真実であることを期待していたりもします。だから、訊きます。どうして未来から過去へ来たのか、と。

 その言葉が耳に入り込んできた瞬間、いまここへ至るまでに蓄積したモノが、中年の男の口から溢れ出しました。いまこの場をまったくの他者が傍観したら、大人が子どもに個人的感情を理不尽にぶつけているだけにしか見えません。

 自分がいかに映画を撮る才能がないか、いかに望んでいないことしかこなせないか、“やりたいこと”と“やれること”の現実的な違い、それを容赦なく突きつけられたときどれほど苦しいか、それらを中年の男は口から吐きました。

 それから中年の男は、大切なモノを喪失してしまったヒトの表情をして述べます。もうすぐ経営者の老人が約束を守らず“逝ってしまう”こと、“パラダイス・ロマン座”がなくなってしまうこと、それと共に彼女の姿もなくなってしまうこと――輝かしかった光源を喪ったあとに訪れる暗闇は、とても暗いこと。

 中年の男は切実に説得するヒトの顔をして、あんな思いはもう二度としたくないと“過去の自分”に伝えました。

 それを受けて、“過去の自分”は肩を震わせて言います。

「自分が諦めたからってそれを押し付けるなっ! 一緒にするなっ!」

 怒りに肩を震わせ、意志あるヒトの揺るぎない瞳で“未来の自分”を射る。

「“パラダイス・ロマン座”で待ってろよっ! “パラダイス・ロマン座”のスクリーンで絶対に上映するからっ!」

 そう言い放って、“過去の自分”は公園から出て行きました。

 中年の男は“過去の自分”の揺るぎない姿勢に圧倒されてしまい、結局なにもできませんでした。

 そんな“自分”を情けないと思いつつ、中年の男は久々に“まだ健在”の“パラダイス・ロマン座”とその経営者の老人と、彼女に会いたくなって、会いに行くことにしました。

 その日の“パラダイス・ロマン座”での上映作品は、憎らしい演出のように、“ニュー・シネマ・パラダイス/ Nuovo Cinema Paradiso ”でした。とりあえず観ていくことにします。

 チケットを購入するとき、経営者の老人と会うことができて、思わず涙が溢れそうになってしまいました。というか、ちょっとばかり溢れました。名乗り出たい衝動に駆られましたが、グッと堪えました。

 そして“ニュー・シネマ・パラダイス/ Nuovo Cinema Paradiso ”を観て。あわよくば、と思っていましたが、彼女に会うことは叶いませんでした。

 なにをしに来たんだろう、と“パラダイス・ロマン座”から出て中年の男は思いました。

 そんな“なんとも言い難い気持ち”を胸に懐きつつ、駐車場に停めておいた“時空間を疾走する機能”のある自動車に乗り込もうとして、ふと、中年の男はとても重大な事実に気がつきました。

 記憶にないのです。今日、この日、自分の誕生日に、公園で“未来の自分”を自称する男と出会ったという、いまさっき起こった事実の記憶が。今日この日をすでに経験しているはずの、“未来の自分”なのに。

 中年の男は多大な疑念を懐きつつ、けれどひとまず、“自分の時代”へ戻ることにします。


 そして“自分の時代”へ戻り、中年の男は愕然たる思いでそこに立ち尽くしました。


 いままで確かにこの場に存在していた、確かに自分が住んでいた秘密基地めいた建物が、影もカタチも残骸もなく、さっぱり存在しないのです。

 状況に対して理解が追いつかず、中年の男は混乱して頭をかきむしりました。頭の髪の毛に諸事情を抱えていることなどおかまいなしに。

 一通り、頭をかきむしってから中年の男は、ふと、なにかに呼ばれるかのように、“自分の時代”ではもう跡地でしかない“パラダイス・ロマン座”へ向かうことにしました。

 ――そして。

 中年の男は、歓喜の感情にも似たモノを懐いて驚愕しました。跡地でなければならないそこに、ウソ偽りなく確かに、“パラダイス・ロマン座”が存在していたのです。信じられないという気持ちを懐きつつ、入館します。

 そこは、それは、“自分”以外に客の姿はありませんでしたが、まぎれもなく“パラダイス・ロマン座”でした。

 感慨に浸ろうとしたら、上映開始の合図が鳴りました。身体が憶えているのか、中年の男は近くの座席に腰を下して、映画を観る体勢になります。

 薄暗かった館内が、非常灯以外の光源なく闇になりました。スクリーンに、最初の光が映し出され――

 上映された映画は、まったく“知らないはず”の映画でした。だというのに、すべてを知っているような、妙な既視感を覚える映画でした。やられた、という悔しさをなぜだか懐く映画でした。

「なかなかいい映画だったわ」

 隣から、落ち着きと清楚さといい映画を観たあと清々しさある女性の声が聞こえました。

 中年の男は、まさかと思いつつそちらを見やりました。

 そこには、しっかりとこちらを見ている彼女の姿がありました。

 彼女の声を聞いたこと、彼女に見られていること、驚きと喜びに中年の男の胸の内はお祭り騒ぎでした。けれどそのとき彼がもっとも気になって思わず口から発した話題は、上映された映画に対する妙な既視感についてでした。

「当然のことだわ」

 と、彼女がすっぱりと断言するふうに言いました。

 なぜ、と中年の男は訊きます。

「だって、この映画を撮ったのは、監督である“あなた”ですもの」

 彼女は“ある一点”を指差して、そう教えてくれました。

 そんな記憶はない、と思いつつ、中年の男は彼女が指差す先を見やりました。そこには、「“パラダイス・ロマン座”で待ってろよっ! “パラダイス・ロマン座”のスクリーンで絶対に上映するからっ!」と言い放ってきたあのときの“自分”が座っていました。

 この状況がもうよくわからず、

「……これは、……どういうことだ?」

 そんな素直な言葉が、中年の男の口から漏れました。

「簡単なことよ」

 彼女が言います。

「“あなた”は諦めなかったのよ」

 その言葉に、しかし中年の男は追い詰められたヒトの表情をして頭を抱え――ようとして、彼は“そのこと”に気がつきました。身体が、彼女のように透けていることに。

 ふと、「ああ、なるほど」と、なにかがわかったような気がして。中年の男は、言葉もなく、すべてを受け入れる余裕さのある顔をして、座席に深く腰を落ち着けました。

「これはとても純粋な疑問なのだけれど、いいかしら?」

 彼女が投げかけてきました。

 中年の男は、

「どうぞ」

 と気さくに応じました。

「諦めてしまった“あなた”は、諦めなかった“あなた”に出逢って、なにを思ったのかしら? なにを感じたのかしら?」

 そんな彼女の問いかけに、中年の男は“諦めなかった自分”のほうを見やって、そして恥ずかしそうに微笑んでから、

「なんだ、やればできるじゃないか、って」

 一切の悲壮感のない清々しい表情で、

「もっと自分を信じてあげればよかった、って」

 迷いのない言葉で答えます。

「そう、思いました」


 ――暗転。


「ちょっと館長っ! 起きて下さいよっ!」

 耳の至近距離、大音量で叩き込まれたそんな言葉に、彼は目を覚ましました。

「おおう! どうした?」

「どうしたじゃないですよ。あなたが決めた閉館の時間です。まったく、自分で撮った映画を観ながら寝ないでくださいよ」

「雇用主に臆することなく文句を垂れるとは、まったくいい従業員を雇ったよ」

「そうでしょう、なかなかいい目をお持ちのようですね」

 そんな従業員の言葉に、彼は愉快そうに微苦笑を浮かべます。

 それから背伸びをして、

「自分で撮った映画を、自分の映画館で上映して、そして寝る。これほど贅沢なことはないな」

 彼は感慨深げに言いました。

「はいはいわかりました」

 従業員はあきれたふうに首を横に振ってから、

「贅沢を堪能するのは結構ですけれど、“あなた”の映画の新作を待っているファンがいるということを忘れないでくださいよ――目の前にもいるんですから」

 と切望するヒトの顔で述べます。

「もちろん忘れてないさ。明後日からその新作の撮影だから、英気を養っていたんだよ。自分にとってすべての始まりたるこの映画を観て、撮るぞー超撮るぞー、ってさ。ま、儀式みたいなモノさ」

「はいはい、期待してますよ」

 従業員は本当に期待しているヒトの笑顔で言って、先に外へ出ます。

 それに続いて出ようとする彼の背中に、

「私も期待しているわ」

 そんな女性の声が、誰も居ない館内のほうからかけられました。

 けれど彼は振り返ることなく、歩み行きます。

 期待に応えるために。“やりたいこと”を“やれること”を“やるため”に。



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