小話:其の五拾参《わるいこと(仮題)》
【巡り巡って“誰の”ため?】
《わるいこと(仮題)》
とある時代の、とある国を、ひとりの旅人が訪れました。頭に麦わらの帽子をかぶり、その下に耳と首の後ろを覆い隠すようにして白のタオルをはさんでいます。灰色の袖の長いシャツを着て、濃紺のジーンズをはき、足には黒のアサルトブーツがありました。背に、あまり大きさのない深緑色のリュックがあり、それを包み込むようにして黒のフード付きロングコートが、伸縮性のあるロープでぐるぐる巻きにされて留めてあります。それぞれどれも“使い込まれた味”という銘の汚さがありました。
「…………」
旅人は、目の前に広がるウソ偽りのない現状を認識して言葉を失いました。訪れた国は、国としての体裁を保てていないであろうほどに荒れ果てていました。家屋や商店が存在していたであろう街と思われる場所は、廃品置き場より混沌とした様相です。
「……あの」
どうしたものかと歩んでいた旅人の視界に、“なにか”を探すように家屋や商店だったであろう場所をあさっているひとりの男性の姿が映りました。かなりの長時間、身体を洗っていないことがわかる見てくれをしています。
「ん? あんたは……見たとこ、この国の者じゃあないな?」
男性はあさる手を休めて、とてつもない“疲労/心労”の滲む顔に、生来の人懐っこさが垣間見える笑みを浮かべて訊きました。
旅人は自分が旅をしていることを話しました。そして、この国の現状が、話に聞いていたモノとだいぶ異なっていて驚いたことも伝えます。
「ああ、そりゃあ、独自の文化で情緒溢れる楽園って謳い文句を聞いて来てみたら、こんなことになってるんだから、まあなんて言うか、旅人さんには申し訳ないなぁ……」
男性は“どうしようもないこと”に直面して困り果ててしまったヒトの微笑みを浮かべて、それでも旅人に説明してくれます。
数ヶ月前に、史上最大の自然災害がこの国を襲ったこと。数ヶ月も経過しているのに、被害が甚大過ぎてまったく復旧が追いついていないこと。清潔な飲み水を確保するのが非常に困難なこと。どうにか食べ物だけは、他国の人道支援組織が定期的にプロペラ飛行機から投下していってくれること。排泄物などがどうしようもなく、医療機関も機能していないから、衛生環境が悪化していること。“政府/行政/軍隊/国家”が正常に機能していないから、治安がとても悪化していること。
「悪い連中に襲われるまえに出国することをオススメするよ、旅人さん」
男性は至極真摯に出国を推奨しました。
旅人は、いちおう護身用として半自動拳銃を所持していることを伝えてから、
「――ですが、滞在しても皆さんの邪魔になってしまうだけでしょうから、夜が明けたら早めに出国します」
そう告げました。
「ああ、それがいい」
男性も強く同意しました。
旅人は一夜を過ごすためのテントが設置できる最適な場所を探して、“直視することが躊躇われる場面/瓦礫に押し潰されて絶命しているヒトがどうしようもなく放置されている場面”もしっかりと見やりながら歩みを進めます。
「お願い、お願いよ! 助けて!」
ひとりの女性が心の奥底からの叫びを口から吐き出して、旅人を呼び求めました。
旅人も当たり前のようにひとりのヒトですから、助けを求められれば駆けつけます。そこには、叫びを上げた女性と、その側らに横たわる男性の姿がありました。
「お願い、お願いよ! 夫を、私の夫を助けてっ!」
女性は側らに横たわる男性にすがりつきながら、容赦のない悲痛さのある音声を、容赦なく旅人にぶつけます。
――しかし。
旅人は、女性の夫であるらしい男性へ助けの手を差し伸べることができませんでした。旅人が助けの手を差し伸べられるのは、どんなに尽力しても“生者/生存しているヒト”に限られてしまうからです。
「残念ですが――」
旅人は努めて淡々と事実を告げました。
「ウソ吐きっ! ――いえ、そう、お金、お金が欲しいのね。でも、いま手元にはないの。でも待って! 助けてくれたら、絶対に絶対に言い値を支払うわ。だから、お願いよ、このヒトを、夫を、助けて」
女性は根気強く説得するヒトの顔をして言いました。
「残念ですが――」
旅人は努めて淡々と事実を告げました。
「ウソ吐きっ! ――いえ、そう、そうなのね。身体が目当てなのね。わかったわ。それで助けてくれるなら、好きにして。だから、お願いよ、このヒトを、夫を、助けて」
女性は切望あるヒトの顔をして懇願しました。
「残念ですが――」
旅人は努めて淡々と事実を告げました。
「ウソ吐きっ! なによっ! なにが欲しいのよっ! 教えなさいよっ! 教えて、ください……。あげるから……。あなたの欲しいモノをあげるから……。だから、お願いよ――」
「残念ですが――」
旅人は努めて淡々と事実を告げました。
「…………」
女性は地べたを凝視したまま、口を開きませんでした。
旅人は寝覚めが少々悪くなることを承知しつつ、その場から立ち去ることにしました。親身になって話を聞いてあげることも、なにか救いになるような話をしてあげることも、旅人は旅人自身の心を保持するために意を持って選択しませんでした。
――翌朝。
旅人は出国するために、来た道らしきところを足で踏みながら先へ歩み進みました。
――そして。
来た道らしきところを進み、それが正しく来た道らしきところだったがゆえに、旅人はそこで会ったヒトたちと再会することになりました。
限りなく同一に近い既視感を覚えるカタチで、彼女と彼はそこにありました。
「おや、旅人さん。出国するのかい?」
声の聞こえたほうを見やると、そこには旅人がこの国で最初に出会った男性の姿がありました。
旅人は出国することを伝えました。そして、ふと、彼女と彼のほうへ視線を流します。
男性は誘われるようにして旅人の視線の先を見やり、それから、
「ああ、彼女か……」
速やかに自らの繊細な部分を保持するために視線を外して、地べたを凝視します。
「どれくらいだろうな……、気づいたときにはもう“ああいう状態”だったんだ。飲まず食わずでずっと“ああいう状態”だから、そろそろ強引にでもどうにかしないと、彼女自身の生命に関わってくるんだが――。最初はまあ、みんなどうにかしようと手を差し伸べたんだが、彼女自身がその手を払いのけてしまって、みんなも自分のことがあるから、ついには、ね」
「そうですか」
旅人は、男性の話を淡々と聞き受けました。それからしばし沈黙の間が生じ――、旅人は旅人自身のために“あること”を思いつき、“それ”を実行することにしました。
「彼女の旦那さんは、極悪非道の悪人から彼女を守って死んでしまったんです」
旅人が言いました。
「――は?」
男性が理解が追いついていないヒトの顔をして、旅人を見やります。
旅人は男性に対して一切の説明もなく、歩みを進めました。
「お願い、お願いよ! 助けて!」
女性は心の奥底からの叫びを口から吐き出して、旅人を呼び求めました。昨日の旅人に関することをまったく記憶していないような、初対面のヒトに接するふうがあります。
「お願い、お願いよ! 夫を、私の夫を助けてっ!」
女性は側らに横たわる男性にすがりつきながら、容赦のない悲痛さのある音声を、容赦なく旅人にぶつけます。
「なるほど。確かに、あなたの旦那さんはまだ息をしているようですね。適切な処置を施せば、きっと助かるでしょう」
旅人はそこにある事実を淡々と告げる口調で述べました。
やっとわかってくれるヒトが現れた、と女性は救世主を見やるような眼差しを旅人へ向けます。
「しかし残念です」
旅人は背腰から護身用の半自動拳銃を引き抜き、
「私は医療関係者でも救世主でもなく、極悪非道な悪人なのです」
と告げて、女性の隣で横たわる息なき男性に銃口を向けます。
――そして、
「あなたの大切なヒトは確かに、生きています。けれど、いまこの瞬間――」
旅人は手にある半自動拳銃の引き金を迷いなく絞りました。
乾いた発破音がひとつ、鳴りました。
空の薬莢がひとつ、地べたに落ちました。
「あなたを殺そうとした極悪非道な私から、勇敢にも身を挺してあなたを守り、――私に殺されてしまいました」