小話:其の五拾弐《毎日と突然(仮題)》
【意外と大切なモノだったり――】
《毎日と突然(仮題)》
毎朝、私は時間厳守で行動します。朝六時きっかりに起床し、その五分以内にお手洗いへ向かい、それから五分以内に手と顔を洗い、朝六時半までには朝食を食し、軽くシャワーを浴びてから、朝七時半までに家を出ます。
――そして。
休日を除く毎朝、朝八時二分前、私はその横断歩道で、前方からやってくる“迷惑な事態”とすれ違います。
「ンン・ランルー・タイ・スー・マイスー・マイスー」
カッチリとした黒のタキシードに身を包み、頭には洒落た黒のシルクハットをかぶり、手にはステッキの代わりにビニール傘を持ち、背筋をしゃんと伸ばした、いかにも紳士然としているナイス枯れ具合の老いた男性。――見てくれだけなら、そっとずっと“愛でていたくなる/眺めていたくなる”ほど申し分なくよろしいかんじの彼が、哀しいかな毎朝の“迷惑な事態”の元凶でした。
「ンン・ランルー・タイ・スー・マイスー・マイスー」
意味のある言語なのか、意味のないただの音なのか、わからないし知る気もないのですが、
「ンン・ランルー・タイ・スー・マイスー・マイスー」
この見てくれだけナイス老紳士は、
「ンン・ランルー・タイ・スー・マイスー・マイスー」
と、周囲に対する配慮の一切ない大きな音声を口から発しながら、
「ンン・ランルー・タイ・スー・マイスー・マイスー」
毎度「マイスー」と発声し終わると同時に、手にあるビニール傘をぐるりんと一回転させるのです。
不幸中の幸いにしてヒトの往来が激しい横断歩道ではないので、最悪の事態が発生してしまったことはありません。――が、大声だけならまだしも、ビニール傘の一回転は迷惑なうえにとても危険な行為です。やめていただきたい。
そう思いつつも、私を含めたこの時間この横断歩道を利用する“誰も”が、いままで彼に対して注意を述べたことはありません。彼が近寄りがたい雰囲気の人物であること、朝の忙しい時間ですからそんなことをしている余裕がないこと、なにより“誰か”が注意を述べてくれるだろうという“誰か”に対する根拠なき信頼感がありますから、どうにも“誰か”に対する謙虚さのようなモノが生じてしまい、“あえて自分が述べること”が躊躇われるのです。
雨の日も、雷の日も、雪の日も、暑い日も、寒い日も、彼は寸ぶんの狂いなく“迷惑な事態”の元凶をしていたので、もはや私は諦めというか無関心の境地に移行していて、もう“それ”が当たり前と感じるくらいになっていました。なので本日も、迷惑だなあという意を毎朝の恒例行事的に懐きつつ、毎朝と同じように一回転するビニール傘のない彼の右側を通行しました。沈黙と傘は回転させるものではないことを覚えてくれたら、本当にとてもとてもよろしい“おじさま”なのに、じつにもったいない、――と、しみじみ思いながら、すれ違いました。
――翌日。朝八時二分前。いつもの横断歩道。
なんら脈絡もなく突然に、じつにあっけなくあっさりと、毎朝恒例の“迷惑な事態”は終了しました。前方からやってくるはずの見てくれだけナイス老紳士の姿が、どこにもありません。
私を含めたこの時間この横断歩道を利用する“誰も”が、「え?」という不意打ちを受けたような気分になり、“誰も”が誰にでもなく「どういうことなの?」と問うような薄い愛想笑みを浮かべました。もちろん、答えが返ってくることはありませんでしたが。
せいせいしたような気分を味わえたのは、けれどその最初の日だけでした。どこかで翌日になればまた毎朝と同じに戻ると信じていたから、一時の違いをよろしいふうに感じられたのでしょう。
不意打ちのような事態から一夜明け、翌朝。朝八時二分前。いつもの横断歩道。
「ンン・ランルー・タイ・スー・マイスー・マイスー」
という迷惑な音声を耳にすることも、一回転するビニール傘を避けて通行することもありませんでした。見てくれだけナイス老紳士の姿は、影も形も気配も兆しすらもありませんでした。
その翌朝も、そのまた翌朝も、そのまたまた翌朝も――
いつの間にか、彼と再会することを切望している自分が存在することに気がつきました。やめてほしいと変化を求めていたのに、“そう求めていられる変わりない毎朝の風景”を求めている自分が存在しているのです。確信を持って、変わりない毎朝を求めている自分がウソ偽りなく本心であるとわかるまでには、さして時を消費することはありませんでした。
――けれど。
いくら時を消費しても、彼と再会することは叶いませんでした。
そして気がついたときには、本当の本当に不本意ながら、ついに私も他者から“老”と称される存在になっていました。
そうなってやっと、あの騒々しい“迷惑な”毎朝を味わうことはもう二度と出来ないのだと意識しました。そうしたら、とたんにどうしようもない喪失感に襲われました。それは“会話できることが当たり前”だと確信していた家族を亡くしたときの“どうしようもない感”と、不思議なことにとても似ていました。
――脈絡もなく突然に。
私は“そのこと”を思いつきました。そして一切の迷いなく、その思いつきを実行に移しました。
懐かしいあの頃のように。
時刻は、朝八時二分前。
場所は、あの横断歩道。
カッチリとした黒の衣服に身を包み、
頭には洒落た黒の帽子をかぶり、
手にはステッキの代わりにビニール傘を持ち、
背筋をしゃんと伸ばして、
いかにも“それっぽい”雰囲気を演じながら、
意味のある言語なのか、意味のないただの音なのか、わからないしもう知れない“それ”を、
周囲に対する配慮の一切ない大きな音声で口から発して、
手にあるビニール傘をぐるりんと一回転させるのです。
「ンン・ランルー・タイ・スー・マイスー・マイスー」